/その一。  
 
 白球が、夕空をカッ飛んでいく。  
 沈む朱の太陽に向かって、夏の風を切り裂いて、伸びる。  
「おおー……こりゃあ、ホームランかな」  
 後出しジャンケンのような予想をして、反対側のフェンスを越えた打球を見送る。  
 実にいい打球であった。いち野球ファンとしては、あのバッターが野郎でないことに涙を禁じえない。  
「……衣鶴、男だったら本当にいいバッターになってただろうに……」  
 いや、実際にとんでもないバッターだが。  
 ため息を吐き、バッターボックスを見る。  
 そこにいるのは、ヘルメットの下から髪の毛を少しだけはみ出させる女だ。  
 身体は西日に照らされる位置にあり、白球を次々にカッ飛ばしている。  
 打球感覚を刻み付けるための練習だ。この距離では表情までは見えないが、上下する肩や、ふらつき始めた下半身が疲労を物語っている。  
 名を、海老原・衣鶴<えびはら・いづる>。  
 この地方で最高とも言われる強打者<スラッガー>。女子としてはかなりの長身であり、百七十八センチの俺と視線がほぼ合う。  
 ……一応俺の方が高いが、それでも一時期はかなりひやひやしていた。  
「まだ伸びてるとかは言わんよな……」  
 十八年の人生、その内実に十六年を共にしているが、身長で勝てるようになったのは中三の時期だった。  
 ちょっと前に、身体検査の結果を聞こうとして、セクハラだ、とグーで殴られたのは実にいい思い出だ。その時に欠けた奥歯は、手加減無しだったという証拠として彼女の母親に提出済みである。  
 と、再度の快音。  
 彼女のスイングは、全身の力で豪快に振りぬく動きだ。俗に言うフルスイングだが、彼女がそうでない時など、俺は見たことがない。  
 ……デカい乳を無駄に振り回すスイングなので、密かに『巨乳打法』なんて呼ばれているのは――知らぬは本人ばかり。この高校における公然の秘密なのであった。  
 とにもかくにも、打球は地面に対し仰角四十度。これが悪夢でもない限り、再度のホームランは確実だろう。  
 今度の打球はセンターへと落ちてくる。バックスクリーン直撃、と呟いて、寝転がる。  
「……熱血女め」  
 ため息を吐いて、目蓋を閉じる。  
 ……三年生の、夏。彼女にとっては、最後の戦い。  
 大学生になってもやれるだろうに、彼女は、ここで己の身体をブッ壊そうってくらいの練習を重ねている。  
「だいたい、自分で『練習終わるまで待ってろ』って言っといて居残り練習するってのはどうなんだよ……」  
 深くため息を吐いたところで、鈍音と振動が来た。発生は至近。やたら重い音だった。  
 どうやら、こちら側にホームランをカッ飛ばして来たらしい、と目を開いて確認する。  
 立ち上がり、思いっきり叫ぶ。  
「ア・ブ・ないだろコラぁーッ!!!」  
「そんなところで寝てるお前が悪いんだろーっ!!」  
「責任を人に擦り付けんなぁーッ!!」  
 
「黙ればかーっ!!! どこぞの萌えキャラと同じ名前のくせにーっ!!!!」  
 ……いや、不毛だ。実に不毛だ。だがしかし、分かってても止められないのが喧嘩であろう。  
 居残り練習なんで、止めてくれる人がいないのもヒートアップに加圧をかける。  
「アレはこっちが先出しだ超絶アホーッ!!」  
 ……いや、さすがはスポーツマン――あ、女だったらどう言うのか。とにかく、走りながらの声出しは伊達じゃないらしく、叫び声は大きくなるばかりだ。  
「こ・の・ドレッドノート級凶悪犯罪ばかぁーっ!!!!!」  
「分かった黙れ今そっちに行く!!!」  
 不利を悟って叫び返し、バックネット裏へと走っていく。  
 高校に入って二年と半分。運動らしい運動を続けていなかったため、速度も持久力も落ちている。  
 ヘンに暑い西日もあって、フェンス越しに衣鶴と正対した時には汗だく、息も切れていた。  
「……ぜー、ぜー、はー、ふー、はー、はぁ……」  
「…………」  
 フェンスによしかかって、息を全力で整える。  
 無言が重い。というか、理不尽だ。なんで私は怒ってますオーラ出してやがる。そんなに練習邪魔されたのが嫌なのか。  
 衣鶴の方が、悪い、……はずだ。  
 口の中にたまった不味いツバを飲み干して、衣鶴の目を睨みつける。  
「……あー。衣鶴。いつ帰るんだ? 明日の試合に備えて今日は休めって先生言ってたんじゃないのか?」  
「まだ明るい」  
 ……昔からたまに思っていたが、何のてらいも無くスパッと言えるコイツはひょっとして本物か。色んな意味で。  
「あのな。ボール拾いの時間もあるし、お前、シャワー浴びないと結構汗くさいぞ。夜道は危ないし――」  
「と言うと思って、待ってもらってたんだ」  
 ……なにやら不思議な言葉に、首を捻る。二秒後に納得が来た。  
 ああつまり、この女は、護送とパシリに俺を使おうという腹か。  
「じゃあ俺帰るからな」  
「まあ待ってよ、こなたん」  
 フェンス越しに腕を掴まれた。  
 制服ごしに来る感触は、全然女らしくない硬さ。マメでガチガチの、バッターの掌だ。  
 ……万一にでも怪我させては困るので、抵抗をやめ、ため息を吐きつつ言う。  
「……こなたん言うな。此方だ。雲野・此方<うんの・こなた>だ」  
 このやり取りも何度目か。  
 コイツだけはこなたんと呼ばないと信じていたのに、いつの間にかクラスに溶け込んでいたのであった。  
「とにかくだ。お前、いい加減やめろよ。もう六時半になるぞ? 今日はミーティングだっただろ。今までの努力が徒労に終わっていいってんなら止めないけどよ」  
 もっとも、コイツの努力は、他人の努力を徒労と化すための努力に他ならないが。  
 知り合いじゃない人間に心を動かせるほど有情ではないので、その辺はキレイサッパリ忘れておく。  
「徒労になんか終わらない。勝つ」  
「……言い切れるのはいい事だがな、精神が肉体を凌駕するっての、期待してるならやめとけよ。お前も分かってるだろ、こんな、一時間や二時間の延長じゃ、微々たる効果しかないってさ」  
 
