/0.
――そうなのだ。気付いてしまった。
自分とアイツは、同等だってコトに――――。
……Ten years after.
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/1.
十二月三十一日――大晦日、午後四時。太陽は分厚い雲に隠れ、既に夜に等しい暗さだ。
そういえば、毎月三十日は晦日と言うんだったかな――と、どうでもいい知識を唐突に思い出す。
壁際。背には柱があり、尻には座布団があり、眼前には湯飲みがあり、湯飲みには熱い緑茶がある。汲みに行くのも汲みに来てもらうのも面倒くさいので、貧乏臭くちびちびと飲みつつ、宴会の準備でバタバタしている眼前の観察を続ける。
……ウチ――衛山<えやま>家は、昔々この辺の大地主だったそうで、実家と言うべきこの家は豪華な純日本家屋だ。
お盆、そして年末から正月にかけては一族がこの家に集合する。
年近く、親しい従兄弟も数人いたりして、お年玉とともに少しは楽しみにしている行事ではあるのだが、――唯一。
そう、唯一――この家に来たくない理由があった。
勉強が忙しいから、と、中学から高三の今年まで、この家に寄り付かなくなった理由が。
「久しぶりじゃない、春巻<はるまき>」
「……よう、六年ぶりだな――秋菜<あきな>」
背後からの声に、首だけで振り返る。
そこにいるのは、細身の女だ。
名を、衛山・秋菜。俺――衛山・春巻の従姉であり、そして、女主人と言うか、御主人様、と言うか……とにもかくにも、俺の天敵だ。
「髪、染めたのか」
「ばーちゃんが許してくれたからね」
「……そうかそうか」
六年。
歳月と言うものは凄まじいと思わざるを得ない。
六年前も客観的に見れば可愛い部類に入るとは思っていたが、現在では客観的でなくても美人と言いそうになる。
肩口辺りでばっさりそろえた暗い茶髪に、常に鋭く光る明るい瞳。相変わらず、と言うべき倣岸不遜な腕組み姿勢。
まさに、自信満々。に、と笑う唇の光沢が妙にキレイだ。
……あー、いや。腕の組み方が少し変わって、寄せて上げるような感じになっている。なってはいるが、寄せて上げる脂肪分が全く無いようで、全然効果がない。
……とりあえず今は、体にフィットするセーターとジーパン姿を可愛いと思ってしまった自分を殺してやりたい。
「アンタは……変わらないわねぇ。そのまま拡大したみたい」
「うるさいな。とりあえず背は抜かしてやったぞ」
「は? ――抜かしてない方がおかしいってモノよ、このハルサメ」
「はるッ……!?」
いいや待て、落ち着け、俺。これはまだ手探り、偵察だ。ここでブチ切れたらせっかくのチャンスを潰してしまうことになる……!
