「あー、疲れたぁ。」
そうつぶやき、白い息を手に吐きかける。
今は会社の帰り道。すでにあたりは真っ暗になり、街灯がぼんやりと光を灯している。
それもそうだろう、現在の時刻は23時を過ぎてしまっているのだ。
「今日もお勤めご苦労さん、っと。」
労ってくれる人もいないので、自分で自分を褒めることにする。
「♪〜♪〜」
軽く鼻歌を歌いつつ、街灯を頼りに家路を急ぐ。さっさと帰らなければ日が変わってしまう。
ふと目の前の街灯に目を向けたとき、何か違和感を感じた。
じーっと目を凝らして街灯を見ても影が見えるだけで、違和感の正体に気づくことが出来ない。
周りの寒さと暗さも相まって、少し怖くなってきた俺はその恐怖心を振り払うべく、
先ほどよりも心持ち大きな声で歌の続きを歌う。
「♪〜♪〜♪〜」
そして、例の街灯を横目に通り過ぎようとしたとき、その違和感の正体に気づいた。
街灯の影だと思っていたものは、地面に付いてるんじゃないかってくらいに髪の長い女だった。
驚いた俺は思わず足を止めたが、驚いたのも一瞬ですぐに安堵のため息をついた。
安心すると同時につまらないことを考え、怖がっていた自分が恥ずかしくなってくる。
「これじゃあ、まるで子供じゃないか。」
そうつぶやくと、恐怖を紛らわせるために歌っていたのが聞かれていたかもしれないという事に気が付いた。
やばい、どうか聞かれていませんように、と心の中で願いながら女を横目に通り過ぎようとしたのだが、
長い髪がサッと揺れたかと思うと、女が俺のほうを顔を向けてきた。
「!!」
息を呑む美しさとはこういうことを言うのだろうか。
年の頃は20歳前半、ツンととがった鼻、瞳は黒く、意思の強そうな眉。
そして何よりも、その特徴的な長い髪が幻想的な美しさを引き出している。
こんな美人に聞かれたんじゃ、恥ずかしくて眠れなくなってしまうじゃないか。
すると、ニコッという擬音聞こえてきそうな笑顔を俺に投げかけてきた。
しっかり聞かれてんじゃねーか!!なんてこった!!
寒いはずなのに顔が熱くなるのを感じ、なぜか会釈をしながら相手に軽く微笑み返す。
そしてさっさと立ち去ろうと、足早に道を進む。去り際に「あっ」という声が聞こえたような気がしたが気にしない。
しばらく歩いていると、後ろからザッザッと走るような音が聞こえてきた。
何だろうと、後ろを振り向くと先ほどの女が走ってくるではないか。
様子が変だな。もしかして変質者に追われているとか?
あれだけ美人なんだから、ありえない話ではない。そう思い、俺は意を決して声を出した。
「おーい、何かあったのかー?」
女は返事もせず、倒れこむように俺の胸に飛び込んでくる。
「お、おい。大丈夫か?何があったんだ?」
「ハァハァハァ…」
「お茶でよかったら飲むか?コンビニで買ってから一度も口をつけてないから綺麗だぞ。」
「す、すみません。頂きます。」
俺は急いで、カバンからお茶を取り出し女に渡す。
受け取るや否や、すごい勢いで飲み干していく。
「いったい、何があったんだ?俺でよかったら力になるぞ。」
「あなたがさっさと行ってしまうからじゃないですか!」
何を言っているんだ?俺が行ってしまうからって…
「俺に何か用でもあるのか?」
「私が笑った後、微笑み返してくれたじゃないですかぁー!!」
そういいながら、腰に手を当て、可愛く頬を膨らませる。
ずいぶん最初の印象と違うなぁ、などと思いながら女を見かけた時の事を思い出す。
確かに微笑み返したが、あれは気恥ずかしさからであって特別な意味は無いのだ。
「確かに笑い返したけど、それがいったいなんだって言うんだよ。」
「私が笑って、微笑み返した人は連れて行かないと行けないんです!!」
「連れて行く?連れて行くって何処に?」
「それは…」
そういうと女はそっとうつむき、頬を赤らめる。
「私の口から言わせる気ですか。エッチ」
「エ、エッチって…そんな事言われても俺には何のことか分からないし、それに訳の分からない所に行く気も無いぞ。」
「あ、もう無理ですよ。捕まえましたから。」
捕まえた?何を言っているんだ?不穏な空気を感じた俺は一歩後ずさる。
が、何かに足を取られ転んでしまった。
「な、何だ?」
そう言って足を見ると何か黒いものが俺の足に絡み付いているではないか!
