神よ、一瞬でも淫らな思いを抱いた私をお許し下さい。
あれはミムザにしてみればほんの悪戯だったのです。
人気のない礼拝堂でルーエラは祈った。
見上げる聖母像はいつもと同じ、優しい眼差しをしていた。
あの悪戯以来、ルーエラはミムザの部屋に遊びにいきにくくなってた。
それどころかここ数日は顔すらみていない。
もともとミムザは他の修道女達と行動を共にすることが少ない。
朝の水仕事も、昼の畑仕事も、夕の針仕事も、
そのどれにもミムザが参加することはほとんどなかった。
祈りには顔を出す事はあったが、
それすらも毎日というわけではなく、
皆で集まる食事の時間もミムザは私室でとることを許されていた。
実際ルーエラがこの修道院に来た最初の数週は、
ミムザの存在にすら気付かなかったくらいだ。
この明らかな特別待遇は「口が聞けぬ」というだけでは理由にならないだろう。
だが院長であるシスターヴァーナも、他の修道女も特に気にする様子はなかった。
他の修道女たちに尋ねた事がある。
何故シスターミムザは皆と違う扱いなのか、と。
それに対する答えは、
「院長の方針だから。」
「ミムザのような扱いの修道女は過去にもいる。」
「きっとあの子も預かりなのだろう。」
というよくわからないもので、詳しく聞こうとするとぼかされるのだった。
その日ルーエラは針仕事の途中に、院長室に呼ばれた。
ドアをノックすると、
「お入りなさい。シスタールーエラ。」
と声をかけられ、ルーエラは中に入った。
「呼び立ててごめんなさいね。」
胸元に十字架を下げたシスターがルーエラにすまなさそうに目尻を細める。
シスターヴァーナはルーエラの実家のような下級貴族とは格の違うかなり上流の出らしく、
年老いた今も気品を感じさせる人だ。
大変人望もあり、修道女たちををまとめあげるだけでなく、
近くの教会の神父の相談にものるし、
乞食だろうが貴族だろうが、身分の壁なく接することができる人だ。
今でも院長を慕う人々からは時々野菜だの衣服だの様々な形で援助が送られてくる。
今もどこかからの荷が着いたようだ。
「実はこれをね、シスターミムザに届けて欲しいの。」
差し出されたそれは小さな包みだった。大きさからすると本か何かだろう。
「最近ミムザが元気がないようなの。仲良しのあなたは知らないかしら?」
老いた修道女は皺の深い顔にさらに皺を刻みながら微笑む。
「少し、喧嘩してしまったんです。シスターミムザが悪ふざけをするものですから。」
ルーエラは少しばつの悪い顔をしながら返事した。
「度がすぎる悪戯はよくないわ。でもそれを諌めてあげるのもあなたの役割ではないかしら?」
ヴァーナの口調はおだやかで、この人にそう言われるとただ納得させられてしまう。
「そうですね。私の方が4つも年上なんですから。」
荷を受け取り、扉に手をかけながらルーエラは前からの疑問を投げかける。
「預かり、とはどういうことなのでしょう?」
ヴァーナは部屋に残った荷をより分けながら答えた。
「シスターミムザは今はあなたと同じ修道女見習い。ですが、彼女は将来ここを出て家に戻る可能性もあるということです。」
ヴァーナはルーエラが顔に影を落とすのを見落とさず、続ける。
「過去にもそういった修道女は何人もいます。ですがそういった方やその家族がのちのちもここを支えてくれているのも事実なの。だからルーエラ…」
「そう、ですか…失礼します。」
ヴァーナの言葉を遮り、それだけ答えるとルーエラは部屋をあとにした。
少し立場は違えど、同じ神の花嫁だと思ってた。
家に捨てられ、あるいは居場所を無くした者同士だと。
いる場所も、帰る場所もここにしかない。
質素ながらも永住の家となるここで、これからも姉妹のように…
重い足で灰色の塔に向かい、一歩一歩階段を歩む。
前はここに来るのが安らぎだった。
でも今、この浅はかな自分はミムザを見て笑えるだろうか?
