「聞いてるぅ、くずはァ」  
「聞いてる、聞いてるから、まずは落ち着きなさい」  
 しなだれかかる酔ッパー。対処に困る私。  
 ……しなだれかかると言うには、なんとなくポーズが危ないけれど、まあ、私の部屋だ。誰も見てない。  
「あ、あいつは、もうあたしのコトなんてもうどうでもいいとか思ってるンだァ……絶対……」  
 あ、泣き出した。しかもなにやら大泣き。ぐじゅぐじゅいう音も聞こえる。  
 もしかしたらコイツうわぁ汚ねぇハナミズだァとかそんなハナシだろうか。  
 だが、離れろ、と直で言ったら余計酷いことになりそうだ。  
 ああ、お気に入りのセーターよ、さらば。幼馴染のものとは言え、他人の鼻水が付いた服は即洗濯籠行きだ。  
「待て。いいか、落ち着け。落ち着け」  
 落ち着け、と三度言うと、彼女――雪津・春猫<ゆきつ・はるねこ>は大泣きをすすり泣きに変えてくれた。  
 酒の席。お互いもう大学生で、既に十七年の付き合いになる。  
 お互い大学は別だが、住んでいるのは同じ街だ。  
 しかしあまり会う機会が無いのは、地元の観光名所にはあまり行かないのと一緒だろうか、などとたまに考えていたのだが、唐突に春猫の方から連絡があった。  
『お互い二十になったし、酒飲もう』  
 ……至極単純な文言だった。  
 しかし、その理由……と言うか言い訳は、既に三回ほど使用されており、お互いもうすぐ二十一になるのであった。  
 ぐすぐす泣く、酒に弱い親友の頭を撫でつつ、天井を見上げる。  
 ……こうなった経緯は、彼女と私、共通の幼馴染にして、ついこの間春猫の恋人になった馬鹿にあるらしい。  
 元々、二人をくっつけたのはこの私――季野・葛葉<きの・くずは>である。  
 ならば、私がどうにかせねばなるまい。  
 そんな風に意気込みつつ、私は春猫の持ち込んできたビールを飲み干した。  
/  
 
 ――夏島・涼見<なつしま・りょうけん>は、その名前とは裏腹に暑苦しい馬鹿である。  
 高校時代、体育祭でエキサイトしすぎて肋骨を折り、しかも『翌年に悪い影響を与えぬため』と我慢するという伝説――もっとも、春猫がすぐにそれを露見させたのだが、それはまた別の話だ――を持つほどに。  
 当然器用さなんてものは望むべくもない。恩を着せるような言い方だが、もしも私が後押ししなければ、今だって涼見と春猫は喧嘩友達の関係だっただろう。  
「……と言うワケでだね、君は私に何が起きたのかを説明する義務がある」  
 と、私が持参したスルメを噛む馬鹿に言う。  
 昨日の報告を聞いてから即日。襲来に面食らったであろう彼は、やっぱりか、と言う顔をした。  
「……酒とスルメの代金は払うから喋らんでいいか? 枝豆もオレがゆでるから」   
「駄目だ。私の方にも解決する義務がある。そしてその最適手が君から話を聞くことなんだ」  
 視線がかち合う。  
 大学に入ってからオールバックにしはじめた髪は、今は自室だからか昔のようにボサボサだ。  
 顔つきもどこか疲れているようで、目の下にはクマがある。  
「……そうかよ。で、春猫はなんて言ってた」  
「君が、距離を置こう、と言ってきたと」  
「……そうか」  
 声に覇気がない。そも、コイツは三点リーダを使わなければセリフを表現できないような空白時間を作らないような男だ。  
 ――攻めれば落ちる。  
 普段であれば抱けないような確信を持つのも、ある種当然だ。  
「なあ、頼むよ涼見。君達が喧嘩をしているのを見るのは、実に心苦しい。喧嘩に他人が介入するのは無粋かもしれないが、喧嘩しっぱなしでいいというワケではないだろう」  
「……まあ、そうだけどな」  
「涼見。まさか、彼女の事を嫌いになったというワケでもないんだろう? 何か狙いがあるなら、もう少し穏便な方法を提案できるかもしれない。話してみてくれないか」  
「嫌いになんかなってねェよ。むしろ愛してる……ん、だが」  
 さらっとノロケつつ、涼見はスルメをかじる。  
「だが、なんだ。やはり何か理由があるのか」  
「……ああ」  
 彼は深くため息を吐き、理由を語る。  
 訥々と――大真面目に、静かに。  
/  
 
 ……十数分ほどだろうか。  
 程よく酔いも回り始めた頃、彼は語り終えた。  
 終わりだ、との言葉に頷き、  
「……終わりだな? それ以上、例えば、何かどんでん返しのオチは無いんだな?」  
「……ああ。ねェよ」  
 オーケー、と深く頷き、  
「ぅわーはっはっはははははっ!」  
 腹の底から笑う。本当に、聞いている最中から笑いたかった。  
 堰を切った笑いに、馬鹿が――否。超絶馬鹿が怒鳴る。  
「な、何がおかしいんだバカキツネ!」  
「ははは、何がおかしい……!? 何がおかしいだって!? 実に面白いな君たちは! ははは……!」  
 涙が出てきた。  
 腹が痛い。  
 こんなに笑うのは久しぶりだ。  
「は、はははは、ひ、はは、シリアスに語っているから何事かと思えば! ははは……!」  
 ああ、こうしてはいられない。  
 このおかしさを、もう一人の当事者へと伝えなければならない……!  
「あ、こら待てばか!」  
 唐突に立ち上がった私を見て何かを感じ取ったのか、超絶馬鹿が私を捕まえようとする。  
 が、  
「馬鹿に馬鹿と言われる筋合いはないなぁ!」  
 はははははは、と笑いつつ軸足を蹴る。  
 彼は宙に浮き、  
「ふ」  
 テーブルの端に、思いっきり頭を打ちつけた。  
 ふ、とか気まずい声だった。ゴスッ、とかやたら鈍い音がした中で、そのただ単に息が抜けただけのような声が妙によく聞こえたのもなにやら気まずい。  
 ……やりすぎただろうか。  
「あー……まあ、死んではいないだろう」  
 うんうんと頷き、動かない涼見に二秒だけ手を合わせる。  
 ……さて。今度こそ、こうしてはいられない。  
 くつくつと笑いつつ、私はタクシーで春猫の家へと向かう。  
/  
 