一瞬の激昂をそう抑え込んで、笑ったままの秋菜、その目を睨み返す。
「ひでぇ暴言だ。俺、この名前気に入ってるのによ」
「……そうだったの? 叔父さんもネーミングセンスないなって思ってたけど、……遺伝するのね」
「……そうらしいなぁ」
お前の性格の悪さは突然変異らしいが、と心の中で毒づきつつ、緑茶を少し飲む。
「まったく、六年経てば少しは変わるかと思ってたのに――アンタは小学生から進歩してないみたいね」
大げさな動作だ。はぁあ、とため息を吐く動きも入ったそれは、十分な挑発。俺だって一言くらい言い返したくなる。
「お前こそ、胸囲は――」
視界に足の裏が映りこんだ。それは一瞬で拡大し、
「――そげぶッ」
……衝撃。しかも眉間に爪先で。柱に後頭部がブチ当たり、衝撃が眉間との間で反響する。
いたたたたたたた。あいたたたたたたたたた。場合によっては死ぬぬぬぬぬぬぬ。うぁいてぇえたたたたた。
「……確信したわ。アンタ、本ッ当にまったく変わってないみたいね」
降ってくる声は、六年前と変わらない、吐き捨てるような冷酷な響き。……昔の彼女と今の彼女が一致する。感想は一言、変わってない、というオウム返しだ。
……年齢がたった一つ上だからと、俺をこき使ってきた従姉。しかも彼女の家はここなので、来る度に百パーセント出会う。
だが。だがしかし、だ。気付いてしまった。
明日――そう。明日だけは、俺は秋菜の奴隷ではないのだ。
秋菜の誕生日は、一月二日。
そして、明日、一月一日は俺の誕生日。その日だけは、秋菜と対等である――。
/
そも。あの女と出会ったのは、十五年ほど前――俺が三歳の頃――になる。
忘れもしない。……あの女、二番目に年下だからって、一番年下だった俺に会って早々、『アンタ家来ね!』と宣言をして、そのまま奴隷のように扱ったのだ。
ばーちゃんがわざわざ買って来てくれた誕生日のケーキをわざわざ俺から奪い取って食べやがったし。それを筆頭に、三歳の誕生日は悲惨な思い出に占められている。
次に古い記憶は三歳半のお盆。今度はスイカを奪われ、川に突き落とされ、セミを額に付けられ(未だにセミが苦手だ)、裸に剥かれてそのままお医者さんごっこで血を見た。その後で風邪もひいた。
……これ以上トラウマを思い出すのは止めておこう。とにかく、秋菜に関わってろくな思い出はなく、そんな思い出が毎年二回、十二歳まで欠かさずあるのだから、俺の歪みも当たり前と言うものだろう。
……年上の女性、と言うものが苦手なのだ。
その範疇はその辺のおばちゃんにまで及ぶ。学校でも同級生が年上――俺は早生まれになるので半分以上の女子になるが――だと分かってしまうとどこか引いてしまう。
……克服する方法は、ただ一つ。原因の解消――つまり、あの女に、『ぎゃふんと言わせる』――と、言うのは死語か。とにかく明日、俺は、あの女に打ち勝つ。
が、
「……相変わらずアンタ弱いのね」
……画面に踊る『YOU LOSE』の文字。
格闘ゲーム――十年ほど前からシリーズが続くタイトルは、秋菜の影響で始めたものだ。
中学以来特訓を続けてきたが、やはり……と言うべきか、無理だった。
最新作というコトもあり、秋菜も不慣れだろうと思っていたが、そこは同タイトル、全く問題は無かったようだ。
初戦は偵察のように手加減を。そこで手抜きをするなとばかりに瞬殺された。
クセも見抜けず第二戦、今度は俺も若干の抵抗を見せたものの、ガードの隙間から瞬殺。
第三戦も俺は若干の抵抗を見せたものの以下同文。
……うん。とりあえず、格ゲーでの復讐は無理らしい。
「……お前が強すぎるんだよ」
「このゲーム、買ってから二、三回しかやってないんだけどね」
「馬鹿野郎、反応速度がまず違うだろうが」
ケ、と毒づくものの、内心、相変わらずの反射神経に舌を巻いていた。
何せ昔、飛び立ったバッタを上昇中に掴み取って笑顔で俺に……ああいや、トラウマを穿り返すのは止めておこう。うん。