「ばか。あたしはまだまだヨユーだ。このくらいの練習を毎日やってるから、このくらいしないと明日調子出ないよ」  
 自信満々――否。喧嘩腰だ。  
 自然、こちらもそれなりの対応になる。  
「熱血も大概にしろ馬鹿。明らかにオーバーワークだ」  
「熱血もって――」  
「とにかくだ」  
 ここでの熱血は必要ない。勢いを殺ぐため、かぶせるように言う。  
「とにかく、休めよ。今日はもう」  
「……ん」  
 つかまれていた腕が放される、――と言うよりは、力が抜けて離してしまった、の方が正しいのだろうか。  
 彼女は、化粧っ気がほとんど無い、よく日焼けした顔を伏せた。  
「先にシャワー浴びてこいよ」  
 ……言い終わった後で、状況によってはヤバくエロいセリフだと気付く。  
 だが、衣鶴は気付かなかったのか、ごく普通の対応を返してきた。  
「……ありがと。なるべく早く浴びてくる」  
 部室棟に、彼女は駆けていく。  
 ……さて。俺に残された仕事は、カッ飛ばされたボールの回収だ。  
 下手に打ち損ねがない分、ボールは外周――フェンス際と客席に固まっている。  
 だが、数が数だ。衣鶴が戻ってくるまでに終わることはありえないだろう。長嘆しつつ、カゴを持ち、歩いていく。  
 ……こうやって後片付けを手伝うのも、何度目だろうか。  
 高校入学以前――中学、小学でも、同じようなことがあったな、と――その時の事を思い出しながら、俺はボールを拾い始めた。  
 
/その二。  
 
「暗くなったなぁ」  
「そうだな」  
 結局、全てが終わったのは八時近くになってからだった。  
 日は今頃、トルコあたりを全力で照らしているのだろうか――今ここにあるのは、街灯の頼りない光と、西の空に見える宵の明星だけだった。  
「お前、明日試合だろ……本当、馬鹿なヤツだな」  
「仕方ないじゃない、一球だけ見つからなかったんだから」  
 ちなみにその一球は場外までカッ飛んでいたのだが。気合入れすぎである。  
「……で。明日は勝てそうなのか? お前以外はぶっちゃけ弱小の、我らがソフトボール部は」  
 衣鶴が一瞬怒気を放つ。  
 横から風が押し寄せてくるような――肉体を放り出して、存在感だけが膨れ上がったような感覚だ。  
「……と。悪い。弱小は撤回する」  
「……いいよ。悔しいけど、事実だ」  
 ギリ、と歯噛みの音が聞こえる。  
 例え、衣鶴のようなオンリーワンがいたとしても――スポーツ漫画のように、上手くはいかない。  
 野球は個人競技ではない。チーム能力の総合値が高い方が勝つ。  
 ソフトボールについては門外漢だが、野球を基にした競技だ。その原則が変わる筈がない。  
 それに、明日の相手チームは、この地区で上位常連と聞いていた。  
「でも――明日は、勝つ」  
 だが、彼女は言い切った。  
「そう思わなきゃ、勝てる試合だって勝てない」  
「……そうか」  
 羽虫の焼ける音を聞きつつ、吐き出すように言う。  
「……お前、明日から最後の大会なんだろ。ベストを尽そうとしろよ」  
「だから練習してたんじゃない」  
 右を歩く衣鶴は、憮然とした声で言った。  
「ベストの定義が違うらしいな。……まあ、今言ってももう関係ないか」  
 千の距離を埋めるには、一歩を踏みしめていくしかない。  
 試合は明日であり、今更踏みしめの追加などできる筈がない。  
 ならば、歩みを全力で発揮できるよう体力を回復するのが常道だと思うんだが。  
 ……熱血が、いやに不愉快だ。昔は、俺もその熱血に浸っていたというのに。  
 だからか、言わなくてもいい一言が出た。  
「意気だけで勝てりゃ、苦労しないよな」  
「此方、」  
「いいだろ、もうさ」  
 横を見ると、衣鶴は、理解できない、と言いたげな顔をしていた。  
 疑問が怒りに変わる前に、言いたいことだけをさっさと言うことにする。  
「お前、ちょっと頑張りすぎだろ。勝つためにやるってのは分かりやすいけど、お前の練習に誰もついてこないってのを考えてみろ」  
 
「……どういう意味。空回りしてるって、言いたいわけ?」  
「ザッツライト」  
 ボディに拳が来たので避けた。  
「こんな時に茶化すな!」  
 怒号、と言うと豪傑らしすぎるか。  
 だが、その言葉に負けぬほどの迫力が、今の衣鶴にはある。  
 右拳を握り締め仁王立ち。柳眉は跳ね上がり、目にはなにやら殺意らしきものまで見える。  
「いやいや、ふざけてなんかいないさ。心配六割、皮肉四割ってところだが」  
 ……少し前に読んだ漫画を思い出す。  
 ある悪役は、過去、正義の味方だった。  
 そして、その周りの人間は、きっと正義の味方が助けてくれると思い込んで、何もしなかった。そうして、彼は悪役へと変貌していった。  
 実に悲しいワンマンヒーローだ。そいつの行為が最期まで報われなかったのも、哀れさに拍車をかけていた。  
「気づいてないフリすんのもやめろよ?」  
「うるさいっ、分かってる!」  
「分かってる、ねぇ――」  
 は、と笑う。  
 だが実際、ここらでフォローを入れておかないとマズいか。  
 明日、肝心なところでチームメイトを信頼できなくなって負けました、って漫画みたいなオチはやっちゃいけない。  
 ……それに、まあ。本気で殴られそうだし。  
「――いや実際、お前以外のは付き合いたくても付き合えないってだけだと思うけどな」  
 彼女のボルテージが最大値に達する直前に、そう言った。  
「……は?」  
「さっきのは、嘘と言うか、言葉を色々削っただけだぞ。だいたい、フツーの女子がお前についてこれるわけないだろ。体力的な意味で」  
 男子部活野郎でもついて行けないヤツは多いだろう。  
 なんだかんだ言って、愚直なまでの努力馬鹿なのだ。  
「身体的にはともかく、精神的には決して空回りはしてないぞ」  
 多分、と心の中で付け加えた。  
 ……殺気じみた怒気は、俯きに伴い雲散霧消。  
 や、助かったか、――と思った瞬間。右拳が握られたままであることに気が付いた。ちょっと遅かったが。  
「あぐがっ」  
 ――額に右拳がブチ当たる。フック気味のイイ一撃であった。  
 のけぞる俺。盛大に揺れる視界。脳自体が揺れているから当たり前っちゃ当たり前、と変な納得をする。  
「こ・の・おおばかぁーっ! マジで泣きそうになったじゃないかーっ!!!」  
「おおお、痛い! 痛いぞ衣鶴! 蹴るな! 汚れるから! 落ち着け!!」  
「黙れ! そして死ね!」  
 ……話は聞いてくれないらしい。  
 