「これは一体何なんだ!?」
「私の髪の毛でーす。」
彼女は楽しげにそう言い放つ。
確かに髪の毛が俺の足に絡み付いているように見える。
しかも、その先端が鉤のようになっており、足首にしっかりと引っ掛けられている。
しかし、俺もなすがままになっている訳には行かない、逃げようと必死でもがく。
すると、「痛ーい!」という声が聞こえてきた。
痛いだって?頭にハテナマークを浮かべながら女の様子を伺う。
「私の髪の毛だって言ったじゃないですか。引っ張らないで下さい!」
彼女は涙目になりながら、俺を恨めしそうに見ている。
これはチャンスと思い、俺はさらに足をじたばたと動かす。
「これ以上引っ張られるのが嫌なら、さっさと自由にしてくれ!!」
「嫌ですー。連れて行くんですー。」
「だから何処にだよ!得体の知れない所に連れて行って俺を殺そうとでも考えているんだろう!」
「こ、殺す!?そんなことしません!!」
「じゃあ、一体何なんだ!」
そういうと、俺は足に込める力を強めた。
「分かりました。言います、言いますから引っ張らないで下さぁーい。」
なんだかなぁ、と思いながらも少し力を緩める。
彼女はよっぽど痛かったのか、グスグスとべそを掻きながら答えた。
「私はぁ、ヒック、妖怪のぉ、ヒック針女で…」
「あぁ、もう!俺が悪かったよ。もう引っ張らないから泣き止んでくれよ。」
「ホント?」
「あぁ、約束する。まったく、何言ってるのか全然分かんねーよ。」
彼女はポツリポツリと自分のことを語り始めた。
曰く、自分が妖怪の針女であること。
曰く、気に入った男に微笑みかけ、相手が笑い返すと髪の毛で身動きを取れなくしてしまうこと。
曰く、動けなくした相手を自宅へ連れて帰り子孫を残すこと。
普通の人間ではないとは思っていたが、まさか妖怪とは…
「あー、お姉さま達に怒られちゃう。」
「お姉さま?姉妹がいるのか?」
「そう、とっても怖いの。髪の毛引っ張られて相手を逃がした、なんて事がばれたら、私きっと死ぬよりひどい目に合わされちゃう…」
まぁ、髪で相手を捕らえる妖怪が髪引っ張られて痛いから逃がしましたー、なんてカッコが付かないもんなぁ、
なんてことをのんびり考えていると、彼女はまたグスグスとぐずり始めた。
このままこうしてても埒が明かないと考えた俺は、
「落ち着くまで俺の家にでも来るか?」
「はい…ヒック、すみません。お願いします…」
その後しばらく彼女は黙ったままだった。永遠に続くかと思われたその沈黙は彼女によって破られた。
「あ、あの!」
「な、なんだよ?急に大声出して。」
「このままでは私も引き下がれないので、一番重要な所だけ協力してもらえませんか?」
そりゃ、なんだか可哀想だし、悪い奴でもなさそうだから出来ることはしてやりたいけど…
「何だよ、一番重要な事って?ことによっては協力しても良いけど…」
「それは、し、し、子孫を残すことです!」
真っ赤になりながら彼女はそう叫ぶ。
子孫?妖怪の子孫って、どうやって残すんだ?
そんなことを考えていると、彼女は着ていた服を脱ぎ始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!何故服を脱ぐんだ。それに子孫って…」
「子孫を残す方法は人間と同じです。」
「そうだとしても、人間と同じ方法なら絶対出来るとは限らないだろ!」
「子を宿すという強い意志があれば出来ます!どうか、お情けを下さい…。」
そう言い、身に纏っている物をすべて脱ぎ去り、俺に抱きついてきた。
その体は微かに震えている。寒さに震えているようではなさそうだ。
ここまで相手が覚悟を決めているんだ、男の俺が覚悟を決めないでどうする。
「分かった。俺でよければ…」
彼女の長い髪を手で梳きながら梳きながら、そっとキスをする。
こうして、この夜は更けていった…
次の日目が覚めると、彼女の姿は消えていた。
あれは夢だったのだろうか、と考えたが手に残る彼女の感触とベッドに残る長い髪が彼女の存在を教えてくれる。
妙な喪失感を感じながら、
「また、会えないかな」
そんな都合のいい事を呟きながら、俺はいつもの生活に戻って行った。
---終わり---