最初に目に入ったのは、白い天井だった。
どうやら眠っていたらしい。
身体を起こそうとすると、なぜかひどい痛みが襲ってきた。
それでもやっとこさ上半身を起こすと、左足が吊されているのが目に入った。
「……あれ?」
部屋を見回す。
白い壁、白い天井。対面にはベッドが二つ。どちらも白くて清潔な感じ。
まるで病院の一室だ。少なくとも俺の部屋ではない。
いや、そもそも『俺の部屋』はどんな……
「あ、起きた」
隣から声がかかる。左を向くと、ベッドがもう一つ。
俺と同じような姿勢のパジャマ姿の女性が一人、こっちを向いて会釈してきた。
「こんにちは」
「あ、ども」
簡単に挨拶を返す。
女性は頭に包帯を巻いていた。そこ以外は見た目に外傷などはない。
俺はそのことに安堵し……なぜだ?こんな女性を俺は知らない。
いや、それ以前に……
「あの、ここは?」
疑問をそのまま口に出す。女性も少し首をかしげながら、
「病院だそうです。あなたも事故にあわれたそうですよ」
と教えてくれた。
「え、『あなたも?』」
「わたしも同じ事故にあったみたいです。よくわからないんですけど」
ちょっと困ったように微笑む女性。事故ったことを覚えてないのか、この人は。
「あなたは?」
「え?」
「事故のこと、覚えてます?」
実は俺も、人のことは言えなかった。いや、俺の場合はもっとひどいかもしれない。
「いや、そもそも自分の名前がわからない」
「え?」
「いわゆる『記憶喪失』っていうのかもしれない。
自分が誰かがわからないんだ」
言葉にすると、底知れない不安感が襲ってきた。世界に一人残された気分。
自分が誰かわからない。それがこんなに怖いことだなんて。
知らず、身体が震えていた。
「……よかった」
その言葉に顔をあげる。女性は本当に安堵したような表\情で、
「私も、そうなんです。奇遇ですね」
俺に向かって、微笑んでくれた。
一瞬、誰かの泣き顔が頭に浮かんだ気がしたのは何故だろうか。
ほどなく、部屋に看護師さんらしき人が来た。
二、三の質問をされ、逆に俺も質問を返した。
それから体温を計られ、しばらく待つように言われた。
言われた通りにすると、今度は医者と思われる人物がきて、俺の状態が説明された。
曰く、交通事故だったらしい。
車にはねられた俺は左足を骨折、他にも打撲とか色々。どうりで節々が痛むと思った。
頭も打ったようで、記憶がないのはそれが原因かもしれないとのことだ。
ふと頭を触る。確かに包帯が巻かれていた。
「あの、彼女は大丈夫なんですか?」
「彼女?」
「俺の隣にいた……」
包帯で思い出した。あの女性も頭に包帯をしていたはずだ。
ちなみに彼女は検査を受けるとのことで、この場にはいない。
医者はそれでわかったのか、あぁ秋吉さんね、と言って、
「彼女は頭部以外に怪我はなかったよ。ちゃんと庇ったんだね」
と答えてくれた。
それから、もうすぐ親が来ることを伝えてから、医者は席をたった。
しばらくしてから、一組の男女が俺のもとへやってきた。40代後半といったところか。
やはり、記憶にない顔だった。残念。
女性は俺の母だと言った。わざわざ母子手帖まで持ち出してきて、俺への証拠とする。
その間、男性は黙りっぱなしだった。厳しい顔で俺を見ている。
「えー、とあなたが母さんですよね?」
今度はアルバムらしき物を取り出してきた『母』を制止し、尋ねる。
そうよそれともまだ信用できないなら今度はこのアンタの乳歯を
ものすごい勢いでまくし立てる『母』をもう一度止め、俺は男性を見る。
「落ち着いてください……じゃあ、こちらは父さん?」
俺としてはごく自然な発想だった。
一言も喋らないけど、わざわざ息子の見舞いに他人の男を連れて来ないだろう。
だが俺がそう言ったとき、一瞬空気が凍った、ような気がした。
男性はさっきより厳しい目でこちらを睨み付け、自称『母』は爆笑しだしてしまった。
「わ、私は認めんからな!絶対だ!」
ものすごい剣幕で怒鳴られた。何をだ。
笑いながらも女性が男性をなだめる。俺の状態を思い出したのか、男性はスマン、とだけ言った。
『母』の話によると、『父』は仕事でどうしても来られない、とのことだった。
電話越しでも本当に申\し訳なさそうだったと言われ、逆に気まずくなる。
……どうせ会っても、俺には誰だかわからない。
それはともかく。ではその人は、と聞こうとしたとき、扉が開く音がした。
見ると、あの記憶喪失の彼女が戻ってきたところだった。
「あ、」
「モミジ!」
声をかけようとしたら、男性に先を越された。
男性は彼女のもとに駆け寄り、いきなり抱きしめた。
「心配したぞ!あぁ、よかった。無事で本当によかった。
そうだ、ケガはないか?いや、頭を打ったのか!
