必死の思いで家に帰りついたぼくは、一晩明けると元の獣人になっていた。  
 
奇跡的に大きな怪我はないが、体中が痛い。頸には石見先生から付けられた首輪が、まだ付いている。  
窓から、朝日がぼくの目に突き刺さる。そろそろ学校に行かなくちゃ。でも…いやだなあ。  
カバンは石見先生の家に置きっぱなしだし…。  
とりあえず、予備のサブバックだけはあるので、これに教科書を詰めるか。  
首輪をはずして、朝の準備を始める。今日も、なんでも無い一日だといいんだけど…。  
 
「おっはよ!ハル」  
アスミが元気よく家に迎えに来る。小学校以来の幼馴染み同士の習慣だ。  
昨日、ぼくが恐ろしい体験をしたのも知らずに、能天気なアスミだ。  
「ハル、元気ないよ。どうしたの?いつのも調子は?」  
「…い、石見先生…」  
「まだ、お説教のこと気にしてるの?もー、男の子なんでしょ!?」  
と、アスミはぼくの鼻をツンと突付く。  
 
「ウッ!」  
「あ…ごめん。どうしたの?」  
窓に体当たりした時に鼻を擦りむいた所が、まだヒリヒリする。どうしてかは、教えない。  
「な、なんでもないっ!!」  
 
一緒にぼくらはいつもの様に、通学路を歩く。  
しかし、ぼくの足取りはオモリを付けられた囚人の様に重い。とかく、教室に行きたくないのだ。  
「石見先生、びっくりしてるだろうな…」  
その日以来、ぼくは石見先生のことが怖くなった。  
初恋顔をしながら、ぼくをまた家に引きずり込んだりするのかなあ。  
それにしても、昨日のジャンプで鼻が痛い。着地は上手くいったはずだが、体のあちこちが傷だらけ。  
「ハルさ、何ブツブツ言ってるの?」  
「なんでもないっ!」  
ぼくは、アスミを置いてウサギのように駆けだす。イヌだけど。  
 
「おはよう。橘くん」  
石見先生が、ぼくのカバンと靴と、そして制服を持って校門で待っていた。  
小首をかしげて、まるで待ち合わせをしている恋人のように、ぼくに手を振っている。  
 
正直、もう石見先生に会いたくなかった。でも彼女は、ぼくの担任教師。  
お仕事に関しては、責任感がきっと強いんだろう。石見先生は、お仕事人間だ。  
だけど、お仕事からちょっと外れると、言っちゃ悪いが『ダメ人間』なんだろう。  
例えば、どんな手術でも成功させる名医だけど、家に帰るとごろごろ寝てばっかりな  
粗大ごみ扱いのダメ親父。そんな感じかな。  
 
石見先生の持っている、ぼくの制服。周りの人間を誤解させるには、十分なアイテム。  
先生じゃなかったら、噛み付いてやりたい気分だ。ムカつく!  
「やめてください!先生!」  
「だって、これがないと学校に行けないでしょ」  
「そういうことじゃなくって…!」  
石見先生は一体何を考えているのか。天然にも程がある。  
少女のようなふりふりの付いた、お嬢様ちっくなワンピースがそれを演出する。  
 
「先生、橘くんがあのままイヌになって、戻ってこなかったどうしようって思ってたのよ。  
でも、ちゃんと戻ってきて、先生うれしいです」  
ぽんっ、とぼくのカバンと制服をぼくに投げつける石見先生。  
石見先生の香りが、制服にほんのりと付いていた。  
 
「ハル!もう、待ってよお!…あっ、先生!おっはようございますっ!」  
アスミが追いついてきた。ぼくは、必死に制服を隠した…つもりだが。バレなかったかな…。  
「先に行くね!」  
ぼくは、アスミを置いて先に教室に向かった。  
先生とアスミは、何か話していた。  
 
一時間目は、石見先生の国語。教壇の上の石見先生は、昨日の先生とまるで別人。  
「このように、みなさんもたくさん本を読みましょう…」  
と、言いながら石見先生は、日本語の楽しさを教えてくれる。  
昨日は、ぼくに『オトナの世界』を教えようとしていたくせに。  
 