「だぁあ」
くそ、と転がった。
ここは、秋菜の部屋だ。
生活感がないわけではないが、女の部屋としては殺風景な部類に入るだろう。
日本家屋においては当たり前と言うべき和室。あるのは小さな文机と、その横にある教科書やCD、ゲーム、雑多な本を集めた小さな本棚。タンスや布団は全て押し入れの中で、妙に広いような印象を受ける。
和の空気を壊すようなものは、大型プラズマテレビ――なんでも、夏の間にバイトして、貯金と合わせて買ったらしい――とその下のゲーム機、背後にある石油ストーブ。その三つだ。
一つくらい人形でも持て、と言いたいところだ。
「だぁあー」
くそっ♪、とおちょくるような口調で、秋菜も寝転がった。音符を付けるな、と言ってやりたいところだが、言ったら後で踏まれるだろうと容易に想像できるので思うだけにしておいた。
「……相変わらず、弱いのねぇ」
「しみじみとした口調で言うな。……お前さ、そんなんじゃ彼氏もできてないだろ。男はプライド高いんだから、少しは勝たせるってコトを覚えないと駄目だ」
「……確かに、彼氏いない暦イコール年齢だけど――まあ、そうね。確かにそうかも知れないわね。……だからと言って、アンタには手加減しないけど」
「うわキッツー」
質量満点の心情を、せめて溜息を吐くコトで軽くする。
この無駄な自信はどうにかならんものか。もう秋菜も十九になるワケだし、性格の矯正も効かなさそうだが。
……と言うか、客観的に見て美人のクセに彼氏無しとは、……良かった。俺の性格観察眼はきちんとした物みたいだ。こんな自信満々な女、彼女にしたら最悪だって事は万人の共通理解であってくれるらしい。
「……世間の目は厳しいんだな」
は、と機嫌悪そうに聞いてくる声を軽く無視する。
……あ。天井に傷発見。確か六年前には無かったものだから、秋菜が付けてしまったんだろう。
ごまかしに丁度いいので、聞いてみることにする。
「いや、天井に傷あるからさ。六年前には無かったと思うんだが」
「え? ああ、あの傷? 何でだったかな……今思い出すからちょっと待って」
思い出そうとしている間に、俺は起き上がってテレビ画面を見る。
そこには俺の扱うバランス型キャラと秋菜のパワーキャラが先ほどの対戦を再現していた。
……リプレイでもボコボコにされる俺のキャラがいい加減可哀想なので、ボタンを押してキャラクター選択画面に戻した。
……そろそろ、夕食の時間だろうか。
横を見て声をかけようとすると、秋菜も起き上がっていた。
思い出した、という訳ではないようで、
「何? もう一戦やる気なの?」
ニヤニヤと余裕の笑みを浮かべつつ、秋菜は腕組みをした。
「やらねーよ。勝てない勝負ほど面白くないものはない」
画面を戻した理由まで話したら笑われそうなので、そこで口を噤んだ。
……目を見ていたら考えを見透かされそうなので、目をそらした。
「ふーん……それじゃあ、今度は協力しましょうか? ほら、コレ」
と、秋菜は俺の上を四つんばいで通り、本棚からアクションゲームを取り出した。
……膝を曲げれば腹に付くような姿勢だ。ちょっとだけ劣情を覚えてしまった俺を全力で殺したい。
「そろそろメシだろ、んな時間かかりそうなのはメシ食った後にしようぜ」
「……それもそうね」
秋菜は軽やかに立ち上がると、襖を開ける。
そこには何人かのお子様<ガキ>と子供のハートのままな大人<クソガキ>がいた訳だが、秋菜は蹴散らすようにして追い立てていく。
溜息を吐きつつ、秋菜とは比べ物にならないくらいに鈍重な身のこなしで立ち上がり、居間へと向かう。
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居間は現在、襖を外され、温泉の宴会場のようになっている。
実際に温泉の宴会場よりも広く、しかも料理も豪華と言うのが笑えないところだが。
