「ねえ、ハノン、こっちはおいもばっかりだよー。」
「けほっ、けほっ、けほっ、くしゅん!」
「シャリー、そっちはあった?」
小さな女の子達は宝探しの真っ最中。
闇雲に麻袋を開けてみたり、樽をのぞきこんだり、粉だらけになったり。
「はちみつないのかなー。」
一人があきらめたように言い、二人もがっくりと肩を落とす。
「じゃあ、あそぼうよ。」
一人がそう言うと、二人は目を輝かせてうなずく。
「なにしてあそぶ?」
「かくれんぼがいい!」
「じゃあおにをきめよっか。いい?じゃーんけーんぽん!」
子供達はくすくす笑いながら思い思いの場所に散っていく。
鬼が何回か交替し、シャリーの番となった。
シャリーは壁をむき、目を閉じてゆっくりと数える。
「……しーち、はーち、きゅーう、じゅーう!」
ここ、灰色の塔の二階は薄暗い一階と異なり、窓から日が差し込んでいて明るい。
すぐに見つけてしまうとおもしろくないからと、隠れるのは一階、鬼は二階で10数えてから探すというルールにした。
カタン―
背後から聞こえたかすかな物音に、シャリーは振り返る。
(ニかいはだめってきめたのに。ずるしたのかな?)
廊下を進み、木の扉のノブに手をかける。
(あっ。ここがびょーきの人のおへやなのかな?)
一度手を引っ込める。
(そうだ。おみまいだ!シスターヴァーナだっておみまいにいくとよろこぶもん。)
部屋に入るもっともな口実を見つけ、シャリーはノブを回した。
ギィーっと古めかしい音をたて、扉が開く。
シャリーの想像とは異なり部屋にはたくさんの棚や木箱が並んでいるくらいで、病人はいそうになかった。
あまり使用されていないのか、棚にも木箱にも埃が積もっている。
「けほっ、けほっ。」
一歩進む度に舞い上がった埃に咳き込んでしまう。
ハノンもアンナもここにはいないようだ。
あきらめて階下に戻ろうとくるりと向きを変えたシャリーは光を反射している何かに気付いた。
(あれ、なんだろう?)
床に転がっている小箱。他の木箱と違い、これは埃をかぶっていない。
さっき聞いた物音はこれが棚から落ちた音かもしれない。
そっと小箱を手に取ると、中には青い小瓶が入っていた。瓶を揺らせば中に少しだけ残った液体が波打つ。
(きれーい!)
きらきらと光を反射して青い小瓶は宝石のように見えた。
(なにがはいってるのかな?)
シャリーは瓶の蓋を外し、試しに匂いを嗅いでみる。
「……?!」
パタン。
小さな女の子が倒れこむと同時に周りの埃がぶわっと舞い上がる。
埃がゆっくりと地におりつく頃、部屋には静寂だけが残った。
「ねえ、ハノン。シャリーおそいねー。」
「しーっ!見つかっちゃうよ。」
物陰に潜む子供達は、なかなか自分達を探しに降りてこないシャリーをじっと待っていた。
だが、現れたのは鬼の形相をしてても、かくれんぼの鬼ではなかった。
「ハノン、シャリー、アンナ、いるの?」
息をきらしたシスターエイミが立っていた。
すやすやと眠り続けるシャリー。
シスターエイミも、シスターレムも、丁度木箱の影に隠れるように倒れていた小さなシャリーの姿を見落としてしまう。
結果、孤児院全体を巻き込んでの大捜索が始まってしまった。
シャリーは確かに塔にいたのに。
やがて月が上る。
『ねえ、起きて。』
シャリー眠りからを覚ましたのは子供のものでも老婆のものでもない透き通るように綺麗な声だった。
優しい声に、シャリーは夢の世界から現実へと引き戻される。
『あなたはどうしてこんなところにいるの?』
頭がくらくらするが、自分を起こした相手を見ようとごしごし目をこする。
まっ先に目に入ったのは黒衣。ここ、メイア孤児院のシスターのお決まりの服。
だが、目の前のシスターは知らない顔。