 三十六計、逃げるに如かず――どんな計略でも、逃げてしまえば関係ないさHAHAHA、との言葉だったか。  
 蹴られつつも背を向け脱兎。近所迷惑にも叫びながら追ってくるソフト部エース。頑張れ俺、速度を落したら飛び蹴りが来る。  
「ふわはははははは!」  
 アドレナリンがドパドパと出てくるのを感じつつ、更なる前傾姿勢。  
 脚力、疲労度はおそらく俺が有利だが、コンパスはほぼ同じで、重量、心肺能力で衣鶴にアドバンテージがある。  
 まあ、つまりは負け確定。半分くらいは無駄な抵抗である。  
 曲がり角を高速でクリアし、カバンを使って姿勢制御。  
 見えるのは長い直線だ。  
 百メートルほど前方には俺の家があり、その向かいには衣鶴の家がある。  
 そう、ただ百メートル。その距離が、途方もなく遠い――!  
「だりゃぁーっ!!」  
 ――殺気!  
「うおッ!?」  
 アスファルトに飛び込むようにして、飛び蹴りを回避。  
 転がって起き上がった時には、眼前に衣鶴が腕組みをしつつ立っていた。  
 動作の気配はない。ただ、仁王像のようにそこに在る。  
 その意気、まさに天を衝く。背中は見えないが、天の字が浮かんでいそうな気がする。  
 ……えー、と思考の無駄クロックを認識する。  
 衣鶴との距離は一メートルもない。  
 その表情はどう見ても晴れやかな笑みで、しかし背負う雰囲気は戦慄しか呼び起こさない。  
 この間は、せめて最期に遺言くらいは聞こう、という事なんだろうか。  
「……オーケー」  
 今この瞬間、言いたいことができた。  
 右手、親指を立てて突き出し、末期の言葉を口にする。  
「――ナイスしまパン……!!!」  
 直後、鼻面に全力の右アッパーが来た。  
 
/  
 
「……嫌われたかね、こりゃ」  
 自室の窓際に座り、呟いた。  
 連続の強打で傷む顔を押さえる掌。そこに感じるのは絆創膏の感触だ。  
 ……試合後のボクサーみたいになっていないかどうか。鏡を見て確かめる勇気は、あんまりない。  
 まあ、多分、息抜きにはなっただろう。……そう思っておかないと俺がちょっと哀れすぎる。  
 既に、衣鶴の部屋の電気は消えている。寝ているかどうかまでは分からないが、とりあえず寝ようとはしているらしい。  
 明日の試合、勝ってくれればいい、と思う。  
 ――昔々の、大切な約束を破った大馬鹿の応援なんか、要らないかもしれないが――。  
 
/その三。  
 
 ソフトボールは、野球に似ているが、細かい部分で色々と違う。  
 具体的に言えば、ボールの大きさ、グラウンドの大きさ、投球法などだ。  
 しかし見る方としては、野球と同じような感覚で問題はない。  
 野球部の試合と同じような盛り上がり方で、学校総出の応援だ。  
 試合は進行し九回裏。二対一と一点のビハインドながら、満塁。  
 ヒットさえ出れば勝てる――俗に言う、サヨナラ勝ちのチャンス。  
 そのチャンスをモノにすべく立つは海老原・衣鶴。  
 投手にとってみれば、これほどの凶運はないだろう。コトここに至って、最後の最後で、こんな最悪に出会うなど。  
 投手の方も、衣鶴に負けず劣らずの選手だ。  
 衣鶴の第二打席で本塁打を浴びてはいるが、走者を背負っても崩れることなく、打者を切って捨ててきた。  
 制球は乱れてきたが、鉄腕とでも言うべき剛速球に一点の曇りもない。  
 この九回、満塁ではあるが、それだって四死球と送球ミスからだ。まだ行ける、と――私以外にはこの女は抑えられない、と、その背が強く語っている。  
 ――投手が、セットアップに入る。  
 両足で投手板を踏み、左足を前に出していく。  
 右腕を一気に加速させ、大きく回していく。  
 太ももに手首をこすり、手首のスナップを加速。  
 投球は、右足による加速をもって完成する。  
 アンダースロー――いや、ウィンドミルと言うんだったか。  
 下手投げ故に実際の速度はあまり出ないが、距離や軌道によって、百マイルにすら匹敵する体感速度となると言う。  
 もちろん、この投手はそれほどの速度ではない。だが、高校生という括りで言うならば、十分にトップクラスだ。  
 遠いため球種までは見えないが、衣鶴は打つ気らしい。  
 放たれた時点で、バットは本格的な加速を開始している。  
 応援席――ライト席まで風が伝わってくるようなスイング。  
 しかし快音は生まれず、ボールはミットの中心へと叩き込まれた。  
 ワンストライク。  
 レフト側、相手高校の席から歓声が沸く。  
 対してこちらは、じりじりとした不安の中、衣鶴を見守ることしかできない。  
 捕手がボールを投げ返す。  
 投手はグラブにそれを収め、一度、大きく肩を上下させた。  
 ……ツバが硬い。炎天直下――倒れそうなくらいの熱気が、球場を支配する。  
 セット。  
「――!」  
 叫びと同時のリリースだ。  
 当然、コントロールは良くない。  
 
 捕手は構えたところに球が来ないと見て、自ら動いての捕球に入る。  
 その位置は、外角低め。ストライクかどうかは、距離で判別できないが――衣鶴はやはり打ちにいく。  
「ぁ――!!」  
 衣鶴が吼え返す。  
 殺気には殺気を。本気には本気を。  
 高速のスイングはボールを捉え、  
「!」  
 しかし力負けし、バットが砕けた。  
 折れ飛んだバットがくるくると回転してグラウンドに落ち、衣鶴は顔をしかめた。  
 打ち損じた、と理解したのか。それとも、どこかを痛めたのか――。  
 ボールは一塁側のフェンスにブチ辺り、ファールとなる。  
 ツーストライク。  
 衣鶴は代えのバットを持ち、右腕を軽くふる。  
 手を顔の前まで持ってきて、バットを握り、緩める。  
 ……どうやら、右手指を痛めたらしい。  
 マズい、と言う思いは学校の総意か。  
 吹奏楽部と有志によって臨時編成された応援団が、声を張り上げる。  
『え・び・はらッ! え・び・はらッ!』  
 相手校も負けてはいない。同じように投手の名を叫び、あと一球、と今更のような事を言う。  
 総勢二千。誰の声にも、熱意と同時に悲痛を感じさせる響きがある。  
 投手がセットしても、張り上げられる声は加速度的に大きくなっていく。  
 行け、と、打て、と――二つの声が、混ざりあって、まるでうねる波のようだ。  
 ――あと一球。  
 まさしくその通りだ。怪我の程度は分からないが、力負けしたのは衣鶴の方だ。  
 紛れもない不利。それを悟っても、衣鶴は投手から視線を外さない。  
 速度が投球に宿る。  
「らァ――――!!!」  
 崩れた、しかしこの試合最も力強いフォームから、剛速球が射出される。  
 紛れもない最高速度。百マイルの体感速度が、衣鶴を襲う。  
「ふっ…………!!!」  
 だが、衣鶴は怖じけずスイング。  
 それは高速であり、タイミングも位置も、ただ一点を除き何もかもが絶妙。  
 ……そう。敗北の原因はただ一つ。  
 そのスイングは、フルスイングではなかった。  
 球場に響いたのは、鋭く、それでいてくぐもった音。  
 投手が、ピッチャー返しを取った音。  
 海老原・衣鶴達、ソフトボール部の夏は、終わった――――  
 
