ここはドイツのギムナジウム。  
 さらっさらの金髪をした天使のような美少年が、マロニエの樹の影に輪になって座りながら無垢な笑顔で  
語り合っている。話題はもちろん、文学だ絵画だ音楽だ。  
 幼い美神たちはまだ穢れを知らぬ純粋な好奇心の赴くまま、世にあふれる芸術の美酒に酔いしれるのだ。  
 「昨日貸したあれ読んだ?」とオットーははにかみながら尋ねた。  
 「読んだYO」オットーの親友であるフランツは、巻き毛の先に指を絡めながら答えた。  
 少年期の見栄から、つとめて熱のないように装いながら、フランツは紺色の装丁の本を取り出した。  
 「どうだった?」  
 「まあまあ面白かったかな」  
 素直なオットーは親友の連れない様子にいたく落胆してしまった。  
 しかし、彼がもう少し注意深い観察者であったなら、フランツの目もとが睡眠不足で少し隈になっていることに  
気づいた筈である。  
 そして、フランツの視線が、今オットーの鞄にしまわれつつある皮表紙に、未練がましくそそがれていることに。  
 (ちぇっ。うぶなオットー坊やに本当のことなど言えないよ)  
 本当のこと――フランツは昨夜、寝食を忘れてその本に読みふけったのだ。  
 それは落雷に撃たれたかのごとき衝撃が、彼の魂を存分に揺さぶった夜だった。  
 青春の権利である運命的な回心の出会いを、彼はその夜遂げたのである。  
 だが、それが、いつも幼さをからかっていた親友の手によってもたらされたなどと認めるには、  
フランツのプライドは高過ぎた。  
 オットーはなおも悔しそうに「本当に、君の魂にかけて本当に、あの本はその程度のものだったのかい?」  
 フランツは苦笑した。なんて愚かな問いだろう。それに正直に答えると考えるお前だから、僕は欺瞞を貫かざるを得ないんだ・・・  
 「ああ。すまないが。僕にはいささか大脳に与える刺激が足りなかったかな。加えてどうも作者の気取りが鼻についてね!!」  
 フランツは親友が泣き出しそうな顔をするのをみて、わずかに良心の咎めを感じた。   
 
 「・・・でも、あのくだりは悪くなかったかな。ほら、いつも厳格なフランカ先生が、彼女を慕うコンラッド少年から  
予期せず想いを告白され、いつもの冷静沈着振りはどこえやら、首筋まで真っ赤にしてうろたえる場面」  
 「あそこは素晴らしいよ」オットーは気弱げな笑みを浮かべながら「あのシーンがあればこそ、次章の展開が引き立つんだ」  
 「悪くない手際だとは思うよ。でもちょっと通俗かな」  
 「そんなことはない。僕がこの小説に感動するのは、歳の離れた彼らの想いの機微を、作者がとても丁寧にひろっているところ  
なんだ。彼らがいくつもの障害を乗り越え、その、愛を」オットーは顔を赤らめた「愛を交わすにいたる、その道程を、これだけ  
魅力的に描けるんだから。読者たる僕らもまた二人を愛さずにはいられなくなる。この作者は天才といっても言い過ぎではないと思う」  
 まさしくその通りだ!だが僕ならば君よりも遥かに正確にそして豊かに、作者の偉大さを表せるだろうに。フランツはオットーの自分に  
は許されない正直と誠実にあふれた評言を、軽く嫉妬した。  
    
 「天才とは大袈裟だなあ」薄笑いに皮肉の毒をふくませてフランツは言った。  
  オットーはそれには答えず、おもむろに本を開くと、少年の努力の限り荘重な声音をつくり、「『しかし先生、窓の外いるあの襤褸をまとった男が、今夜、薄汚れた寝床で自分を乱暴に慰めるとき、つむった瞼の裏で彼に組み敷かれ、“いいわ!最高よ!わたしはあなたのもの!この雌豚をあなたの棒杭で突き殺して!!”禁欲の戒めを解かれた修道尼のような淫乱さで叫び、男の落ちぶれ果てた自尊心に励ましを与えるのは、あなたの美貌と質素な服の下で息づく豊かな女性が行いうる、人類に対する最大の貢献だと僕は主張するのです』」  
 「しちくどいよ」フランツは彼自身、昨夜何度となく読み返したそのくだりを、傲慢に鼻で笑ってみせた。  
 「じゃあ、ここは?」信じがたいものを見る目で呆然と彼を見つめたオットーは、すぐに気を取り直して再びページを繰った。「『しかり、殺人は許されない。だが肉体を傷つけることのない、霊に対する冒涜、魂の殺人は、これを罰する法があるだろうか。しどけなくベッドに横たわる白い豊満な肉体が、薄闇を麝香の香りで満たすのに吐き気を催しながら、彼は己の欲望が、愛人の善良な愚かさを永遠に破壊してしまったことに気づき、一人慄いた。』」  
 「ラスコーリニコフもどきはもう沢山だよ」  
 オットーは恨めしげにフランツを睨んだ。「酷いな君は・・・残酷な奴だ。わかるんだよ、君が僕をいたぶる為にわざと棘のある言葉を選んでいることは・・・」  
 苛立たしげにフランツは首を振った。僕を感動させたければ、もっとそれに相応しい章があるじゃないか。それとも、オットー坊やの単純なおつむには、あの部分はどんな感銘も引き起こさなかったのか?   
 
 このままでは、オットーから無理やり本をひったくって怒鳴りつけてしまうだろう。  
(まさにそのくだりを指差しながら)さあここを読み給え!君の感傷的な魂に一撃を加え、あまりに無邪気なその笑顔を  
火傷のひきつれのように歪ませてしまう、灼熱の真実を描いたこのページを十全に理解するんだ!そうでなければ、君は  
単にこの物語からお涙頂戴のメロドラマをしか汲みとらなかったことになる。そんなのは真の読者とは到底言えないね!!などと。  
 だが、フランツは普段にない自制心を発揮して、婉曲に別の可能性を示唆するに留めた。  
 「僕のおぼろげな記憶によれば、この本にはもっと感動的な箇所があった筈だけどね」  
 オットーはすぐに顔を輝かせると、確かに優れてはいるが最上級の賛辞を送るには値しないとフランツの判断する二三の文章を読み上げた。   
 

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