「昔はこれが当然なんだとか勘違いしてたなぁ」
番茶を飲みつつ、周囲を眺める。
大地主の家系というだけあるのか、親戚がやたら多い。
厨房にも奥様方が何人も行っているようで(そのせいでかおかずごとに味がちぐはぐで、しかもあまり美味しくないものもあったりする)、未だに料理が運ばれて来ている。
「よくやるなー……」
ずず、とまた湯飲みを傾けた。
上座の方ではジジイとババアが騒いでいるし、もう少し下がると三十代から四十代くらいのおっさんどもが二十代の親類を相手に酒飲み比べの真っ最中。
結局平和なのは一番の下座である俺の座る辺り、子供が寝ていたりゲームをしていたりする場所だ。クソガキども、庭に出て健康的に雪だるまでも作ってやがれ。
「さて」
十分に飯は食った。海老や蟹は美味いが、もうあまり未練はない。上座からじーさま方がやってきても即逃げできる。
十二時になる前に、神頼みしてこよう、と思う。
トラウマの大本だ。クラスメイトに感じる苦手意識など屁でもない。その女に打ち克とうとするには、自力だけでは不安だ。
「……いかんなあ」
……大晦日の、独特の空気。年の瀬が、俺を高揚させている。不安だ、とか言っておきながら、湧き上がって来たのは腹からの武者震いだ。
茶が無くなったので、従弟――じゃない、こいつはハトコか――にハンバーグと茶の交換を持ちかける。
ハトコはまだガキだ。交渉はあっさりと成功し、俺は茶を手に入れる。
茶をすすりつつ思うのは、冷静にならねば、と言うコトだ。
……復讐。とは言っても、具体的に何が可能なのか。それが問題だ。
俺の女性に対する自尊心を回復できる程度でなくてはならず、しかし秋菜が相手であっても可能である、そんな都合のいい手段。
……いやはや。本当に、マズい。
「……格ゲーで勝負付けばよかったんだが」
負け続けの象徴――とまではいかないが、マグレ以外で勝ったことがない。ちっぽけなプライドを満たすには十分とも言えた、が。
あの反射神経を見る限り、見事な格闘技の腕前も全く衰えていないと見るべきだろう。
元々そんなつもりはないが、腕力的な解決も不可能というコトだ。
口では勝てるわけがないし、第一そんなもので勝っても全く嬉しくない。
困った。……本当に困った。
後の手段が、酒に酔わせるコトくらいしかないというのが問題だ。
ウチの家系は代々ウワバミだ。俺も例に漏れずそうなのだが、……問題は秋菜もウワバミ、と言うコトだ。
六年前は、確か、辛うじて勝ちはしたものの大変な目に――いやいや、トラウマトラウマ。
落ち着こう、と茶を飲みつつ、上座の方を眺める。
そこには、老人どもの中に咲く華一輪。いや、ババアどもの中にいるせいか、主観的にも美人に見えてしまう。
「……やれやれだなー」
ずず、と飲み干して、……遠くから聞こえてくる柱時計の時報を耳にした。
一、二。……合計十一回。そろそろ神社に向かうべきだろう、と立ち上がる。
昔は両親や秋菜の父親に車で連れて行ってもらったが、流石に飲酒運転などさせるわけにはいかない。その程度には倫理観も育っている。
「あ、春巻君? 神社行くの?」
赤ん坊を抱えた女性――ええと、確か親父の従姉妹――が話しかけてくる。
体重が後ろによったり表情が作り笑いになるのは、まあ、仕方ないとしておこう。
「行くんだったら、ウチの神棚にも手を合わせてからにしなさいね」
……古風だね、全く。神社に行こうって俺も、人のコトを言えた義理じゃないが。
頷きを返して、上座方向にある神棚に向かう。
行なうは覚悟。……ジーさん達の野次が来る。
「おう、春坊ォ! 彼女出来たかァ!?」
「エッチはしたんかぁー?」
とりあえず軽く無視し、神棚の前に立つ。
……なんだったかな、一拍二礼――
「二礼二拍一礼だったと思うけど?」
……と、背後から声。
案の定――と言うべきか。覚悟はしていたが、やっぱりこの女だった。
