『ラピスラズリ』
第一章
午前の講義を終えて私は急ぐ。
厨房に入ってしばらくしてそこから飛び出すと先ほど以上の勢いで今度は裏門を目指す。その手に抱えているのはお手製のランチだ。
「アンナに料理なんてできるのかい?」
そう言ったあいつを見返したくて城のシェフに無理を言って、昨日の内から準備をし始めて、つい先ほど完成したもの。
なんでもそつなくこなす姉のテレジアと違って自分は、決して器量がいいとは言えない。厨房は戦場の如く乱れ、今は給仕人たちが後始末に追われている頃だろう。
そもそも王族なんだから料理をする必要なんてないんだしと思って、今までは姉のスイーツ作りの誘いもことごとく断ってきた。しかし、
「絶対見返してやるんだから……」
幼馴染みのヨハネに焚きつけられては黙ってはいられない。
このお弁当がなくても今日は彼に伝えたい事があるのだ。自然に足取りは軽くなり、城の裏門を出る頃にはすでに駆け出してしまっていた。
城の正面には大きな城下町が広がっているが、裏門のほうはすぐに山林に至るためそれほど人の手は入っておらず人影は皆無だった。
もっともこの姿を見られたところで、またおてんば姫が何かやってる、と呆れられるだけで呼び止められもしないのだが。
小川を飛び越えた先、城と山のちょうど中間の小高い丘の上に目標の場所はある。
急斜面は視界の半分が青く染まるほど。
「ちゃんと整地しなさいよね、まったく」
悪態をつきながらも足取りが緩まる事はない。土に着くドレスの裾も今日はいつも以上に気にならない。
鼻腔をくすぐる甘い匂いと周りを飛び交う蝶々たちが目指す所が近い事を教えてくれる。
斜面を登りきる。目の前には一面の花畑。
築城のとき本来ならこの辺りまで範囲を伸ばすつもりだったらしいのだが、そこは貧乏領主。
見事に計画は頓挫し中途半端に整地した土地は野生の植物と、人の手による観葉植物が入り混じる節操のない花畑になっている。
その中心、打ち捨てられた作業小屋におっかかるようにして彼はそこにいた。本を手にしているがそれを読むでもなく、ただ目の前の花を見つめ静かに佇んでいた。
その仕草に思わず鼓動が高まってしまう。運動によるそれとは明らかに異なる動悸。
少し悔しい。本当なら彼にこういう想いをさせて、自分は高みから見物というのが主従関係に基づいた正しい関係だろうに。
悔しい。
だから駆け出して、
「ヨハネー!!」
名前を呼びながら彼に思いっきり飛びついてやった。
ごん、とあまり好ましくない音が聞こえた。
抱きついた胸から顔を上げて、彼の様子をうかがってみる。
「つっ〜〜〜ぅ……」
頭を抱え悶絶するヨハネ。どうやら抱きついた反動で後ろの壁に頭をぶつけてしまったらしい。
いい気味だ。分不相応にも私をあんな気持ちにさせるからそういう天罰が下るのだ。十字を切って神様に感謝。
「いきなり何をするんだよ!」
「あら、お姫様の熱烈な抱擁を受けての第一声がそれ? 臣下としての身分をわきまえなさい、ヨハネ」
「じゃあ君はもう少しお姫様の自覚を持ってくれよ、アンナ」
皮肉を返しながらも、ヨハネの腕は私の背中に回されてる。それだけで私の中は満たされてさっきまでの意地悪な気持ちはどこかにいってしまった。
「あはは、ごめんね。急いでたから。そんなに痛かった?」
「うん。目の前を火花が走った。凄い威力だったよ……ひょっとして少しふとっ」
「それ以上言ったらここより綺麗なお花畑に連れてっちゃうわよ?」
また別の私が顔を出す。ヨハネの顔が引きつっていく。