「やあ春猫。理由が分かったぞ」  
 開口一番。私はおさまらぬ笑いをこらえつつ言った。  
「……理由って何さ」  
 雪津・春猫は悪酔いする性質だ。  
 今回は特に二日酔いが酷いのだろう。  
 髪の毛に櫛も通っておらず、長い前髪と悪い顔色も相まって、以前涼見にチケットを送ったホラー映画のキャラクターに見える。  
「彼が君を避ける理由だ」  
「……そんなのどうでもいいよ。アイツ、距離を置こう、なんて……あたしのコト嫌いにでもならなきゃ、出てこないでしょ」  
「いや、違う」  
 できる限り、自信満々、と言った風で言い切る。  
 彼女は怪訝な顔をし、疑問を送ってくる。  
「……なんでさ」  
「ああ、今から説明する。よく聞いてくれ」  
 そうして、私は語り始める。双方の話を聞いて、多少脚色した、しかし真実である話を。  
/  
 彼は悩んでいた。  
 が、ひとまずは目の前の問題だ。  
 胸の中には最愛の人がいる。  
 長い前髪を、胸板にこすりつけるような動きだ。  
「ぎゅーってして……」  
 心臓に語りかけるような声は、まさに殺人級。  
 ……オーケー、と思う。鼻血出してもいいですか神さま。  
 勿論、その要求に答えるのはやぶさかではないと言うかお願いしますぎゅーってさせてくださいと足の裏を舐めたくなるくらいに魅力的だが閑話休題。  
 よし抱きしめよう、と思った時には、腕は彼女の背と後頭部に回っていた。  
 流石俺、と頷きつつ、至極優しく力を込め、その体温を実感する。  
 ……今日はいいか。  
 穏やかに思っていると、胸元から、ああ、と吐息のような囁きが聞こえた。  
「心臓の音、優しい……」  
 だからなんでお前はイチイチ俺の残機を落していくんだ、と落ち着きかけた心臓が再度十六ビートへと向かっていく。  
 ……いかん、と彼は思う。  
 世には、熟年離婚という例がある。  
 彼の両親は、彼が幼い頃離婚した。その後父親に引き取られ、紆余曲折があってこの場にいるワケだが、  
 ……昔は、両親だってラブラブだった筈だ。  
 駆け落ちらしいし、と思い、身をすり潰すような苦しみを進行形で味わいながらも、両の腕から力を抜く。  
 何の合図と思ったのか、彼女は顎をあげ、目蓋を閉じた。  
 ……ぐああああああ!  
 悶絶。心の中で超悶絶。分かっている。幼馴染だ、以心伝心、というかこの状況でキス以外の何を求めていると言う……!  
 腕を、意志を持って彼女の肩に置く。ともすれば貪りそうなその唇を見つめつつ、  
「は、――春猫。いいか、よく聞け」  
 ……い、言うぞ俺! 言っちゃうからな!  
 心の中で盛大にヘタレつつ、彼は言う。  
「――春猫。ちょっと、距離を置くようにしよう」  
/  
 
「……それが、どうかしたの」  
 情感たっぷりに語ったが、彼女の反応は至極冷たいものだった。  
「……この、距離を置こう、と言う発言だが――彼にとって見れば、『物理的に』とのことだ。先ほども語ったように、彼は心の中でいつも悶絶しているらしい」  
「…………」  
 赤くなるな。無言でノロケているように見えるから。  
「それと、もう一つ理由があるらしい」  
 と、どたばたと廊下を駆ける音。  
 もう一人の当事者の登場だろうか。来たらどうせ騒ぎになるワケだし、先に言っておかねばならない。  
「――彼は馬鹿だろう。自分の底が浅い、といつも己を卑下している」  
 春猫は無言で同意する。  
 合鍵があるのだろうか、一度閉められた筈の鍵が回る。  
「近づく事は、より深くを知ろうとする事だ。――彼は、底を全て知られたら、己が飽きられてしまう、と恐れていたそうだ」  
 苦笑し、涙を流す春猫を見る。  
「……そんなわけ、無いのに」  
 ……続く言葉を先に言われてしまった。  
 まあ、春猫も理解してくれたようだし、これ以上は流石におせっかいだろう。  
 私は開くドアの方向へと向かい、入ってくる馬鹿とすれ違う。  
「――本当、そんなワケないのにな」  
 私の事は眼中に無しか、と一直線に春猫へと向かう馬鹿の背中を見送る。  
「お互い、底どころか、表も裏も、過去も真実も、全てを知り尽くした――」  
 ――――幼馴染だからな、と、私はドアを閉めた。  
 

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