鬱蒼とした木々が陽の光をさえぎって、まだ日暮れ前だというのに森の中は既に薄暗かった。
石やら枝を踏むたび揺れる馬車の中で、クローディスは行儀良く膝の上で手を組みながら
目線だけを横に向けた。彼女の、切れ長の黒い瞳に流れていく緑が映る。
クローディスがもの思いにふけっていると、馬車を飛ばしていた男が陽気な口を開いた。
「それにしてもあんたみたいに綺麗で若い女の子が神さんに一生仕えるだなんて。
あたらに人生棒にふるこたないと思うんだけどなぁ」
その言葉に、彼の隣に座っている彼の細君がとがめるような目をして夫を睨んだ。
男は少女が一夜の宿を借りた宿屋の主人だった。
宿に泊まった次の日に、少女が歩いて向かうと口にした目的地が森の奥だと
知ると無償で馬車を出してくれたのだ。
なおかつ、大の男と森の中で二人きりではさぞ不安だろう、と彼の妻も同乗して
送ると申しでてくれた。彼らは実に気のいい夫婦だった。
「何があったか知らんけどなぁ。酒も遊びも覚えないまま人生を終えるなんざ
気の毒すぎて言葉が出んよ。……あんた、彼氏とかは居なかったのか?」
なおもかけられる言葉に、クローディスは困ったように眉を少しだけ下げて微笑した。
「アンタッ! 余計な口挟むんじゃないよ。この子、困ってるじゃないか!
自分で決めた人生に他人が口を挟むなんて余計なお節介ってもんだよ。
……ほら、急がないとこの森じゃ日が暮れたら真っ暗になっちまうよ!」
そう妻に怒鳴られ頭をはたかれると、男は黙って馬を飛ばし続けた。
*******
馬車が走っているのは、石畳などはないものの土が平らにされており舗装されているようだった。
それというのも、少女が向かっている目的地がそれなりに特別な場所であったからだ。
『聖ファレナ修道院』
二百年前に殉教した聖女ファレナを記念して建てられた由緒正しい修道院だ。
代々高貴な血を持つ聖職者が修道長を務めており、現在もその伝統は継続されている。
昔ほど信仰は盛んではないが、今でも修道女たちが若い身空で俗世から離れた
この場所で神の意志にかなう生活を送っていると言われている。
クローディスは孤児院で育っていたが、院を出る年になったら神に仕える修道女(シスター)に
なろうと幼い頃から心に決めていた。神に仕え、心正しく生きて、祈る日々を送ることこそが
自分を残して事故で亡くなった両親の魂の救済に繋がると信じていたからだ。
院を出る年が近づき入居する修道院を探していた所、聖ファレナの修道院長から直々に
クローディスに声がかかったのだ。
――聖ファレナは、あなたと同じくらい若い娘達が“大いなる愛”のために日々を勤めています。
あなたさえ良ければここへいらっしゃい、と。
不安は、ないといえば嘘になる。
それでも自分にはこれしかないと言い聞かせてクローディスはこの修道院へと向かったのだった。
*******
鳥の声、風がそよぐ音、そういったざわめきが段々と少なくなっていき、
森の奥に行けば行くほどに静謐が深まっていく。
道が広くなり、突如開けたその場所に大きな石作りの建物が現れると
クローディス達は一瞬驚いたものの、その建物があまりに周りの風景に
溶け込んでいたために、それが人工的に建てられたものではなく、ずっと昔から
自然にそこにあったものかのような錯覚さえおこした。
建物の前に据えられた黒い御影石には、優美な書体で“聖ファレナ修道院”と刻まれている。
こここそが、クローディスが向かっていた場所であった。
(すごい……、なんて立派なところなのかしら)
我知らず、クローディスは息を呑んだ。こんな立派な修道院で自分はシスターとして
上手くやっていけるだろうか。神に仕える良き娘となれるだろうか。
彼女はそう思いながら修道院を見やっていたが、ふと扉の横にある聖母像に眼を奪われてしまった。
石膏でできているらしいそれはどこまでも白く、聖母の顔は恐ろしいまでに美しかった。
なめらかな首筋から女性らしい豊満な胸までのラインは緩やかなカーブを描いており、
どこか艶かしかしい。
―― 艶かしい?
