早いもので、二週間。  
 拾ってきた翌日には、猫はだいぶ元気を取り戻し、初期の懸念どおりこちらを警戒するそぶりを見せたほどだった。いやまあ、今更警戒したって遅いと思うけど。もし一服盛られていたらとうにあの世行きだったぞ、ヘンな猫。  
 それでも、二週間も経てばさすがに猫も懐いてくれて、今じゃ僕が部屋にいる時は絶えず隣で寝そべっているし、時には膝に擦り寄ってきたりする。猫って人に懐かない生き物だって聞いたんだけど、俗説だったのだろうか。  
 そんな我が家の猫らしき生物だが、仕草がやたら人間味を帯びていてびっくりする。  
 尻尾に悪戯してみたら二日ほど拗ねてそっぽを向かれ続けたし、ご飯をとり上げたら泣き出しそうな目をするし、構ってやれば目を輝かせるし、あえて無視したら引っかかれたし。あ、ひっかくといっても、爪が短い猫なので、どちらかと言えば、はたくに近い。  
 とかく枚挙には暇がないが、それを代表するいい例が、四日ほど前の話だ。  
 
 
 蛇口を捻ると、シャワーヘッドで分散した水が盛大に飛び出した。  
「うわぷっ」  
 慌てて水量を絞る。濡れてもいい服に着替えておいたのが幸いだった。  
 
 にょー! にょーーー!  
 
 そんな僕の腕の中で暴れまわる猫。ちなみに、俺の体は傷だらけだ。  
 だいたい察しは着くと思うけど、コイツは水が嫌いらしい。  
 ついさっきまでごろごろにょーんなんて言ってたくせに、水浴びだよーと連れて行こうとした瞬間、鳴き叫んで逃亡を図ろうとしたのだ。  
 それからはもう、筆舌に尽くすも尽くせぬ大乱闘が繰り広げられたが、こうしてシャワールームに連行することに成功した。ふふふ、完・全・勝・利。  
「だーいじょぶだって。軽く水で体流すだけだから」  
 あんまりに怖がるものだから、諭すように言ってみる。  
 じたばたじたばたにょーにょーにょー。  
 無駄らしい。そもそも言語が通じねえ(と思う。たまに、本当に理解してるんじゃないかと思うときがある)。  
「ええい、おとなしくお縄につけぃ!」  
 片手で二本の前足を押さえ、溺れてしまわないようには気をつけて全身洗ってやった。  
 
 
 二十分ほどして。  
 ふてくされて風呂のタイルに寝そべる猫。気のせいか、毛が真っ白に脱色してしまったように見える。勿論、漂白系の洗剤を使ったわけではない。単に手洗いしただけだ。  
 
 にょ……にょにょー。  
 
 何となく、しくしくと泣いているイメージの鳴き声だ。  
 「わたしもうオヨメに行けないっ!」みたいな? ……うん、邪推もいい所だ。  
「さてと、僕も体洗うかなーっと」  
 どうせ体はビショビショだし。  
 さっさと脱衣所に服を脱ぎ捨てて、裸で戻ってきたところで。  
 
 ………………にょ?  
 
 どうにか立ち上がる気力を取り戻したらしいヤツと、向かい合う形になった。  
 両者の目が、ぴたりと合う。  
 やがてヤツの視線が、僕の双眸から徐々に下へ。  
 首。  
 胸板。  
 腹。  
 鳩尾。  
 そして――――。  
 
 ――――きゅうっ。  
 
 ぼんっ! と、全身から水蒸気みたいなものを噴出して、猫は気絶した。  
「お、おい――!」  
 
 
 
