景色が流れて行く。
窓際に座った利恵はずっと首を右に向けて動かなかった。口も利かない。
金は無い癖時間も暇もある俺達だから、安く遠出して日がなゆっくり出来る場所を探すと自然と行き先はそうなる。
博多から出てすぐの半端な駅から乗るこだまの自由席なんてがら空きに決まっていて、棚に二人分の小荷物を上げる。
俺達より他誰も乗ってこない通路を塞ぎながら、利恵が奥へ行くのを待った。
「…………窓際、行かないの?」
大層不思議な顔をして言うから、二人して黙り込んで突っ立っていた。
俺よりもずっと大人なこの馴染がどういうつもりでそれを言ったのかは大方わかるけれども、
その大人が子供と同じほどはしゃぐ事もあることぐらい子供の俺でも読み取れる。
相手が利恵ならなおのことで、間もなく列車が動き始めて、ほら危ない、さっさと座りなとその目新しい靴を窓際に歩かせた。
自分の土地から離れて行く景色というのは得てして飽きない。
もれなくそうであろう利恵の、綺麗な艶のある黒をした髪の落ちる後頭部を見つめながら考えていた。
目的地まであと三時間あって、乗り合わせた駅を出てから四時間ほど経っている。
その間これは振り向くことも口を開くことも舟をこぐこともせず、ただ、ただ窓を眺めていた。
顎をさすると切り傷が痛い。
こう長く、常に一緒にいるというので張り切って念入りにやったのが仇だった。
しかしこれほど景色に夢中というのなら、利恵に見られる心配もない。何やらわからない溜め息を一つついた。
実に下らない話だ。しかし心配でたまらない。
温泉宿に向かうのだ。二人で。二人きりで。
部屋は一つしか取っていないし、向こうに着くのは夕方である。宿に入って汗を流して、夕飯を済ませばもう夜だ。
女の子は皆耳年増等と言うけれど、童貞の俺には確かめるべくもない。
しかし十余年幼馴染をやってきて、近くやっと互いの気持ちに気付く事が出来てこの切符を買ったのだ。
何がしか変わるに違いない。その確実に訪れる変化の前に俺は不安でしょうがなかった。
確かに普段のお前はそうおしゃべりではなくて、話すことが無ければ黙っている奴だ。
しかしこれから向かう旅館がどんな部屋なんだろうねとか聞いて、俺がネットで見たけど
綺麗だったよと答えて笑い合うとか、一つはそういうのがあっても良いのではないか。
幸いこの年までにきび一つ出来なかった顔に今朝刻まれたこの小さな傷さえ、どこかで俺を強ばらせる。
癖もないのに先程から全く飽きずに揺らさない髪を飽きるほど眺めて、
もう駄目だと腕を伸ばしたとき、ふっと利恵は言った。
「温泉、まだかなー……」
引っ込めた腕が髪を揺らした。気が付いて利恵が振り向く。目が合った。
その目は、まるで―――。
「……まだ三時間もあるぞ。宿にも入らにゃいかんし、そう焦ってもしょうがないよ」
嬉しいような怖いような、あれこれとがないまぜになってわからないまま口を開くと、案外出たのは自然な言葉だった。
「焦ってなんかないよ」
駅名でも地名でもなく、温泉が楽しみだと。しかし焦ってなんかいないと、彼女は言った。
「嬉しくて、待ちきれないだけ。楽しみは、待ってれば来るんだから。別に焦ってなんか、ないよ」
さして気取ることもなく、再び窓の方に向き直りながら利恵は言った。
――ああ、やっぱり利恵は大人だ。いくらこっちが大人ぶって席を譲っても、
景色にはしゃいだのを見てにやけてみても、どうしようもなく利恵は大人だ。
待っていれば楽しみはやって来るのだ。それを利恵はわかっている。
焦りながら迎えに行くのではなく、ゆったりと待っているのだ。
今までだってそうしてきたのを、何故忘れていたのだろう。この景色だって、急に流れるのが速くなるわけではなかった。
同じスピードで走り続けて、時々ゆっくり止まることもあるだろう。いちいち時間をかけて止まり、そしてまたスピードを上げていく。
結局これはそういうもので、そうにしかならないもので、そして俺達はこれからもそうして行くのだろう。
いつしか俺の目線は利恵の髪ではなく、奥の窓を流れる景色に移っていた。
「…………楽しいな」
今度は俺の方から言葉を掛ける。
「……………………うん」
言葉少なに、でも俺達には十分な答え。
視界の横の髪が、少しだけ揺れた気がした。