「あなたも、ですか?」
憂いを灯した瞳で見つめられ、僕は焦った。
このシスターが小百合さん本人にしろ、面影が似てるだけの別人にしろ、突然呼び掛けたのだ。
何らかの不信感を抱かれたに違い無い。ストーカーとか。
「えっ、あのっ、すみません。つまり、僕は栗津で…その、あなたと似た人を」
咄嗟に思い浮かぶには訳のわからぬ言葉ばかり。
彼女は「栗津」と僕の言葉を復唱する。その表情は変わらない。
「生駒小百合さんですよね?」
僕は恐る恐る彼女のフルネームを口にする。
ほんの少し、彼女の口角がゆるむ。
「ええ」
人違いじゃなかった!僕はほっとする。
だが、相手が僕のことを恐らく知らぬ以上は怪しくない程度に釈明せねば。
「よかった、やっぱり小百合さんだったんだ。僕は実は」
「言われなくてもわかってますから」
へ?
僕の思考はぴたっと止まった。わかってる?なんでだ?
「こんな格好をしてても許してもらえるわけじゃないってことも」
胸に置かれた手の下に隠れる銀の十字架。
「ここに移ったのは別に逃げてきたわけじゃないけど、やっぱりわかるんですね」
十字架を握りしめる手の甲にはうっすらと筋が浮き立つ。
この目の前のシスターは僕の憧れだった小百合さんその人に間違いない。
なのになんだかおかしな方向に話が進んでるようだ。
仮にも聖職者を前にしているのに、諭されるどころか逆に非行少女を補導している気分だ。
さっさと軌道修正しなければ感動の再会どころではなくなってしまう。
状況を打開しうるであろう天の声は背後から降ってきた。
「あら、リリーさん。まだこんなところにいたの?」
声の主を捕らえるやいなや、青ざめていた小百合さんの顔にぱっと灯が灯る。
振り返った先にいたのは小百合さん同様、黒の衣装に身を包んだシスターだった。
「マザー!」
小百合さんはそのシスターの元へと駆け寄る。
小百合さんより大分小柄で、恐らくかなり高齢と見えるそのシスターは、小百合さんと何か言葉をかわした後、ゆっくりとした歩みで僕の元へとやってきた。
小百合さんもそれに付き従う。
「あなた、栗津からいらしたそうね。初めまして、私はこの子の、そうね、後見人と言ったらいいのかしら。私はヘレンというのよ。マザーヘレンと呼ぶ人もいるわ。あなたのお名前を伺ってもいいかしら?」
年老いたシスターはにっこりと僕に微笑みかける。
間近で見て気付いたのだが、白い眉毛のしわしわのおばあちゃんながらその瞳は日本人にはありえない色、ビー玉のような碧だった。
元々どこの国の人かなんてわからないけど、この流暢な日本語から察するにかなりの年数日本にいるんだろう。
「えっと、僕は柳瀬と」
「そう、柳瀬さんというのね。この子にお話が会ってはるばるいらしたんでしょうけど、今日は私達大事な用があるの。だからできればこんな場所じゃ無くて、そうね…」
がさごそと鞄をあさり、何かのパンフレットと思しき紙を取り出した。
紙面を見た小百合さんが一瞬顔をしかめたように見えた。
『夕凪の家 ふれあいマーケット』
ボランティア団体主催のバザーや金魚掬い大会。
僕に参加を促しているんだろうか?
「これは?」
「ふふ。楽しそうでしょう?あなたもよかったら是非いらして。子供達も頑張ってるんです。」
「はあ」
僕が興味があるのはバザーやらお祭りやらではなく、久しぶりに会った小百合さんなのだが。
その小百合さんはマザーヘレンの登場以来ほとんど口を開いていない。
マザーはにこやかに話を続ける。
「裏に電話が載ってるでしょう?住所も。」
マザーに言われ、紙の下の方を見れば夕凪の家の地図やら何やらが載っていた。
「私達は天咲ではそちらにお世話になってるのよ。悪いけどお電話下さるかしら?それからお話の続きをする日にちを決めましょう。私達は逃げも隠れもしませんよ」
「はあ」
「それじゃあ今日はもうよろしいかしら?リリーさん行きましょうか」
なんだか良くわからないままだが、話は切り上げられてしまった。
丁寧なお辞儀をしてすたすたと立ち去る二人のシスターを見送りながら、僕はポケットで振動する携帯を引っ張り出した。
画面に写し出された番号は面接予定だった店のもの。
面接をすっぽかした僕に確認の電話を入れてくれたのだろう。
でも僕はボタンを押さず、携帯をたたむとポケットに突っ込んだ。
言い訳をしてこれから改めて面接を受ける気分になれそうにない。詫びを入れる気力も無い。
小百合さんの後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
そういえば、どうして小百合さんはシスターの格好なんかしてたんだろう?