「アンナ……冗談だから、その壮絶な笑みを引っ込めてくれ。怖すぎる」
「あなたが悪いのよ。変な事言うから……っとこんなことしてる場合じゃなかった」
私は右手で持っていたランチボックスを……あれ? さっきまであったはずなのに今私の手は空だ。きょろきょろと辺りを見回す。
「あー、ひょっとして探し物はあれかい?」
ヨハネが指差す先、私の後方にランチボックスは無残にも打ち捨てられていた。
そうか、さっき飛びついた時に落としてしまったのか。いそいそと拾いに行き、箱を覆っているクロスを解く。何もはみ出してはいないし、どうやら中身は無事のようだ。
「何それ?」
ヨハネが不安そうに訊いてくる。
「お弁当」
「お弁当?」
「お弁当」
「誰の?」
「私とヨハネの」
「作ったのは? テレジア?」
「姉さんは今病床だもの」
「じゃあ、城のシェフ?」
なんだか会話を重ねていくごとに、ヨハネの声がトーンダウンしていくような気がするのだけれど。
「私」
「…………」
「わたくし、アンナがヨハネのお弁当を作ってまいりました」
妙な間が私とヨハネの間に流れる。ヨハネはすくっと立ち上がると、
「さあ、午後は武芸の訓練があるから急がなくちゃ」
そんなことを言って歩き出そうとした。それを、
「待ちなさい」
腕を思いっきり引っ張ってこちらに引き寄せる。
「あなたこの前なんて言ったか覚えてる?」
目の前にヨハネを強引に座らせ、私はその前に鎮座して彼を問い詰める。少し考えて彼は、
「テレジアの焼いたクッキーはおいしい」
「その後」
「今度会えるのは三日後の昼休みからだね」
「その前」
「えーと……」
「もう、いいわ。私が説明してあげる。あなたが姉さんのクッキーをあんまりほめるもんだから、
私だってそれぐらいできるわよって言ったの。そしたらあなたったら、アンナに料理なんてできるのかい? そう言ったのよ」
「そうだっけ」
「そうよ。だから今日はお弁当を作ってきたわけです」
すっ、とランチボックスをヨハネの目の前に差し出す。手でふたを開けるジェスチャーをしてヨハネに先を促す。彼は目を一度閉じて、勢い良く私の手作り弁当と対面した。
「あれ?」
その第一声がこれだ。さっきもそうだったがこの男時々凄く失礼だ。
「あれ? って何よ?」
「いや、意外にまともだなって思って……多少盛り付けが乱れてるけど、ちゃんと火は通ってるみたいだし、いい匂いもする」
主従関係をわきまえない物言いに腹が立つがそれはおいておく事にする。今は一刻も早くお弁当を食べて欲しい。
そんな私の気持ちを感じ取ったのかヨハネはおずおずと手を伸ばし、それでも最後は一気に料理を口に運んだ。
もぐもぐと咀嚼して、ごくりと飲み込む。そんな彼の動作を見ているとなんだかとても幸せな気分になれた。
「……おいしい」
そうしてヨハネはやっと私の満足する答えを返した。少し自信がなかっただけにその反応は本当に嬉しかった。
「あったりまえじゃない! この私が作ったものがおいしくないわけないでしょ!」
それでも動揺は見せまいと虚勢を張る。ヨハネはというと、
「特別おいしいというわけではないけど、十分に及第点というか、期待してなかっただけにおいしさ倍増というか……この際城のシェフの味付けにそっくりだという事は黙っておこう」
なんだかぶつくさと独り言をつぶやいていた。いまいち釈然としなかったが、おいしいと言ってくれた事だし、まあよしとしよう。
