「ねえ……あの方たち、ただの山伏には見えないわ」  
 山伏をもてなした女は、戻ってくるなり早口でささやいた。  
「かの有名な頼光様のご一行と似すぎているもの」  
 女の唇からこぼれる吐息のごときその声に、姫君の指先がぴくりと震える。  
 次いで何か言いかけた女の唇を、別の女が慌てて掌で覆った。非難するその声もひどく  
小さい。  
「馬鹿ね。鬼に聞かれたらどうするの。あの方たち、無事ではすまないわよ」  
「でも花園の姫も帰って来ていないじゃない。あの方たちが逃がしたんだわ」  
「それじゃあ……もしかして」  
 ついさきほど着物を洗いに行かされた花園中納言の姫君の話になると、女たちの頬は  
期待と緊張でぱっと赤くなる。抑えた声音から、それでも最近では感じることのなかった  
はしゃぐ色がのぞいた。  
 さざめくそれが一瞬波のように女たちを取り巻き、しかしすぐに静まる。  
 廊下を歩く、粗野な足音。それはやがて大きくなり、牢の前でぴたりと止まった。  
 
「首領がお呼びだ」  
 
 女たちの目が一斉に姫に向かう。誰が呼ばれたとも限らないが、首領の鬼の場合、傍に  
置く姫は決まっていた。同情や哀れみのこもったまなざしを遮るように姫は小さく笑み、  
立ち上がる。  
「……姫君」  
 女の一人が姫の白い、人形のようにほっそりとした指を引く。女の顔は強張っていた。  
「平気よ」  
 やんわりと女の指をほどき、姫君は微笑んだ。鬼に呼ばれるということ。交わりを強要  
され、さらには殺されるかもしれぬという危険性を孕むそれを、女たちは心から恐れた。  
 
 ここにいるうち、何人の女が自分の気持ちを理解してくれるだろう。  
 
 障子に指をかけるその瞬間、姫君はチラと振り返って女たちを見やる。蝋燭の頼りない  
薄明かりに浮かぶその顔は、どれも恐怖に引きつっている。  
 ――きっと、誰にも分かりはしない。  
 牢の閉まる硬質な金属音、聞きなれたそれが妙に耳障りだった。  
 
「来たか、美しい俺の姫」  
 酒呑童子の部屋は、いつもわずかに血の匂いがする。  
 幾人もの女の首をちぎり腕をもいだ太い腕が、壊れ物を扱うように姫君の腰を抱いた。  
 嗄れた低い声で、それでもどうにか優しく聞こえるよう、ゆっくりと耳元でつむがれる  
それに心臓が甘く音をたてた。  
「お客様がいらしているのでしょう。もてなさなくてよろしいのですか」  
 我ながら心にもないことをいう。自覚があるせいかその声は何だか拗ねているようで、  
姫君は思わず赤面した。この位置から己の顔は見えないと分かっていても、うつむかずに  
いられない。  
 視界に映る短いかむろの髪が小さく震え、同時に耳朶を笑い声が撫ぜた。  
「お前に触れることを、俺が我慢したことなどあったか」  
 いいえ、と答える前に、姫の唇は塞がれていた。  
 
「……は、あ」  
 長い舌が唇を這う、独特の感触にぞくりと肌が粟立つ。  
 たまらず唇を薄く開ければ、それはゆっくりと姫君の口内に侵入してきた。  
 追いかけてくる舌から、逃げる。ふっと熱い息が流れ込み、酒呑童子が笑ったのだと  
知る。構わず逃げる。舌の付け根をぬるりとなぞられ、不快感と焦燥がない交ぜになった  
ような感覚が胸を押しつぶす。  
 上あごを同じように撫でられ、その感覚は吐息になってあふれた。  
 一瞬の隙に舌をさらわれる。擦りあわされ、絡まされ、唾液を飲むこともできず口の端  
からこぼれる。はしたない。思った瞬間に唇が離れ、どちらのものとも知れない唾液を舌  
が舐め取った。  
 