なんで天咲にいるんだろう?
僕はサドルについたままだった土ぼこりを払った。
あのわけのわからない再会から一夜。
昨日は迷いに迷った挙げ句、結局夕凪の家に電話はしなかった。
あのマザーヘレンも、小百合さんも僕に何か誤解を持ってるっぽいようだ。
逃げも隠れもって。僕は刑事か?
すっきりしない気持ちで講義室に向かう僕に、朝から無駄に元気な遠藤の声が飛んできた。
「柳瀬〜、おまえ社会学A受けてたっけ?」
「受けてないけど。抽選もれたし。なんで?」
「俺先週さぼったんだけどさ、なんか特別講議でレポート出てるんだよ」
僕が取り損ねた社会学Aはテストは持ち込み可、出席は代返でOKという大人気の授業で、毎年希望者の中から抽選で受講者を選んでいた。
「なんか今年からレポート必須にするんだってさ。詐欺だよな」
「菊っちゃんも確か受けてたよ。あとは岸?」
「だめだめ、あいつらもさぼり。加藤さんとか真面目にノートとってそうなんだけどな、言いづらいんだよ」
加藤さん。僕の脳裏に黒髪三つ編み黒ぶち眼鏡の小柄な女性の姿が浮かぶ。
学部共通の授業では大体最前列に座ってる優等生タイプだ。
確かに彼女にさぼった授業のノート見せてとは言いにくい。
「まあ、頑張れ」
遠藤はやけがさしてきたのか教壇に立って大声で呼び掛ける。
「すいませーん。社会学Aの野田弁護士の特別講議ノートある人いませんか〜?」
「僕も欲しいで〜す」
菊池が答えると教室中笑いに包まれる。他にも何人か便乗して俺も、私も、と声が上がった。
「私持ってるよ」
意外なことに救世主の名乗りをあげたのはあの加藤さんだった。
あっという間に彼女の周りを社会学A選択の駄目学生達が取り囲む。
小柄な加藤さんはすっぽり隠れてしまった。
「ノートはあるけどそれだけどと結構厳しいよ。なんか課題がいくつかあって…」
「げ、知らねえ。SKR詐欺事件て何?QQ貨物事件とか俺幼稚園だろ」
「こっちの方がまだ知ってるよな、栗洲事件、あれ栗川だっけ?」
「三つとも有名じゃない、ニュース見て無いの?」
ノートはあれども課題はなかなか難しいもののようだ。まあ僕には無関係だが。
そうこうしてるうちに授業は始まり、僕はすっきりしないまま一日を過ごした。
綺麗な思い出は綺麗なままでとっておいた方がいいのかもしれない。
深追いしない方がいいのかもしれない。
でも、興味があった、知りたかった。
恐らく僕への誤解への原因につながっているであろう、彼女の事情を。
緊張しながらボタンを押す。何回かのコール音の後、電話に出たのは女性の声。
「夕凪の家事務局です」
「あの、柳瀬といいますがそちらに小百合さん、じゃなくて、シスター、ええと」
「ああ、シスターリリーですね。ちょっとお待ち下さい」
がん、と音が響く。
保留にするのではなく、受話器をどこかに置いて呼びに言ったようだ。
がちゃがちゃという音に混じって遠くで「リリー、電話よ。永瀬って男の人」と、声が聞こえる。
永瀬じゃなくて柳瀬なんだけどな。心の中で呟く。
そういえば小百合さんはリリーと呼ばれてた。
ひょっとして百合だからLILYか?なんか単純だな。
そんなことを考えてるうちに受話器がまた動き出す。
「もしもし、お電話かわりました」
受話器の向こうから聞こえてくる彼女の声はかたい。
「あの、先日お会いした柳瀬と申しますが」
「栗津からいらっしゃってる方ですね」
「はあ、この前は急に話しかけて驚かせてしまってすみません」
「いえ、こちらこそ。それで、話の続きなんですがお会いすることはできませんか?」
「えっ、そりゃもう構いませんけど」
「そう、よかった。マザーにはあまり迷惑をかけれないので。じゃあ……」
暇な大学生でバイトもしてない僕は彼女の指定した日時に体した用事もなく、すんなりと待ち合わせは決まる。
電話を切るまで彼女は年下の僕に対してずっと敬語のままだった。