そうして二人きりのランチタイムとしゃれ込み、すっかりランチボックスを空にしたところで、のどが渇いたのでヨハネに水を汲みに行かせ、
その後は二人で寝転んで何をするということもなく、初夏の暖かな日差しの中でただ呆然と空を眺めていた。
「ヨハネ」
唐突に話しかける。ヨハネは「ん?」と呼びかけに応えこっちを向く。
「好きよ」
「僕もだ」
短いやり取り。それでも私達の想いは十分に通じ合ってる。手を動かし彼の指先に触れる。握り返される指。その確かな感触に自分がとんでもない幸せ者だと自覚する。
「話があるの」
「なんだい?」
一回息を大きく吸い込んで、それから今日の本題を口にした。
「姉さんの結婚が正式に決まったわ。予定通り相手は隣国のカール皇太子」
「……おめでとう」
そう言ったヨハネの口ぶりは暗く、心から結婚を喜んでいるのではない事が伝わってくる。正直私もこの結婚には賛成できない。
「大国との縁談だ。これでこの国も安泰かな」
全く気持ちのこもってない口調。ヨハネもきっと私と同じ気持ちなのだ。
「そうね、でも私は納得できない。姉さんにも想い人の一人ぐらいいるでしょうに、こんな政略結婚……姉さんが可愛そうよ」
「しょうがないさ。こういう時代だ。君の父上も国の未来を案じて出した結論だろ」
「でも姉さんの未来はどうなるの? こんな望みもしない相手との契りなんて私だったら堪えられない」
声を荒げてしまう。跡取りの男児が生まれなかったこの国を守っていくにはそれが最善の方法だと頭では理解できても、心は静まってくれなかった。
「テレジアの未来がどうなるかなんて誰にもわからないさ。彼女は賢く優しい人だし、誰からも好かれる。強国の女王としてそこで新しい幸せを見つけられるかもしれない」
それに、とヨハネは付けたし、
「これで僕達は無事に結ばれる事ができる」
核心に触れた。
そうなのだ。隣国との同盟が成立し、この国が安定すれば私のヨハネとの結婚も認められる。王女と一家臣の次男坊に過ぎない私達の十五年越しの恋が実る。
それは普段何の要求もしない姉さんのたった一つの望みでもあった。姉さんはことあるごとに、
「私は国のために生きます。でもアンナは彼女の想う人と結ばせてやってください」
とお父様に訴えていた。今回の結婚もお父様がその要求を呑む事で、姉さんも了承したのだ。
「だからよ、なおさら姉さんが可愛そうだわ……それに私さっきみたいな事を言っててもやっぱり、心のどこかで安心してる。
ああ、これで私はヨハネと結ばれるって、まったく嫌な妹よね」
隣でヨハネが立ち上がる気配がした。握っていた指はいつの間にか解かれている。さえぎられる陽光、目の前にヨハネの顔があった。
「でもだったら、いや、だからこそ僕達は幸せにならなきゃいけない」
「そう、よね」
頷いてみせる。それは姉さんの優しさに託けた都合のいい自己愛に過ぎない。それでも、姉妹の愛情よりも、国の未来よりも、どうしようもないほどに私はヨハネのことが好きなのだ。
どんどん視界が暗くなっていく。彼以外何も見えなくなる。
つぶれていく花の上で、解かれた指は先ほどよりも強く握られていた。
キスの続きをせがんでくるヨハネ。胸に当てられた感触を拒絶しようとお腹を蹴飛ばして、距離を開ける。
「結婚するまでキス以上は駄目だって言ってるでしょーがっ!!」
「何だよ、今日は大丈夫だと思ったのにな」
ヨハネはお腹をさすりながら不満を漏らした。
まったくしんみりとした雰囲気にすっかり油断してしまった。こともあろうに婚礼前の娘の懐に手を入れようとするなど何を考えているのだ。
