【Hydrangea】
「咲野ですが、御前にお返ししたいのですが。」
俺がそういうと御前ははて。と首を捻った。
「ほう。何か問題でもあったのか?」
とぼけていやがる。
「いえ、大変良く働いて貰ってはいます。」
「なら問題ないではないか。一度受け取ったものを返すなんてそんな野暮な事を言うな。
一度受け取ったならお前が最後まで責任を持て。」
「最後まで責任を持てって咲野は犬や猫じゃないんですから。そういう事じゃなくてですね。
もう咲野を家に置いておく訳にいかないんですよ。
御前。はっきりと申し上げます。
御前はどういう教育をメイドにされてるんですか。」
「ほう…お前にそれを言われるとは思わなかったな。何かあったのか。」
あごひげを撫でながら目を丸くして口を開く御前の前にずいと歩み寄る。
「何かあったなんてもんじゃありません!確かに家は綺麗になりました。
料理もおイネさんに勝るとも劣らない腕前を持っていることは判りました。
醤油とオカカの味の染みたこんにゃくの煮物なんていうのは昨今の若い女性にはそうそう作れるものじゃない。
その上掃除に洗濯、目まぐるしく働いてくれてありがたい事この上ない。
随分と楽になりました。」
「なんだ。何の問題もないじゃないか。」
「ええ、メイドとしては何の問題もない。
しかし!彼女が風呂場に忍び込んでくるとなると話は別です!」
びしっと御前を指差す。
どうだ。ショックだろう。
「何を言っているんだ。風呂場にメイドが来て何が悪い。寧ろいないほうが困る。
背中をどうやって流すんだ。」
ショックを受けると期待した俺が馬鹿だった。
平然と答える御前に怒鳴り散らす。
「わ、わ、わ、私がどんな目に遭ったと思っているんです!御前!!
ふ、ふ、風呂に入っていたらか、か、彼女が裸になって」
「ん?メイド服は脱ぐだろうが下着は着ていなかったのか?」
む、と眉を寄せる御前。
「ああもう、そういう事は問題じゃないでしょう!!
確かに黒いストッキングと下着は付けていたが、だから何なんです!?」
「ああ良かった。そうだろう?咲野は主人の前で言われもせずに全裸に為るような子じゃあないと思ってたんだ。」
ほうと胸を撫で下ろす御前。
と、横に控えた30そこそこだろうか、御前お気に入りのやたらと艶っぽいメイド長まで
一緒になってほっとしたように息を吐く。
なんなんだ、お前ら。
「なら何の問題もないじゃないか。なあ、由岐乃。」
「そうですよ拓郎様。私、心臓が止まるかと思ってしまいました。
咲野がそんなはしたない事をしただなんて。」
私の責任になってしまいますわ。とメイド長がいかにも吃驚したという風にエプロンを掴みながら言う。
「・・・ええと、何が違うんです?」
「何を言っている。メイド服と云うのはだな、汚れても良い服ではあるが、汚しても良い服ではない。
風呂場にて奉仕する際に脱ぐのは当たり前だろう?」
「御前、言っている意味が良く判りません。」
「それはお前の理解が足りないだけだ。まあいい、何を言っているんだ。何の問題もないじゃないか。
それで、背中を流してもらったんだろう?」
「御前、何を言っているんですか!流してもらう訳にいかないでしょう?そんな。
私は、でも私は頭が真っ白になってしまって、でもそうでしょう?あんな、白い上下の下着に
黒いストッキングだけみたいな格好を見せられたら。だれだってしどろもどろになってしまう。
だからべ、便所に行くと言って彼女の体を出来るだけ見ないようにして外に出ようとしたら御前、
いったい、な、な、何て言ったと思います?彼女が!」
「最近外は寒いからゆばりだったら風呂場でして下さいませとかそんな事だろう。」
「そうです!しかも彼女、跪くなり宜しかったら私の手か口になさいますかとか言って
手をお椀のように広げてってええええええ御前えええええ?」
「当たり前じゃないか。何が悪いんだ。なあ。」
御前の言葉に満足げに頷く艶っぽいメイド長。
「ご主人様に付随するものそれ全て尊いものであることは当然で御座います。
況やご主人様から出されたものなら尚更。
しかし一般的に考えて風呂場でおゆばりを出す事は衛生的に多少問題がある事もしかり。
で、あればメイドがその手か口を使おうとする事は当然と言えば当然。当たり前の事でしょう。」
「いやいやいやいや嘘だ嘘だ嘘だ。」
俺の言葉を無視してメイド長は続ける。
「しかし、教育されたメイドとは言え、事急を要する事態に正しい判断をするというのは中々難しいもの。
とっさのうちにそれだけの判断が出来る用になるとは、」
拓郎様の躾が宜しいからでしょうね。とにこにこと笑うメイド長。
そうだろう、そうだろう。わしの目に間違いはないからな。と目を閉じて頷く御前。
「ありえない、いやいやいやありえないでしょう。いやおかしいでしょう。」
なんだその成長した子供を見るような慈愛に満ちた態度は。
「で、どうしたんだそれで。」
「慌てて振り切って服を着て飛び出しましたよ。当たり前でしょう?