会って話を、と言われたのは少々意外だった。怪しまれてると思ってたから。
恋になればいいなんて期待は微塵もなかった。彼女は今はシスターなんだから。
でも、故郷から離れた遠い地で偶然会ったんだから、栗津の話でもしながらお茶でもできればいい。
僕の憧れの人は手の届かない領域に入ってしまったけど、やっぱり素敵な人だった。
そう言って終われればいい。そう思ってた。
そんな僕の小さな希望は無惨にも打ち砕かれる。
指定された店は、商店街からはずれた路地裏の流行ってなさそうな喫茶店。
店員なのか客なのかもわからないような中途半端な格好のおばさんが僕を小百合さんの元へ案内する。
僕を見て彼女は小さく会釈をする。
格好は、やはりあのシスターの黒衣姿だった。
あえて違いをあげるなら、あの時つけていた銀の十字架がないくらいか。
僕が椅子に座ると、彼女の方から口を開いた。
「コーヒーでいいかしら?」
「えっ、ああ、はい」
彼女はさっきのおばさん店員にオーダーを伝える。
あっという間に二つのカップが運ばれてきた。あたかも用意してあったかのように。
「どうぞ」
「はあ、頂きます」
こういう店が意外とこだわりのコーヒーとか出してるのかな、とちょっぴり期待したが、香りも味も普通の一言だった。
「今日は急いでるの?」
「いいえ、特に予定は」
「そう、なら丁度いいわね」
コーヒーの湯気のせいか、目の前の小百合さんがぼやけて見えた。
あれ、目眩かな。
小百合さんだけじゃない、店が揺れてる。いや、揺れてるのは僕か?
何か聞こえる。
「それにしてもリリー、あんたも大変だね。こんな若い子にまで恨まれて追い掛けられて」
「野田弁護士のせいね。去年がひどかったの。天咲に移ってからははじめてだけど」
けれど僕は会話の意味を考える余裕なんてとうになく、ただ深く深く沈んでいった。
何故だろう。妙に眩しい。
ごく自然に肩に置かれた手。
耳もとに吹きかけられる湿気まじりの呼気。
「ねえ、あなたほんとは私のこと好きなんでしょ?」
僕は返事もできずうぶな少年のようにかたまってしまう。
隣に座っていた彼女が更に距離を縮め、ぴたりと密着する様にすり寄る。
なんだこのおいしいシチュエーションは。
「あんな風に白々しく声をかけてきて、呼び出して、私と何がしたかったの?」
もう片方の手が僕の膝にのる。驚きと緊張のせいか、僕はみじろぎ一つとれない。
「こんなこと?」
膝の上を撫で回してた手がすすすーっと腿を伝い、僕の股間に置かれる。
ほんの数回撫でられてだけで、僕の馬鹿正直なムスコは素直に反応を示しはじめる。
生地を持ち上げ、それでも足りずジーンズの中で行き場を失いはじめたそれを解放しようと彼女の手がボタンにのびる。ファスナーをおろす。
「小百合さん、僕らまだ知り合ったばかりなのに」
本心とはうらはらに僕は彼女を制する。
でも彼女はやめない。
解放された途端ひょこんと頭を出したそれを柔らかな手で包み、しごき出す。
「私があなたのことを知らなくても、あなたは私の事をずっと前から知ってたんでしょ?」
「それは、そうだけど…」
彼女の手の中でどんどん熱を持ち、大きくなっていくペニス。
理性よりも欲求の方が高まっていく。
彼女の手に導かれ、僕の両手は彼女の双丘の上にのせられる。
僕はおそるおそる指を沈ませ、その柔らかな乳房の感覚を確かめる。
「いいのよ。もっと好きなようにして」
布越しでも、手のひらに触れる尖った乳首。
さっきよりも力をいれて自由に形を変える乳房を揉みしだきながら、乳首を指の腹でそっと摘んでみる。
彼女の口から切ない吐息がもれた。
十分な程に岐立し、次の刺激を待ち望んでいるペニスから彼女の指が離れる。
おもむろに立ち上がると僕の目の前で彼女が長いスカートの裾を持ち上げはじめる。
ずっと隠れていた、白い足が、柔らかなふくらはぎが、むちっとしたふとももが僕の目の前に……あれ?
