夏が近付くと思いだす少年の日。海に行った。プールに行った。キャンプもした。虫もとった。  
でも、別段特別なことじゃないのにそれ以上に鮮明に覚えてることがある。  
うだる熱さの中、半袖単パンに麦わら帽子の僕と、腕も頭もやりすぎな位紫外線から防御した母、二人でよく庭に出た。  
下手の横好きでガーデニングの好きな母が僕に命じる手伝いはもっぱら庭関連で、  
レンガを並べたり、土をひいたり、水をあげたり、色々やらされたものだ。  
僕は母のようには庭に魅力を感じなかったが、  
自分のまいた種が芽をだし葉をつけ花が咲き実を結ぶ一連の過程はそこそこ充実感を得ていたので、  
手伝わされる度にぶつくさ文句を言う父に比べればやっぱり好きだったのだろう。  
嫌い、というか苦手なものがひとつ。雑草取りだ。  
僕に言わせれば、母の植えたなんだかわからない植物も、庭に勝手に生えて来る植物も大差なく、  
何を基準に雑草と呼んでいいかわからなかった。  
しかも、綺麗だったらなおさらだ。  
その花は、ガレージの横、毎年決まって同じ場所に顔を出していた。  
母はその花を見る度に、「また生えてきた」と顔をしかめる。  
けれど、僕はその花を雑草と呼ぶには可哀想で、抜くのも忍びなかった。  
その花も母の造る庭に咲く花の一員として認めてあげればいいのに。そう思っていた。  
 
 その花の名は―  
 
 とりあえず偏差値的に合格圏という理由だけで受験した地方大学。  
予備校の判定の通りに合格通知を手にした僕は、生まれ育った故郷、栗津を後にし一人暮らしをすることとなった。  
大学でできた友人は訛りの違う僕の出身地を告げると「どうしてここに?」と首をかしげるが、「受かりそうだったから受けたら受かった」という率直な理由以外に答えようがない。  
ここ、天咲の地は日本史で取り上げられるほどではないが、かつて切支丹と呼ばれた人たちが多かった地域で、今でも墓地には普通の墓石に混じって十字架の墓標が点在している。  
今でも他の地方に比べればクリスチャンがそこそこ多いらしい。  
時代の流れも絡んでか信仰心の薄い僕にとっては、家が仏教だったという位しか認識がない。  
でも、それで困ったことなど一度もなく、今後もそのままどうにかなっていくんだろう。そう思ってた。  
 
 「おい、平岡。あれってシスターだよな」  
大学近くの定食屋で昼飯を食っていた僕は、ふと見た窓の向こう、通りの反対側で信号待ちをしている見なれない服装の女性に気付いた。  
「見ればわかるだろ。あれが坊さんに見えるか?」  
平岡は一瞥すると、手にするスポーツ新聞に目を戻す。  
地元の人間にとっては特に珍しい存在ではないのだろうか。  
「へえ、さすが天咲。コスプレじゃなくて本物のシスターが普通にいるもんなんだな」  
感心した様子の僕に、平岡が顔をあげる。  
「ひょっとして柳瀬はじめて見たとか?」  
「そうだけど。普通町中にシスターなんていないだろ。神父なら見た事あるけどな。従兄弟の結婚式で。」  
「へえー。シスター位普通だと思ってた」  
平岡も僕にあわせて横断歩道を渡るシスターを眺める。  
「ああ、でも珍しいな」  
「何がだ?普通なんだろ、シスター」  
「あの女若いだろ。天咲のシスターは普通婆さんばっかだ。あ、結構美人かも」  
平岡の言葉に僕も慌てて彼女の顔をチェックする。  
だが、シスターはさっさと横断歩道を渡り終え、僕の視界から消えてしまった。  
「ひょっとして柳瀬おまえ制服物好きか?」  
にやにや笑う平岡をあしらいながら僕は味噌汁に手を伸ばす。  
顔を見損ねた恐らく美人のシスター。  
その小さな話題は互いの気に入りのAV女優論の白熱ぶりにかき消され、そのまま僕の頭から消えてしまうはずだった。  
   