/その四。  
 
 三日後は雨だった。  
 湿度こそ高いが、あまり暑くないためか過ごしにくくはない。  
 静かな雰囲気のまま、朝の授業は粛々と執り行われる。  
 なんだかんだでいい試合だったし、授業も休めた。やったぁラッキー――それが一般的な生徒の反応だ。  
 衣鶴やソフト部と個人的に仲がいいヤツは、そこまで単純に喜べないようだが。  
 実際――試合を見る限り、衣鶴はそれなりにいいキャプテンだったらしい。  
 全員が最後まで諦めなかった。  
 全力でぶつかっての敗北だった。  
「青春してやがったな……」  
 ため息を吐いて、窓の外を眺める。  
 ―― 一つ。くだらない疑念がある。  
「…………」  
 衣鶴が痛めたのは、右の小指、薬指。  
 何年前だったか、ベンチを殴って、同じ箇所を骨折した投手のニュースを見たことがあった。  
 ……まさか、とは思いつつ、まだ少し痛む鼻を押さえる。  
 人の頭や顔は意外と硬い。  
 素人が人を殴ると、拳――特に小指、薬指を痛めてしまうことが多い。  
 拳以外に手首を傷めることも多いが、それはインパクトの衝撃が手首に来るためだ。だから殴る瞬間に手をぐっと握りこむのが肝要だと、空手部の馬鹿に聞いたことがある。  
 ハードパンチャーの握力が高いのは、インパクトの瞬間に拳がブレない――つまり衝撃をより大きく伝えられるから、だそうだが。  
 ……衣鶴はバッターだ。手首は並みの格闘屋には負けない。だが、その手指はどうか。  
「…………」  
 くだらない、こじつけのような考えだ。  
「…………」  
 だが、否定しきれないのは――まるで泥のように疑問がまとわりつくのは何故か。  
「……くそ」  
 ため息を吐いて、教室に視線を移した。  
 夏、大会時期。  
 部活をやっているヤツの欠席が目立つ。  
 で。  
「……すー」  
 隣では、衣鶴が全力で寝ていた。  
 右手、薬指と小指には湿布と包帯が巻かれている。  
 動かさなければ痛まない、と言っていたが、枕にするのは大丈夫なのか。  
 胎内にいたときの音と雨音は似ていると聞くが、正直イイ夢見てそうで微妙に腹が立つ。  
 普段なら机を軽く蹴って起こすところだが、  
「……まあ、頑張ってたし、いいか」  
 
 んぬー、となにやら寝言が聞こえてくるが無視。  
 ソフト部は今日にでも引継ぎを行い、新人戦に向けて新たな努力を重ねていく。  
 衣鶴の影響で、来年は有望な新人が入ってくるだろうか。  
 それについては、来年、今日負けたチームにも勝てるといい、と思うのみだ。  
「…………」  
 試合について、衣鶴が言っていたのは指の事のみ。  
 負けた事についての感想も無く、故に俺から聞く事もない。  
 昔馴染みの、歯がゆい距離感だった。  
「俺が女だったら、話聞けたんだろうかな……」  
 もしくは、衣鶴が男だったら、か。正直あのチチは惜しいので、できれば俺が変身したいところだが。  
 ……軽くふざけた思考を中断。深く嘆息して、窓の方に顔を向けなおす。  
 昼には晴れる、と天気予報では言っていたが――。  
「……信じられんなぁ」  
 雨音に意識を集中すると、なにやら眠くなってきた。  
 衣鶴と同じような姿勢になり、目蓋を閉じる。  
 眠りはすぐに来た。  
 
/  
 
 で、なんで目が覚めたら夕陽が見えるのだろうか。  
 時計を見ると、時刻は三時二十分。  
 ちょうど放課後、HRが終わった時間だ。  
「ほら、起きてよ雲野ー。掃除の時間だってば」  
「……おう。悪い」  
 女子の言葉で、こりゃいかん、と立ち上がる。既に俺の席以外は後ろに下げられていた。  
 いや、いいタイミングだ。むしろ最高だ。  
 ヒマな授業中、うだうだ悩まずにすんで良かった良かった。  
「……何頷いてるの?」  
「いや、ポジティヴシンキングは大事だな、と」  
 そう、と女子は呆れ顔で言う。  
 左手一本で机を下げ、カバンを掴んで歩き出す。  
「――あ」  
「何さ、雲野」  
「いや、衣鶴のヤツは?」  
「寝ぼけてる? ソフト部にいると思うけど」  
 ……そう言えばそうか。  
 寝る前になんとなく考えていたような気もする。  
「ありがとう」  
「どういたしまして」  
 教室を、校舎を後にする。  
 
 地には水溜りがあるし、空には朱に染まる雲があるが、空気は澄んでいる。  
 涼やかな風が、僅かに木々を揺らした。  
「……さて」  
 足元に注意しつつ、部活棟へと歩いていく。  
 部活棟は、体育会系部活のロッカールーム兼倉庫であり、ボロいが各部活兼用のシャワー室もある。  
 と、よく通る強い声が聞こえてきた。  
「これで、あたしたち三年生は引退するけれど――テキトーに頑張っていくべし!」  
 部活棟の前にいるのはソフトボール部の面々で、衣鶴を先頭に三年生が立ち、その前に一、二年生が整列している。  
 もう下級生も適応してしまっているのか。テキトー極まりないシメの挨拶に対し、ごく普通に、ありがとうございました、と礼を言って終わる。  
 芝生にでも座って待ちたいところだが、生憎地面は塗れている。  
 仕方なく、しゃがんで彼女たちを眺めることにする。  
 ぐしぐしと泣いている下級生がいたり、衣鶴の背後でため息を吐く三年生がいたりするのは、まあ、人間模様は様々と言っておこうか。  
 下級生が部活棟の中から花束を持ってきたり、色紙を持ってきたり、お菓子を持ってきたり――その辺は、さすがに女所帯か。来年こそは勝ちますから、とか色々と声が聞こえてくる。  
「……ホント、青春してやがるなぁ……」  
 ……三年生の一人が衣鶴の肩を叩き、俺を指差す。  
 いいって、と顔の前で平手を振るも、馬鹿は一直線にこちらに来る。  
 表情は、どこか力ない笑みだ。  
「何? 用? 一緒に帰る?」  
「後でいいっての。ほら、引退なんだし泣くくらいして来いよ。ってかまだ誰も帰ってないだろ」  
「あたしも用はないよ。それに、泣くことなんてないし、あたしが帰らなきゃ誰も帰らなさそうだし」  
 ……それもそうか、と取り残された集団を見る。  
 中心人物さえいなくなれば、あとは適当に解散するだろう。  
「じゃ、帰るか」  
 ん、との頷きに、ゆっくりと立ち上がる。  
「カバンは?」  
「ロッカー」  
「待ってる」  
「あいあい」  
 軽い返事と同時に、衣鶴は部活棟へと小走りに向かう。  
 すれ違い様に、いつもと全く変わらないような別れの挨拶をして、そして、俺の方へと戻ってくる。  
「帰ろう?」  
「おう」  
 肩を並べて、歩き出した。  
 正門に向かう途中、背後から、意図不明の声が聞こえてきた。  
「がんばれー、こなたーん、いづるぅーっ!!」  
 