うーむ、昨日のことで授業が身に入らない。ふわふわした感覚がする。  
ノートが真っ白けだ。隣の席の板橋さんのノートをこっそり拝見。  
当たり前だが、板橋さんはびっしりノートを取っていた。きっと、みんなも一緒。  
と、ぼくだけが取り残されそうになっていると  
「橘くん…、コレ」  
板橋さんは、ノートの切れ端に書かれた小さな手紙をぼくに、こっそり渡してきた。  
ぼくは、くんくんとその手紙の匂いを嗅ぐ。これは、ぼくのくせ。  
送り主はアスミ。わざわざぼくの所までクラスメイトを介して送りつけてきた。  
 
『ハルって、石見ちゃんのこと好きでしょ?石見ちゃんもハルのこと好きみたいよ』  
 
どうでもいいことを、手紙で送りつけてくるなよ!  
遠くに座っているアスミをキッと睨みつけるが、ちらっとぼくの方を見たアスミは、しかとしている。  
(ムカつく!)  
と、尻尾にきているぼくに、アスミからの二通目がやってきた。  
 
『わたし、何でも分かってるんだから……ね』  
なんだろう、この意味深な文句。と間をおかずに、三通目。  
 
『わたしとデートをしなさい。今度の日曜日の午前11時、パチ公前ね』  
 
え?  
アスミは、全くもって遠回りなことをする。  
 
約束の日曜日。  
小さな私鉄の駅前にぽつんと立つパチ公の前は、いつもより静かだった。  
いつもは、通勤通学でごった返す駅前。やはり休みの日は、歩いている人も少なく、  
この町本来の顔を見せていた。ハトとぼくがパチ公の前に集う。  
 
約束の時間、午前11時ちょっと前にぼくはパチ公前にやってきた。  
時間までちょっとあるが、この「わくわくタイム」、ぼくは好きだな。  
幼馴染みとは言え、生まれて初めてのデート。こんなぼくにでも、女の子から誘われるんだ。  
なんだか、ぼくは自信が持てるようになってきた。錯覚かな。  
 
ぼくがタン!と足で地面を思いっきり踏むと、ハトたちがバサバサと飛び立つ。  
ハトたちの群れの中を掻き分けるように、遠くからアスミがパタパタとやってきた。  
アスミがぼくの前に立つと、石見先生と同じ香りがした。  
「あ、いい匂い」  
「ふふふ。背伸びしてみたんだよ。この香水、高かったあ」  
アスミが少し、大人に見えた。  
それに比べて、ぼくはいつまで経っても子供のようだ。そんな自分になんだか嫌気がさしてくる。  
そんなぼくはさておき、デートの主導権をアスミが握り始める。  
「さあ、わたしとお買い物に付き合いなさい」  
アスミは、ずばっとぼくを指差しながら、ふわりとミディアムショートの髪をなびかせた。  
ハトたちは、とっくにどこかへ飛んでいっていた。  
 
ぼくの手を引くアスミ。  
小学生の頃からの付き合いだから、遠慮はない。だけど、二人とも『幼馴染み』という感覚だけなので、  
はっきり言って、恋人の『こ』の字も意識は全くしていない。  
だけど、知らない人から見たらどう見ても、初々しい中学生カップルなんだろな。  
ぼくは、イヌっぽいけど。  
 
「ハル、飴どーぞ」  
「うん」  
アスミは、ポーチの中から黄金糖をとりだし、ぼくにくれた。  
「ハルがずっと待ってて、もしかして疲れてるんじゃないのかなあってね」  
ワンピースの胸元を指でつまみながら、俯き加減でアスミは話す。  
アスミがこちらをくるりと向くと、アスミの後ろにきれいな花がフワフワしているのが見えた。  
 
アスミは相変わらず、面倒見がいい。  
「これね、お店のホームページにあった『割引券』をプリントしてきたんだよ。誉めて、誉めて」  
アスミがぼくの腕をつかんできた。  
ぼくは、獣人なので他の人と違って体中に薄っすら毛が生えている。  
アスミはそれを気に入って、ぼくをモフモフしてくる。たまーに、いたずらに  
毛を引っ張ってのは、痛いからやめてくれ。  
「ハル。今日も鼻が濡れてるね」  
「うん」  
ぼくの健康状態まで気を遣ってくれるなんて、至れり尽くせりだ。  
 