 その日、バイトの面接が微妙な時間に指定され、午後一の授業をとりあえず出席カードを平岡に託してふけてきた僕は自転車を漕いでいた。  
携帯を開く。画面に写し出される時計は1時43分。間に合うだろうがぎりぎりだ。  
天咲の町は割合平坦で自転車が役に立たないわけではないが、やっぱり原付の方が楽だ。  
バイトが決まって金が貯まったら遠藤に免許の話を聞こう。そう考えながら角を曲がる。  
だが、出合い頭に僕の視界に黒い人影が飛び込んで来た。  
「きゃあっっ!」  
「うわ!」  
女性の叫び声と、僕の自転車のブレーキとどちらが早かっただろうか。  
かろうじてぶつけはしなかったが、女性はバランスを崩し地面に座り込んでしまっている。  
怪我でもさせたかと心配になりながらも、僕は女性の特徴的な服装に目をとられる。  
頭を覆うのは黒いヴェール。  
首もとだけが白であとは黒のツートンカラーの衣服。  
それは坊さんなんかではなく、間違い無くシスターだった。  
 
「いたた…」  
「すみません、大丈夫ですか?」  
僕は自転車を降り、女性に手を差し出す。  
面接はもう無理だろう。だって不吉すぎる。  
13日の金曜日の黒猫ならぬ、黒尽くめの聖女を轢きそうになって放って逃げたとなれば天罰がくだりそうだ。  
弱々しく差し出された手は地面についた際に擦り傷になったのだろう、滲む血が痛々しい。  
「こちらこそごめんなさいね。大袈裟に叫んじゃって…」  
尻餅をついて痛むのか後ろをさするシスター。その顔は見えないが声のトーンからすると若そうだ。  
ひょっとして前に見かけた…?  
僕が平岡との会話を思いだしてると、ぽんぽんと砂を払っていた彼女がため息をつきながら顔をあげた。  
「もう大丈夫です」  
照れくさそうに微笑んだ彼女は老女ではなかった。おばさんでもなかった。やはり若かった。  
大学デビューしたての僕の同級生のどこか間違った濃い化粧に比べるとかなり素に近いであろう。  
色白で、目もぱっちりしてて、天然の美人さんという感じだ。  
綺麗なお姉さんは……なんていうどこかのCMのフレーズが頭をよぎる。  
僕が彼女の顔に見とれてしまったのは他にも理由があった。  
胸の底からじわじわと込み上げて来る「何か」があったのだ。  
それは確実に知っているはずの感情だった。  
例えば夢の中。欲しくてしょうがなかった物が目の前にあるのに、どうしても手が動かない。  
今取らないと手に入らないのに。  
そんな僕をはた目に、彼女は「それじゃ」と言ってすたすたと歩いていく。  
僕は自転車のハンドルを握りしめる。ペダルにのせたままの右足には何の力も入らない。  
「待って!!」  
その時の僕は記憶が醒めるよりも先に、本能で叫んでた。  
急に呼び止め驚いただろう、びくりと反射して彼女が振り返る。  
 
「あの…何か?」  
おずおずと尋ねる彼女。  
引き止めはしたものの、僕には返す言葉がない。  
無言の僕に、彼女は困ったような顔をしてまた僕に背を向ける。  
遠くで下校途中の小学生達の他愛のない会話が聞こえる。  
「てっぺーおまえそれちがうぞ。うめあめって書いてつゆって読むんだぞ。」  
「げ、間違えた〜」  
げらげらと笑う少年達。  
段々小さくなる彼女の背中を見つめる僕の脳裏にいつかの母の声がこだまする。  
『違うわよ慶太。それはさゆりって読むのよ』  
胸の底から込み上げてまん中位でぐずついていた「何か」が一気にてっぺんへとが吹き上がる。  
自転車をひきずるように向きを変え、勢い良く僕はペダルを漕ぐ。  
遠かった彼女の背中がぐんぐん近付いて来る。  
「待って!!……りさん」  
再度声彼女が歩みをとめる。そしてゆっくりと僕の方に振り返る。  
「さゆりさん、あなた小百合さん、でしょ?」  
その名を呼んだ時、彼女はぱっちりとした目を更に見開き、驚いた様子をみせていた。  
でもそれも一瞬のこと。  
すぐさま彼女の表情は変わる。喜びではなく、憂いを帯びたものへと。  
そしてぽそりと言葉を落とす。  
「あなたも、ですか?」  
 
 故郷、栗津から遠く離れた天咲の地。  
ここで彼女、小百合さんに出会えたのは僕にとって奇跡に違いない。  
たとえ彼女にとっては違っていたとしても。  
 

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