 ……いやはや、まったく。何を頑張れと言うのだろう、ソフト部の皆さんよ。  
 
/  
 
「……仮面ライダーとかでも、同じようなことがあったのかな」  
「一文字さんが、何故かワザ師という事にになってたとかそういう話か?」  
「そういう話。……此方の場合は、それが女の子で、しかも俗に言う萌えってのが不幸だけどねぇ」  
 ……盛大にため息を吐く。幸せが逃げるとかどうとかより、この馬鹿に人の心の機微を読むって事を教えなければならない。  
「……あのな。分かってるんだったらやめてくれよ」  
「だって面白いんだものね、――こなたん」  
 横にいるため表情は見えないが、声には喜色がある。  
 本気で楽しんでいるから、本当に手におえない。  
「お前な。……俺だからいいけど、他人にはするなよ」  
「大丈夫。他人には今までだってしたことないから」  
 そうかい、とだけ言って、もう一度ため息を吐く。  
 足元、水溜りを避けるために下を向く、――フリをして、衣鶴の右手に目をやった。  
「気になる?」  
 ――が、あっさりと見破られた。  
 視線を上げると、ちょっと得意げな笑みがあった。  
 言い当てられて悔しいものは悔しいが、別に強がる場面でもない。素直に肯定する。  
「……まあな」  
「……ひょっとして、アンタを殴ったから手を傷めちゃったァ――とか、言うと思ってた?」  
「考えてはいた」  
 水溜りを突破し、再度合流する。  
 衣鶴は手を顔の前まで寄せ、呟くように言う。  
「……ううん。多分、万全の状態でも、あたしは負けてたよ。だから、いい」  
 強かった、と彼女は言う。  
「球が、すごく重かった。実は、二球目のあと、手首にも違和感があったんだ。寝たら治ったけど」  
「…………」  
「あれだけはっきり負けたら、悔しいって気持ちも――あんまり、無いかな」  
 衣鶴は、言外に言う。  
 気にすることはない、と。負けは全て、己の責任だと。  
「……嘘言うなよ」  
「……ん。嘘じゃないよ」  
 浮かぶのは、緩い笑みだ。  
 ……ああ、と思う。  
「……衣鶴。すまなかった」  
「だから謝らないでよ。今までは怪我したらマズいから使わなかったフランケンシュタイナーとか使うよ?」  
 や、それはそれで幸せなんですが。  
 
「……ソレはキツいな。首折れるだろ」  
「大丈夫大丈夫、多分手加減するから。――しばらくやってないし、できるかどうかは分からないけど」  
「俺以外には――いや、俺にもやるなよ、それ。ストレス溜まったら、せめて殴るようにしろよ」  
 多分許すから、と付け加えた。  
「多分ってなにさ」  
「俺も男だから、【ピー】を殴られたら許す自信無いな」  
「……うん。そこは殴らないように気をつけとく」  
「ありがとう。体感は間違ってもできないだろうが、頭の片隅には入れておいてくれ」  
 オーケー、との返事に頷き、――再度、右手を見た。  
 ノートはきちんと取れたのだろうか、とか、箸を持てるのか、だとか、そんなどうでもいいような心配をする。  
「……此方。あたしはさ、今、すっごい満足してるよ。彼女、全力だったからさ」  
 その笑みから、思わず視線を逸らす。  
 痛々しくて、見ていられない。  
 コイツが目ざとく俺の視線を感じ取ったように、俺にもコイツの心情が分かる。  
 ……間違いない。  
 コイツは、己を、そして俺すらをも騙し通せると、本気でそう思っている――。  
 衣鶴に聞こえぬよう嘆息し、空を見上げた。  
 沈みかける西日の上空――宵の明星が、妙に輝いている。  
 
/その五。  
 
 一週間――試合が終わってから十日が経った。  
 今日も天気は晴れ。一週間前と同じように、大会を終えた三年生が引退の挨拶をしている風景がある。  
 ごく一部の有望な選手は、スポーツ推薦のため部活を続けているが――衣鶴は何もしていない。  
 ただ、時間に余裕ができたので、帰りにゲーセンによってみたり、色々とモノを買ってみたり、夕食の買い物に付き合わされたり――変化と言えば、そのくらいだ。  
 ただ、その距離が、近くなって来ているのは、感じていた。  
「なんなのか分からないくらい――子供じゃないが」  
 気付いたのは、衣鶴本人より、周囲の反応が大きい。  
 用事があって早めに帰ろうとしたら、衣鶴が走って追いかけてきた。  
 女子が俺を軽く避け始めた。  
 男子が衣鶴にあまり声をかけなくなった。  
 かと言って孤立しているかと言えばそうでもない。  
 多少の願望が入っていることは認めるが、クラスが俺たちをくっつけようとしていて、しかも衣鶴がそれに乗り気だ、と解釈して問題は無さそうだった。  
 部活も終わったし、青春の別面を満喫しようって気持ちもよく分かる。  
 だが――  
「……は」  
 右手を夕陽にかざし、薬指と小指を握ってみる。  
 一週間で、衣鶴の薬指は湿布を必要としなくなっていた。  
 小指の方も、薄い湿布を医療用テープで巻いている、そんな状態だ。  
 違和感はまだあるそうだが、あと二週間も経てば完全復調するだろう。  
 ……あのスイングは完璧だった。  
 もしも、指さえ完璧だったのなら――弾道は上向き、投手の頭上をはるか高く飛び越し、柵の向こうへ消えていた筈だ。  
「……余計なコト、しちまったんだな」  
 彼女は許すと言っていた。  
 だから、俺も俺を許していいはずだ。  
 ……俺の方こそ、自分を騙すべきだろう。  
 ため息を吐いて、試合の前夜を思い出す。  
「……衣鶴」  
 ……そういう気持ちが、ない訳じゃない。  
 昔馴染みとは言え――いや、昔馴染みだからか。彼女の存在は、あまりにも大きい。  
 ……だからこそ。俺は、俺を許せない。  
「…………帰るか」  
 下駄箱で立ち止まっているなんて、どこの不審者だろうか。  
 帰ろう、と思う。……そう、衣鶴が来ないうちに。  
 
