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第一話「ココア程度の甘さは必要か」
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「この馬鹿」
楓は不機嫌に言った。
何も僕は間違ったことをしたわけではない。
五時に迎えに来てと言われたから、健気な犬よろしく愛車のぼろい軽四でぴったり五時に迎えに来たのだ。
なのに、だ。
いきなり馬鹿は酷いと思う。
優しい言葉の一つや二つをくれたりしないのか。
「なんで。時間通り来たじゃないか」
「馬鹿ね。雅紀今日暇だったでしょ。だったら五分前にはもう着いてなさいよ」
とんでもない理由だ。
「そんな理不尽な……」
しまったと思ったが、時すでに遅し、助手席の楓はぷうと不機嫌そうに頬を膨らませていた。
「あ、いや、何でもない」
あわてて謝るも無駄だ。
「へー、雅紀そんなこと言うんだー」
「いひゃいいひゃい」
助手席からぎゅぅと左頬をつねられた。
ただちゃんと手加減だけはされていて、やりすぎるといったことはない。
「痛かった」
「文句を垂れるから」
「全く、うちの楓ちゃんはどうしてこんなにすぐ手が出るのかしらお母さん悲しいわ」
「雅紀に育てられた覚えはない」
言われながらまたぎゅうとつねられた。今度はかなり痛かった。
まず僕が家に帰って最初にすることは夕飯を作ることだった。
楓は僕に対してあらゆることで理不尽だが料理当番とか掃除当番とかだけは平等である。
もっとも洗濯当番はさすがに楓の下着を扱うのは気が引けるので別だが。食事当番は各曜
日ごとにどちらがやるかが決めてあって、今日は僕の番だった。
「今日」
冷蔵庫の前にしゃがみ込んでいる僕に楓が話しかけてきた。
「晩ご飯何」
僕が見ている、ノートの切れ端。冷蔵庫にマグネットで止めてあって、今冷蔵庫に入ってい
るものが書いてある。食材を無駄にしないようにとの楓の知恵だ。
それを見ながら僕は言った。
「んーとな、シチューかカレーかなあ。どっちがいい?」
「シチューかな。カレーはちょっと前にやったし」
「んじゃカレーな」
「シチューがいいって言ってるじゃない話を聞け」
「冗談だって。……ちょ、そんな叩くな」
楓はばしばしと遠慮なく僕の頭を叩いた。
僕の母親と楓の父親は姉弟で、僕と楓はいわゆるいとこだ。昔は夏休みと正月などに合うだ
けだった。
僕より二歳年下の楓はほどよく僕に懐いていたように思えるし、僕もそんな楓をほどよくかわ
いがっていた。
実家は『ど』がつくほどの田舎だった。その分家は大きいが、近所に同世代の子供はいない。
そんなわけで楓の家族がたまに家に来たときは二人でよく遊んだ。二人で裏山を駆け回った。
二人で川で泳いだ。二人でかくれんぼをした。ある程度大きくなると本を読んだり話をしたり、映
画を見たりゲームをしたり。
どれだけ大きくなっても遊ばなくなったということにはならなかった。
こき使われるようにはなったが、特に嫌われているわけでもなかったと思う。
そして受験生になり都会に憧れた僕は、都会の大学を受験し無事受かった。
当然、自宅から通うことなどができるはずもなく、僕は一人暮らしを始めた。もともと手先が器
用で料理や掃除などは好きだったので、一人暮らしに慣れるのに時間はかからなかった。
そんな自由で勝手気ままな一人暮らしを満喫している僕の元に楓は転がり込んで来た。
突然だった。
近所のスーパーのタイムセールから帰ってくると部屋の前には大きな荷物と楓がいて、不機嫌
そうに「遅い」と僕に言ったのを覚えている。楓の家から今僕が住んでいるところまではかなり遠く、
しかも楓はここに来たことは一度もない。なぜ彼女がここにいるのかわからなかった。
とりあえずと楓を部屋に入れてここにいる理由を訊ねた。何か大変な理由で家出でもしてきたの
かと僕ははらはらした。
しかし楓のの言い分はただ一つ、「大学が雅紀と同じだからここに住ませろ」だった。
色々まずいことがあるのではないか。
僕はそう楓に言った。一応は男である僕がそのうち変な気を起こすかもしれない。彼氏でも夫でも
なく家族と言うには少し違う男と年頃の女の子が暮らすことは誰がどう見ても問題だ。それに僕の部
屋は六畳の一部屋で、もちろん分割した生活などは到底不可能であり、二人で暮らすとなるとプライ
バシーもクソもないような空間なのだ。というか二人で暮らすような部屋じゃない。
しかしそういった僕の説得を聞いた後の彼女の返事はただ一言、「そんなもの関係ない」で、僕がど
