灰色の塔にいる囚われの『お姫様』を支えていたのは、  
旅立った『王子様』から送られて来る手紙。  
そしてもう一人。  
心優しき修道女の存在があった。  
 
さあ、さよならの時がきた。  
 
朝日もまだ登らない暗闇の中。  
灰色の塔の二階からは小さな光がもれていた。  
ランプを持つ少女の手は寒さに凍えている。  
光に照らされる少年の吐く息は白い。  
早起きの老修道女ですら眠っているはずのこんな早い時間だ。  
もしこの光景をだれかが見たとしても自分は寝ぼけているのかと疑うにちがいない。  
なにしろ二人の顔はまるで同じなのだ。  
目も、鼻も、口も、耳の形まで。当然瞳の色も、髪の色も。  
違いと言えば着ている服装と髪の長さ位だろう。  
「いい?」  
「ああ、行こう。」  
扉に向かう少年が机の手前でふと歩みをとめる。  
視線の先には鈍く光る銀の十字架。  
「忘れ物?」  
「いや、あれは僕のものじゃない。」  
ランプの光が遠ざかり、部屋は暗闇に包まれる。  
二人分の足音が小さくなっていき、塔は静寂に包まれる。  
 
ミムザが消えた。  
 
「一体どういうことなのです?」  
院長室に普段おだやかなシスターヴァーナの怒声が響き渡る。  
「ですからミムザが置き手紙を残して消えてしまったのです。」  
「それはもう聞きました。ルーエラは?何か聞いてないのですか?」  
「ルーエラは貧血を起こして休んでいます。」  
「ああ、もう!自分でここを出たのならともかく、もしもの事があったら…」  
ヴァーナは差し出された手紙を受け取る。  
〜家に帰ります。  
 詳しい事情は後程使いを送りますので。  
 ミムザ〜  
短すぎる手紙。理由も書いてなければ、感謝の言葉も詫びの言葉も一つもない。  
だが、これはミムザの筆跡に間違いない。  
ヴァーナが院長になってから、預かりの修道女がいなかったわけではない。  
だが、彼女らの多くはきちんと手順を踏んでここを去っていった。  
ミムザは訳ありだというのは初めから気付いていた。  
ヴァーナは院長という立場上、外の人間に知人も多いし、世情にも詳しい。  
ミムザが名乗ったカーターと言うのは偽名だと分かっていたし、  
ここに来た時期から素性に見当はつけていた。  
メイア修道院は中央教会よりの組織。そして今中央教会はバズ家と深いつながりがある。  
ヴァーナの読みが正しければ、ミムザはバズの政敵の娘。  
だが、ヴァーナはミムザを受け入れた。  
多額の寄付だけが理由ではない。  
ミムザを保護することで、この国の行く末が変わるかもしれないと感じたからだ。  
なのにミムザは消えてしまった。  
王の選定まであと一月と迫ったこの大事な時期に。  
「塔は荒れた形跡はなかったですし、やっぱりミムザが自分で出ていったのでは?」  
「だといいのですが……」  
 
使者と名乗る初老の男がヴァーナの元を訪れたのはそれから数日後のことだった。  
 
テイウェンの都では王宮についで美しいと言われた本邸は何物かによって放たれた炎で失われたと聞く。  
仮住まいとはいえ、炎をかろうじて逃れた豪華な調度品がところ狭しと並べられたこの邸は  
普段慣れた修道院と比べると天と地のように違う。  
ヴァーナはこの部屋に通されたものの、かれこれ半刻は待たされていた。  
この家の主の名はユージェレン=カインフォルタ。  
五公家が一つ、カインフォルタ家の若き当主。まだ15になったばかりと聞く。  
そして、彼の姉に当たるのがケイティア=カインフォルタ。  
ヴァーナに使者を送った人物だ。  
「お待たせしました、シスターヴァーナ。」  
扉を開けて入ってきた人物は三人。  
一人は初めて会う栗毛の青年。  
そして、黄金色の巻き髪の少年と、同じく黄金色の髪に花飾りをあつらえた少女。  
そのどちらもヴァーナの知る顔。  
彼等は二人とも、シスターミムザと同じ顔をしていた。  
隣り合って腰掛けるあまりにそっくりな二人を見てヴァーナが尋ねる。  
「双児…なのですか?」  
その台詞に姉弟は顔を見合わせてくすくすと笑う。  
「残念ながら、僕達は一つ違いです。」  
壁にもたれていた栗毛の青年が口を開く。  
「さて、本題に入りましょうか。」  
 
「あのような形で修道院を出たことに関して、本当に申し訳ないと思っております。」  
口がきけないはずのミムザ、いやケイティアが流暢に口をきく。  
「私達は、父、マルベレン=カインフォルタを亡くして以来、家を焼かれ、弟は二度も殺されそうになりました。」  
「姉上も何度かさらわれかけました。犯人は目星がついてますが。」  
「それで、後ろ楯を求めて、ユージェレンは東領に。ケイティアは修道院に逃込んだんだよね。」  
栗毛の男が口を挟むと少年は訝し気に青年を睨む。  
「ではミムザ、いえ、ケイティア様、何故あんな失踪まがいの消え方を?」  
「それは……」  
少女が答えにつまって黙りこむと、変わりに答えたのは青年の方だった。  
「ユージェレンが戻ってきたからさ。僕と一緒にね。」  
青年は壁から身を起こすとヴァーナに向かって一礼する。  
「御紹介が遅れましたね、シスターヴァーナ。私の名はミウス。東侯ウィリナール=イゼンダの長男です。」  
「では、東侯はカインフォルタ支持に?」  
「そういうことになるかな。父上は気紛れだから直前になって変えるかもしれないけどね。」  
青年がちゃかすように言うと、少年がぴくりと眉を上げた。  
「理由はなんでもいいんです。僕らは今ここであなたとお話する必要があった。僕らカインフォルタの未来の為に。」  
「つまり私を外に引っぱりだしたかったと。そのための失踪劇なのですか?私はただの修道女。ケイティア様を修道女として匿うことはできても、外であなた方のお役にたてることは何もないはずですが。」  
ヴァーナの言葉に少年がくすくすと笑う。  
「ただの修道女。本当に御自分のことをそうお思いですか?」  
自分の人生の半分も生きていない少年がヴァーナを見透かしたような目で見る。  
「何を、おっしゃりたいのです?」  
少年は足を組み換える。  
「僕らはあなたにお願いがあってこちらにお出で頂いたのです。」  
お願い。脅迫めいた瞳で少年は言った。  
 
