■■「ぼくの人魚姫」〜言葉で伝えるにはまだ熱い〜■■
■■【1】■■
「でっかいおっぱいだな」
ぼくが初めて彼女に出会った時、心の中でまず最初に思った事と言えば、彼女の髪の色とか瞳の色とか、
背格好とか裸足であるとか、薄い布地の汚れた白い服しか着ていないとか…そーゆーのじゃぜんぜんなく
て、えっちなグラビア雑誌とかで微笑んでいるどんな女の子よりもでっかくて重たそうでシャツの表面に
ツンと突起の浮き出た、その胸の事だった。
「りょーた」
「うん…」
釣り竿とクーラーボックスを肩に担いだまま、人通りの無い道の真ん中で、ぼくと幼馴染みのキョウちゃ
んは目の前に現れたその女の子を引き攣った顔で馬鹿みたいに眺めた。
時刻は夜の7時半。
天気は曇り。
場所は波止場の近くの細い路地。
そこここに、じっとりと海の潮を含んだままわだかまった……闇。
そして目の前には訳もなく“ほにゃほにゃ”とした笑みを浮かべたまま立ち尽くす、ラーメンみたいに
ちぢれた銀色の髪の“ちょっとあたまのネジがゆるいんじゃないかな?”なんて失礼な事を思ってもいい
ような女の子。
この状況だけ見たら、もう立派なホラーかもしれない。
つい先日も隣の漁港で少女の幽霊騒ぎがあったばかりで、シーズンにはまだちょっと早いそんな怪談話
を、ぼくもキョウちゃんもハゼを釣りながら笑いあったばかりだった。
キョウちゃん――ぼくの幼馴染みの「更科恭一郎(さらしな きょういちろう)」は、ぼくより1つ年
上の中学3年生だ。鉄工所と薬品会社と原子力発電所と寂れた漁港があるだけの、太平洋に面した小さな
この町にはあまり似つかわしくないくらいの秀才で、来年にはもっと大きな街の高校に進学する予定だっ
た。
キョウちゃんは怪談とかオカルトとかUFOとか、そういう不思議なものを信じていない。信じていな
いけれど、否定してもいない。「自分で見ないとわからない」と、結論を急がない人だ。「いないとも言
い切れないものを自分の狭い認識だけで否定するのは愚かだ」なんて言い切ってしまうところは、ホント
にスゴイと思う。
そんなキョウちゃんを横目で見上げたら、キョウちゃんは眼鏡の奥の細い目をいっぱいに開いて、目の
前の女の子をじっと見ていた。中学3年生で身長が170もあるキョウちゃんからすれば、153センチ
のぼくなんて小学生みたいなものかもしれない。実際、ぼくは自分でも気が弱い方だと思うし、第一、怪
談とかそーゆーものが大の苦手で、キョウちゃんの彼女の美伊奈(みいな)さんからは、それでよくから
かわれたりする。
ぼくはキョウちゃんの視線を追うようにして、おっかなびっくり、女の子を見てみる。
背は、キョウちゃんよりは高くない。
“なみなみ”になった銀色の髪の毛は腰のところまであるのか、風に揺れて身体の横で揺れていた。汚
れた白い服はボタンが無くて、丈は足首まである。裾は泥だかなんだかわからないけれどひどく汚れてい
て、黒ずんでさえいた。半袖から伸びた手はちょっと汚れているけれど、それでも美伊奈さんよりずっと
白くて、すらりとしていて、やわらかそうで、女の子はその手を、ただだらんと身体の横に下ろしている
だけだ。足首から下しか見えない足は、まったくの裸足で、その足も汚く汚れていてずいぶんと長いこと
そのまま歩き回っていたんだろうな…と思えた。
女の子が目の前に現れたさっきは、暗がりでよくわからなかったけれど、今こうして見てみるとすごく
可愛い………というか、綺麗な子だった。
叔母さん――お母さんの歳の離れた妹の真珠(まり)さんは、高校を卒業して東京に行き、モデルをす
るくらい美人だったけれど、その真珠さんと同じくらい、目の前の女の子は綺麗だった。
真珠さんがこの町にいた頃の写真は、真珠さんが町を出る時に真珠さん自身が処分してしまい、ほとん
ど残ってない。
ただ一枚、高校の卒業式の時、その頃にはもう大学を出て働いていたお母さんと撮った写真だけが、真
珠さんの高校時代の写真としてお母さんの手元に残っている。けれど、その真珠さんは東京でモデルを始
めてすぐ、事故で亡くなってしまって、お母さんはその写真をずっとすごく大事にしていた。
――そしてその写真は、今、ぼくの手元にある。
目の前の女の子は、その真珠さんに少し、似ている気がした。
「俺達に、何か用?」
キョウちゃんの声にハッとして、思わず身体が震えた。
女の子の目を見ていたら、いつの間にかすっかり見とれていたみたいだ。女の子の目は、夜なのにキラ
キラ光ってるように見えた。青とも緑とも違う色。エメラルドグリーンとか、なんだかそーゆー色。