んなに説得を試みても彼女は頑なに「ここに住む」と言い張った。
しぶる僕に楓は、彼女の両親と僕の両親の許可はすでに取ってある、もう疲れた寝ると言って勝手
に僕の布団を押し入れから出して五分もしないうちにすやすやと寝息を立て始めたのだ。そのとき僕
はそういえば楓は周りのことなどあまり気にしない性格だったなあとしみじみと思い出した。
しかし僕は戸惑った。
当たり前だ。女っ気のなかった僕の生活に「女」という理解不能な生き物が混入してきたのだ。
目に見えておろおろとする僕に対して楓はいたって自然体であり、それまでと同じように僕に接した。
何も変わらずに接してくれる楓のおかげで、僕は変に気を張るのも馬鹿らしくなりすぐに二人暮らしに
慣れることができたのかもしれない。
――もっとも、多少の色気は欲しい気もしたが。
「雅紀」
ホワイトシチューの夕飯を食べ終え、二人交代で風呂に行き、いつものように二人自由な時
間を過ごしているとき。
ぽちぽちとパソコンのキーを叩く僕に、かりかりとノートにペンを走らす楓は言った。
「コーヒー」
たった一言。だけどそれは「コーヒーを用意しろ」という楓からの命令であり、僕に断る権限は
ない。
言われてから切らしているコーヒー豆をまだ買ってきていないことに気付き、その旨を告げる
とがりがりとペンを走らす楓にぐちぐちと文句を言われた。
代わりにバーゲンであまり飲みもしないのに衝動買いしてしまったココアを用意し、「甘すぎる」
と一蹴された。
「これが俺の楓へ向ける愛の甘さかな」
ふざけつつ言ってみると、楓は目をまん丸くして僕を見ていた。
「……本気?」
「冗談。……すまん、謝るから、そんな叩くなって」
ばしばしとそこらに置いてあったぬいぐるみ(ミニチュアダックスフンド・佐藤君。命名者・楓)で叩
かれながらもしてやったりとにやける顔を抑えきれず、その顔を楓に見られてさらに叩かれること
になった。
叩いて叩いて、楓は急に叩くのをやめた。頭をガードしていた腕の隙間から見えた彼女の目には
憐れみというかなんというか、そういった感情が浮かんでいた。
「はあ……そんなこと言ってるから彼女できないんだよ」
「いんだよ。お前だって彼氏いないだろ」
そう言うと、楓はつんと唇を尖らした。
「私はいーんですー。雅紀には関係ないんですぅー」
「負け惜しみ。……ちょ、図星だからって叩くな」
「うるさいうるさい、私にだって、私にだって、その気になれば彼氏の一人や二人簡単に」
「俺みたいなんかと暮らしてる時点で無理だって」
「うっさい!」
何が気に入らなかったのか楓は佐藤君を放り出すと今度はぱちぱちと平手で僕を叩き始めた。
当然手はぬいぐるみのように柔らかいわけではないのでそこそこに痛い。
「痛い痛い痛い! 手加減手加減!」
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿………」
言いながら楓は叩き続ける。
部屋の隅に逃げるも部屋は狭い。四つんばいで逃げる僕の尻を同じく四つんばいで追いかけなが
ら楓は叩く。。
追いつめられてばちばち叩かれること数十秒、楓はぴたりと叩くのをやめた。
「あーっ、すっきりした」
「俺はストレス解消の道具か」
「うん」
「うわぁあっさり言い切ったよ怖いよこの子」
「悪いか独り身」
楓はにやりと意地の悪い笑みを浮かべている。
「お前もお前も」
「私はできないんじゃなくて作らないんですー」
「なんでさ」
「雅紀には関係ない」
言いながら楓はぴしりとデコピンを僕の額に放った。
「痛い」
「それに、雅紀みたいに鈍感な人じゃわからないから」
ずいといつも保つ距離よりずっと近い位置で顔をのぞき込まれる。真っ黒な瞳が僕の目をまっすぐ
に捉える。楓にまっすぐに目を見られるのはあまり得意ではない。
軽く身を引きつつ、ふわりと香る楓の匂いにどぎまぎする。
「勝手に言ってろ」
これ以上は耐えられないと僕は目を逸らした。距離が近すぎた。今の僕と楓のよくわからない関係
にはふさわしくない距離だ。
「あとなあ、楓」
「?」
「お前を彼女にするような物好きは滅多にいない。……いてっ」
僕をもう一発叩いてから楓ははあと呆れたようにため息をもらす。
「でもね、雅紀」
ココアの入った楓専用のスヌーピーの描かれたマグカップを手に取って、一口飲む。
「たまにはこんなのもいいと思わない?」
そう言ってマグカップを床に置き、僕の肩に手を置き目をつむった。
キスをしろということなのだろうか。
「あー……たまにはな」
僕はそれだけ言って、ココアの味がする甘い唇にキスを落とした。
――続く。