「今宵の月は素晴らしい」  
 分厚いカーテンの端を捲り上げながら、鼠のような小男、シュレックはそう囁いた。異形の唇から  
紡がれるにしてはその声はあまりにも甘く、聞く者を魅了せずにはおかぬ響きを含んでいた。  
 
「そうは思わぬかね、レト君」  
 
 シュレックは背後の娘に声をかける。視線に限りない憎悪を込めて、彼を睨みつけるその娘は少女と  
言ってよいほど若い。容姿は十人並、日に焼けない青白い肌で手足ばかり細長いさまは孵化したての蜘蛛の  
子に似ている。ひ弱な姿に反して気ばかりは強いこの娘、レトを弄び、虐げるのはシュレックの楽しい日課  
であり、それは彼が何の役にも立たない少女を飼っておく(それは正しく飼育である。レトは彼なくして己の  
食事さえ得ることはできない)理由の一つである。ただしそれはあくまでも一つでしかないのだが。  
 
オーン、オォーン、ワオォ―――――・・・  
 
 月に酔っているのか、どこか遠くから狼の遠吠えが響いてくる。一般の人間ならば恐怖を呼び起こされるであろう  
それに、レトは壮大な音楽でも聴いているような、恋人に甘く囁かれているような陶酔の表情で聴き入っていた。  
 
「夜の子供たちだ。どんな歌を歌っているのか」  
 
 慌てて再び表情を引き締めるレトの様子を楽しく眺めながら、シュレックは再びカーテンに手をかける。  
「あの合唱に加わりたくはないかね、レト君」  
 答えを待たず、大きくカーテンを引き、窓を開け放った。そこに浮かぶのは、  
「今宵の月は本当に素晴らしい」  
 満月。  
 
「あ、ああぁぁァアアア・・・!!」  
 途端、レトの様子が一変する。顔色は青褪めて膝はがくがくと震え、一人で立つ事もままならない。  
「いや、いや、違う、ちがう、こんなのは嘘よ・・・やめてェッ!!」  
 その声は次第に人ならざる物のそれへと変化し始め、後を追うように骨格が歪み、頭髪が抜け落ち、  
やがて全身を緩やかに体毛が覆って行く。己の定めを受け入れられない、哀れな人狼。  
 これこそがシュレックが彼女を飼育するもう一つの理由。歪んだ愛情と嗜虐心のみならず、自分の  
趣味をも満足させる。すなわち、偉大な先人との同一化。  
(だって、物語の中の吸血鬼は、大抵人狼の下男を持っているものじゃないか?)  
 
 全身を痙攣させる少女をしばし観察した後、シュレックは残念そうに溜息をついた。実に面白い見世物では  
あるが、今日ばかりは彼女のために時間を割く訳には行かないのである。  
「本当は君のそばにいてやりたいのだが、今宵は大事な用事があってね」  
 シュレックの輪郭が朧になり、つま先から大気に溶けるが如く崩れていく。その言葉に混じるは虫の羽音。  
齢数千を経た吸血鬼である彼は、最早狼や蝙蝠に変ずるのみに留まらぬ。  
「帰宅は明日か明後日になってしまうだろう。すまないね」  
 そう告げると、シュレックであった羽虫の群れはさっと散開し、開いたままであった窓から飛び去っていった。  
 
 
 いつも変身するときは、体が変形していく痛みと虫が皮下を這ってるみたいな不快な感触がある。みしみしみしみし  
骨が伸びて、ずるずるずるずる虫が動く。毛が生えてくるちくちくした感じなんてこの二つの前じゃ問題にならない。  
あたしにとって一つだけ幸いだったのは、変身が終わると同時にこの両方が消えてくれるって事。垂れ流したよだれや  
涙と抜け落ちた髪の毛の真ん中に座り込んで、あたしはゆっくり息をする。  
 自分の体を見る。髪の毛と同じ色の毛皮になった肌と、かかとの位置がおかしくなった足。初めて変身した時は  
まともに歩く事もできなかったけど、何度も変身を重ねた今ではもう慣れた。あんまり確かめたくないけど、多分  
顔も狼みたく口が長くなってる筈。こんなになるならいっそ、全身狼になって四足で歩いたほうがずっとましだと  
思うんだけど、体形はあんまり人間のときと変わらない。あの吸血鬼(名前でなんか呼んでやらない)は、あたしが  
完璧に変身できなかったり、変身がつらかったりするのはまだ自分が人間だってことに執着してるからだって言ってた。  
人間やめちゃえば満月だからってホイホイ変身したりもしなくなるらしいんだけど、あたしの心のどっかはまだ自分が  
人間だって信じたいみたい。おかしいよね、あたしはもうバケモノなのに。  
 
 いつも通りに変身した体。いつもと違うのはあの吸血鬼がいないこと、だけ。  
 
 頑固に自分が人狼だって認めない心とは逆に、体は自分はケモノだって主張する。なにかを殺したり喰べたり・・・  
せっくすしたりしたいって。あたしが誘惑に負けなかったのは、あいつがずっと傍にいたから。誤解しないで欲しい、  
別にいやらしい事してるんじゃない。奴の名誉のために言うわけじゃないけど、あいつはそういう事をする為にあたしに  
触ったことは一度もない。  
 ただ、あたしが奴に弱みを見せたくないだけ。あたしがウサギを捕まえてばりばり食べている所や、イヌやオオカミに  
犯されてみっともなくよがったりしてる所なんかを見たら、あのクソ野郎はめちゃくちゃ喜ぶに違いない。大嫌いなあいつを  
ちょっとでも嬉しがらせるなんて考えたくもない。  
 でも、今晩は・・・。  
 
 オオカミの、仲間の声があたしに呼びかけてる。おいで、こっちにおいでって。心は行きたくないって言ってるのに、  
体は勝手に行こうとしてる。そしていつもの抑止力はなくて。  
 
《おいで》  
《おいで、同胞よ》  
 
 とうとうあたしは開かれた窓から飛び出した。あたしは駆ける。森の同胞たち、夜の子供たちの下へ、駆ける。  
心は傷ついて血を流しているのに、体は歓喜の声を上げていた。  
 

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