 初めて口を吸われたあのときは、本当に舌を噛み切って死んでやろうと思ったものだ。  
 とろんと熱にうかされた瞳で酒呑童子を見上げながら、姫君は思い返す。  
 
 さらわれたあの晩。血の匂いが充満するこの部屋に転がされ、太い腕が乱暴に自慢の  
黒髪を掴んだ。逃げてもすぐに足をさらわれ、無様にこける様を笑われる。恐怖に強張り  
竦みあがった乳房の先を舐られ、悲鳴を上げれば「京の娘ははしたなく声を上げる淫乱  
ばかりか」と罵られた。  
 逃げようと思いながら幾晩も過ぎ、逃げられないと悟るまでにまた幾晩も過ごした。  
 その間に、一体何度肌を合わせたのか。  
 殺してやりたかった。刺し違えてでも、醜い獣のようにその喉笛に喰らいついてやろう  
とさえ思った。  
 あれはいつの晩だっただろう。太ももをどろどろと這う子種を見せ付けられ、姫の矜持  
はもはや折れる寸前だった。睨みつける姫君を、酒呑童子がニタリと見下ろしていた。  
 ――美しい姫。お前は俺を憎めばいい。そしていつか俺を殺してくれ。  
 声はわずかに震えていた。笑みの形に結ばれた唇はそのままに、歪んだその目だけが  
淋しげに光っていた。そのせいで内心、ひどく慌てたのだ。  
 ――おまえ、自分が何を言ったか分かっているの。  
 それでも憎憎しげに告げた姫君を鬼は低い笑い、そして……。  
 
「何を考えている」  
 
 口付けながら襟元を割ったのか。大きく開いた胸元に唇をつけたまま低い声が尋ねる。  
そうされると体の奥から声が響く。とろりと蜜を吐き出す腹の奥まで口付けをされている  
ようなおかしな錯覚を覚え、姫はふるふると首を振った。  
 その拍子に着物からこぼれた柔らかな塊。その二つの丘にやんわりと牙がたてられた。  
「あ……」  
 薄い皮膚を今にも食い破ろうとする、痛みを伴った熱に声が出た。艶めいた声に  
あせったのは他ならぬ自分自身で、しかし慌てて口を塞ごうとしたその手は鬼に捕われる。  
 すぐに長い舌と鋭い歯で愛撫が始まった。  
 
「やぁ、あ、ああ……」  
 細く切れ切れにこぼれる声がいやらしい。唇を噛み締め声を抑えようとすれば、  
むりやりに指を口内に突っ込まれるだけだともう学習している。姫君はこの行為でどんな  
に羞恥心を掻き立てられようと、そこから逃れる術を持たなかった。  
 恥ずかしさにくねる腰がいいのだ、と鬼は言う。  
 涙で濡らした目元が美しい、と。食ってしまいたいほどに愛らしいと。  
 
 本当はこの鬼が自分を今すぐにでも食らってしまいたいのだと、そんなことにはとうの  
昔に気づいていた。  
 
 涎を垂らして姫君の体をどろどろに愛撫し、胸も鎖骨のくぼみも下腹も、足の先さえ舌  
でねぶるその姿に、どうして気づかないでいられようか。  
 今日こそはその牙が体を裂くかもしれないと恐怖に怯え、しかし姫君は鬼の誘いを断れ  
なかった。  
 食らってしまいたいのなら、そうしてくれてもいいのだと、そんなことさえ思う。  
「ひゃぁんっ!」  
 爪の先が胸の先端を押しつぶす。ぞくぞくと背中を駆け抜ける快感に身をよじる。鬼の  
長い舌が視界の端に映り、それが姫の欲情をじりじりと煽った。  
 腕を首に絡める。固い毛先を指先で弄び、ねだるように唇を突き出した。舌と舌が触れ  
合い、すぐに卑猥な水音が響く。  
 どこもかしこも、姫君の体はみだらに溶けきっていた。  
 
 ――お前を殺してしまう前に殺してくれ。お前を愛している。失いたくない。  
 鬼の声を思い出す。あの夜。内心の動揺を押し隠して憎しみの声を上げた姫君に、鬼が  
ささやいた言葉。  
 
 ――愛しい姫君。お前を食いたくなどない。  
 
「あぁっ!」  
 陰部に突きたてられた太い指に、背中がしなる。ぎらぎらと欲望に瞳を輝かせ、童子は  
好色そうに笑った。  
 指をぬめつかせる液体は、もはや褥にまで滴り染みになっている。  
「淫乱な姫君。これは何だ?」  
 さらに奥深くへ進む指先が時折そっと内壁をこすった。息苦しさにうめく。……いや、  
息苦しさなどでは、ない。  
「やっ! やあ、やめ!」  
「嫌? 絡みついてくるのはそっちだろう。指を食いちぎるつもりか? なあ姫」  
 く、と指が曲がる。ぬめぬめと蜜をたらす姫君の内部、もはや知り尽くしたそこにある  
姫君の「女」である部分をなぞりながら。  
「ひぃっ! やぁぁああん!」  
 腹の底から湧き上がる衝撃に爪先が震える。反り返り誘うように小刻みに揺れるそれは  
すぐに掴まれ、じっとりと舌先で味わわれてしまう。指は唐突に引き抜かれてしまった。  
 急に引いた快感の熱に、姫君の内部は切なげに収縮した。  
 