大丈夫、心配するな、父さんがついてるからな、とにかく落ち着くんだ」
「あ、あの、え?」
ものすごい勢いでまくし立てる男性と、何が起こってるかわからない彼女。
ポカンとして見つめていると、『母』こっそり耳打ちしてくれた。
「あの男の人は、あの娘のお父さんなの」
なるほど、そういうことか。すごく親バカな雰囲気がある。
あの娘のお婿さんは大変でしょうね、
と何故かいじわるそうに笑ってから、『母』は男性を止めにいった。
……寒気がしたのは気のせいか。
二人が帰れば、部屋にいるのは俺と彼女だけとなる。
さて、親である先ほどの人々の話を総合すると、
「知り合い、だったんですね」
先を越された。俺が言おうとしたのに。
「それも、かなり昔からの」
どうやら、そういうことらしい。
とりあえず、俺の話から。
俺は氷川 亮平(ひかわ りょうへい)。20歳の大学2年生。両親は健在。
どうやら俺は一人暮らしをしているようで、今は夏休みということで戻ってきていたらしい。
さっきの女性は母親の静子(しずこ)さん。
俺のことを色々教えてくれたが……何故幼稚園時代の思い出まで語るのかまでは言わなかった。
自分のこととはわからないが、すごく恥ずかしかったぞ。
……まぁ、それはともかく。
次は隣の彼女のことだ。
秋吉 紅葉(あきよし もみじ)という名前の彼女は、どうやら俺の幼なじみらしい。
それはもう幼稚園時代からつるんで(?)いた仲で、高校まではずっと一緒だったとか。
彼女は大学は地元を受けたようで、それからは疎遠になったらしい。
同じ事故に巻き込まれたことについては、親である二人にもよくわからないとのことだ。
二人とも、「出かける」としか言わなかったからだという。
つまり俺は親に内緒で彼女に会っていたのだろうか。しかし、なぜ。
「……私たち、いったい何をしてたんでしょうか?」
同じような疑問を、彼女も口にする。彼女にもわからないのだろう。
「さぁな……」
だが、それを考えると、なぜかモヤモヤした気分になる。
わからないのに、苦しい。
そんな気分を晴らしたくて、俺は軽い口調で言った。
「まぁ、大事なことならそのうち思い出せるさ」
「そう、ですよね」
彼女も困ったように、でも暗くはない声で同意してくれた。
「とりあえず、これからよろしくな。えーと……」
「紅葉、でいいです。昔からそう呼ばれてたみたいですから」
「そう、じゃあよろしくな、紅葉」
「はい、亮平さん」
「……あー、いや、お前も亮平って呼んでくれ。昔からそうだったみたいだし」
「あ、そうか。よろしく、亮平」
そう言って微笑む彼女を見ると、なぜか気分がやわらいでいく。
記憶をなくす前の俺は、きっと幸せ者だったんだろうな、などと思った。
こうして、俺たち二人は幼なじみとしてではなく、赤の他人として、再び友達になった。
自分のことはまだわからないけど、それも悪くはないと思えた。
そう、このときの俺は何も考えていなかった。
大事なことならそのうち思い出せる。
半ば本気でそう思っていた。
だから俺は一つ失念していたんだ。
大事でも、思い出したくないことだって、人にはあるということを。