「何? 神社に行くの?」
「そうだ。……お前はついてくるなよ」
「私も神社に行こうと思ってるんだけど? 車は誰に出してもらうつもり? 雪も降りそうだしね」
酒の入っていない大人がいると思うか、と秋菜は言ってくる。
……いないだろう、ああ、いないだろうさ。
ケ、と心中で毒を吐き、俺に割り当てられた客間に向かう。
「五分以内に表門にね」
「了解」
車で行ける、となると時間には余裕がある。多少遅れても構わない。
だがしかし、俺は早足に廊下を歩いていた。
廊下は寒いというコトもある。が、
「……奴隷根性全開だなぁ」
自嘲の笑みを浮かべ、俺は自室――客間の障子を開いた。
/
その昔、宇宙にはエーテルと言う物質が満ちているとされていた。現在では姿を変えダークマター――暗黒物質とかそういう学説になっているそうだが。それがそうだからどうなんだ、というレベルの、身近からは程遠い話だ。
……宇宙にそんなモノがあるのなら、この車内にあってもおかしくない。沈黙と言う形で。
「…………」
「…………」
満ちる沈黙、失われていく俺の余裕。
女と車内で二人っきり――その点だけ抜き出せば甘酸っぱいユメ状況だ。女がコイツである、となれば途端に最悪の状況に様変わりするわけだが。
……家にあれだけ人数がいて、大晦日のうちに神社なんかに行く酔狂な人間は俺とコイツくらいらしい。
爺様方は一時頃になってやいやい騒ぎながら来るのだろう。
「……の?」
誰も歩いていない、人家すらまばらな田舎道を車窓より眺める。
……雪が降り始めている。朝まで降り続けるような勢いでの雪だ。
溜息を吐いて、……白く曇ったのでコートの袖で拭いて、どこを見るでもなく外を眺め続ける。
「……うの?」
シャクなことに、秋菜に感謝しなければならないらしい。
三十分も――帰りも考えると、一時間以上になるか――歩いていたら、流石に凍えるだろう。こんなところで行き倒れになるほど恥ずかしい事もなさそうだ。
「……春巻」
「うぁいたたたたたた痛い離せなにしやぁがる!」
つねられた右腕を左肩の位置まで一気に持っていき、秋菜に抗議する。
……感謝なんてするものか。絶対に。
「だから、何願うの、って聞いてるでしょう」
「どうでもいいだろうが」
「気になるでしょう、教えなさい」
「……大学合格だよ、あそこの神社が学業の神さま奉ってるかどうかは知らんが」
「本当のことを言いなさい。推薦でもう受かってるっていうのは知ってる」
そうじゃなきゃ、受験生がこんなところに来る筈ない――と秋菜は続ける。
……いやあ、俺は明日のためなら三日くらい無駄にしたって構わないが。その辺までは、秋菜でも分からないらしい。
「……目的は特にない。来年が不安だから、神さまに祈っておくくらいしたっていいだろ」
「そう。……大学と言っても、周囲は大して変わらないわよ。たまに定年後のおじさんとかいるけど」
「いや、環境は変わるだろ」
「……そうね」
秋菜はそう言って、目を細くした。
正面は、ヘッドライトに雪が照らされ、少し眩しい。
「……神社、か」
吐息に混じって、そんな呟きが聞こえた。
……神社。
ああ。そう言えば――と、トラウマを思い出しかけた瞬間、加速Gが来た。
「と、お前、待て! 若葉マークのクセにこの天気と路面で速度出すな馬鹿! 夏に取ったばかりなんだろ免許!?」
「黙ってなさい。放り出すわよ」
「馬鹿馬鹿大馬鹿止めろド馬鹿何不機嫌になってるんだってもしかして俺のせいか俺何もしてないよな今ァ!?」
「さっき反論したじゃない」
「そんなことでか!?」
「うるさいわね。電柱に突っ込むけどいい?」
「よくねェよ馬鹿! あ、いや、止めてください秋菜お姉様!」
「お姉様? 三十点ね。もうちょっと可愛くなってから言いなさい」
無理でしょうけど、と秋菜はアクセルを緩める。
こ、コイツ憂さ晴らしに俺を恐がらせやがったのか……!