しかもこちらはプリンセスだ。無礼にもほどがある。
「絶対駄目なんだからね」
ちぇっ、と舌を鳴らすヨハネに近づく。
「今はこれだけで我慢して」
今度は私から唇を重ねた。そのまま彼を後ろに押し倒す。私達は抱き合って、花畑を転がる。汚れていくドレスも、乱れていく髪も気にならなかった。
互いの温もりと唇の感触を堪能した後は仰向けでまた空を見る。私はこうやって空を見上げるのが大好きだった。
流れていく雲、咲き誇る花の薫り、肌をくすぐる草の感覚、繋いだままの手から伝わるヨハネの鼓動と温もり。その全てがどうしようもなく心地よかった。
「それにしても急だな」
心地よさのあまりまどろんでしまっていた、意識が呼び戻される。
「んー、何が?」
「テレジアの結婚が、さ。彼女最近体調を崩してるんだろ? 何もこんなときにそんな事決めなくていいだろうに」
「それは、そうだけど……お医者様の話じゃそれほど酷くはないみたいだし、父様もこういうことは早いほうがいいって」
私もそれは気になっていた。でもただの風邪だという話しだし、なにより今朝の姉様はそれほど体調が悪いようにも見えなかった。
「それならいいんだけど」
なんだか急に不安になってきた。私はそれを打ち消そうと、
「ねえ、街に出てみない? 最近南からのキャラバンが来たらしくて、城の給仕たちが噂してたの。何か珍しいものが見れるかも」
無理やりにも明るい声を出した。
「ああ、それは面白そうだ。早速行ってみようか?」
ヨハネは勢いよく体を立ち上がらせる。手を繋いでいる反動でこちらも半身を引き起こされた。
「さあ」
彼に習って私も立ち上がる。そして二人で駆け出した。その足取りは軽く、先ほどまでの不安はすっかり薄れていた。
街の真ん中に位置する広場、城への通りのすぐ近くにそのキャラバンは屋台を構えていた。人々がごった返す中やヨハネと二人で歩いていく。
「や、姫様。ごきげんよう」
「ああアンナ様、こんにちは」
街の人たちも馴れたもので王女である私が現れてもなんら驚いた様子もない。こちらも気さくに挨拶を交わし、屋台に近づいていく。
「わあ、綺麗ね」
どうやらここは貴金属や宝石を扱っているらしい、遠方からのものなのか王族である私ですら目にしたこともない珍しいものが並んでいる。
「うん。本当に綺麗だ……ひょっとしてここにあるものは新海路から来たものなのかな?」
「いや、今回持ってきているものは陸路、東南からのものがほとんどだよ」
ヨハネの疑問に答えたのは店番をしている青年だった。一見したところまだ年若い。私達からほんの二、三歳しか離れていないだろう。
「あなたこのキャラバンの一員なの?」
「ああ、こっちに来るときはよく同行させてもらっている」
「ふーん……」
先ほどよりもじっくりと観察してみる。行商をしているわりには綺麗な肌をしているし、物腰も柔らかだ。それに着ている服も旅商人のそれではあるが高級感漂う生地を使ってる。
大方どっかの大商人の後取りか何かで今は修行中だったりもするんだろう。
南方は例の大国の領土を越えれば商人の領域だし、ひょっとしたらそのあたりの出身かもしれない。
「こっちの宝石も綺麗だなぁ。ねえアンナ?」
ヨハネの声で意識が宝石に戻される。南方からの奇妙な来訪者は気になったが、それよりも今はこの宝石たちの方が重要だ。
ふと、視界の隅に移った宝石に目を奪われた。それを指差しながら話しかける。
「ねえヨハネ、あれって……」
「ああ、あの丸くて青いの?