/  
 
 飯を食って、二階、自室に上がる。  
 ――そこで、若干の違和感を感じた。  
 衣鶴の部屋――カーテンが閉まっておらず、電気がついていない。  
 時刻は午後六時。雲野家においてはメシが終わった時間で、海老原家にとってはご飯の準備中、といった時間だ。  
 おかしい。が、特別不自然でもない。  
 居間にいるのかも知れないし、俺と一緒に帰らなかったから、クラスの女子と遊んでいるのかもしれない。  
「……メールしてみるか」  
 用件は――なんでもいいか。『今何してる?』などと送る勇気はないので、適当に『明日宿題あったか』と一文だけを送ることにする。  
 ……しばらく待つも、返答無し。  
「……電話だ電話」  
 発信音の後流れてきたのは、電源が入ってないか云々、という決まり文句だ。  
 寝てるのか――とは思うが、カーテンくらいは閉めるだろう。  
 あるいは、まだ帰ってきていないのか。  
「……ぬ」  
 アイツだって子供じゃない、大丈夫……だろう……か?  
「……ぬああ」  
 なんとなくだ。  
 そう、なんとなく――だ。  
 部屋着のスウェットとシャツを脱いで、タンスから適当に服を引っ張り出す。  
 時刻は六時十五分、学校まで走れば十五分、腹はきちんと八分目。  
「……よ、様子を見に行くとか心配とかそういうのじゃないんだからな」  
 ケ、と毒づいて、家を飛び出す。  
 ……夏真っ盛り。夕陽はまだ、沈みきらない。  
 
/幕間。  
 
 何をやってるんだろう、と思う。  
 教室の窓際で、ただグラウンドを眺めていた。  
 野球部と、ソフト部、ラグビー部――運動系部活が、グラウンドにいる。  
 つい二十分ほど前までは、グラウンドを所狭しと練習に使っていたけれど、今は片付けの最中だ。視線を切り、机に額を押し付ける。  
「……は、あ」  
 ……彼が――此方が帰ったのは、もう二時間くらい前になるだろうか。  
 あたしはいつも待っていたし、先に行ったとなれば追いかけていた。  
 だが、彼はあっさりと帰って行った。むしろ急ぐように、――逃げるように。  
 十六年来の幼馴染だ。歩き方で簡単な心情くらいは分かる。  
 空回り、と彼は言っていた。……確かにそうだ。あたしの想いは、とんでもない空回りをしているらしい。   
「……結構キッツいなー……」  
 失恋フラグだろうか。  
 あははは、などと、無意味に笑ってみたりもする。  
「はは、は……」  
 ――笑えない。本当に笑えない。  
 最初の五年は、親友だった。次の五年は、なんだか気になるばかだった。それから――この五年は。  
「…………」  
 そうこうしてる内に、グラウンドから人がいなくなる。  
「……うん。帰ろう」  
 明日からは仕切りなおしだ、と考えを切り替えようとした瞬間、廊下の方からドタバタと足音が聞こえてきた。  
 ……反応してしまう己が恨めしい。  
 理性はそんな筈ないと叫ぶも、直感と感覚はこう言っていた。  
 彼が、――雲野・此方がやって来た、と。  
 
/その六。  
 
 やはり、と言うべきか――それとも、予想通りと言うべきか。  
 息を整えつつ、馬鹿女を睨みつける。  
「馬鹿、」  
 気が済まないのでもう一度。  
「超絶馬鹿ッ、」  
 息が切れて腹から声が出なかったのでテイクスリー。  
「こ・の・超級覇王電影馬鹿ッ……!」  
「な、なにそれ……!」  
 どうもこうもあるか、と言おうとしたが、十五分間の全力疾走で横隔膜がうまく動いてくれない。  
 今度からきちんと運動しよう、とか思いつつ、教室に足を踏み入れていく。  
「な、なに? 用?」  
「ああ」  
 痛む腹筋を無視して背筋を伸ばし、試合以来一度も背筋が伸びていない衣鶴に言う。  
「お前に、言う事と、言わせる事がある」  
「……え?」  
 眉をひそめる彼女の眼前、手を伸ばせば届く距離まで肉薄する。  
 言うのは、ただ一言だ。  
「……衣鶴。すまない」  
「だから、それはもういいって――」  
「嘘を言うな」  
「嘘って――」  
「お前の言葉は、俺に届いていないんだ。そんな言葉が、真実である筈がない」  
 ぐ、と彼女が一歩引く。  
 俺はその分だけ距離を詰め、勢いに任せて口を開く。  
「衣鶴。――知ってるか。世の中にはな、誰かが自分自身を貶めると、傷つく人間だっているんだ」  
 俺はお前だけだが――と、思いつつ、言葉を続ける。  
「嘘はやめろ。その笑みもやめろ。俺は、お前をそんな風にしている俺を許せなくなる」  
「…………ぅ、」  
「衣鶴」  
 ぐ、と眉に力を込める。  
 彼女の視線は顔ごと下にあるが、俺は衣鶴の目から視線を切らない。  
「うぅ、う」  
 前髪の下から、小さな声が聞こえてきた。  
 震えた、弱々しい声が。  
「負けたんだ、……あたしのせいで」  
「三年間、頑張ってきたのに」  
「みんなでがんばろうって誓ったのに」  
「あたし以外の、みんなが全力を尽して――あたしだけが違って、」  
 
「負けちゃったんだよぅ……」  
 一言と同時に、彼女は後ろに下がっていく。  
 三歩目で壁にぶつかり、その後は、ずるずると床にへたり込んでいく。  
 結果的に姿勢は体育座りに近いものになる。  
「……衣鶴。近づくぞ」  
「…………やだ。だめ」  
「……分かった。無視する」  
 宣言し、衣鶴の前にしゃがんだ。  
 鼻をすすり上げる音が聞こえた。  
「……衣鶴」  
「……来ないでよ……」  
「黙れ馬鹿。……下手に我慢しやがって。本当、馬鹿だな」  
「ばかばか気安く言うなばか」  
「気安くじゃないぞ。心を込めて言ってる」  
 振り回すような左拳が来た。  
 威力は弱く、しゃがんだ姿勢を崩す事すらできはしない。  
「……さいあくだ」  
「ああ。最悪だな」  
 右手を衣鶴の頭に乗せた。  
 今俺に出来る最大級の努力だが、効果を確認することはできない。  
「……応援、してくれなかったしさ。実は、結構、期待してた。待っててって言ったのも、それを期待してだったし」  
「……朴念仁で悪かった」  
「……いいよ。それが、此方だから」  
 衣鶴は、足の間に頭を埋めていく。顔を隠すように。  
「……此方がふざけなければ、――此方が応援してくれれば、あたしも全力を出せてた、って思う。力を出し切れなかったのは、あたしの問題なのに、此方に責任を押し付けてる」  
 ホント、最悪だよね、と、小さな自嘲の声がついてきた。  
 俺は、衣鶴の頬に手をかけ、ちょっとばかり強引に顔を合わせる。  
 視線は一瞬俺の目を見たが、しかしすぐにそらされた。  
 己に不安を抱く目だ。何かに助けを求めるように、落ち着きなく周囲を見回している。  
「いいぜ」  
 俺は、笑いながら言う。  
「恨め。それは正しい。全くの正当だ。俺が許す、お前は俺のせいにしていい」  
 一拍置き、俺は言葉を続ける。  
「……届いたか? お前に」  
「…………」  
 首は横に振られた。  
 が、直感する。衣鶴は、俺の言葉に嘘を感じていない。  
 