木の扉を叩いても返事はなく、部屋をのぞくと人の気配はなくミムザは留守のようだった。
ほっとした。
今ミムザに会っても前のような素直な思いで話せない。
何故自分は過去の悪夢も得られなかった未来の夢も、ああも一方的に全て話していたのか。
戻る場所がある、ここ以外での未来が待つ彼女に。
机に荷だけ置いて去ろうとするが、
同じく机に置きっぱなしになっていた手紙らしきものが一枚、ふわりと床に舞う。
元に戻そうと拾い上げると、悪意なく、書面が目に入る。
〜こちらは何とか援助を集めるから。
今は試されている。
でも成功すればきっと道が開ける。
逃げ隠れせずに堂々とあいつに立ち向かえる。
くれぐれも用心して、もう事情はばれはじめてる。
あなたの方に送った〜
ルーエラは手紙に見入ってしまい、全く気付かなかった。
背後から忍び寄る同じ黒衣の人影に。
急に顔を、正確には鼻と口の辺りを急になにかで覆われ、
同時に意識は朦朧とし、目の前は真っ暗になる。
ルーエラはバタンと床に崩れ落ちた。
ミムザは床に崩れ落ちたルーエラの右手から覗かれてしまったものを取り上げた。
「どこまで読んだか…まあこの手紙じゃたいしてわからないだろう。」
非力な修道女の外見ながらも
その腕でルーエラの身をひょいと抱きかかえるとベッドに移す。
倒れる時にぶつけたか切ったか、ルーエラは唇に血を滲ませていた。
その唇に指を添え、血をぬぐう。
指に着いた赤いものを舐めると錆びた鉄の味がした。
ベッドに腰掛けたミムザは顔を近付けルーエラの唇と己の唇をあわせる。
血の味のするそこを舌で舐めとり、そのまま唇を割り中に侵入する。
動かないルーエラの舌と自分の舌を絡ませ、その温もりを愉しむ。
ゆっくり唇を離すと銀色の糸が伸び、切れた。
ルーエラはまるで無反応だった。
死んでしまったかとも思ったが、上下する胸の膨らみがそれを否定していた。
「効くね、この薬。」
ミムザの目がゆっくりとルーエラを捉えていく。
ルーエラが目が覚ますと灰色の天井が目に飛び込んできた。
寝室の天井は雨漏りのあとのある白の天井のはず…
もやもやした意識をはっきりさせながらここがどこかを思い出す。
そう、灰色の塔のミムザの部屋だ。
ばっと身を起こすも、尻や腕が少し痛い。どこかにぶつけたのか?
口の中も少し血の味がした。
部屋の主はまだ留守のようだ。
自分はいつの間にうたたねをしてたのか気になりはしたが、
窓の外見ればもう暗くなりはじめてる。
(夕仕事途中だった!早く戻らないと…)
読みかけていた手紙のことなど思い出しもせず、ミムザが戻っていたとも知りもせず、
ルーエラは塔をあとにした。
ルーエラはぶつけたらしい左の肘をのぞこうとして新たな異変に気付いた。
首や顎のあたりになにかがこびり着いたような汚れがついている。
払うと白っぽいカスが落ちるものの、完全にはとれなかった。
少し変なにおいがする気もする。
そのまま夕仕事に向かうのも悪い気がして井戸に向かう。
水に濡らしたそこは妙にぬめりとしていて気持ち悪かった。
井戸で洗って安心し、その汚れが
ヴェ−ルにも小さな白い染みを作っていたことにまでルーエラは気付かなかった。
彼女が気付くのは月が上った頃。おかしな汚れに首をかしげるのだった。
ただ、その日ルーエラとすれ違った修道女の中には鼻をひくつかせてた者が数人。
ただの異臭だと思う者もあれ、
かつて知る生臭さに首をかしげる者もあれ…