……なんだろう? サファイア、じゃあないよね。なんていうか……」
青い、深い青色。もはや藍との区別がつかないほど色が濃いのにそれでもどこか透明性を持っている。それに白や金色のまだら模様が混じっている。だからそう、まるでさっきまで眺めていた、
「空のかけら、みたいだね」
ヨハネの言葉に驚いてそっちを向く。
「私もそう思ってた。まるでさっきまで眺めてた空みたいだなって……」
「僕もだ。同じこと考えてた」
世界中に二人だけしかいなくなったような錯覚に襲われる。
「ヨハネ」
「アンナ」
見つめ合う。彼の碧眼の中に映る私の顔、そして私の金髪、それはまるであの宝石みたいで、
「はははっ」
吸い込まれそうになったところを素っ頓狂な笑い声が呼び止めてくれた。
余計なことを……。
「二人とも仲が良いんだね。それに石を見る目もある、サファイアってのもあながち間違いではないし、それにその比喩、まるで古代の学者だ」
「古代の学者?」
「ああ、古代帝国の博物学者はこの宝石のことをこう呼んでる“星のきらめく天空の破片ってね。もっともこれは夜空のことを指してるんだけど……。
うん。なるほど、そういう見方もある。色々な用途、色々な姿を持つのがこのラピスラズリの特徴でもあるし」
ラピスラズリ? 私はその聞きなれた名前に驚いた。
「ラピスラズリですって? この綺麗な宝石が?」
城にもラピスラズリを使った装飾品はいくつかある。しかしそのどれもがこのような綺麗な姿ではなかった。なんだか煤けたぼんやりとした印象しか与えられなかった。
「言ったろ、いろんな姿があるって。こんなに綺麗な色合いと模様のものは結構珍しいんだよ。もっとも交易路の発展のおかげでそれほど価値は高くないけどね」
へえー、とヨハネと二人して感心する。同じ宝石でもこうまで印象が変わるものなのか……。
「気に入ったわ、これ頂くわね。おいくら?」
「代金はいいよ」
「は?」
「ああ、失礼しました……」
ここで店番の青年はわざとらしくかしこまり、咳払いをすると、
「お代金など受け取れません。第二王女アンナ様」
そう仰々しく言ってのけた。
「気付いてたの?」
「別に隠してもなかったでしょう。この国のアンナ王女様はとんでもないおてんばだと話には聞いていたけど、
いや、実際その通りでしたね。一人しか護衛もつけずにこんなところにくるなんて」
かんらかんらと笑いながら青年は無礼な口をきく。正直少し腹が立ったが、それよりも疑問だった。
「なんでよ。それなら世間知らずのお姫様に法外な値段をふっかけよう、とかは思わないわけ? 商売人根性が欠けてるんじゃないの?」
「思わないさ。ここではもう随分と儲けさせてもらったし、今回の行商は今日で終わり、帰りの荷物は少ない方がいい。そして何より、その宝石は君にふさわしい」
まだ少し言いたいことはあったがこれでは素直に受け取るしかない。
「ありがとう」
そうお礼を言ってそのラピスラズリを受け取った。すると彼は肩をすくめ両手を上に向けると、
「あー、お礼はいいからその御付の彼をどうにかしてくれないか?」
そんな変な事を言ってきた。
「ヨハネを?」
横を見れば普段は温厚なヨハネが鋭い目つきで青年を睨んでいた。視線を下げればその右腕は剣の柄を握っている。今にも切っ先を目の前の男に突き出しそうだ。
まったく、こういう時の忠誠心は人一倍なのだから。
「ヨハネ、控えなさい。もう用事は済んだのだから戻るわよ」
騎士に接する王女の口調で私はヨハネを制した。すっと彼の体から緊張がとかれる。
「わかったよ、アンナ」
彼のいつも通りの返事を聞いて、私は微笑む。そうして最後に店番の青年に別れを告げ、広場を後にした。
「お幸せに、お二人さん」
遠くからかけられたその言葉で、ヨハネがまた不機嫌になったのは言うまでもない。
「ねえ、なんでさっきはあんなに怒ってたの? 確かにあの人の態度は褒められたものではなかったけど」
広場から城への帰り道、私はヨハネに理由を問いただしてみた。
「なんでも何も、一国の王女に向かってあの態度は無礼すぎるよ」
「でもあの人最初っからあんな感じだったじゃない、なんでまた急に」
