カウス・クザハ学園は百年以上の伝統を持つ、私立学校である。
幼稚部から高等部まで有する広大な敷地の中に、主を失って数年経つ小さな教会がある。
その忘れられた教会に、足を踏み入れようとする一人の男がいた。
身に纏う衣装から神父なのだろう。赤銅色の肌に色褪せた金の髪、細められた碧眼から彼が異国の人間であることがわかる。
男は鍵もかかっていなかった古い木の扉を開き中を見る。
開かれた扉と曇ったステンドグラスから降り注ぐ太陽光のみの光源だが、さして広くない礼拝堂を見渡すには充分だった。
礼拝堂自体は所々古びているものの、床に埃が積もらない程度には清潔に保たれている。
「…何年も使われていなかったにしては綺麗ですね」
「それはそうよ。時々は掃除していたんだもの」
いつの間にか、机の上に少女が一人腰掛け、神父を物珍しく眺めていた。
つぶらな瞳は猫のようにきょろきょろと動き、可愛らしい顔にはからかうような笑みを浮かべている。
「初めまして神父様。私は高等部二年の彩・クラウト。今後ともヨロシクー」
差し伸べられた小さな手を握り返し神父は微笑む。
「新しく神父として派遣されたアシャラ・ルーフです。ルゥとお呼びください」
自己紹介を済ませると、少女に手を貸し机から降ろす。長い髪が神父に触れ、甘い香りが漂った。
床に立つ少女を神父は改めて観察する。香色の髪と菫色の瞳を持った少女。小柄な体躯と愛らしい幼貌では中等部の生徒と間違われそうだ。そして、その身を包むのは――
「クラウトさん、何故生徒の貴女がシスターの衣装を着ているのでしょう?」
「似合いませんか?」
少女はからかうような笑みを浮かべ、短く詰められたカソックの裾を摘み上げる。
誘うようなその仕草に、神父の視線はスカートから覗く白いニーソックスに釘付けになってしまう。
「あ――いえ、とてもよくお似合いですよ」
神父の答えに彩は、胸の前で揺れる金の十字架を弄りながらはにかみつつ微笑んだ。
「ありがとうございます。私、以前からシスターに憧れてて、前任の神父様にお願いしてシスターの真似事をさせてもらってたんです。
神父様が転任してからはここの掃除とかをしてました」
「そうですか……。お礼を言わなければなりませんね」
深々と頭を下げる神父。彩は顔を真っ赤に染め、慌てて否定する。
「す、好きでしていることですからっ! そんなお礼なんて……」
彩は照れ隠しのために両手をぶんぶんと振り回す。
「し、神父様コーヒーでも飲みませんか? 私淹れてきますっ」
逃げるように奥へ向かった彩を見送ると、ルーフは礼拝所のマリア像に簡略した祈りを捧げゆっくりと歩き出した。
教会の奥は小さなダイニングキッチンになっており、今は彩がテーブルにカップを並べていたところだった。
「あ、神父様。インスタントコーヒーですけどどうぞ。クッキーもありますよ?」
机の上を見ると、バスケットの中に歪な形のクッキーが入っていた。
「手作りですか? この形は…ええと……?」
「動物さんのクッキーです。これがクモ、こっちがカピバラ、あれは鰯です」
せかせかと自分のカップに砂糖を入れていた手を止め、クッキーの形を語り始める。神父の予想とは違う答えばかりだったが、楽しそうな少女の笑顔の前ではどうでもよい事だった。
「神父様って甘党なんですねー。コーヒーの砂糖の量、私と同じじゃないですか」
「男性が甘い物が苦手というのは偏見ですよ、シスタークラウト。スイーツが好きな男性も大勢いるのです」
カップが空になっても二人はとりとめのない会話を続けていた。
その殆どは少女が話し、神父が相槌を打つというものだったが、二人の笑顔が絶える事はなかった。
「――ああ、もうこんな時間ですね。シスタークラウト、そろそろお帰りなさい」
「えー、もう少しいいじゃないですかー。私、寮生だからまだ大丈夫ですって」
頬を膨らませての彩の抗議も神父には届かなかった。
夕陽で赤く染まる教会の前で、まだ不満そうな彩と神父が立っている。
「送る事は出来ませんが、気を付けて戻るのですよ」
「そんな子供みたいに言わなくても……」
「私から見ればシスタークラウトはまだ子供ですよ」
苦笑する神父にむっとするものの、彼の足を軽く踏むことで溜飲をさげてやった。
数十歩歩いた所で振り返ると、神父はまだ教会の前で少女を見送っていた。彩は軽く息を吸い込み、少し離れた場所の神父に届くように言った。
「神父様っ! 私のことは彩って呼んでくださいねっ!」
神父の返答を待たずに彩は駆け出した。スカートの裾が乱れるのも今はどうでもよかった。