メイア孤児院は老修道女ばかりなのに、とても若い。
頭にはヴェールをつけておらず、亜麻色の髪は風もないのにたなびいていた。
整った鼻筋、長い睫、大きな瞳、きりりとした眉、形のいい唇。
どれをとってもけなすところがない。
いつか絵本で見たお姫様のようだとシャリーは思う。
『迷子になったの?』
問いに対しふるふると頭を横に振る。
「ちがうよ。かくれんぼしてたの。」
『そう。遊んでいたのね。でも駄目よ、勝手に入っては。ここは修道院なんだから。』
「しゅーどーいん?」
『そう、ここはメイア修道院。神の花嫁が祈りを捧げて暮らす場所。』
シャリーは返答に首をかしげる。ここはメイア孤児院のはずだ。
『あなた名前は?夜になったんだからおうちに帰らないとパパとママが心配するわ。』
「ここがおうちだよ。」
シャリーは少し不機嫌な声で答えた。
ここは孤児院。孤児たちの家はここにしかない。
それにパパやママがいる子なら、そもそも孤児院にいるわけがない。
この初めて会う修道女は何故そんなこともわからないのだろうか。
「わたしのなまえはシャリーだよ。ねえ、シスターはなんでとうにいるの?びよーきの人なの?なまえは?」
シャリーの立続けの質問に、修道女は困ったようにはにかみながら笑う。
『私は別に病気で塔にいるわけではないわ。』
「ふーんそうなんだ。じゃあなんでとうにいるの?いつもここにいるの?」
やはり質問責めのシャリーの目は好奇心旺盛な子供の特有の輝いた目。
『どうしてかしら?うまく言えないけど、そう、そうね。ここは私の楽園だから…』
「らくえん?なーに、それ?」
『もっと大きくなったら教えてあげる。さあ、いつまでもこんなところにいては駄目。帰りましょう。』
背を押され、シャリーは扉へと向かう。
シャリーの通った後は埃が舞うのに、亜麻色の髪の修道女の通った後は全く埃が舞わなかった。
階段にさしかかったところで、二人の歩みは止まる。
修道女の視線の先には、二階にあるもう一つ部屋の扉。
『ああ、ここにも迷子がいるのね。』
迷子と聞き、シャリーは一緒に遊んでたハノンとアンナを思い浮かべる。
『こっちの迷子も戻してあげないと。』
修道女はシャリーの手を引き、扉へ向かう。
だが、修道女はノブにテをかけるも、扉を開くことができなかった。
『シャリー、扉が重いみたいなの。一緒に回してくれる?』
シャリーは一緒に手をかける。
ギィーっと音をたてて開く扉は多少かたかったが、大人の手で開けられないとは思えなかった。
部屋にいたのはハノンでもアンナでもなく、シャリーの手を引く修道女同様に若い修道女。
ただこちらはきっちりと黒のヴェールを身に付け、首からは銀の十字架をぶら下げていた。
「誰?」
揺りいすに腰掛けていた修道女が、シャリー達侵入者に警戒心をあらわにする。
『あなたこそ誰?ここは私の部屋よ。』
「何おかしなことを言っているの、ここは私の……ちがう、ミムザの部屋よ。」
『ミムザ?そんな人知らないわ。』
「私もあなたなんか知らないわ。」
『あなた、名前は?』
亜麻色の髪の修道女は言い争いにもの怖じしていないようだった。
その毅然とした態度にやや押されたのか、揺りいすの修道女は先程の勢い、渋々ながら答える。
「私は、ルーエラ。シスタールーエラよ。」
『へえ、新入りかしら?あとでシスターセナに聞かないと。』
ルーエラと言う名もセナと言う名も初めて聞くもの。
シャリーが知らないだけで、このメイア孤児院の中にはおばあちゃん修道女だけでなく、普段会うことのない若い修道女も数多くいるのだろうか。
『ああ、シャリー。ごめんなさい。あなたがいたのを忘れてたわ。』
