「リリー!どうしたの、その格好‥‥」
悲鳴に近いマリの声が暗い納屋に響き渡る。
さっきまで密室だった納屋の中にいたのは私ともう一人、父親程に歳の離れた男性。
だが、ここで何が行われていたか。マリにはすぐに察しがついただろう。
「おっさん、あんたリリーに何をしたのよ!!」
「わ、わ、私が悪いんじゃない、その女が、私を、私を‥‥」
男は隠すものも隠さないまま、私を指差す。
「リリー、シスターリリー、これは一体どういうこと?」
私は両手を握りしめ、呆然と座り込んでいた。
よろめきながら男は立ち上がり、震える手でズボンをあげる。
「ねえリリー、何か言って!」
マリが私の腕を掴む。私を揺する。
隙あらばと、男がそろりそろりと出口に足を向かわせる。
だが、くるりと振り返ったマリが、扉の縁を乱暴に蹴りあげ、男はびくりと止まった。
「逃がさないよ、おっさん」
私は部屋を見渡す。
剥ぎ取られたフード、裂かれた服の無惨な切れ端。
相当慌てているのだろう。男は部屋に鞄を残したままだった。
握りしめたままの手を見る。
指の間から滲むもの。
ゆっくりと指を開く。
手にひらにも、指にも付着する白い粘液。さっきまでの行為のなごり。
取っ組み合いになりながらも男をねじふせたマリが興奮しながら息を吐く。
「はあっ、まったくとんでもないおっさんね。警察に突き出してやる!」
「ち、ちがう、私は悪くない!!その女が、その女が‥‥、」
男は締め付けられる痛みに苦しみながらも切れ切れに言葉を吐く。
「犯人はみんなそう言うのよ」
「警察は、やめて‥‥」
ぽそりと呟いた私の言葉にマリは表情を失う。
「だってリリー、あんたこんなひどい目に‥‥」
「私が、誘ったのよ」
「リリー、何を言ってるの?」
「私が、誘ったのよ」
自分の事も、男の事も、偶然目撃してしまったマリの事も、全てどうしたらいいかわからなかった。
でも、マザーには知られたくない。
せっかくあそこから救い出してくれたのに、また前と同じ事をしてしまった愚かな自分を。
そう思いながら、穢れた手をちぎれた服で拭い取った。
新しい生活、新しい出合い。
それを新鮮に思える自分はまだ腐りきってはいないということか。
「さ、リリーさん。こっちへいらっしゃい」
マザーの細い手に導かれ案内された部屋には私より年上に見える二人の女性が立っていた。
「あら可愛らしい」
「久しぶりの新顔だね、マザー」
新入りの私を興味深そうに見つめる彼女等の目。
かつてクラス替え直後、新しい環境に緊張する女学生の気分をうっすらと思い出した。
「私はシスタービオラ。22になったばかりよ」
「私はシスターマリ。よろしくね、リリーちゃん」
ビオラと名乗ったシスターは痩せ形で背が高く、でも年頃の女性にしては化粧気は無く、シスターと感じさせる清楚さがあった。
一方、マリの方はぱっと見ではわからなかったが、かなり型破りなシスターであることは間違い無かった。
ばっちり見開かれたグレーの瞳。間違い無くカラコンだろう。その周りを縁取る睫は付け睫か、重ね塗りしたマスカラか。よく見れば耳には軟骨部分まで何個も開けられたピアス。
かつての自分なら間違いなく友達になれないタイプの女性だろう。
「二人とも、シスターリリーに色々教えてあげてね」
マザーはそう言い残し、部屋に残された私は、何を話し掛ければいいのか、おどおどしているばかりだった。
沈黙を破ったのはマリの気の抜けた一声。
「ふわぁーー、っと。徹夜あけで眠いー」
マリは隠すことなく大口で欠伸をし、側の椅子にどかっと座り込んだ。
「もう、マリったらゲームのしすぎよ。明日は朝の掃除マリが一人でやってね」
「ええー。ビオラのけちー」
「今朝私に全部やらせたんだから当然です!」
ビオラは眉間に皺をよせ、マリに向かって小言をぶつけていたが、ふっと顔色が明るくなると笑顔で私に言った。
「ごめんなさいね、駄目な先輩シスターで。リリー、わからないことはマリじゃなくて私に聞いてね」
「へ?あっ、はい‥‥」
「ビオラは厳しいから、さぼりの仕方なら私に聞いてね」
「えっ、あっ、はい‥‥」
「マリ、変なこと吹き込んじゃだめ!」
ビオラに叱られ、むくれていたマリが椅子から立ち上がる。
化粧が濃いせいか、この人の年齢はよくわからない。
「ねえ、リリーちゃんはどうしてここに来たの?何をやらかしたの?」
グレーの瞳は笑ってなかった。
いくら俗世と切り離した生活をしていたってここは日本だ。
新聞、テレビ、ネット、情報を目にする機会なら幾らでもある。
理由なんて言えるわけもない。
だって私は逃げてきたんだから。
固まる私。でもマリの瞳は私から逸れない。
「言わないの?それとも、言えないの?」
何か適当に嘘でも言ってしまおうか、それともマザー同様にこの人たちも私の偽りのない過去を知ってもらうべきなのか。
壁際に立つビオラの目は、少し悲し気に、でも真直ぐ私を見つめていた。
〜そう、辛い思いをしたのね。ねえ小百合さん、あなた、私の所に来ない?