で、次の日からは私が入っている風呂場へは絶対に入るなときつく申し渡しました。」
「なんだ、つまらん。じゃあ、手を出してないのか。」
「手を出すも出さないも無いですよ!それに、それだけじゃないんです。いいですか、聞いてくださいよ。
その事があって、私は咲野を呼んで懇々と説教をしました。
若い娘が人前で、例え雇い主である私の前ででも独身の男に肌を晒すという事がどういう事か、
男とはいかに危険なものか、若い娘とはそれから身を守る術をいかにして持たなければいけないのかと。
判るような判らないような今一釈然としないような顔をしていましたが、
最後にはご主人様が仰るのならと納得して貰いました。でです、その話の折!」
「どうした。」
「まず始めに、御前には正直にいいますよ。ええ、ええ。確かに。私も正直になります。
確かに私にも下心が無いといったら嘘でした。
御前の言っていた事も全て否定するつもりはありません。
私だって健全な青年です。家のメイドに手をつけたなんて話は珍しい話じゃないですしね。
それに咲野はあの器量です。正直、毒を喰らわば皿までと思わなかった訳でもない。
無論、お互いの気心がしれて、結婚の覚悟がお互いに出来てからですがね。」
「毒じゃないぞ。薬じゃないか。」
ははははは。と何が可笑しいのか御前が笑う。
お戯れ程度なら兎も角、拓郎様とご結婚だなんて、そんな冗談を言われたら咲野が卒倒してしまいますわ。
とメイド長がさも可笑しそうに笑う。
だからこの人たち何処が可笑しいんだ。
外国にいるかのような錯覚を味わう。
「で す が !話を聞いてください!
正直、確かにそういう気持ちが全く無かったといえば嘘になるんです。
し か し、しかしです!彼女が1 8 歳以下と知れば話は別 で す。
咲野はしっかりしているし凛として体型もそこらの若い娘よりよっぽど大人っぽい。
私はだからてっきり年上だと思っていたのです。もしくは同じ位の年なのかと。
それがなんですか。17歳!彼女は言いましたよ私の前で。自分の年は17歳であると!
御前、ご存知でしたか?咲野は17歳なのですよ!
御前はメイドにどういう教育をされているのか、私は目を疑いましたよ。
そんな、年端もいかぬ若いメイドにふ、風呂場で下着になるだなんてそんなふしだらな真似を・・・」
「風呂場でメイド服を脱ぐのは当たり前じゃないか。ふしだらとは違うだろう。
それに咲野は8つでうちに来て、来月が誕生日だから今はまだ16の筈だ。」
なあ、とメイド長に振る御前。ええ。ご主人様の仰るとおりです。と頷くメイド長。
「うう・・ああ!もう!違う、違う!そういう事を言っているのではありません。
御前は、そういう事を若いメイドにさせているのですか?とそういう事を言っているのです。」
「いいや、ワシはああいう若いのは好かん。風呂場での世話はもっぱらこいつか年長の連中だ。」
やはり女は30辺りにならないと味が出ん。と呟く御前の言葉。
いやですわ。とか言いつつわずかに自慢げに胸を張るメイド長。
何だ?何を言ってるんだこの人たち。
「拓郎様、ご主人様は18歳になるまで決して新人のメイドにはお手を付けられません。」
ずいと前に出ながらメイド長はやや自慢げにこう言い放つ。
18歳になるまでって・・・
「御前、あなた・・・」
今、自分が凄い顔をしている事を自覚しつつも顔が歪むのを止められない。
「御前、もしや年若いメイド全てに手を付けている訳ではありませんよね。」
「む。馬鹿なことを言うな!」
一喝されてはっと気が付く。
「いや、これは申し訳ありません。失礼な事を申しました。」
失言だった。慌てて頭を下げる。いくらなんでも御前を色情魔扱いして良い訳がなかった。
御前も御一人となって久しい。
稀にメイドの一人や二人に手を付けられるのはそれこそ仕方がない事だろう。
俺がどうこう言っていい話ではなかった。
「全てとは何だ!このワシに向かってなんて言い草だ。
今、由岐乃が言っただろう。18の誕生日までは教育の期間。
それまでは無垢のまま育てるに決まっているだろう。風呂場にも寝室にも上げん!