ルーエラを睨んでいた亜麻色の髪の修道女が振り向き際に表情をやわらげる。
「だいじょうぶだよ。でも、けんかはだめだよ。」
返事をしたシャリーは同時に鋭い視線を感じた。
シャリーを見つめる凍り付いた目。
ルーエラの顔はおぞましいものでも見るかのように歪み、
かたかたとからだは震え、その震えは揺りいすにまで伝わっていた。
「こど…も。知らない。私は子供なんて知らない……」
ルーエラは机の上に山積みされた本の一冊を手に取る。
「知らない。子供なんて、知らない。知らない。」
十字架を握り、ぶつぶつを呟くルーエラの姿を見て、シャリーは恐怖を覚えた。
(へんだよ。こわいよ。このシスター。)
ルーエラの方は、亜麻色の髪のシスターのことを忘れたかのようにシャリー一人だけを見つめて呟き続ける。
「私は神の花嫁。子供なんて知らない。いらない。」
本を持つルーエラの手が振りかざされる。
(ぶつかる!)
シャリーは目をつむり、身をかがめる。
だが、予想してたものはいつまでたっても飛んでこなかった。
(あれ?)
シャリーは恐る恐る目をあけ、ルーエラを見上げる。
ばさっと音をたて、本が床に落ちる。
ルーエラの手はさっきと同じ、高く振りかざされたまま。
違うのは、そう、亜麻色の髪の修道女がルーエラを抱きしめていた。
『もういいのよ、ルーエラ。誰もあなたを責めたりしないから。』
子供をあやすように、ルーエラの頭を撫でる。
『可哀想に、私の楽園に囚われてしまったのね。罪の意識にさいなまれて。』
「違う、違う、私は望んでなかった……あんな…」
振りかざされていたルーエラの手がすとんと力なく下がる。
『神の花嫁でありながら交わったこと。求めたこと。そして…』
「言わないで、やめて、言わないで。」
ぽろぽろと涙をこぼすルーエラ。その彼女を抱きしめたまま、言葉を続ける。
『子をなしたこと。』
ルーエラは腕を抜け、床に崩れるように座り込む。
声を殺すようにして、でもこらえきれずしゃくりあげながらルーエラは泣いていた。
幼い子供にルーエラの罪などわかるわけもなく、
泣き崩れる彼女に対してどうすればいいのか戸惑いながらシャリーはもじもじと指をからめる。
『シャリー、こっちに来て。』
名を呼ばれたシャリーは不安げな顔をして二人の修道女の元へ近付く。
『ねえ、ルーエラ。シャリーはいい子よ。何も知らない。あなたの罪も。私の罪も。』
シャリーは恐る恐るルーエラの頭を撫でる。
「ねえ、なかないで、ルーエラ。」
小さな手に頭を撫でられ、ルーエラがぴくんと体を震わせる。
涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、シャリーを見る。
涙でぼやけ、顔の輪郭すらはっきり見えない。かろうじてわかったのは瞳の色くらい。
その色は、碧。一度だけ見た赤児の瞳と同じ色だった。
「…っく…っく……ごめんなさい、シャリー。」
すすり上げながらルーエラは言う。
「わたしはだいじょうぶだよ。だからなかないで、ね?」
シャリーはついさっき本でぶたれそうになっていたのに、そんなことなど嘘のように思えた。
涙の止まらないルーエラは、孤児院の他の子供と一緒だった。
悪戯を咎められて泣く子。親を恋しがって泣く子。転んで痛いから泣く子。おねしょして泣く子。
罪の意識に囚われ、一人塔に残され、ただ寂しいから泣く子。
『ここは私の楽園。ここで重ねた罪は全て私の罪。でも、もう終わり。私は行かなければ……だからルーエラ、あなたもここを出なきゃ。』
やっと泣き止みかけたルーエラにかけられる穏やかな優しい声。
「出る……ここを?」
『そう。楽園はもう終わり。あなたの罪も私がもらっていくわ…』
亜麻色の髪の修道女はゆっくりと扉に向かう。