キョウちゃんのちょっとトゲトゲしい声に、女の子は少しだけびっくりしたみたいだった。なんだか、
キョウちゃんがここにいることに「いま初めて気付いた」って感じ。ちょっとだけ俯いて、それからおず
おずとぼくを見た。
どうしてぼくを見るのか、わからない。
でもぼくは、この女の子をもう「恐い」とは思えなくなっていた。
「黙ってないで、何か言えよ」
キョウちゃんが声を大きくしてそう言うと、女の子は一歩だけ後に下がって、それでもぼくのことをじっ
と見ていた。
ぼくは…というと、女の子が動いた拍子に“ゆさっ”と揺れたでっかいおっぱいに目を奪われて、馬鹿
みたいに口を開けていた。足首までの服を着ているからウエストがどれくらいなのかわからないけど、手
とか首とか足首とかは、折れちゃいそうなくらい細いから、きっとたぶん腰もすごく細いんだろうなぁ…
なんてことを考えていたのだ。
「…りょーた。ダメだこりゃ。向こうから行こう」
「う…うん」
キョウちゃんに促されて、ぼくは回れ右をして元来た道を歩き始めた。少し遠回りになるけれど、漁協
の方へ回るしかない。少し歩いて、ぼくはキョウちゃんに言った。
「…ねえ、ついてくるよ?」
「黙って歩くんだ。後見るな」
「う…うん…」
後から、ぺたぺたとコンクリートの道を裸足で歩く音が聞こえる。
ずっと聞こえる。
「キョウちゃん」
さっきより、近くなった気がする。
角を曲がって倉庫の横を通り、桟橋を右手に見ながら潮風に吹かれて歩く。
「キョウちゃん」
足音は、もう、すぐ後まで来ていた。
「走れ!」
「えっ!?」
ぼくは、いきなり走り出したキョウちゃんの背中から引き離されように、必死になって走った。無駄に
大きな駐車場を横切り、車なんて滅多に通らない沿岸道路を渡って、『原発を誘致して得た補助金をつぎ
込んだ』とか言われてる臨海緑地公園に入ると、50メートルくらい走って海に面した柵に辿り付く。
“オシャレなデートスポット”のはずのその場所は、色とりどりのタイル張りの地面が寂しく感じるほど
さっぱり人影が無かった。
8時近くになれば、いくら初夏でも薄暗くなって星が瞬き始める。しかも今日は曇り空だから、外灯が
無ければ真暗だったに違いない。海面がゆったりとうねって、ただテトラポットに打ち寄せる音だけが寂
しく聞こえてくる。柵から下を見れば、そこにはテトラポットも何も無く、ただ黒い海面だけがあった。
「キョ…キョウちゃん…あれ、なにかな?ガイジンかな?ユーレイかな?」
柵にもたれかかり、ぼくは息を整えながら同じくぐったりとしたキョウちゃんを見た。ただの秀才じゃ
ないキョウちゃんは、ぼくと違ってしっかり身体も鍛えていたりするけれど、クーラーボックスを肩に担
いだままここまで全力で走ったのは、初めてのことなのかもしれない。
「さ…さあな、外人の幽霊ってセンも、あるぞ?」
「恐いこと言わないでよ。大体、こんなところに…」
ぐうううう〜〜〜……
2人とも息を飲んで、音のした方を見た。
「うわっ!」
「ぎゃっ」
クーラーボックスも釣り竿も放り出して、水をかけられた野良猫のように飛び退く。果たしてそこには、
“ほにゃほにゃ”とした笑顔のあの女の子が、指を咥えたまま立っていたのだ。
「な…ななな……な……」
キョウちゃんは、まるで泣き笑いのような顔で女の子を指差していた。
無理も無いと思う。荷物を担いでいたとはいえ、あれだけの距離を走ってきたぼく達に、女の子は息も
乱さずに追いついてきたのだから。
「…ず、ずっと後、ついてきてたのかなぁ?」
「裸足で?」
「息一つ乱れてないよ?」
「じゃあ…」
「…ゆ…」
ぐうううう〜〜〜……
『幽霊?』と言おうとしたぼくの言葉は、女の子から聞こえてきた間抜けな音に遮られて、ぼくは思わ
ず息を飲んだ。
「お腹の」
「音?」
2人で顔を見合わせる。
「……腹の減る幽霊なんて聞いた事も無い」
「……うん」
女の子はぼく達のやりとりなんて聞いていないかのように、指を咥えたまま放り出したままのクーラー
ボックスを見ている。
「お腹、空いてるの?」
「りょーた」
女の子に近付こうとしたぼくを、キョウちゃんの手が止めた。
ぼくはポケットに手を突っ込んで中にあったキャンディを取り出し、キョウちゃんを見る。それでキョ
ウちゃんもなんとなくわかってくれたのか、胸ポケットに入れていたM&Mチョコレートの袋を差し出し
てくれる。
「りょーた」
「大丈夫」
どうしてなのかわからないけれど、ぼくには目の前の女の子が、さっきより恐くなくなっていた。
