小さな頃から、薬を飲んでいる。
水色と透明なカプセルの中に白とオレンジの顆粒。
濃い青のカプセル。
この二つを俺は飲まねばならない。
「快傑!!ネッケツマン」という遥か昔、俺がガキの頃流行ったアニメのデザインされた平べったい缶。絵ははがれ、浮き彫りのタイトルとキャラが残るソレを、俺は未だにケース代わりに使っている。
元々は飴かなんかの箱だったらしく、サイズも丁度良い。
もっとも、長年の使用により、あちこちへこんだりもしているが。
カラカラと音をたてながらそいつをいじっていると、台所から良い匂いと、モノを炒める音が聞こえてきた。
部屋の片隅に詰まれたゴミの中身はコンビニ弁当やら安さだけがウリのバーガー屋の屑やらである。
この部屋に料理の音など、久しく流れているまい。
苦笑と期待の入り混じった顔で、俺はソファーベッドに腰掛けた。
「カズくーん、お皿どこー?」
香織ののんびりとした声が聞こえてくる。
「無ぇ」「な、無いって」「普段使わねーからな。どんぶりしか無ぇ」「ど、どーすんのコレ」「ちょい待て」
香織はあたふたしているが、野郎の一人暮らしで食器が揃っているほうが珍しい。
「ん」「ご飯って……、丼モノじゃ無いんだけどなぁ」
苦笑しながらも香織はたっぷりとソレを入れてくれた。
「ん?なんだコレ」「カズくんどーせ野菜なんか食べてないでしょ?本日は野菜オンリー」「まあかまわんが」肉の無い包皮肉というのは唯のキャベツ炒めでは無かろうか。
肉無しのチンジャオロースーにはローがつかぬのでチンジャオスーであるし。
「美味いから何も言わんがな」
「言ってる言ってる」苦笑しながらも香織はエプロンを外し、俺は軽く頭をさげ、そして飯にかぶりついた。
麻生和人。
森坂香織。
俺ら二人は別に付き合ってもいない。だが、ガキの頃から一緒だったので、お互いに気楽に会える。
たまに香織はメシを作ってくれたりもするし、俺も香織の家に遊びにいったりもする、そんな仲だ。
「ふぅ、ごっそさん」
からん、とプラスチックの蓮華を置く。普段余り食わない俺だが、香織の料理だけは三杯はいってしまう。
「はい、お茶」
にこにこしながら香織は茶を渡してくれる。
「おう、サンキュ」
俺はそう言うと目を細めてソレを啜る。
「おじいさんみたいだよ?」
苦笑する香織に、「ほっとけ」と言うと俺は再び茶を啜る。
「ね、カズくん」「ん?」「最近、どうなの?」「何が」「だから」「おう?」
「やりたい事、できた?」
香織の質問は、
いつもの事ながら、
俺を不快にした。
「またソレか……」
「カズ君、もったいないって。投げちゃったらどーしよーも無いじゃん」
「どうもなんねーよ、いまさら」
「カズくん、そんな事」「あーもーこの話はナシにしよ……」
どく……ん。
自分の心臓の音が聞こえた気がした。
「……ヤベ……」
声が、かすれる。
「か、カズ君!?」
「わ、り……水、くれ……」
かすれた声でそれを言い、震える手で缶を開け、紺のカプセルを取り出す。
「は、はい」
「すまん……少し寝るから、帰っちまって構わねえから……」
そこまで言うと、俺はカプセルを呑み、ソファにばたりとぶっ倒れた。
発作……畜生……。
なあ、香織、おまえはそれでも、
投げるなっていうのか?
俺が小学校に上がる直前。剣道の練習中に、俺は突然ブッ倒れた。
先天性のナントカで、治る見込みの無い病気らしかった。俺は運動を奪われた。
ガキだった俺に、おふくろは「別の趣味」を探させようとした。そんな中で、絵だけが俺の興味を捕らえた。
しかし、描いたりしていく内に、俺の興味はイラストや漫画に移って行った。
実際、そちらでなければ到底食えないだろうというのもあった。
両親は反対したが、俺は試してみたくて色々な賞に応募したりしながら経験を詰み、
そして絶望した。
流れ。流行。それに躍らされた無個性な絵。それを盲信する連中。擦り寄る事でしか防衛をせず、防衛しかせず。
アニメや漫画、ゲームを支えているオタクという人種の正体。
そして恐らくは俺もその一部だ。そう考えると、もはや俺はソコにはいたくなかった。
そして、筆を折った高校二年の春より、
俺はずっと空っぽのままだった。
病気は進行こそしないが、常におれが綱渡りをしているのは事実だ。そして、今の空な俺には何も無い。
バイトも下らない。しかし金が無ければ生きて行けない。
最低限の金だけを稼ぎ、残りの日々をだらだらと過ごす繰り返し。俺はもはや、生きているとは言えぬ日々を過ごしていた。
なあ、香織。
何も無いよ、俺には。いつ死ぬかもしれず、夢なんて二度も失ったしな。
わかってくれとは言わないけどさ、
香織……
「ん……」
「あ、気がついた?カズ君」
気がつくと、俺は香織に膝枕をされた状態で頭を撫でられているようだった。……酷く、気恥ずかしい。
「ん」
「あ、駄目だよまだ動いたら」
「……」
実際、まだ体は若干重い。俺は仕方なく、そのまま体を横たえた。
「……香織」
「ん?」
「お前は、どーなんだ?」
「え?何が」「最近」
「ああ。んー、やっと実習にいけるかも」
「そっか」
香織は教員を目指し、大学に通っている。……俺とはまるで違う、恐らくは実りある日々。確かに足を踏み込んでいる感覚があるであろう毎日。