立ち上がろうとするシャリーの動きを修道女は手で制する。
『シャリー。あなたはまだルーエラと一緒にいてあげて。私は先にいくわ。』
そう言われ、シャリーはまた床に腰をおろす。
確かに泣き止んだとはいえ、ルーエラをここに残していくのは可哀想に思えたから。
『いい子ね、シャリー。』
こぼした涙の跡の渇かぬルーエラの顔を自分の服でぬぐってあげるシャリーを見て、亜麻色の髪の修道女が微笑む。
『私もあなたのような子を産みたかった。』
そう言うと、再び扉に向かい踵を返す。
「まって!ねえ、なまえ。なまえきいてないよ?」
慌ててシャリーが尋ねると、修道女は振り返らずに答えた。
『私はシスター……ふふ、違うわね。私の名前はエミリア。皆が私をそう呼んだわ。』
「エミリアっていうのね。またね、エミリア。」
「…エミリア……?」
エミリアの名を聞き、目を腫らしたルーエラの顔がわずかに曇る。
『さようならルーエラ。もう楽園に囚われては駄目よ。シャリーも、さようなら…』
その声はどこから聞こえてきたのか。
シャリーは瞬きをしただけなのに、気付けばエミリアは部屋のどこにもいなかった。
窓は閉め切られて風もないのに、どこからか花の香りがした。
姉は随分と慌てていたが、シャリティアがいなくなったのは事件ではない。彼はそう睨んでいた。
いくら民衆の支持や人気があっても、力を持つ者達の中には彼を支持しない者もいる。
彼はそういった勢力をことごとく潰してきたが、敵は次から次へと現れる。
何かを変えるには、その何かを守ってきた者達を切り捨てなければならないのだから。
反対勢力は皆、彼の弱味を握ろうと必死だ。
彼に隠し子がいるとわかれば飛びついてくるだろう。
だが、シャリティアは娘。
この国は古くから男性にしか様々な権利を与えていない。
彼の改革を支える様々な識者の中には男女平等を強く推す者もいるが、
彼が王である限りある時間の中で、実現できることは限られている。
女性に権利を与える事は、課題だらけのこの国の改革の中では当分先送りだろう。
結局彼自身が認めない限りシャリティアはただのシャリーで、カインフォルタ家にとって駒ですらないのだ。
女だから家を、つまりは王位を継ぐ事もできない。
かといって政略結婚に使うこともできない。
だが、その方が幸せかもしれない。彼はそう思っている。
だから、シャリティアをシャリーとして育てるために、メイア修道院を孤児院にしたのだ。
灰色の塔。かつて楽園と呼ばれた場所。
そしてかつてシスターミムザと呼ばれていた青年は樽が雑多と並ぶ貯蔵庫を抜け、二階へとつながる階段に向かっていた。
灰色の塔にいつも彼女はいる。シスターエイミはそう言っていた。
まっ先にシャリティアを探すのではなく、彼女に逢うことを選んだのに特別な理由はない。
彼がからだを穢し、こころを壊した修道女。シスタールーエラ。
今の彼は女に不自由はない。他国からも、自国からも縁談は山のように来る。
嫁いでいった姉も都に来ては、身を固める事を急かす。
それでも彼が独り身でいるのは、彼女、ルーエラのことがひっかかっていたわけではない。
多分もっと深い部分で彼は拒んでいるのだ。女性を。いや、母性を。
考え事をしながら歩いていたせいか、彼は足下に転がる芋につまずきバランスを崩す。
とっさに壁に手をついたので転びはしなかったが、顔を上げた彼の視界に一人の見知らぬ修道女が飛び込んできた。
『あら、ここにも迷子が?』
足音も無く、ゆっくりと階段を下りて来る一人の若い修道女。
黒衣は着ているが、頭にヴェールはつけておらず、亜麻色の髪をたなびかせている。
(ここはもう新しい修道女の受け入れはしないはず。誰だ?)