あの日のマザーの言葉が脳裏に過る。
〜それじゃあなたは忘れたいの?でも、いづれ向き合わなきゃいけない時が来るかも知れないわ。
忘れてたい、でも、思い出さない日は無い。
「ちょっと、初対面で根掘り葉掘り聞こうってずうずうしいじゃない?」
固まってしまった私にビオラが助け舟を出してくれた。
「そう?始めっから腹を割っておく方が気安いかなって思って。それじゃあ、名前は?あ、シスターネームじゃなくって本名ね」
「‥‥こま‥生駒、小百合です」
思いのほか私は意気地なしのようで、声が震えていた。
それでも、場の空気はがらりと変わる。ビオラにマリ、二人の顔がやわらいだ。
「へえ、さゆりっていうの。きれいな名前ね。」
「ははーん。さゆりだからリリーね。マザーったらまた安直な名前つけて」
「歳は?いくつになるの?」
「えっと、18になります」
「ええー、見えない。中学生位かと思った!」
「私と同い年ってことね」
「ちょっとマリ、何サバ読んでるの」
他愛のないやりとり。
疑心暗鬼だった私の心が溶けはじめ、ふっと笑いがもれる。
「ちょっと、ビオラのせいで笑われちゃったじゃない。あー、先輩としての第一印象が〜」
「そんな格好してて第一印象も何もないでしょ!」
ビオラがマリの耳たぶをつまみ、マリがいたたと顔をしかめる。
「あの‥‥私、何でもしますので、本当に、宜しくお願いします!」
私は二人に向かって深々と頭を下げた。
言った言葉に嘘はない。あの生活に戻る位なら、何だってする。
でも、堅苦しすぎただろうか。二人の会話が途切れてしまった。
「シスターリリー、そんなに緊張しないで。顔をあげて」
「ここに来る子は、マザーヘレンが連れてくる子はみんな事情を抱えてる。いじめ、レイプ、リスカ、売春、虐待、何でもある」
マリがふいに頭のフードをはずした。現れたのは緑の黒髪ではなく、ブリーチした派手なオレンジのショートで、左右で10は軽く超えるピアスだらけの耳と妙に似合っていた。
「被害者側の子もいれば、」マリはちらりとビオラを見る。
「加害者側の子もいる」
視線が再び私に戻る。
「マザーに言われなかった?型破りなシスターになりなさいって」
「えっ、私そんなこと言われてないわよ」
私が返事する前にビオラの突っ込みが入る。
「あれっ、みんな言われるんじゃないの?他人なんか踏み倒して、いかに自分だけが幸せになるかを考えなさいって」
「ちょっとあなた何マザーの言葉捏造してるのよ。マザーがそんな徳の無い事言うわけないでしょ!まったく、ゲームのしすぎよ」
ビオラの剣幕がすごくて私は口を挟む余地が無かったのだけど、実は私もマリと似たような事を言われていた。
〜あなたは他人に評価される人生を一旦捨てて、自分の評価で自分の幸せについて考えて欲しいの。
でも、マザーヘレン。私は人並みの幸せなんて望んじゃいけないんだと思うんです。私は『可哀想』が理由で済まされない事をいくつもしたんだから。
それでも、少しくらいの幸せなら望んでもいいのでしょうか?
〜あなた、私の所にこない?