女の子は、ぼくを見る時ものすごく嬉しそうに見るのだ。“ほにゃほにゃ”とした、なんだか脱力しそ
うなくらいやわらかい微笑みだった。
だからなのかもしれない。
「りょーた!」
「大丈夫だってば」
ぼくはすたすたと女の子に近付くと、M&Mチョコレートをざらっと右手に数個乗せて、ピンク色の包
み紙に包まれたキャンディと一緒に女の子に差し出した。ぼくが近付くと女の子の顔がとろけそうな笑顔
になる。
女の子はその笑顔のまま、ぼくの手とぼくの顔を何度も何度も交互にみやって、今度は不思議そうに首
を傾げた。
「食べない?おいしいよ?」
ぼくがそう言って微笑むと、女の子も微笑んだ。しばらくにこにこと、お互いに微笑みあう。
「…そうじゃなくて、これ、食べない?」
言葉が通じないのかな?と思いながら、手を女の子の顔の近くまで上げる。
すると女の子は犬や猫がそうするように、鼻を近づけて“くんくん”と匂いを嗅いでもう一度ぼくを上
目遣いに見上げた。
「食べたこと、ない?」
ぼくは左手でM&Mを一つ摘み、口に放り込んでもごもごと食べてみせた。すると彼女は、また何度も
ぼくの手の平と口を交互に見て、ようやくそろそろと右手を伸ばして一つだけ摘み上げると、それまでの
慎重さがウソみたいにポイッと口に入れる。
もごもごと、白いほっぺたが動く。
…と、
「あ」
――吐き出した。
“ぷっ”と柵の向こうの黒い海に向かって、行儀悪くM&Mを吐き出した女の子は、“むうっ”と唇を
突き出してぼくを見上げる。
「おいしくなかった?」
そう、ぼくは聞くけれど、女の子の目は違うところを見ている。
視線を辿ると、放り出したままのクーラーボックスに注がれていた。中には、今日の収穫のハゼとボラ
とちっちゃいヒラメなどが入っている、ちょっと重い青色の箱だ。
「魚?」
頷いた。
ちゃんと言葉はわかるんだなぁ…と、ぼんやりと思う。これまでの女の子の行動があまりにも動物的だっ
たから、ひょっとして言葉は通じないんじゃないか?って思ってた。
不意に女の子が警戒したように一歩飛び退いた。
「りょーた」
いつの間にか後に、キョウちゃんが立ってる。
女の子は、キョウちゃんが苦手みたいだ。そのキョウちゃんは、女の子の態度になんだか傷ついたみた
いな顔をしている。黙ってれば十分二枚目で通る顔だから女子には人気が高いキョウちゃんは、女の子に
こんな態度をとられた事が無いんだろうな。
ぼくは倒れたクーラーボックスを立て直すと、しゃがみ込んだまま蓋を開けて、女の子を見た。
「魚が食べたいの?でもこれ、まだナマだから食べられ」
あっという間だった。
女の子の手が伸びて、今日一番の獲物の30センチはあるボラを掴み出し、まだビチビチと元気に暴れ
るそのボラの身体にかぶりついたのだ。
「あ」
「げ」
思わずぼくとキョウちゃんが声を上げる。
“みちみち”
“ごりごり”
“ぶちぶち”
と、皮を裂き身を引きちぎり、ウロコもヒレも何もかも、女の子はボラをナマのまま食べてゆく。時々、
“ぷっ”と硬い部分や内臓などを吐き出して、頭と骨だけになったそれを放り投げると、今度はハゼを掴
んで頭から“ばりばり”と噛み裂き、飲み込んだ。
「うえっ……」
思わず吐き気がこみ上げる。
綺麗な子なのに、している事はまるで原始人か動物だった。
……火を使う分だけ、原始人の方が遥かに文明人かもしれない。
「おーい!」
不意に、公園の入り口から声が聞こえた。懐中電灯の明かりが二つ、揺れながら近づいてくる。
「キョウちゃん」
「…警官…かな?」
「あっ!」
ぼく達が、近づいてくる警官らしい人影を見た一瞬の隙に、女の子は立ち上がって走っていた。
その人影の方へ…じゃない。
海と陸を区切る、柵に向かって。
次の瞬間、派手な水音が響いて、何か重たいものが落ちたのだとわかった。
「え?」
呆けていたんだと、思う。
「人が落ちたぞ!」という声にハッとして立ち上がり、ぼくはキョウちゃんに少し遅れて柵に飛びつく。
おだやかにうねる海面には、波紋が立っていた。女の子は沈んだまま、浮かんでくる様子が無い。
「君達!何してるんだ!」
振り返れば、やっぱり警官だった人影の一人が、顔を真っ赤にして駆け寄ってくるところだった。もう
一つの影は、慌てたように元来た道を走ってゆく。
「何もしてません。突然女の子が」
警官に説明を始めたキョウちゃんを横目に、ぼくはもう一度海面を見る。
その時、雲が切れて一瞬だけ海面に月明かりが注いだ。
パシャ…
「ヒレ…?」
でっかいヒレだった。
たぶん、尾びれだ。
それは、イルカとかシャチとか、そんな感じの尾びれに、よく似ていた。