「香織は、良いよな……」
ぼそりと呟いた俺のセリフを香織は聞き逃さなかった。
「カズ君?」
「ん?」
「こっち向いて」
膝枕の上の俺の頭を軽く押し、香織はまっすぐに俺を見た。
「カズ君?」「ん」
「……あたしは良いよなって、何……?」
香織は、怒っているようだった。
「な、何って……」
香織の純粋な目が、俺を貫く。
「あたしね、要領悪いしトロいから、だから頑張らないとついていけないの」
「…………」
「高校の時からカズ君は全部投げちゃった。漫画も、イラストも、進学も、就職も。そして今だってダラダラしてるだけじゃない」
「そ、れは……」
「カズ君の病気は知ってる。でもそれは今のカズ君の理由にはならないよ?」
「…………」
「あたしだって、明日死ぬかもしれないんだから」
「そ、それは……」
「そんなのは詭弁かもしれないよ?でも事実。あたしは今のカズ君に羨ましがられる筋合い無い」
「…………」
「頑張ろうと、してよ。しようよ。カズ君。こんなボロクソに言いながらもカズ君の家に来て、ご飯作って。あたしが何でこんな事してるか、わかる?」
「…………香織」
「コレ……覚えてる?」
からん、と音がして、カプセルの入った缶が目の前に出される。
「……ああ」
「あたしがコレ、川に落としちゃって……そしたらカズ君、川に入って取ってくれてさ」
「ああ」
「そん時こう言ったんだよ?『目に見えてる内にあきらめるな馬鹿』って」
そんなセリフを、
言っただろうか。
当時の、
俺は。
……香織は黙った。
今まで、いつになく熱に浮かされたように喋っていたのが嘘のような沈黙。
ただ、目はじっとこちらを見ている。
「……香織」
「ん?」
「俺な、たぶん」
「ん」
「……怖いんだよ」
「…………」
「夢中になってさ。それが楽しくて楽しくて仕方が無い時に、死んじまう……そんなのが怖いんだよ」
「馬鹿」
優しく、香織は俺の頭を撫でる。
「だからだよ。いつ死んだってここまではやれたって、笑って後の人に託せるようにならなきゃ。そういう風に頑張らなきゃ駄目じゃん。後悔なんて無い人生なんて無理だけど、せめて笑って死ねなきゃさ」
「…………」
いつから、コイツは。こんなに、強く、なったなか。いつから、俺は。ヘタレて、逃げるばかりになったのか。
「香織……」
「いいの。私は平気。カズ君が頑張る姿知ってるから。またあれを見れる日が来るって思ってる。ちょっと待ちくたびれてるけど」
「香織……」
ぴぴっ。電子音に、時計に目をやる。
「い、一時!?」
「あーもーそんな時間?」
「そんな時間?じゃねーよ!!お前どーすんだよ、帰れねーだろ!?」
「んー、ま、仕方無いよー」
あははと笑う香織の姿は、
昔から変わらないようで、
変わったようで。
幼い日、ハッパをかけた俺と立場がまるで逆だけど。
俺らは当時のように、こうして一緒にいる。
「……香織」
「ん」
どちらからともなく、俺らは唇を重ねた。
「んッ……、ちょ、やだ……」
「何が?こんなに濡れちまってるじゃねーか」
「馬鹿ッ、あ、……んンッ!!」
月並みなセリフしか出ない。
ありきたりな想いしか出ない。
でも、間違いなくそれが本心で。
俺は香織を抱き締め、愛撫する。
互いに狭いソファーベッドの上で、丸で猫がじゃれるかのように睦み合う姿は、滑稽かもしれないけど。
俺達は愛し合った。
「ちょ、……やッ、それ、駄目……」
「ヤベ……もう、我慢できねぇ……、挿入て……イイか?」
「ん……」
一つに、なる事が、嬉しい。そう心から思えた。
「ん、んあッ、ああッ、〜〜〜〜ッ!!」
「く、ぅッ……気持ち、イイ……」
「あ、ああ……カズ君、カズ君ッ……」
「う、ごかす……ぜ……」
お互いに、大した経験も技術も無い。故にか、たちまち限界は訪れた。
「香織、悪ィっ、も、もうッ……!!」
「あた、しも……んァあッ!!」
「ぅ、くぁッ!!」
最後の理性のかけらでなんとか引き抜き、俺は香織の身体を白く汚した。互いにぶるぶると暫く震え、そしてそのまま抱き合い、眠りに落ちた。
なぁ、香織。
俺は馬鹿だよ。
しかもヘタレだよ。
でもな、やっぱり男だからさ。
意地があるんだよ。
大事な、がむしゃらになれる事。
やっと、一つ見つかったよ。
なあ、香織。
ガキの頃から。
お互いそばにいてさ。
わかんねー事なんて無いかと思ってもそんな事は無いんだよな。
なぁ、香織。
なぁ、
かお……
「カズ君!!」
私の机の引き出しには、缶が一つ入っている。「快傑!!ネッケツマン」というアニメのキャラクターが浮き彫りにされたその缶の中には、今でも青いカプセルが入っている。
……教師となって数年が立つが、いまだ挫ける事が多い私。そんな私の、お守りだ。
カズ君。見ていてくれますか、聞いていてくれますか?
私は、元気に、出来るだけ悔い無く、毎日を過ごしています。
カズ君。
……ねえ、カズ君。
「ねえ、カズ君。
私たち、上手く行くかな?」
「そこも努力すんだろ?お前の言い分なら」
「ん、そだね……ふふ」
擦り寄る私。照れくさそうな彼。
ごめんなさい、私はまだ時々こうして泣いてしまうけど。
カズ君。
私は、元気に、必死で、やって行くから。
次に会ったら、お互いに笑顔で。
カズ君。
ねえ、カズ君。
<了>