「……衣鶴。やり直すか」  
「……え?」  
 眉が上がり、何を言っているのか分からない、といった顔になる。  
 立場が逆なら、俺だってそう思う。そんな、突拍子もないような一言だ。  
「だから、やり直すかって言ってるんだ。最後の打席を」  
「でも、二人じゃ――」  
「真似事くらいならできるだろ。ピッチャーとバッターさえいればな」  
「ピッチャーなんていないでしょ、此方の右腕は、三年前に――」  
「忘れた。――他に文句はあるか?」  
 強く視線を送ると、その目線はまたも外れた。  
「……今更すぎるよ」  
「ああ今更だ。だが俺は、辛気臭い雰囲気が苦手だ。ってか大嫌いだ。――特に、お前のはな」  
 余計な一言が出たが、どうやら衣鶴は気付いていないらしい。  
 返答は、無言の首肯。  
 話は決まった。立ち上がらせようと脇に手を入れて力を入れた瞬間、素直な感想が出た。  
「……うわ、意外と重いな、お前」  
 ――頭突きが飛んで来た。  
 
/  
 
 ――勝負は、三球。それが約束だ。  
「それじゃあ――はじめますか」  
 暗闇の中――誰もいないグラウンドで、対面する。  
 衣鶴はバットを重しに、軽く柔軟運動をする。数度それを繰り返したあと、バットを己に立てかけ、手指を伸ばしていく。  
 まだ違和感があるという右手指は念入りに。三十秒ほどかけてから、彼女はバッターボックスに入る。  
 ヘルメットと制服は、改めて見るまでもなくミスマッチ。  
 だが、――衣鶴がバットを正しく握り締めた瞬間、その違和感は消失する。  
 そこにいるのは、過去八年、最高と呼ばれた――最高と呼ばれ続けたバッターだ。  
 例え意気を失っていても、その覇気は本物以外の何者でもない。  
「――は、」  
 息を大きく吐く。  
 まずは呼吸を整える。  
 己の拍を思い出す。  
 身体に刻み込んだ技能が、――錆び付いていた機能が軋みをあげる。  
 もう――三年。速球を投げていない。  
 日常生活に限れば問題はない、と言われたその肩を、一度ぐるりと回した。  
 ……やっぱり、医者の言葉なんか信用できない。三年も経ったのに肩には若干の違和感があり、ピリピリとした鈍痛を送ってくる。  
 ――だが、いい。大丈夫だ。三球に限るなら問題は一切無い。そう決めた。  
 
「…………」  
 左手のグラブ位置を調節し、マウンドを踏んだ。  
 右手には硬球。握り締める力の半分は恐怖からだ。  
 三年のブランクに対し、三年の過酷な練習。打たれぬ方がおかしいとすら言える力量差があるだろう。  
 だが、それによるコントロールミスは無い。  
 状況は過去を呼び覚ます。投球のための機械であった己を。  
 今、この場。ただ三球の間だけ――雲野・此方は、昔と同じく、海老原・衣鶴の好敵手だ。  
「――――」  
「――――」  
 目線が合う。  
 身長はほぼ同じ。互いの準備は完了し、もはや是非もなく勝負は開始される。  
 いつだったか――まだ俺の右肩が壊れる前、きっとこういうことがあった。  
 脳の片隅でその時を思い出しながら、両手を背へと持っていく。  
 ヒュ、と呼気を吐いたのは昔のクセから。呼吸はそれで最後、次に行うのは、左足の振り上げだ。左足と両手がつくほどまで、身体を引き絞っていく。  
 衣鶴には、俺の背が見えている。  
 覚えているか、と視線を送る。俺の投球法を。  
 左足を加速。  
 スニーカーがマウンドに食い込み、速度が関節を伝っていく。  
「……ッ!」  
 ――振り抜いた。  
 速度は精々六十マイル――時速で言えば百キロほどか。昔よりも二割近く遅い球速だ。  
 だが、衣鶴のスイングは大きくズレた。振り遅れだ。  
 俺の狙いは外角高め。もう少しズレるかと思ったが、案外いいところに入った。コントロールミスはない、と言っておきながら、安心する己が少しおかしい。  
 息を大きく吸い、俺と同じように全身を振り抜いた彼女を見る。  
 衣鶴は呆然とした顔で、  
「回転が、昔よりも速くなってる……」  
 ここが地球上である限り、空気抵抗と重力からは逃れえない。ボールは抵抗を受け速度を落とし、重力に引かれていく。  
 だが、その影響を少なくする方法ならば、ある。  
 ジャイロ――ライフル弾のような回転は、一途な馬鹿ガキの遺産だ。  
「今は、調子がいいのさ。昔より腕力もついてるしな」  
 二球目を拾いながら、故に、と言う。  
「今のは調整だ。回転はもっと速くなるし、速度も昔と同じまで引き上げる」  
 笑い、  
「打ってみせろよ、衣鶴」  
 セットポジションに入り、  
「そんなテンションで、打てるものなら――!!」  
 
 リズムを跳ね上げ、右腕がボールを速度に乗せる……!  
 宣言通り、速度は七十五マイルに到達する。時速にして、おおよそ百二十キロ―― 一般レベルで見れば十分な速球。  
 過去の己の最高速度であったが、……今なら、と思う。この好敵手が相手ならば、まだギアは上がる。  
 ……まあ、この球どころか、一球目で振り遅れていた衣鶴では打ては――と。リリースの瞬間、ビジョンが見えた。  
 
右の蹴り足、意気がないまま彼女は自動的に動き、その身に刻み込んだ動作だけでこの速球を打ち砕く、  
 
「ッ、」  
 奇妙な確信が背筋を走る。  
 冗談じゃない。  
 そんな状態の衣鶴に打ち砕いて欲しい球じゃない。  
「――お、」  
 既に力の伝達は指先に至っている。  
 勢いに負け僅かにたわむ指に、無理な力を込めた。  
 更なる回転をかける。  
 結果は、一球目とは比べ物にならない剛速球の成立だ。  
 彼女のフルスイングは、ボールの頭をかすって、このマウンドまで風を送ってきた。  
 ボールがベースの向こうに激突して跳ね、勢いを失いつつ転がっていく。  
 ……ああ。ようやく、衣鶴も起動したらしい。  
 本気が来る。打つ、と。殺気に近い、その意志が。  
 夏の夜。生暖かい筈の風が、身を切るように冷たい。  
 ……ああ、そうだ、思い出した。この女は、投手に殺気をぶつけるタイプだった。  
 爪は僅かに割れたし、右肩にも鋭い痛みが芽生えているが、あと一球ならまったく問題はない。  
 再度砕けようとも、この投球さえ完遂できればいい――。  
 三球目を拾い、宣言する。  
「行くぜ」  
 いつだったかの勝負の結末は、どうだっただろうか。  
 ゆっくりと、両手を背へと持っていく。  
 呼気を鋭く吐き出して腹筋を締めた。左膝を胸につけるように持ち上げていき、同時に背を見せるほど身体を捻る。  
 スニーカーの裏から、砂が風に零れていく。左膝が頂点に達し、一瞬停止した。  
 一連の動作は、拳銃のイメージに似る。弾丸を装填し、撃鉄を下ろすそれと。  
 昔の漫画のように派手で大仰な、――彼女のスイングと同じく、全身を使う投球。  
 フォームの名を、トルネード。かつて日本を沸かせた大エースの投球法だ。  
「お、」  
 左足を、とにかく前へ。  
 つま先から指先へ。地からの速度は関節を経由し弾丸に集中する。  
 体重移動、精神集中、関節駆動――紛れもなく過去最高。  
 