 ――とまあ、こんな感じ。  
「……もしかしてお前、メスなのか?」  
 一端に恥らっていた、ということだろうか。  
 
 にょー。  
 
 聞いてみても分かりそうにない。  
 そんなわけで、目下、我が家のペットは猫としてのアイデンティティを欠落して止まない。  
 
 
 起承転結、ってあるけど、『転』の訪れは唐突だった。  
 ある日、大学から帰ってくると。  
「あ、おかえりなさいっ」  
 部屋の中に、女の人がいた。  
「あ、すいません」  
 ばたん。  
 戸を閉めた。どうやら部屋を間違えたようである。うーん、最近疲れが溜まっているのかなあ。こないだからレポートで徹夜気味だったから、体に響いているのかもしれない。  
 ところが、表札を確認すると、『高野 聡介(たかの そうすけ)』とある。確かに僕の名前だ。部屋番号も二〇三だし。あれ、おかしいな。  
「あ、あのー、聡介さん?」  
 頼りない声と共に、今度は内側から戸が開けられた。  
 そして、そこから出てきた女の人を見て、僕は息を呑んだ。  
 ――うわ、すげえ美人。  
 大きな目や輪郭にはまだ幼さが残っていて、顔立ちからは無垢な印象を受ける。ちょんと小首を傾げた不思議そうな顔には、思わず心が温まってしまいそう。なのに、艶のある唇だとか長く伸びた桃色の髪には、どこか妖艶な色気が漂っている。  
 体は小柄で、そんなに身長は高くない。だというのに、着ているTシャツ――なぜか男物だ――を押し上げる双丘は、男なら思わず目を奪われるほど。きゅっと締まったウエストが、それを殊更に強調する。ボタンがちぎれてしまうんじゃなかろうかと、莫迦な思考をしてしまう。  
 あどけないのに大人の色香も兼ね備えている、そんなアンバランスな魅力を持った人だった。  
 対する僕はといえば、完全に身動きが取れないでいた。  
 もちろん、その人が相当な美人だったこともある。だけどそれよりも、そんな人が俺の部屋から出てきたことへの衝撃と、何より、  
「え、ええあぅっと、その、あの」  
「……どうかしましたか?」  
 相変わらずキョトンとした顔で見上げてくる女の人。一歩距離を詰められて、自分の顔が熱くなるのがわかる。  
 いや、その。し、ししし、しした。  
「ああああああ、の、すす、すかーとというかあの」  
「はい?」  
 いや、だから。  
 
 なんで、なんで下履いてないんですかー!  
 
 声にならない叫びはもちろん、無邪気な笑顔で対峙する相手に届く筈もなく。  
 何をトチ狂ったのか知らないが、女の人の着装はシャツ一枚だったのだ。  
 シャツの裾から下はまるで何も着ておらず、目にも眩しい肌の色が白のカッターシャツと相まって映えている。こちらもまたふっくらとしたヒップを覆うシャツは、  
長さが幸いしてか、かろうじて股下少しまでを隠しているのだけど、それがまたチラリズムというか。健康的で、見た感じにもハリのある太ももは、僕の目を捕らえて離さない。  
 そんなだから、やがて女の人が僕の視線の先を追い始めたのはごく自然なことで。  
 その先に繰り広げられる露出狂パラダイス。  
「あ、き、きゃうううっ! ごめんなさいー!!」  
 一瞬で顔を真っ赤に染めた女の人は、部屋の中へ逃げていった。いや、だからそこは僕の部屋であってですね。  
 どずんばたんと家捜しめいた音をしばらくドア越しに聞いていると。  
 申し訳なさそうに、ゆっくりと戸が開いた。  
 今度はちゃんとジーンズをはいている。こちらも男物なのか、サイズが合っていない。  
「あのう……。先程は、破廉恥な真似をすみませんでした……」  
 むしろありがたかったくらいだったが、黙っておくことにした。  
「いえ、こちらこそすいません。……それで、そこは一応僕の部屋なんですけども」  
 さらに言うなら、あなたの着ている服は見覚えがあるというかぶっちゃけ僕のです。こないだの安売りで買ったやつ。  
「はい。聡介さん、おかえりなさい」  
 しかし女の人は悪びれる様子もなく、ごく当たり前のように、僕を中に招き入れるような所作をした。どうも話がかみ合っていないようだ。  
「いや、だからですね」  
「あ、そっか。突然これじゃ分かりませんよね」  
 女の人は、勝手に得心のいった顔をする。対照的に置いてけぼりの僕。  
「わたし、リラノっていいます。ええと、二週間ほど前に聡介さんに拾ってもらったんですけど」  
 二週間。  
 反芻する。  
 女の人を『拾う』なんて経験には乏しい、というか皆無の筈なのだが。  
「――あ」  
 拾う。  
 二週間前。  
 桃色の髪。  
 三つのファクターが何となく合致してしまい、でもそんなのありえないと理性がせめぐ。  
「もしかして――――猫?」  
「――私的には猫のつもりはなかったんですけど……そういうことになるかな」  
 理性を砕く肯定の言葉に、僕はまた固まってしまった。  
 