「ああ、あ……」  
 爪先をそっと動かすと、酒呑童子の視線だけが持ち上がった。姫君の物欲しそうに  
ひくつく陰唇を見やり、口の端がゆっくりと上がる。  
 矜持など、今となってはどこにあろうか。姫君は震える手を肌に滑らせる。自身のもの  
であっても敏感になった体には苦しい。荒い息を吐きながら、手は胸へ、腹へ、そして  
薄い茂みへ向かう。  
 指が濡れそぼった陰唇を、静かに開いた。  
「欲しい、欲しいのぉ……」  
 唇から漏れるあさましい甘え声に頬が火照る。しかし止められない。  
「おねが……もう……」  
 潤んだ瞳から一粒、ころりと涙がこめかみへ落ちていった。  
「いいだろう、くれてやる」  
 鬼の腕が膝を割ったかと思えば、いきなり最奥にまで待ち焦がれた熱が打ち込まれた。  
 
 咄嗟のことで息ができない。小さく内部で跳ねる雄に、姫君の奥がじゅんと溶ける  
ようだ。  
 姫君が落ち着くのを待たず鬼の律動は始まった。腰を引き、また突き入れるたびに襞が  
擦れ、背筋を快感が駆けていく。  
 もう何も考えられない。姫君はただ高くあえぎながら、必死で鬼にしがみついた。そう  
しなければどこかに落ちてしまいそうなのだ。脳髄を絶え間なく刺激する快楽に飛ばされ、  
今にも気を失ってしまう。  
 どうにか耐えようとする姫君を嘲笑うかのように、ひときわ強く鬼の怒張がその最奥を  
抉った。  
「ひぁぁあああっ!」  
 絶頂を迎えるその瞬間、内部にどろりと濃いほとばしりが注がれた。  
 
 
 気を失っていたらしい。  
 うっすらと目を開いたときにはもう、酒呑童子は身なりを整えていた。  
 慌てて起き上がろうとする姫君の髪を鬼の手が一房すくいあげ、梳く。  
 妙に物悲しいその仕草に、姫君の心臓がはやる。牢の中で聞いた女の声が耳底で響いた。   
 嫌な予感が、する。  
「……どちらに行かれるのです」  
 先程まで快楽にむせび泣いていた声は嗄れ、そして震えていた。  
「客が来ている」  
「あれは客ではありません! あれは――ッ」  
 思わず声を荒げた姫君の顔をしげしげと見つめ、酒呑童子は小さく笑う。こんな穏やか  
な笑顔は初めて見た。そのせいで心臓が不安に騒ぐ。体の震えが止まらない。  
「知っているさ。俺にとって最期の夜だ。せいぜいもてなしてやろうじゃないか」  
 
 心臓が、一瞬その動きを止めたような気がした。  
「……どう、して」  
 姫君の視界が歪む。常にうっすら赤みを帯びた鬼の顔をまっすぐに見ていたいのに、  
役立たずの目は涙をたたえて視界をにじませるばかりだ。  
 黒い瑠璃でできたかのようにきらきらと光る瞳から視線をそらし、鬼は立ち上がった。  
「行かないでください!」  
 金切り声に、鬼の歩みが一度止まる。振り向いてはくれない。視界が歪み、ぼやける。  
「行かないで……」  
 とうとう褥に突っ伏してしゃくりあげ始めた姫君の耳に、鬼の声が静かに染みた。  
「愛しい姫君。お前を食いたくなどない」  
 障子が音もなく開く。月明かりが部屋に降りこみ、突っ伏した姫君の手元をも明るく  
照らした。視界の端に、鬼の影が細長く映る。  
 影がほんの刹那、震えたような気がしたのは目の錯覚か。  
「牢に戻って、じっとしていろ。……俺のことなど、忘れてしまえ」  
 障子が、閉じた。  
 
 
「姫君! ご無事だったのね!」  
 牢に戻ると、女たちが口々に安堵のため息をついた。  
 姫君の表情が暗いことには誰も気づかない。いや、気づいてはいてもその理由を知りは  
しないだろう。涙で腫れたまぶたを隠すように部屋の隅へ逃げる姫君に、女たちの小さな  
おしゃべりが届いた。  
「鬼たちは珍しくすっかり酔っ払っているらしいじゃない」  
「それに山伏の方の一人が詠んだ歌……あれはどう考えても鬼を退治するという意味よ」  
「ああ、やっぱり! 私たち、もう少しで出られるかもしれないわね!」  
 今までいつ殺されるか分からない恐怖に怯え続けた女たちの表情は明るい。  
 予想は当たっているだろう。酒呑童子が死を覚悟するほどの武士たちだ。やがてここは  
開かれ、懐かしい都に帰ることができる。そしてすべてが元通りになるのだ。  
「……酒呑童子」  
 愚かな鬼だった。  
 恐ろしく、愚かで、哀しい……愛しい、鬼だった。  
「さようなら……あなた」  
 呟いた姫君の声はあまりにか細く、誰の耳に届くこともなく闇に溶けていった。  
 
 
 
(終わり)  
 
 

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