「最初は気付いてなんだからしょうがないって思ってた。でもあの人は気付いてたんだ。
それなのにあんな態度……君に仕える騎士としては許せない」
ヨハネの言う事はもっともなのだけど、建前ばかりで本音を隠してるような気がする。
「でも街の人だって似たようなものじゃない。あの人たちみんな私のことおてんば姫って呼んでるわよ」
「親しみを持つ事と無礼な事とは違うよ。街のみんなそう言いながらもちゃんとアンナに敬意を払ってる。でもあの人の口ぶりはまるでアンナを見下すようだった」
「そう? 私はそんな気は特にしなかったけど」
私の言葉にもヨハネは、
「いや、彼は無礼すぎた」
と語気を荒げた。
やっぱりおかしい。あれぐらいの言葉でヨハネがそれほど腹を立てるとはどうにも思えなかった。私はもう一歩踏み込んで訊いてみる。
「本当はそれだけじゃないでしょ? あなたが丸腰の旅商人相手に剣を握るなんてありえないもの」
「…………」
気まずそうに沈黙するヨハネ。
「答えなさい、ヨハネ。これは王女としての命令よ」
口調はあくまでもアンナのままで私は彼を詰問した。
「……あの人、宝石を渡すとき直接アンナに渡した。その時君の指にも触れた」
「へ、そんなことで?」
意外なヨハネの言葉に間抜けな声を返してしまう。
「そんなこと、なんかじゃない。旅商人風情が王族である君に触れるなんて本来あってはならないことだ。
君も軽率すぎる。あの時は僕が近くにいたんだからそういうことは僕を通すべきなんだ」
大層な言い分ではあるが、つまるところヨハネは、
「妬いてたんだ」
騎士としての忠誠心、そして恋人としての愛情の両方からヨハネはあの青年を睨んでいたわけだ。
横を歩くヨハネは何も言わなかったが少し早くなった歩調がその推測が正解である事を示していた。
「それにしても剣を抜こうとまでするなんて、少しやりすぎよ。あのときのヨハネったら模擬戦のときよりおっかない顔してたわよ」
その何気ない一言にヨハネは歩みを止めこちらを振り向いた。
すでに傾き始めた太陽に照らされたその顔は息を呑むほど真剣な表情だった。
「帯剣していた」
「え?」
「アンナはさっき丸腰っていったけど彼は帯剣していたよ」
突然のことで思考がまとまらない。大体彼はどこにも刃物なんて身に付けてなかったと思うのだけれど。
「腰の後ろの方、正面から死角になるところに、多分短剣を差していた。
始めは気が付かなかったけど、宝石を取りに行くときの体の重心がおかしかったから」
良くない想像が頭を過ぎる。武力の象徴である刃物をわざわざ死角に隠す、それの意味するところは……。
「あん、さつ?」
こくり、とヨハネは頷く。
「僕もそう思った。だから少しでもおかしな動きをしたらいつでもその首をはねてやるつもりだった」
背筋が凍る。王族として育ってきたからにはこういうこともありえるだろうと覚悟はしていたが、まさか本当に……。
「か、考えすぎじゃないの、ほら彼の屋台は貴金属を扱ってたしそれで護身用に、とか」
焦燥感のせいか声が上擦っている。そんな私を見てヨハネは大きく息を吐くと、
「多分ね。交易路が整備されているといってもこの辺は未だに物騒だし。
遠方からの旅なら短剣の一つや二つを身に付けているのはむしろ当然といえる。
何より彼はそんなそぶりは微塵も見せなかった。今考えれば過ぎた心配だったと思うよ」
そう言って、いたずらっぽい微笑みをこちらに向けた。
「へ?」
「いや、ごめん。もう少しアンナに王女としての自覚と慎ましさを持ってもらいたくてね。ちょっと意地悪してみた」
張り詰めていた糸がぷつりと切れた。脱力感、次いでわきあがってきた感情は岩をも溶かすような激しい怒り。
「ヨハネーーっ!!」
私が叫び走り始めたとき、ヨハネはすでにトップスピードへ達し城の庭園へと向かっていた。
今日三度目になる全力疾走。それでも疲れた感じは全然しなかった。
なだらかな上り坂を進み街と城を隔てる川を越えれば、そこは色とりどりの花に飾られた正面庭園だ。今の季節は特に薔薇が綺麗に咲いている。
でも私達がそこまで行く事はない。