「簡単なことです。中央教会のリシャム司教。彼にカインフォルタに票を入れるように働きかけてほしいのです。」  
「そんな無茶な…どうして私がそんなことを?それに中央教会はバズ家を…」  
「ええ、今のところ司教はバズ支持だ。けれどあなたにはできるでしょう?司教の心を変えることを。」  
少年の碧の瞳はまっすぐヴァーナの瞳を見据える。  
「だって彼はあなたの上客だったんでしょう?」  
少年の言葉にヴァーナの翡翠色の瞳がいっぱいに開かれる。  
「な、何をおっしゃってるんですか?」  
ヴァーナ自身は気付いていなかったが、そのからだはかたかたと震えていた。  
「それと、オーグスの票もこちらにまわして下さい。今のオーグスの当主は分家の出身。当主の座についたのはあなたの推薦があったからだと聞いてます。」  
少女はかたかた震えるヴァーナを心配そうに見つめる。  
だが、同じ顔をした少年は少しも悪びれた様子もなく、とどめの一言を放った。  
「簡単なことでしょう?シスターヴァーナ。いえ、エミリア=オーグス。」  
 
 
ミムザが消えた。  
 
「ちょっとルーエラ、いつまでここにいるの?」  
シスターエイミが私を呼ぶ。  
ミムザが塔に残した荷物の整理はほとんど終わった。  
ミムザがよく読んでいた高そうな書物はそのまま残り、  
あれだけ届けたはずのミセスカーターからの手紙は一通も残されていなかった。  
残された荷物からミムザの正体を探る手がかりとなるようなものは出て来なかった。  
「ここには長くいるけどこんな風にいなくなる預かりの娘は初めてだよ。」  
縛った本を抱えたシスタースウが言う。  
「まあ、シスターヴァーナの話だと、ちゃんと自分の意志で出てったみたいだしねえ。」  
「あら、これもミムザのかしら?」  
シスターレムが見つけたもの。それは埃をかぶった銀の十字架。  
あの日、神の花嫁たる資格を失ったあの日にミムザに奪われた私のものだ。  
「置いてくってことはいらないってことよね。」  
「色々感心できないわね。ミムザの行動は。」  
十字架を取りかえそう、とは思えなかった。  
ミムザの言葉が頭の中で蘇る、  
『神に祈れるのなら返すけど。』  
『純潔じゃなくなった君が。』  
そう、私はもう神の花嫁ではないのだ。  
けれど神のかわりにこのからだを捧げた彼は、もういない。  
彼は灰色の塔と言う名の牢獄を飛び出して外の世界へ帰ってしまった。  
私のからだに情欲の罪だけを刻みつけて。  
ならば私はどうすればいい?  
一人残された私は?  
 
「スウ、塔の様子は?」  
「ダメだね、あれは。意地でもあそこを離れようとしない。」  
「シスターヴァーナはこの頃お忙しいし、一体どうすればいいのか…はあ。」  
シスターレムがため息をついた。  
「ミムザと仲が良かったのはわかるけど、あそこで待ってたってミムザが帰って来るわけでもないのにね。」  
「それと…言いにくいのだけど……」  
「何だい?」  
修道女は皺だらけの顔を赤らめて、ぽそぽそと白状する。  
「ルーエラ、前は食事を運んでも吐いてばっかりであまり食べなかったでしょう?」  
「ああ、あれには困ったもんだった。」  
「最近やっと治ったと思ったんだけどね、その…」  
「だから何だい?はっきり言っておくれ。」  
スウはいらいらと答えを急かした。  
「お腹が、出てきたんじゃないかって。その、エイミが言ってて。」  
「腹?仕事もしないで塔にこもってるんだから太ったんじゃ…」  
あることに気付いたスウが顔色を変える。スウの顔を見て、レムがうなずく。  
「ええ、ありえないことなのよ。だってここは修道女しかいないんだから。」  
 
〜森の泉で小さな兎が春を迎えに  
 おいでおいでと栗鼠たちも〜  
 
この頃やけに眠い。  
いっそ眠ったまま目が覚めなければいいのに。  
なんど目が覚めても彼はいない。  
なんどからだが疼こうとも、彼はいない。  
最近、神は私に罰を与えた。  
日に日に膨らむこの腹。  
きっとこの腹はそのうち弾け飛ぶか、何か得体の知れないものが喰い破って出て来るに違いない。  
これが私の罰。  
ならば彼は、ミムザはどんな罰を受けたのだろうか?  
私には知る由がない。  
だってミムザは消えてしまったから。  
時折思う。彼は初めから私を堕落させるのが目的の悪魔だったんじゃないかと。  
悪魔ならば罪だの罰だのは通用しない。ならば私が願うことは一つ。  
どうぞ祝福を―  
 
 

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