訝し気に見つめる彼の横を修道女は通り過ぎていく。すれ違い様に修道女は声をかけた。
『楽園はもう終わりよ。彼女は囚われの身から解放されたわ。』
「待て。お前は!?」
ふわりと花の香りがした。彼は振り返るも、そこには誰もいなかった。
「もーりのいずみで」「小さな兎が」
「はーるをむかえに」「おいで、おいで、と」
扉を通して聞こえて来るのは二つの歌声。
一つは幼い子供の声。そしてもう一つは大人の女性の声。
彼は扉を開く。前は重かった木の扉は、修理したのか無抵抗に開いた。
揺りいすに腰掛ける女性と、その膝の上にちょこんと座る子供が仲良く歌をうたっている。
「りっすたちもー……あれ、ルーエラ。誰かきたよ。」
彼に気付いたシャリーが歌を止め、指を指す。
ルーエラは彼の姿を認めても表情を崩さず、無言だった。
ルーエラの顔を見て、彼の方が驚きを隠せなかった。
本当のところ、もっとひどいと思っていた。
痩せこけているわけでもなく、青いわけでもなく、皺が深いわけでもなく。
変わらなかった。ルーエラは彼がミムザであった頃と変わらなかった。
「ねえ、おじさんはだーれ?」
ルーエラの膝を下りたシャリーが彼の元に走ってくる。
(おじさんは…ないだろう。)
無邪気に彼の足に抱き着いて来るシャリー。新しい遊び相手のつもりなんだろう。
彼がシャリーを腕に抱きかかえると、シャリーはきゃっきゃっとはしゃぐ。
「ねえ、おじさんケイティアさまににてるー?かみもおなじいろだよ。」
シャリーは彼の黄金色を嬉しそうに引っ張る。
「いたた、ケイティアは僕の姉だからね。目の色も同じだろう。」
「ほんとだ、あおーい。あっ、目はわたしもおなじいろだよ。すごーい。」
小さな手がぺたぺたと彼の顔に張り付く。
ルーエラは揺りいすから立ち上がり、まっすぐに彼を見据える。
「お久しぶりね、ミムザ。」
腕からおろされたシャリーは、今度はルーエラに構ってもらおうと抱き着く。
「今日、初めてこの子を抱いたの。」
ルーエラはさっき自分がされたように、シャリーの頭を撫でた。
髪を撫でる手に、シャリーはくすぐったそうな顔をみせる。
「僕も、そうなるね。」
彼は目を伏せた。
そこにまたシャリーが飛びつく。
「ねえねえ、おじさんのおなまえは?わたしのなまえはねえ…」
「シャリティア。」
「えっ、すごーいなんでしってるのー?」
彼もまたシャリーの頭を撫でる。子供特有の柔らかい髪のが彼の掌をくすぐった。
「僕の名はユージェレン。ユージェレン=カインフォルタ。」
彼は初めて彼の本当の名を名乗る。ミムザであった時同様、ルーエラの瞳を真直ぐに見つめて。
「ユージェ??カイホルタン???」
幼いシャリーは、長い名前や名字は覚えきれないようだ。
「ユージェでいいよ。シャリー。」
彼はまたシャリーを抱きかかえた。
ルーエラが二人のもとに歩み寄り、わずかながら赤みが残る彼の左頬に手を添えた。
「ユージェ、というのね。」
シスターミムザ。かつてルーエラにとって妹のような存在だった。
だが、それは偽り。
少年はルーエラに教えた。
甘い甘い禁断の蜜の味を。情欲の罪と言う名の蜜の味を。
そして、消えてしまった。
罪の鎖にルーエラを繋いだまま。
産み落としたことすら否定し続けたわが子は赤児から少女へと成長し、
少年は青年になった。