見えない。
見たくてたまらないのに眩しすぎて見えない。
いいところなのにどうしてこんなに眩しいんだ?
理性も感性も急にひっくり返されたように世界が一気に切り替わる。
カシャッカシャッ―なんだこの耳ざわりなシャッター音は。
真正面に視界に飛び込んできたのは僕に向かってカメラを構える女性の姿。
僕の視線に気付いたのか、シャッターを押す指が止まる。
カメラをおろし、現れたのはいたずらっぽく微笑む女の人。
シスター服を着てるが小百合さんじゃないのはすぐにわかる。
フードから出してる前髪は金髪だし、目には翠のカラコンが入ってる。スカートだって膝丈だ。
はっきりいって嘘っぽい。それこそそういう店にいそうな。
でも、もっと気にすべき事体は僕自身に起きていた。
この感覚は嫌と言う程知っていた。
僕の血液が脳とか胃とか手足とか何もかもすっとばして下半身の一点めがけて集中してる。
置かれた状況はつかめない。でも見なくてもわかる。
僕は今勃起してる。
視線をほんの少し下げるだけよかった。
視界を遮る黒い塊。
違う、それは黒いフードをかぶった人の頭。
僕の意思とは無関係に与えられる快楽を享受しようといきりたつ僕のペニス。
ぬるりとした唇が伝う。ざらついた温かな肉が鬼頭を包む。先端をつつく。吸い付かれる。
唾液まみれになったペニスと唇が、時折くちゅっと卑猥な音をたてていた。
顎をほんの少しひくだけでよかった。
僕のペニスをフェラチオしてるのは頭だけでなく、真っ黒なワンピースを着た女の人。
頭から血の気がひいていく感覚が妙にゆっくり伝わった。
それでもペニスだけは赤く充血したまま。
僕のペニスに奉仕し続ける人の顔は見えない。
「……ゆ…さ…?」
一番そうであってほしくない人の名を呼んだ。
でも、それは渇いた喉を通る際にかきけされ、声にはならなかった。
「リリィ、もう終わりだよ!」
カメラの女性が声をかけると、僕の股間に顔を埋めていた女性がびくっと震える。
口一杯に咥えていた僕のペニスからゆっくりと唇を解放する。
透明な唾液が糸となり、僕のペニスと彼女の唇をつないでいたが、やがて切れた。
「もう起きてる」
カメラの女性が落ち着いた声で告げた。
僕の両膝の間にしゃがんでいた女性が唇をぬぐい、カメラの女性の方に振り向くと「そう」と呟く。
そして僕の方にゆっくりと振り返る。
「もう起きたのね。薬の量が半端だったかしら」
立ち上がりながら黒尽くめの女性は、いや、『小百合さん』はそう言った。
頭の中は真っ白だった。
どこまで夢で、どこから現実かもつかめなかった。
ただ、僕がみじろぎ一つとれないのはどうやら椅子に縛り付けられてるからだってことだけはわかっていた。
腕に食い込むロープの圧迫する嫌な痛みがこれが現実だと証明していた。
「小百合さん?」
今度は声になった。
さっきまで僕のペニスを咥えていた赤い唇が歪む。
「その名は気軽に呼ばないで欲しいのよ。柳瀬さん」
僕の憧れの人は手の届かない領域に入ってしまったけど、やっぱり素敵な人だった。
そう言って終われればいい。そう思ってた。
そんな僕の小さな希望は無惨にも打ち砕かれた。