庭園にはいつだって人が多いし、ヨハネと一緒にいるところを見ると、城のみんなはいい顔をしない。
走ってきた私達は橋を渡り終えると斜面を下って川べりに向かう。
「待ちなさいってのっ!」
声を張り上げる。下り坂にもひるまずスピードは緩めない。それがいけなかったのか、
「あっ!」
少し大きめな石に躓いてしまった。
それでも私の体が地面に着く事はない。当然のようにヨハネが私を支えてくれていた。
「お気をつけくださいませ。アンナ様」
彼はわざとらしく言ってそのまま私の体を持ち上げた。
「ひゃっ」
膝と脇に手を差し込まれる形で抱き上げられる。少し不安定な感じがして怖い。
「な、何をするのよ! 降ろしなさい!」
「そういっている割には君の腕は僕の首に巻きついているんだけどな」
さっきはずみで抱きついてしまったのだ。決してヨハネのことを許したわけでも、こんな抱かれ方が好きなわけでもない。
私の更なる抗議の声も無視してヨハネはどんどん進んでいく。結局私が降ろされたのは橋の下に至ってからだった。
「はい、到着しましたよ。お姫様」
「到着って何よ。あれぐらいじゃ、さっきのことは許してあげないんだからね」
「ごめん。ほら、なら昼のあの体当たりでおあいこってことで」
「あの借りはお弁当で返したでしょ! 今度はそっちが返す番なんだから」
ヨハネはやれやれと首を振って呆れたように笑った。そして、
「じゃあ、これで」
唐突に私の唇を奪った。
「んっ」
お昼のキスとは違う。私の中にヨハネの舌が侵入してくる。
「やっ、ちょっ……ん〜〜」
後頭部を抑えられて私の逃亡はあっさりと阻止される。それで、もう逃げようという意思はなくなった。
私の方からも舌を伸ばしヨハネの口内を愛撫する。
「ん、ちゅっ、ふぅ……はぁっ」
舌を吸いあって、唾液を送りあう。
まるで耳のすぐ後ろに心臓があるかと錯覚するぐらい鼓動が高まっていた。頭に血が上って意識が霞みがかる。
気持ち良い。こうやってヨハネと深い口付けをしているだけで下腹部は疼きを覚え、私の奥の方は潤ってしまう。
ひょっとしたらズロースにはすでにしみができているかもしれなかった。
長かったキスはそれでも終わってみれば刹那の出来事のようだった。離れていくヨハネの感触が名残惜しくて舌を伸ばす。
そんな醜態を見られたことが恥ずかしくって私は地面を睨む。
「可愛いなアンナは」
今度は正面から抱きしめられる。私は抱きしめ返すか一瞬迷ったけれど、やっぱりそれは一瞬だった。
気付いたら私の腕はヨハネの背中に回されていた。
橋の下で涼しいはずなのに、二人分の熱のせいで私の肌はじっとりと湿っていた。
「ヨハネはずるいよ……いつも」
そうだヨハネはずるい。自分はいつも飄々としていてあせった様子もみせないのに、王女である私をこんな気持ちにさせるなんてずるい。
「そんなことないさ」
ぐいっと胸に引き寄せられる。聞こえてきたヨハネの心音は私に負けないぐらい高まっていた。
「僕が普段どおりに見えるのはアンナと会っているときはずっとこんな感じだからさ。
十二年前の君の誕生日に初めて会った、そのときからずっと」
やっぱりずるい。こんな事を言われたらもう何も言えなくなってしまう。
私はせめてもの仕返しにと、彼の背中に回している手に目一杯力を込めた。
夏だというのに橋の下はひんやりと涼しかった。
あの花畑と並んでここは私のお気に入りの場所だった。橋のおかげで二人の姿が見られることもなし、わざわざこんなところに下りてくる物好きもいない。
たまに上を通る馬車の車輪の音が聞こえるだけで、城と街の中間点であるこの場所はとても静かだった。
キスの後は二人で座り込み他愛のない話をして、笑いあった。
太陽の光で水面が紅く染まりだしたころ、私達は立ち上がって城に向かった。
橋の側で私はここまででいいと言ったのだけれど、ヨハネは騎士の義務だからと言って正門まで送ってくれた。
「今度会えるのは五日後の昼からだから」
「ああ、わかったよ。あの花畑で待ってる」
いつも通りの約束を交わして私たちは別れた。
そして、
その約束が果たされることはなかった。