ぼくは、どちらかというと友達は少ないタイプだ。  
学校では、殆どアスミとくっついているか、一人ぼっちだ。  
そんなぼくに、アスミが構ってくれる。そんなアスミを通じて、クラスの奴と話したり、  
いじられたりしている。おまけにぼくには、『いじられ王子』なんてあだ名も付いた。  
アスミが居なかったら、このクラスの事がトラウマになるだろう。  
ま、石見先生という人もいるが…。  
アスミといっしょに居ると、少し気が楽だ。あのヒミツの事を抜きにすれば…。  
 
そんなヒミツはさておき、アスミはぼくを引っ張りながら、とあるファンシーショップへと入ってゆく。  
周りは、メルヘンの世界。お客は女の子でいっぱいの店内。  
男子は、ぼくのように連れられてきたって感じの人ぐらいしかいない。  
ましてや『ケモノ系』なんぞ…。甘ったるい空気がぼくらを包み込む。  
まるで、ぼくらがちっこくなってデコレーションケーキの上を歩いているようだ。  
 
「このクッション、かわいい」  
アスミが指を差したのは、ピレネー犬のクッションだった。  
どっかで見たことがあると思ったら、石見先生の家にあった物と同じだ。  
いやなことを思い出させられた。ちくしょう、ピレネー犬のバカー。  
 
すこし、悲しい気持ちになっているぼくを小学生の女子の3人組が、ニヤニヤと指差して笑っている。  
「なに?あれ?イヌみたーい」  
「ゆりか、やめなよ!聞こえるじゃん!きゃはは!!」  
「ちょーうけるぅ!」  
ぼくが『ケモノ系』なのは、君たちを笑わせるためではない。  
小学生という生き物は、どんな獰猛な野獣よりも残酷な生き物かもしれない。  
ちびっこ3人組が放つ小さい矢がズキズキと、ぼくの背中に刺さる。  
 
「ちょっと!あんたらね、人が傷つくこと大きな声で言うんじゃないのね!!」  
ちびっこ3人組に雷を落としたのは、意外にもアスミだった。  
「ご、ごめんなさい…」  
迫力に押されたちびっこたちは、群れになってどこかへ消えた。  
「まったく、最近のガキンチョったらあ」  
やっぱり、アスミはオトナだ。  
 
一通り買い物を済ませたぼくら。お昼ご飯がてらに喫茶店に行こうとアスミが駄々をこねる。  
『中学生は入れてくれないよ』と、ぼくは不安になったが、  
『わからないっから!』と、言い張るアスミの強引さに負けた。  
 
裏路地を入ったところにある、古い喫茶店。民芸店も兼ねているのか、年代ものの陶器が棚に並ぶ。  
「わたし、ネットで見つけたのよ」  
事前調査の結果、この店に行こうって決めていたらしい。アスミは自慢気だ。  
ぼくはオレンジジュース、アスミはアイスコーヒーを注文する。ますます、アスミがオトナに見える。  
しばらくすると、気のいいおじさんが注文の飲み物を持ってきた。  
「ここにおいてある焼き物、かわいいですね」  
「おっ?お嬢ちゃん、気に入ったかい?お安くしとくよ」  
「へへへ、ごめんなさい!お財布が今お腹すいてるんですう」  
アスミは、気さくにおじさんと話していた。ぼくには、真似が出来ないな。  
 
二人で飲み物を飲んでいると、突然アスミが話を切り出してきた。  
「ハルさあ。ハルのヒミツを知ってるのって…クラスでは、ホントにわたしだけなの?」  
「………」  
「言えないの?」  
「………」  
ぼくのヒミツを知ってるのは…そう、アスミ。  
 
.       ××××××××××××××××××××  
 
それは、ぼくが小学5年生の頃。いわるゆ、思春期の始まり。  
朝、目覚めたらぼくは、イヌになっていた。  
今思えば、イヌになった訳は理解が出来るのだが、この頃は全く訳が分からなかった。  
ぶかぶかのパジャマに身を包まれたぼく。股間のあたりがベトベトして、気持ち悪い。  
 