「……な、なんて性格の悪い……!」
「今度はボンネットに縛り付けて走るわよ?」
ごめんなさい、と適当に謝って、縮まったであろう寿命を想う。
……新手だ。新手の恐怖だ。車という新たな凶器を手にした秋菜に抗う術を俺は持たないようだ。
怜悧な色を浮かべ続ける横顔は、雪に照らされ一層白い。
……その唇が、ゆっくりと開いた。
放つのは一音だ。
「……あ」
「あん?」
「行き過ぎた」
……ため息を吐いて、
「ボーっとしてるんじゃ――」
急ブレーキッ。
「ぐぇえっ」
「ボーっとしてないでね」
……くすくすと笑う声がする。
あー、と深く深くため息を吐いて、性格わりィ、と呟いた。
「何? もう一回やって欲しいの?」
「あーあー、止めといてください。今度はスピンターンになっちまうだろうしな」
その後は間違いなく雪の深く積もった畑に車ごとダイヴ。場合によっては逆さになって。そんなのは流石にゴメンだ。
「……それもそうね」
納得したように超絶馬鹿は言い、道のど真ん中でUターンをしはじめる。
路面は、真ん中だけ盛り上がった圧雪アイスバーンだ。若葉マークがあと三ヶ月はとれそうにない秋菜は苦戦し、……と言うか、まあ、明らかに試験は奇跡で通ったと分かる技能でなんとかかんとか神社に向かう。
「……酒飲んでても、じーさんがたに送ってもらえばよかったぜ……」
「捕まるわよ」
「いいだろ、そうすりゃ三が日騒ぎっぱなしだなんて馬鹿もしなくなる」
「…………ふぅん」
何か無駄に色々と考えてしまうような間があって、秋菜は言う。
「でも、……懐かしい場所よね」
「ん? まあ、こっち自体俺には懐かしいが、……まあ、そうだな」
「……今年のお盆も来るつもり?」
「わからん。大学入ったらバイト始めるつもりだしな」
金も欲しいし、と言うと、秋菜がクスリと笑った。
「いいバイト紹介してあげようか?」
悪戯っぽい笑みだ。
……トラウマのニオイがする。
「夏休みの間中、私のペット」
……声音が冗談じゃないです、秋菜おねーさま。
「あ、えーと。ほら。神社見えてきたぞ神社」
月明りが木々に遮られた暗闇の中。境内で熾る焚き火に照らされた鳥居が見える。雪の積もった、巨大な鳥居だ。
寂れた小さな神社だが、焚き火の近くにいくらか人影が見えた。
「ああ、本当。――遠かったわね。心情的に」
「遠かったな、心情的に」
秋菜はスピードを緩め、脇にある駐車場へと車を向かわせる。
流石に小走り程度の速度では危なっかしいところもなく、……と思っていたら駐車が思いっきり斜めだった。
「……盆までには練習しとけよ」
「もちろん」
厳然――そう言い放ち、秋菜はシートベルトを外した。
秋菜は灰皿に手を伸ばしつつ、問いを送ってくる。
「お賽銭持ってきた?」
「当たり前だ」
灰皿の中には、小銭が入っていた。タバコは吸わないらしい、と知り、少し安心する。
そう、と秋菜は小銭を取り出し、ドアを開け放つ。
寒風。吹き込むそれは、体外と外界、境界を示すように感覚を送ってくる。
「寒いな」
「そうね」
俺も秋菜に倣い、車外へと出る。
当然、息は白い。露出する手と顔が、一気に熱を失っていく。
「おおお、マジ寒……」
ポケットに手を突っ込み、ザクザクと雪を踏みしめ、先を行く秋菜を追う。
/
……いよいよ神社が近い。
秋菜の後姿は、颯爽としたものだ。
揺らめく火に輪郭が照らされ、……ひどく、まぶしい。
「――ああ」
そのまぶしさに、俺は――憧れていたのかもしれない。
たった一年の年の差で、こんなにも遠いから。
「……負けてるんだなぁ」