それだけの時が過ぎた。
「『大人になったわね、ユージェ。』」
ルーエラの声に混じり、先程すれ違った亜麻色の髪の修道女の声が聞こえたような気がした。
揺りいすに腰掛けるルーエラ。その膝の上にはすやすやと寝息をたてるシャリー。
「君はこれからどうしたい?」
「時間を、取り戻すわ。」
「そう…」
壁にもたれ掛かるユージェレンは黄金色の髪をくるくると指に巻き付ける。
「修道女は、もう続けられない。」
「ここを出るのか?」
ルーエラはこくりと頷き、眠るシャリーの頬にかかる髪をそっとわける。
「まずは塔を出るわ。あとは、まだわからない…でもシャリーにとって一番いい方法を考えるわ。」
「僕もできる限りの援助はするよ。」
援助。それは聞こえがいいだけで、愛情のいらないただの施しにすぎない。
姉の咎める声が聞こえた気がして、ユージェレンは自嘲する。
「あの人が、シャリーとあなたをここに呼んだのかしら?」
「あの人?」
「エミリアよ。見なかったかしら?きれいな亜麻色の髪をした…」
「亜麻色の髪に、翡翠色の瞳の…エミリア。そんな、まさか!だって彼女は……」
その事実はまだ知らぬものの、生まれて初めて母の胸に抱かれて眠るシャリー。
どこかから聞こえて来る優しい声がシャリーの耳をくすぐった。
『いっぱい恋をして、素敵な女性になりなさい。そうすれば、楽園に囚われたりなんかしないから。』
「エイミ、シャリーが見つかったようだよ。」
駆け込んできた知らせにエイミはそっと胸をなで下ろす。
ベッドに横たわるヴァーナの病状は依然良くないまま。
昼間の医師に往診を頼んだが、まだ到着しないようだ。
「……アレ…さま…」
ヴァーナの口元がわずかに動く。
「シスターヴァーナ、わかりますか?シスターヴァーナ?」
エイミはヴァーナの意識が戻る事を期待して、必死で呼び掛ける。
「……やっと……に…」
「シスターヴァーナ、頑張って。もうちょっとで先生が!」
呼び掛けに反応したのか、ずっと握りしめられていたヴァーナの左手がわずかに緩められ、ころんと何かが転がり落ちた。
エイミは床に転がる物、飾り石のついた指輪を拾い上げる。
(握りしめているなんて、よっぽど大切な物なのね。)
女ものというには些か大きい指輪をヴァーナの細い、骨と皮ばかりの指に通す。
高熱にうなされ生死の境を彷徨っているはずのヴァーナ。
その顔は穏やかで、微笑んでいるようにも見えた。
「シスターヴァーナ?」
エイミの声はもう、届かない。
「…ヴァーナ?………ああ、そんな!」
エイミは扉を開け放ったまま、ばたばたと部屋を飛び出す。
部屋はほのかに花の香りがした。
子供達が見舞いに持ってきた花のせいだろうか。
だがそれは夜風に流され、やがて消えてしまった。
都の西北に位置するメイア孤児院。
かつてそこはメイア修道院と呼ばれ、神に祈りを捧げる修道女達が暮らしていた。
だが、それは昔の話。
灰色の塔は今はもう存在しない。
敷地の中を良く探すと、修道女達の墓地と別に、一つだけ離れたところに墓標が見つかる。
迷うなら、裏口から植木伝いに左にすすめば見つけやすいだろう。
子供達の手で植えられた色とりどりの花々に囲まれた白い十字架。
そこに標された文字は、大分朽ちてしまっている。
無理に読めば読めなくもないが、今はやめておこう。
花々は今日も優しく薫る。