今日は七夕。
天の川を隔てて生きる織姫と彦星が、年に一回出会うことができる日だという。
……天の川がどれくらいの幅かは知らないが、川くらいなら船で渡れそうな気もするんだが、どうなんだろうな。
うまく口利きしたら、船頭一人くらいは丸め込めるんじゃなかろうか。
それとも、船も漕げないくらい川の流れがすごい速いのか。……そういや雨降ったら氾濫するんだっけ。
そう考えると、本当気が長いな、あの二人は。
「まぁオレには関係ないけど」
「何だか知らないけど手を動かしなさい」
言われて、しぶしぶ視線を窓の外から手元の机に戻す。
開かれたノートの中には奇怪な数式の数々。数字は世界共通の言語とはいうが、少なくともオレには通じないぞと、恨み言の一つも言いたくなる。
思わずため息を一つ。すると目の前のこいつはそれに敏感に反応して、
「もう、今度は何がわからないの?」
と身を乗り出して聞いてくる。
「あー……、全部、かな」
素直に答えると、あきれ顔をされる。事実だから仕方ない。
「ほら、ここでは傾きが0のところが極になるんだから、微分してから値を代入して0になるところを探すのよ。わかる?」
「……えーと。極って何だっけ?」
……何だその哀れむような目は。何となく切なくなるから止めろ。こっち見んな。
今度はあっちが大きなため息。何だよ、悪かったな阿呆で。
「……あのね、極って要は山頂とか谷底みたいなもので……」
それでも、粘り強く説明してくれるこいつには、正直感謝もしてる。
天敵たる数学のテストが明日に控えているが、オレだけじゃ到底太刀打ちできないからな。
高校生のオレこと高遠 匠(たかとお たくみ)と目の前の女、木崎 優奈(きざき ゆな)に七夕なんぞは関係ない。何てったって、今はテスト週間なんだから。
そう、オレと優奈はまたしても一緒に勉強していたのだ。
「……と。はい、範囲はここまで。ちゃんとわかった?」
「な、何とか……」
あの4月1日から3ヶ月ちょっと。
オレと優奈のクラスはやっぱり同じで、オレは何者かの作為を本気で疑ったりもした。
やはりクラス委員長となった優奈は相変わらず人気者だったが、オレの立ち位置は昨年とは少々異なっていた。
それというのも、優奈が今までより積極的にオレに関わってくるからだ。
わざわざ登校時間を合わせてきたり、昼飯にはオレを強引にグループに引き込んだり、帰りもオレを待ってみたり。
最近はこうして勉強も教えてくれたりする。本当なら委員会の用事とかで忙しいはずなのに、だ。
そのおかげで、クラスの連中に散々いじられることになるのは想像にかたくないだろう。
男子連中などはことあるごとにオレの首を絞めてくる。「うらやましいぞコンチクショー!」とか何とか。
……だがまぁ正直、この変化を悪く思ってない自分がいる。
クラスメイトは気のいい連中が多いし、自分がそんなクラスの一員として参加できることは、何だかんだで楽しいのだ。
それもこれも、やはり優奈の――
「――匠、聞いてる?」
「うぉあっ!?」
気付けば、優奈がこちらの顔を覗き込んできていた。優奈の顔が間近に迫る。
「……ちゃんと人の話は聞きなさいよね」
優奈は不機嫌そうに眉根を寄せ、こちらにきつい視線を向けている。
ちょっとこっちが前に出たら、おでこがぶつかってしまいそうだ。なぜだか、少しドキドキした。
「わかった、わかったからちょっと離れてくれ」
とりあえず優奈に提案する。距離を取らないと、よくわからないが色々まずいような気がした。
と、優奈も距離感の近さに気付いたか、ちょっと頬を赤くしつつ、さっと身を引いた。
「ま、まったく、しっかりしてよね!」
そっぽを向き、眉を吊り上げながら厳しい言葉を浴びせてくる。しかし、頬の赤さが刺々しさをなくしてしまっていた。
……つか待て、その表\情は反則だろ。こっちまで赤くなってしまうじゃないか。
しばらくそのまま沈黙が続く。気まずい間が続いたままで、優奈が立ち上がった。
「お茶、入れてきてあげる」
一言を残して、部屋から出ていった。
ちなみにここは優奈の部屋だ。昔はよくきたが、最近までは来ることも滅多になかった。
まぁ4月以降、よく勉強を教えてもらうので、再び来る回数が増えていたりするのだが。
手持ちぶさたなのでマンガの一冊でも読みたかったが、腐れ縁といえど、さすがに女の子の部屋を物色するのはまずい。
暇潰しになるものはないかと首をめぐらせ、オレはそれに初めて気付いた。
2つのコップに麦茶を注ぐ。その間考えるのは、さっきの匠とのことについて。
最近の自分はずいぶん積極的になったと思う。匠と一緒にいる時間が、最近本当に増えている。
きっかけは、あの4月1日のことがあったから。
あのときほど自分の情けなさを実感した。結局あの日はウソの積み重ねが多くなっただけだった。
……やっぱり急ぎすぎたのだと、その日の自分は結論した。
幼なじみとは言え、いや、幼なじみだからこそ、告白なんてできなかった。匠だって、きっと困惑するにちがいない。
だから、少し距離を縮めてみようと思った。もう少しだけ、匠に近づいて、私のことを意識してもらおうと考えた。
今のところ、匠の対応にあまり変化は見られない。やっぱり私は単なる幼なじみなのかと、少し落ち込むこともある。