 
 ――斯様なくだりで今に至る。  
 ダブルベッドはおろかセミダブルですらないベッドは、二人も入ればぎゅうぎゅうだ。  
 リラノさんとしては猫っぽいあの姿の時と同じ感覚なのかもしれないけど、こっちとしては精神衛生に大変よろしくない。  
 さすがに顔をあわせるのは恥ずかしすぎて、背中を向けているのだが、背中に感じる柔らかいのはリラノさんのあれだったりするんだろうかと膨らむ妄想。  
 ……僕、寝れるんだろうか。  
「聡介さん……起きて、ますか?」  
 一人で悶々としていると、そんな囁きが聞こえた。  
「起きてますよ」  
 遠足前日並みです。  
「あのぅ……ええと、ですね」  
 リラノさんは可聴域ぎりぎりの声でぼそぼそと呟く。  
「う……えと、え、え、え……えっ……えー」  
 耳を済ませてみても、躊躇うような響きの言葉は、話し手の意図をさっぱりつかませない。  
「えっえ、ええええっ――えっ」  
 なんだかえ漬けにされそうだ。  
「えええええええぇっと、お、おやすみなさいっ!」  
 最後に一際響く声でそう言ったかと思うと、共有の布団がもぞもぞと動く。反対を向いたようだった。  
 背中合わせに、僕はリラノさんの言いたかったことについてあてもなく考えながら眠りに落ちていった。  
 
 
 
 
 
 ――私がサキュバス達の間で落ちこぼれと言われる由縁はこの辺にあるようだった。  
 私たちのような悪魔にとって、自分の生まれ――つまり血統は非常に重要視される。  
 魔力の総量は努力次第で後天的に増やすことができても、血が全てを左右する魔力質は先天的に生まれもってのものだからだ。  
 その点で言えば、私はかなりのエリート街道を行ってしかるべきだろう。  
 ところが私は、優秀な血と同時に厄介なものまで生まれもってしまった。  
 本人の言うところで、ほんの僅かばかりちょっと。  
 親友の言うところで、とても致命的に酷く。  
 
 ――奥手な性格だったのだ。  
 
 致命的に、というのは過大表現でもなんでもない。  
 魔力の枯渇は、悪魔にとっては最大に避けるべきことの一つである。サキュバスが魔力の供給を受けるには奥手だなんて言っていられないし実際そんなサキュバスを私は見たことがない。  
 この私でさえ学校では将来のためにそういうことを学んだし、交わりの経験もないわけではない。そうでなければ私は今頃生きてはいなかったろう。  
 ……まあ別に吸精のためにぜったい情事の必要があるかといえば無いし、元々サキュバスは夢を操ったりする方が本職みたいなものだもん。別にちょっと奥手だって、こっそり夢に干渉するなり方法は幾らでもあるもん。  
 ――まあとにかく、素質がどうあれ、まともに食事も摂れないような奴がエリートなどできるわけがなく。  
 私にはいつも「落ちこぼれ」のレッテルが付きまとった。  
 
 聡介さんはもう寝ちゃったみたいだけど、私はまだどきどきして、とてもじゃないけど寝ることなんてできなさそう。  
 ――聡介さん。  
 助けてもらってからもう二週間は経つだろうか。  
 男の人に優しくしてもらった、というか親しくした経験なんて全然無くて、始めのうちはすごく警戒してた。  
 もし目が覚めてすぐ動けるようになっていたら、とっくにここを離れていただろう。  
 あとちょっと、って思っているうちにいつの間にか、聡介さんと居ると安心できるようになって。気付いたらすっかり居着いてしまった。  
 体を洗われたときなんて、本当に恥ずかしかった。聡介さんの、その……見ちゃったし。  
 かおを見るだけでどきどきなのに、その、えっちな事したいなんて言えるわけがない。  
 この姿に戻ったからにはなんとか魔力を得ないといけない、と、今日は聡介さんが大学に言ってる間に決心を固めたつもりだったのだけど。結果は惨敗である。  
 はあ、と、ため息を一つ吐いて、聡介さんの方に向き直る。  
 大きな背中に顔を寄せて、私はひとり頬を熱くした。  
 
 
 

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