 
 その弾丸は、確かにフォームの主へと肉薄する。  
「おぁあああ…………!!!」  
 ――瞬間。明確に、ビジョンが見えた。  
 
/  
 
 ――ふと、昔を思い出した。  
 リトルリーグでは、戦友だった。  
 同じチームで、投打のエース。  
 リトル独特の連投規制ルールがあるため、全国までは行けなかったが――それでも、俺とアイツさえ出場すれば、どんなチームにだって勝てると信じていた。  
 だが、中学で、彼女は野球をしなかった。  
 野球部顧問の頭が異常に固かったせいもある。  
 ソフト部が、彼女を欲しがっていたのもある。  
 だが、一番の原因は彼女自身だった。  
『……ほら。あたしは、やっぱり女だからさ』  
 そんな風に、穏やかに笑っていた。  
『ソフトボールも、元々は野球だしさ』  
 知っている。その笑みを知っている。  
『約束、破ってゴメンね。ずっと一緒に野球やるって約束さ』  
 いい。そんなもの関係ない。  
 ただ、俺は――そんな顔をさせない、と。もっと昔に、もう記憶の彼方に消えた小さな頃に、約束をした。  
 その筈だった――――。  
 
 
 
/  
 
 
 
 ――白球が、夜空をカッ飛んでいく。  
 昇る宵の明星に向かって、夜の風を切り裂いて、伸びる。  
 
 
 
 
/盛大な蛇足。  
 
 で。  
 たまに思うのは、『シャワー』という名の由来だ。  
 ……日本語にも、そういう言葉はあるが。まさか、『しゃわ〜』という効果音からなのではあるまいか。  
 まあ、もうそんな名前になってしまっているので、考えたって仕方ない事だが。  
「いででででで」  
 ……冷静になると、また馬鹿な話だった。  
 日常生活に支障がない、と言っても、……ギックリ腰みたいなものだ。重いものを持ったりしたら壊れるし、激しい運動をしてしまえば痛みはぶり返す。  
 熱と痛みを持つ右肩を軽く揉みつつ、蛇口を捻る。  
 ソフトボール部は女子の集まりであるせいか、シャンプーやボディソープが部室に常備されている。  
 俺はそれを(衣鶴経由とは言え)拝借しているというわけだ。  
 ちょっと遠慮気味に出して、頭にわしゃわしゃと。  
 小さい頃のトラウマ――衣鶴がシャンプーを目に叩き込んできた――があるので、つい目をギッチリと閉じてしまう。  
「あ、ごめん。あたしシャンプー忘れてきたから貸してー」  
「おう」  
 目を開かぬまま隣にシャンプーをパスして三秒後。――その異常性に気が付いた。  
「……い、衣鶴……さん?」  
「ん? なに?」  
「あのね? 今、俺、全裸なんですけど」  
「奇遇だね。あたしもあたしも」  
「黙れ馬鹿。ここ男子用だぞ」  
「んー、いいじゃんいいじゃん。あたしが幽霊恐いのは知ってるでしょ? 水場は幽霊が出やすいんだってー」  
「初耳だそんな設定。いいから帰れ今すぐに!」  
「嬉しくないの?」  
 ……オーケー。出ていく気はないらしい。  
 返答は盛大なため息。声の方向に背を向け、さっさと出よう、とシャワーへッドを手探りで探す。  
「はい」  
 手渡されるシャワー。  
 ……素っ裸の衣鶴が背後にいるわけか、と思うと――なにやらムラムラと、こ、興奮が、興奮がっ。主に股間でデッドヒート直前ッ、むしろ暴発間近ッ。  
「落ち着け俺落ち着け俺」  
「いやあのさ。声に出てる時点でスッゴい動揺してると思うんだけどどう?」  
「うおおおおおおおおお黙れェエエエエエ俺の理性を壊すなァアアアアアッッッ!!!」  
「うるさいなー、シャワー室響くんだから」  
「お前が出て行けば問題は全部解決するんだよ!」  
「しないってば。ほら、あたしはスッキリしたわけだけど、こなたんはまだ言い足りないんじゃない?」  
「こなたん言うな馬鹿!」  
 
 目を閉じつつ、振り向いて叫ぶ。……思えばちょっと失敗であった。  
「そろそろそのセリフもワンパターンですよ罰ゲームザバー!」  
 顔面に来たのはシャワー出力最強・対艦並み(冷水)だった。  
「ぐわぁつめてぇ! むしろ痛い! やめろ! やめろォ!!」  
「頭流してあげてるんだから文句言わなーい」  
「言わせろ馬鹿! ぐああああああ目蓋が! 目蓋が抉れる!」  
「あはははははは。――さて、飽きた」  
「お、お前性格変わってないか……!?」  
 コイツ吹っ切れすぎてネジが数本吹っ飛んだのか。――と言うかそうとでも考えない限り不条理すぎる……!  
「んー。多分、コレが素だよ。――あたしはさ、もう、大丈夫だから」  
 痛む目を拭って、衣鶴を見る。  
 その表情は、確かな笑み。  
 ……確かに全裸ではあったが、辛うじてヤバい部分はしきりに隠れている。  
 ああくそ、と思う。文句のつけようがない。  
「ほらほら。言い足りないコト、あるんでしょ?」  
「…………む、う」  
 ……ため息を吐く。  
 これなら、あの緩い表情の方が良かったか、と。  
「……いいか、よく聞け」  
「おう」  
 目を合わせることができない。  
 ああ、なんで俺は勝負前に言えなかったのか。あの時、あのテンションに任せておけばよかったか。  
 後の祭りとか後悔先に立たずとか色々声が聞こえてくる。  
 だが、この状況、――言うしかない。  
「――俺は、お前が、……かなり、好きだ」  
 ……かなり、と付いたのは照れだ。しかし、こんな状況にしては、うまく行ったほうだろうか。  
「――ん。あたしもだよ」  
 とりあえず、この場でキスだけはしておくことにした。  
 
→The End.  
 

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