しかし、匠自身には変化があった。
私と一緒にいることをクラスメイトに色々問いつめられたりしているうちに、クラスにだいぶ馴染んできているのだ。
昨年はクラスから孤立していた(本人が意図的に距離を置いていた)ことを考えると、かなりの進歩と言える。
今では気さくに話せる友人もかなり増えたようで、何だか私まで嬉しくなってしまう。
自分の思惑とは外れてしまったが、匠が確実にみんなの輪に入ろうとしてくれるのは、とてもいいことだと思っている。
そこでふと、あることに気付いた。
「……私は、どうなるのかな」
昨年まで、匠はあまり人と関わろうとしなかった。
私が橋渡しをしなければ、匠は本当に孤立してしまっていたのではないだろうか。
私はそれが嫌だった。でも、匠にも悪く思われたくなかった。
私はなるべく匠が孤立しないように、そして匠が鬱陶しく思わない程度に、うまく周りとの仲を取り持った。
自然、匠の私に対する依存度は高くなる。匠にとって私は必要な人間だったのだ。
今はどうか。
匠は自分からみんなと関わろうとしている。それ自体は喜ばしいことだ。
でも、私は?私は匠にとって必要じゃなくなってしまうんじゃないだろうか。
私が匠に近づこうとすればするほど、匠は私を必要としなくなる。
「私、どうしたらいいのかな」
気付いたら、お茶を注ぎ終わっていた。少しこぼれてしまったようだ。
ため息を一つ。こぼれたお茶を布巾で拭って、お茶を持って部屋に戻った。
「はい、お茶持ってきたわよ」
扉が開いて、優奈が戻ってきた。オレは慌てて手元のものをポケットに隠す。
「……匠、今何かした?」
気付かれたか。しかし、ここでこのことがばれるのはすごく気まずい。
「い、いや、笹なんか置いてるから、短冊見てた」
そう、なぜだか優奈の部屋には笹が置いてあり、いくつか短冊も下がっていたのだ。
「七夕なんだしいいじゃない。風流でしょ?」
などと、コップを置きながら優奈は言う。
しかしだ、ぬいぐるみなどがたくさんある(これも優奈の外でのイメージからは掴みにくい)女の子っぽい部屋に、
ぽつんと笹だけが置いてあるのは、風流というか滑稽というか。
「つか何でオレの母さんとかが書いてるんだよ」
短冊は6枚。木崎家は4人家族であり、残り2枚はわが母と父の分だった。
ちなみに母の願いは《夫婦円満》。息子のことも気に留めてほしいかな、うん。
「私が頼んだのよ。せっかくだから短冊は多いほうがいいでしょ。何なら匠も書く?」
言いつつ、ペンと短冊を渡される。
少し考えて書いたのは、《日々平穏》。最近騒がしいからな。
「……匠、若いんだからもう少し冒険しなさいよ」
うるさいな、騒がしい原因が偉そうに語るな。
「お前だって《志望校に合格》とか、絵馬と勘違いしてんじゃないか?」
「わ、悪かったわね!」
とまぁ、優奈をやり込めつつ、短冊を笹に括り付けようとして、
「あれ?」
短冊が一枚多いことに気付いた。
さっきはよく見えなかったが、なぜだか節に近い場所に一枚括ってある。こんな場所にやらなくてもいいのに。
背後ではっと息を飲む音がした気もしたが、構わず読もうとする。
「なになに、匠と……」
「だ、ダメっ!」
優奈の叫びが聞こえたかと思うと、いきなり背中に衝撃が走った。
「どわっ!?」
オレは前のめりに倒れ、背中に重さと柔らかな感触を得た。
「ゆ、優奈……いきなり突進して来るな……」
どうやら体当たりされたらしい。オレはうつぶせに倒れ、その上に優奈が覆いかぶさる形となっていた。
優奈はその姿勢でオレから笹をひったくる。
「よ、読んだ?」
「……何を」
「短冊よ短冊!」
なぜだか必死でこちらを問いつめてくる。読まれたら困るのか?
「読んでないよ」
「ほ、本当に?」
「本当だ、本当だからさっさと退いてくれ。重い」
そこでようやく自分の体勢に気付いたか、優奈はオレの上から退いた。
オレも上体を起こし、背中をさする。痛いんだから、こういうのは勘弁してほしい、本当に。
優奈はこちらに背を向けて、
「重いは余計よ!」
とか言っている。長い黒髪に隠れて見えないが、何となく耳が赤くなってる気がした。
それからちょっとの間があって、匠は家に帰った。
さっきのことを考え、私はすごく恥ずかしかった。あれでは何かあると確実に思われるじゃないか。
先ほどの短冊を見る。ピンク色の紙に書いてあるのは、私の本当の願いだった。
《匠とずっと一緒にいられますように》
「叶うかな、本当に」
窓の外を見る。今日は天気もよく、天の川もきれいに見えた。
織姫と彦星は、遠いからこそ互いを思い慕うのだ。
近すぎる私たちは、あるいは彼らより遠い関係にあるのかもしれない。
部屋に戻り、さっき隠したものを取り出す。
それは水色の紙切れだった。優奈の部屋から取った短冊だ。
あの時、本当は短冊に願い事を書いていた。
七夕なんぞは関係ないと思っていたが、あの時はたまたま暇だったからな。本当だぞ。
しかし、思いつきで書いたはずの願いは、なぜだか特定人物に関することになっていた。
《ずっと優奈と一緒にいられますように》
「さすがにこれは気持ち悪いな」
ついつい苦笑いをしてしまう。たかが幼なじみにこんなことを願われても、優奈だって困るだろうしな。
机の中に短冊をしまう。捨てる気には、何故かならなかった。