それに18に為った時に一度手を付けるだけだ。それも成長を確かめる為にだ!
その子達の将来を考えてこその措置だ!
大体ワシのメイドだ!ワシが成長を確認して何が悪い!
そんな色情魔のような言い方をする奴がいるか!」
ワシを何だと思っている!とぷりぷりと怒る御前。
「御前、言っている意味が良く判りません。」
考えたくない。頭を抱える。
「まったく。まあ、とにかく咲野はお前が引き取ったんだからお前がなんとかせい。」
がっくりと首を折った俺にぷかりとキセルを一回燻らしてみせると、御前は厳しい顔でそう伝えてきた。
と、何かを思いついたようにカンと灰皿をキセルで叩く。
「ああ、そうだ。咲野だがな。お前の言っていたのはそれで全てか?」
「なんです?」
「風呂場だけか、と聞いている。」
「そうですけれど」
そういう事ならいい。と言って御前は手を振った。
今日の面会はこれで終わりだ、という合図だ。
仕事用の書類を片付ける。
由岐乃さんに上着を着せ掛けてもらってから御前に辞去の挨拶をし、
背中を向けると声が追いかけてきた。。
「あれは獨女だ。」
「ひとりご?」
一人っ子という意味か?
「慣れん事もあるだろうが一生懸命やる娘だ。優しくしてやってくれ。」
そう言うと御前はどっかりと椅子に座ったままもう一度手を振った。
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御前の屋敷を出ると、咲野がメイド服姿で庭先のベンチの上にちょこんと座り込む格好で俺を待っていた。
紫陽花の花を眺めている。
「なんだ、そんな所で待ってたのか。仲間がいるんだろう?挨拶はしたのか?」
後ろから声を掛けると、その背中がびくりと震えた。
「ええ、皆には先ほど。」
なんだかもじもじと怯えたように話す咲野に手を伸ばす。
「そうか、俺も仕事は終わった。帰ろう。」
そう言うと咲野はびっくりとした顔をした。
「……宜しいのですか?」
「何が宜しいんだ?帰るぞ。途中で魚屋に寄ろう。今日の飯は刺身にしよう。」
咲野はしばし呆然としたまま俺の顔を見上げた。
その手を持ってぐいとベンチから引き上げる。
「きゃあ!拓郎様っ!」
「ぼんやりするな。帰ると言っているんだ。」
「…あの、一緒に帰ってもよいのですか?」
聞こえない振りをして歩き出す。
こんな事になり、咲野にこんな顔をさせるのなら、御前の所に戻す等と言わなければ良かった。
先走って一言多く言い過ぎるのが俺の悪い所だ。
今後は黙っておく事にしよう。
「紫陽花、好きなのか?」
後ろをちょこちょこと付いて来た咲野に声を掛ける。
もうこの話は終わりだ。という合図。
咲野は暫く考えたように黙ってからてててと走って横に並んできた。
「はい。紫陽花の淡い紫の色って見ているととても心が落ち着きます。」
「紫陽花はオタクサとも言う。何故だか知っているか?」
「いえ。何故ですか?」
「なんでも江戸時代に日本に来ていた医師のシーボルトという奴が付けたらしい。
日本に来た後、祖国に帰ってから本を書いた。
その中で紫陽花の名前を日本でそう呼ばれているとし、オタクサと名付けたらしいんだが…
実はこれが大嘘でな。日本じゃそんな風には呼ばれていなかった。」
「じゃあなんでそんな名前を」
「シーボルトが日本にいた時の恋人の名前を付けたのさ。
その名前がお滝さん。でオタクサって訳だ。」
「へえ。そうなんですか。」
ちょっとロマンチックなお話ですね。と言いながら咲野が微笑む。
「好きならうちの庭にも植えればいい。世話はお前がしろよ。」
「え?」
「枯らさないようにしろ。」
命あるものとは一度関わりを持ちめ始めたら、最後まで関わっていかないといけないからな。
そう言うと咲野は慌てたようにはい。とそう答えた。
了