マザーヘレンの申し出は一筋の光だった。
生駒小百合からシスターリリーへ。生まれ変わるチャンスだった。
ビオラとマリの漫才の様な喧嘩を見ながら、私は初めて身に纏うシスター服のそで口を撫でる。
決して新品とは言えないそれは、かつてマザーの元にいて今は去った誰かが着ていたのだろう。
彼女等は心に闇を抱え、やがて希望を見い出しマザーの元を去って行ったはずだ。
でも、もしそうでなかったら‥‥
不安は拭いきれない。
でも、今目の前にいる二人の先輩シスターは頼もしそうに見えた。
「リリーちゃん。明日の朝掃除だけど一緒に」
「一人でやりなさい、マリ!」
「手伝いますよ、えっと、マリ先輩」
ビオラはやれやれとため息をつく。
「そうね、じゃあマリ、リリーにしっかり教えてね。それと、リリー。私達を呼ぶのに先輩はいらないわ。ここは学校でも部活でもないんだから」
「そうそ、ビオラったら先輩の私にこの態度。リリーも気を使わないで」
マリはフードをつけ直す。
「昔のことは話したくなったら、聞かせてね」
「こらマリ、余計な事言わないの」
同情の言葉は私を導かない。
軽蔑の言葉は私を救わない。
でも、この人達には私の過去を知ってもらっても大丈夫な気がした。
そして、マザーの元での新しい生活が始まる。
シスターと言っても格好くらいで聖書も賛美歌もろくに知らない。
どちらかと言えば祈るより雑用をしていることが多い毎日。
マザーは教会や修道院にこもるより、外に出て慈善活動に精を出すから自然とそうなるのだろう。
驚いた事に、マリはかなりの知識を持っていて、聖書すら開いたことのない私に一から講議してくれるのは彼女だった。
「マリはね、どうっちかっていうともうマニアかしら。起源、宗派、建造物。色々網羅してるわ。神学校の教師にて話がきたくらい」
なるほど、シスターマリは信心深いかどうかは別として、勉強家のようだ。
だからこそ、あの破天荒な外見がマイナスしてる気がする。
「シスターマリの知識の豊富さはわかりますけど、マザーは何故マリの格好を注意しないんですか?」
「さあ?私が来た時からあんな感じだったし。私はしょっちゅう怒ってるんだけどね」
「この前渡辺さんに聞かれるちゃって。あの人はコスプレですかって」
「そういえば前に田所さんにもけしからんってお説教されてたかも」
コホン。わざとらしい咳払いが背後から響き、振り返れば段ボールを抱えたシスターマリが立っていた。
「ちょっとそこ、なに人のうわさ話してるの」
「ああマリ、バザーの荷物届いてたの?言ってくれたら手伝うのに」
「これで最後だから。それよりリリー、お客が来てるわよ」
マリの言葉に私は首をかしげる。
ここに来て間も無い私には知り合いもほとんどいないし、今ある外との関わりといえば来月のバザー位だ。
そのバザーの打ち合わせは大方済んでいる。
そもそも私の担当した小さな仕事のほとんどは電話で済んでしまう。
「誰かしら?」
「さあ、私は知らない人だったけど。頭の薄い、スーツのおっさん。シスターリリーはいますかって」
「町内会の平井さんかしら?掲示板の返事がまだだから」
私は席を立つ。
「おっさんがすっごい不審な目つきで私の事じろじろ見るのよね」
「だからもう少し地味になさいと‥‥」
ここに来る人は大抵マザーの知り合いで、マザーの活動を理解しているいい人ばかりだ。
バザー関連じゃないとしたら一番新米の私に何の用だろう?
天気を気にしてるのか、空を見上げて立つ少し頭の薄いスーツの男性。
手には黒い鞄を抱えて、地を足で叩く様子からは苛ついた印象を受ける。
どうも知人の気がしない。
「あの、シスターリリーは私ですが‥‥」
恐る恐る声をかける。
振り返った男性の顔は、やはり知人のものではない。
「失礼ですが、どういった御用件で?」
男は煙草を捨て、靴で乱暴に踏み付ける。
攻撃的な目をしていた。
「あんたがシスターリリー‥‥よくまあシスターなんて名乗れるもんだね」
「えっ‥‥」
胸が痛い。久しぶりにぶつけられた、傷つけるための言葉。
「あんた、生駒英夫の娘だろ?生駒小百合さん」
断ち切ったはずのしがらみがいとも簡単に私を捕らえる。
「生駒は失踪、女房は自殺、親戚一同は夜逃げ同然にばらばら。やっと見つけたよ。あんたをね」
男は地面に資料の束を叩き付ける。
父の写真、私の写真、店の写真、どれも忘れたままでいたいことだった。
〜それじゃあなたは忘れたいの?でも、いづれ向き合わなきゃいけない時が来るかも知れないわ。
マザー、私はもう向き合わなきゃいけないのでしょうか?
加害者として、被害者に。
「私は栗津から来た、こういう者です。用件は‥‥まあ、察してくれるとありがたいんですけどね」
男の差し出した名刺には彼の名前と、聞き慣れぬ出版社の名前が刷られていた。
「あなたに、教えてほしいことがあるんですよ」
男の言葉遣いは丁寧な方だった。
でも、それは人の信用度には関係しないと言う事を私は既に知っていた。
ぽつぽつと雨降り始め、男は「傘を持って無いのに」とぼやく。
そして私は数日程前、父の事件にの裁判の一つが、判決を迎えたことを思い出していた。