「らんららんららーん」  
倉元夕菜は楽しげな、というよりは投げやりな鼻歌を歌いながら自宅のドアを開けた。  
「ただいま帰りました……っと」  
返事がないのは分かっているけれど、一応は帰宅を告げてみる。  
「……」  
案の定返事はなし。  
返事がないどころかキッチンの電気まで消されている。  
「ふーざけんなっつうの」  
夕菜はキッチンの電気をつけると、ハンドバッグをテーブルの上に置き、脱いだコートを椅子の背もたれにかけた。  
流しの方を見ると、食器は洗われて水切りかごの中に入れられている。  
普段は食べ終わると皿をそのままテーブルに置いて、部屋に戻ってしまう夫のことだから  
片づけなんてしていないかと思っていたが、一人なら自分のものを洗うというくらいの配慮はあるらしい。  
夕菜は手を洗いながら、初めて夫の部屋に行った時のことを思い出していた。  
あの時はいつから洗っていないのか分からないような食器や鍋が流しに山積みになっていた。  
ゴミ箱にはコンビニ弁当の空きパックの山。  
憧れていた相手ではあったけれど、その光景を見てから憧れはどこかに消え、  
代わりに生まれ持った世話焼き根性が顔を出した。  
それからしばらく彼の家へ通い、家事をするうちに半同棲生活になり、結婚に至ったのだが、  
結婚してからも生活はほとんど変わらず、一年経たないうちに冷めた夫婦になってしまった。  
「何がいけないんですかねえ」  
食器を拭きながら呟いてみる。  
自分の努力が足りないのだろうか?  
いや、自分は仕事をしながら家事もちゃんとやっている。  
バリバリのキャリアウーマンではないかもしれないけれど、たいていは定時に上がれる仕事だけれど、  
結婚しました、はい辞めます、と簡単に言えるようなポジションではない。  
「何が悪いのよ……」  
夕菜は苛立って食器を乱暴に食器棚に戻した。  
今日は高校のクラス会があった。  
友人のほとんどは自分と同じように結婚して、子供がいたり、子供がいなくても楽しい生活を送っているようだった。  
結婚していない友人たちは、今は恋愛より仕事が一番だ、と口をそろえて言っていた。  
こんなつまらない日々を送っているのは自分だけのような気がして、最近では気にならなくなっていたことが  
今日はやけに夕菜を苛立たせる。  
いつも考えないようにしていることが繰り返し頭をよぎり、夕菜は思わずそれを口に出してしまった。  
「やっぱり、前の奥さんが忘れられないのかな」  
 
ポロリと涙がこぼれた。  
夫は前の結婚相手と死別している。  
とても仲の良い夫婦だったらしい。  
それなのに、今の自分たちときたらほぼ赤の他人だ。  
結婚する前の方がまだ仲が良かった。  
「うう〜……うっ……うくっ……」  
クラス会は楽しかったし、泣くのは自分の主義に反するけれど、一度泣き出してしまうと涙というやつは止まってくれない。  
夕菜は諦めて、納得するまで泣くことにしたのだったが、今日は思い切り泣いてやろうと思ったところで、  
「どうした!」  
とキッチンのドアが開いた。  
「はい?」  
ドアの方を向くと、いつもどこかだるそうに眉間にしわを寄せている夫が目を見開いてこっちにやってきた。  
「……何があった?」  
「……ふぇ……別に、特に……」  
「何もないのに泣く人間がいるか。  
 どうした?クラス会で意地悪でもされたのか?」  
夫は優しく肩に手を置いてそう言ってくれたのだけれど、あまりに見当違いな発言に夕菜は思わず吹き出してしまった。  
夫の眉間にしわが寄り、見慣れた顔になった。  
「何故笑うんだ。帰ってきたのに、いつまでも部屋に来ないからどうしたのかと思えば泣いている。  
 君が泣くなんてよっぽどのことだろう?  
 それなのに、僕が聞いたら笑うとは……」  
夕菜はティッシュで涙を拭い、鼻をかむと、  
「ごめんなさい。  
 ……心配してくれてありがとう」  
と言った。  
冷めていると思っていたけれど、自分が泣けば夫は飛んで来てくれるらしい。  
「もういいの」  
夕菜は首を横に振り、夫の胸に額を寄せてみた。  
少しは抱きしめてもらえるかと思って。  
 