「うわあ」  
触ってみると、手が見たことのない液でべた付く。嗅いだ事のない生臭い匂いもする。  
ぼくは、夢精をしていたのだ。こんな姿、親にだって見られたくない。  
オマケにイヌの姿になっていたので、この日は、布団から出たくなかった。  
早く、夜にでもなれ。  
 
「ハールーくん!がっこう行こう!」  
そこにやってきたのは、アスミ。ぼくがイヌになってるのも知らずに、学校へと誘いに来た。  
ぼくの母が、申し訳なさそうに謝る。ぼくのせいなのに。  
「ごめんね、ハルはまだ寝てるの。困った子ね」  
「お任せください!わたしが起こしてあげます!」  
玄関から、こんな会話が聞こえてきた。ドタドタとアスミの小さな足音が聞こえる。  
お願いだから来ないで!!アスミ!  
 
「こらー!ねぼすけハル!起きろー!」  
ランドセルを背負った少女が、ぼくの部屋に入り込む。  
「アスミ!帰ってよ!」  
「ハルを起こすまで、帰らない!」  
ぼくの願いも空しく、布団は捲り上げられた。  
アスミは、イヌになって股をべとつかせるぼくを目の当たりにする。  
 
「…ハル?」  
ぼくは、泣いていた。アスミはくんかくんかと、何か匂いをかいでいる。  
初めてかぐ匂いに、アスミは顔をゆがめている。  
「ハルのばかー!」  
アスミが駆けだす音だけが聞こる。  
 
「どうしたの?ハル」  
「お母さん…」  
この日、ぼくは学校を休んだ。  
 
.       ××××××××××××××××××××  
 
 
「わたしも、始め信じられなかったけど…。こういう知識って後からついてくるでしょ」  
「………」  
 
「ねえ、ハルさあ」  
「…なに?」  
「ハルがイヌになる所…見たいなあ」  
アスミの目は、石見先生の家に行った時の、先生の目と同じだった。  
「え…だって、ぼくら…」  
「いやなら、石見ちゃんとのこと…クラスのみんなにバラすよ」  
 
折角、石見先生のことを忘れかけていたのに、アスミは残酷にもぼくを現実に引き戻す。  
ぼくが泣きそうな顔をしてる間、アスミはちゅうちゅうとアイスコーヒーを飲んでいた。  
 
「わたし、何でも知ってるんだから。ハルの事、なんでも知ってるよ。  
この間の朝ね、石見ちゃんにね、試しにウソの質問を聞いてみたんだ。  
『橘くんですね、夜にケータイに電話をしても出てくれないんですよ。居るはずなのになあ』って。  
ホントは電話なんかしてないんだけどね。  
始め、石見ちゃんは『何?』って感じだったの。それでね、わたし…  
『ほら、夜になると橘くんって…ほら…ほら…さ!』って言ったらさ、  
『そ、そうね。前足じゃ、ケータイを持てないもんね』ってさ。『前足』だって」  
アスミは、魔女のように薄ら笑いを浮かべながら、はなしを続ける。  
 
「石見ちゃんって天然だから、すぐにボロがでちゃうんだね。うけるー。  
なんで、ハルがイヌになっちゃうこと、知ってるのかなあ。  
きっかけが、オナニーやえっちだと言う事はともかく、  
ハルの家族とわたしだけだよ。イヌに変身できるって知ってるのは。  
最近、石見ちゃんと怪しいなって思ってたら、ハルもホント年上好きだね」  
 
怖い!アスミが怖い!!  
 
「わたし、絶対負けないからね。石見ちゃんに負けないから…」  
テーブルに身を乗り出し、ぼくに顔を近付けてきたアスミ。  
この間の、石見先生との件が甦る。もしかして、ぼくの心臓の鼓動がアスミに聞こえるかもしれない…。  
 
「ア…アスミ?」  
「……」  
「う、うん…」  
ぼくは、ペロリと舌で口の周りを濡らし、アスミを受け止める準備をする。  
ぼく、『ケモノ系』でよかったよ…。  
確かに、ケモノの格好はお気楽だけど、獣人の格好じゃないと、好きなニンゲンとちゅーできないもんね。  
しかし、ぼくの顔に近づいたのは、アスミの唇ではなく手のひらだった。  
 
「まだ恋人じゃないのに、キスなんかしないよ。バーカ」  
アスミのびんたが痛かった。  
 

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