聖母像にそんな感想を抱いた自分をクローディスは恥じた。
ふと見れば夫妻も似たり寄ったりの感想を抱いたようできまずそうな顔を見合わせている。
すると、彼らの前で突然修道院の扉がぎぃっと耳にさわる音を立てて開いた。
木製の扉を鉄板で補強した頑丈そうな扉で、それはとても重そうだった。
女所帯の修道院ではこれくらいしっかりとした扉の方が安心なのかもしれない、と
クローディスは思った。
だが、開いた扉の影がすぅっと伸びてきて、クローディスは理由は分からないものの
なぜか少し怯んだ。
屋根に留まっていた鳥達が羽音をたてて飛び去っていく。
開いた扉の中から顔を出したのは黒色の修道服に身を包んだ少女だった。
歳はクローディスとそう変わらないほどであろう。少女はクローディス達を確認すると
軽く礼を取り、にこっと笑った。
「クローディスさんですね。修道院長さまより話は聞いております、お待ちしてましたわ。
私はシスター・キャスリンと申します。案内いたしますのでどうぞ中へ」
その笑みはとても快活な、人懐こい雰囲気のもので、クローディスはキャスリンに
好感を抱いた。そして修道院に対して身構えていた気持ちも一瞬にして溶けていく。
(よかった。この人とはうまくやっていけそう……)
クローディスは馬車を降りる前に送ってくれた夫妻へと振り向いた。
「ここまで送ってくださって本当にありがとう。あなたがたに主のお恵みがありますよう」
そして胸の前で手を組みながら、心からの感謝をこめて礼を言う。
「いいんだよ、《善行は自らの身を助く》ってね。お互い様さ。これから頑張るんだよ」
「たまにはおれたちの俗世での幸福を願っておくれよ」
優しい夫妻はクローディスの頬にさよならのキスをすると、彼女を降ろし、
そしてそのまま彼らの家へと帰っていった。
「……あの方々はご親戚?」
キャスリンが夫妻を見送るクローディスの背中越しにそう尋ねてきた。
「いえ、あの方々は近くの村の方です。ご親切に私をここまで送ってくださったんですわ」
クローディスはそう答えると荷物の鞄を抱えて持ち、修道院の扉へと歩いて近づきながら言った。
彼女の全財産はこの鞄の中身だけだ。幾枚かの衣服に、両親の遺品。それが全て。
そして扉の前に立つキャスリンの傍に来たクローディスは、顔を上げて驚いた。
キャスリンは良く良く見れば、目を見張るほどに顔立ちの整った少女だったからだ。
色白できめの細かい肌。被衣(ウィンブル)からこぼれる金色の髪は
色素が淡く、プラチナブロンドに近かった。小さな唇は苺のよう。
そして、何より人を魅き付けるその目は綺麗な翠色で大きなエメラルドを思わせた。
「どうかしまして?」
キャスリンの声に、彼女を見入っていたクローディスは思わずはっと我にかえった。
「い、いえ……なんでも」
「ふふっ、クローディスさんて面白いのね。私たち仲良くなれそうだわ。さ、早くいらして」
キャスリンはクローディスの手をひくと、強引ともいえる強さで彼女を扉の中へと引き入れた。
クローディスはキャスリンの後ろをついて行きながら、ふと後ろを振り返った。
ゆっくりと修道院の扉が閉まっていく。開く時より大きく、物々しい音を立てて閉まっていく。
外界と自分とを隔てる扉、それが閉まる音はクローディスの耳に重々しく響いた。