しかし、夫は夕菜の両肩を掴んで自分から引き離すと、  
「良くないのだが」  
と眉間のしわをさらに深くした。  
「君がなぜ泣いていたのか分からないと、大変に不愉快だ。  
 原因はなんだ?クラス会か?仕事か?……それとも僕か」  
なんだか以前に聞いたような言い回しだ。  
そう言えば、自分からプロポーズした時に、  
『どうも君は本気で言っているらしいが、一回りも離れた僕にそんなことを言う目的はなんだ?  
 財産か?生活の安定か?…………それとも、僕か』  
と聞かれた。  
それを思い出してまた吹き出すと、  
「なんなんだ、今日の君は」  
と怒られてしまった。  
あまり話したい内容でもなかったけれど、話さないと彼は納得してくれそうになかったから、  
夕菜はしわの寄った夫の眉間を人差し指で撫でながら、  
「私ね、隆二さんに愛されてないかと思ってたの」  
夫の表情が、不愉快極まりない発言だ、と告げている。  
「でもね、私が泣いたら隆二さんが来てくれて、心配してくれたから、もうそれで満足しちゃった」  
「何を基準に愛されてないと」  
「だって、会話もエッチも少ないじゃない」  
「君はセックスで愛を量るのか」  
この言葉に今度はこちらが不愉快な発言だ、と眉間にしわを寄せたくなった。  
「そうじゃないけど、月に一回か二回だし、明らかに排卵日狙ってるし、  
 前戯短いし、じゃあ私がって何かしようとすると、しなくていいって言うでしょう?  
 エッチだけが愛じゃないけど、そんな作業みたいなエッチ、私は嫌ですー」  
今まで言いたくても言えずにいたことを一気に言うと、かなり胸がすっきりした。  
「別に電話してる最中にまで触って、って隆二さんに言うつもりはないけど、  
 もう少し楽しいエッチしたってばちは当たらないと」  
調子に乗ってそこまで言ったところで、夫が咳払いをした。  
 
「なに?」  
「君がだな……嫌だと言ったんだぞ」  
「なにを?」  
「おじさんくさいねっとりしたセックスは嫌だ、と」  
「……そうだっけ?」  
そんなことを言った記憶はまるでない。  
そもそも夫にそんな風に扱われた記憶がない。  
が、夫がこれだけきっぱりと言うところを見ると、言ったことがあるのだろう。  
「そうだ。僕はおじさんなので、どうしてもそうなってしまうから控えていたのに、  
 控えていたら今度は愛を感じないというのはどういう了見かな?」  
夫の眉間を弄っていた手を掴まれた。  
怒っている訳ではないらしい。  
むしろ口元にうっすらと笑みを浮かべている。  
なんだか嫌な予感がしてきた。  
嫌な予感がしてきたのに、いい言い訳を思いつかない。  
むしろ、この笑みに対する自分の予測が正しいなら、夫はもしかしたら色々してくれるかもしれない、  
と期待さえしてしまった。  
「ええと……でも、もう私もおばさんの域だからいいかな、と」  
「おばさんはやめなさい。君がおばさんなら僕はおじいさんになってしまう」  
「いや、まだおじいさんていうほど」  
「そうだな。枯れていない」  
夫はにやりとやらしく笑った。  
こんな表情の夫は初めて見る。  
そんな夫に対してなのか、夫が言うところのねっとりしたものに対してなのか分からなかったけれど、  
夕菜の鼓動は明らかに早くなってきていた。  
「話はもっとするようにしよう。  
 僕はあまり話をするのが得意ではないけれど、何かあれば話すから、夕菜もなんでも話すといい」  
夕菜が頷くと、頭にぽんと手を乗せられた。  
「まだ先は長いんだ。ゆっくりと夫婦になっていけばいいだろう?」  
さっきとは違う意味で涙が出てきて、目をこすると、夫が笑った。  
 
「君は意外と泣き虫だな」  
「今日はたまたま。隆二さんが優しいんだもん」  
「この後も優しくするとは限らない」  
顔を上げて夫の顔を見ると彼はわざとらしく肩をすくめて見せた。  
「……そんなこと言われると期待しちゃうんですけど」  
「……君は意外とスケベだったんだな」  
「スケベなんじゃなくて、隆二さんと触れ合いたいだけ」  
「物は言いようと」  
「隆二さん、照れてる?」  
「そんなことはない」  
夫は目を逸らして、また咳払いをした。  
やはり少し照れているらしい。  
夫とこういうやり取りをしたこと自体、初めてかもしれない。  
初めて同じベッドに入った時はそういう雰囲気があったから、その流れに乗っていて、大した会話はなかった。  
その後もどちらかが身体を寄せてそのままそういう流れになった。  
久しぶりのまともな会話がこれだから、照れるのも無理はないかもしれない。  
自分だってなんだか今までに感じたことのない高揚感を感じている。  
このままでは寝室に行くきっかけを掴めそうにない、と思っていたところで夕菜は友人の惚気話を思い出した。  
「ねえ、そうだ。シャワー浴びよう?  
 背中流してあげる」  
「それはまた急な話だな」  
「友達の惚気話聞いてね、私も隆二さんにしてあげたい、って思ってたの」  
「……じゃあお願いしようか」  
「まかせてよ」  
夕菜はぐっとこぶしを作って久しぶりに取っておきの笑顔を夫に見せると、彼の手を引いてバスルームへと足を向けた。  
 
(了)  
 

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