まあ、と思考に前置きをする。だから、勝ちたいんだが、と。
「春巻」
……外気を凌駕する低温の声が、鼓膜を振動させる。
「……何、願うの?」
「さっき言っただろ? 来年の事だ」
「……そう」
秋菜は、速度を緩めない。振り向きもしないし、足取りに迷いもない。
「分かった――」
宣言は氷。
溶けぬ意志で、彼女は言い切る。
「――私も、……ううん。私は、アンタの幸せを願うコトにする」
……木々のざわめきに消えるような声だ。
だがその声は、耳腔に残り続ける。
心臓が重い。肺腑に侵入する寒風が、思考すら凍りつかせていくようだ。
秋菜の背中は変わらず、ブレることなく、神社へと――先へと進み続けている。
……何を、と思う。何を迷おうとしている、と。
実感する。――秋菜は、変わった。
常識を得たからとか、大人になったからとか、そことは違う部分で、だ。
だが、変わっていないのは、――変わっていないように見せているのは何故なのか――。
その結論を出さず、俺は境内へと踏み入る。
時刻は十一時四十三分。
迷いを振り切るには――短すぎる、時間だった。
新年の瞬間、と言うものを自覚した事はない。
だが、その節目と言うものはある。
携帯電話のデジタル時計が、無味乾燥にゼロを並べる。
「新年――か」
「あけましておめでとう、春巻」
思うのは、どう振舞うのか、という迷いだ。
……俺は、秋菜をどうしたいのか。どうすればいいのだろうか。
答えを出しておくべきだった。
漠然と、なるようになる、と思っていた。
だが、こうして俺は迷いを得たままで――――その瞬間を迎えた。
「――ああ。あけまして、おめでとう」
機械的に挨拶を返して、賽銭箱の前に立つ。
焚き火にあたる人達は甘酒を持ちながらの談笑が忙しいらしく、参拝に来る様子はない。
綱が無遠慮に握られ、僅かに鈴が鳴る。
「……願いは決めた?」
顔を見せぬ確認に、俺は無言を返した。
「……そう」
初速よく、腕が振られた。
がらん、と大きく鈴が鳴る。二度、三度と鳴らして、秋菜は賽銭を投げ入れた。
ゆっくりと、手を合わせるような拍。僅かに頭を垂れ、息を止める。
合わせ、俺も賽銭を投げ入れた。
そのまま手を合わせ、……迷った。何を願うべきなのか、と。
「……ん」
秋菜が顔を上げ、目線を送ってくる。
……あの。俺、まだなにも願ってないんですけど。
「帰ろう、春巻」
寒いし、と、有無を問わず秋菜は歩き出す。
……秋菜は、何を思ってあの願いを口にしたのか。
疑問は解決しない。しこりを感じつつ、俺は立ち止まる。
雑音は多い。しかし、彼女はその停止を感じ取り振り返った。
「……春巻?」
――目が合った。
振り返った秋菜の視線は、蒼く光るようだ。
凍結する空気は、その目線に及ばない。
……俺の瞳は、濁ってしまっただろうか。
秋菜のそれは、昔より鋭く、強く光っている。
「秋菜」
「なに」
短い言葉の応酬。
焚き火に照らされ、蒼い瞳が揺らめいている。
「俺は歩いて帰る」
周囲の音は消え去り、代わりに静寂が聞こえた。
足元からは雪の音が。口元からは息の音が。体内からは心臓の音が。
秋菜は息も吐かず、俺の目だけを見続けている。
「……そう」
頷き、秋菜は眼を閉じた。
そう、と彼女はもう一度言う。
「分かった」
なら、もう用は無い――とばかりに、鳥居へと歩き去る。
……立ち止まらない。
秋菜は、最後までそのまぶしさを減衰させなかった。
「……ああ、くそ」
最悪に惨めだ。
ほう、とため息を吐き、走り去る秋菜の車を見送る。
――加速していく。彼女は、真っ直ぐに走り続ける。