私は恋人の安田君と最近になって、急速に関係を深めた。  
いわゆる蜜月というやつで、目が合うだけで上せた眼差しを相手に向けてしまう。  
二人で居る時は喋る時ですら唇をくっつけて、距離が近くなったら……  
大人の時間。  
んふふ。  
 
…………と言って、自慢したいところだけど、先に述べたような事はこの三週間まるで無い。  
正しいのは一行目だけ。  
三週間くらい前にそういう事にはなったけど、その後そういう事どころか、  
抱きしめあうどころか、キスどころか、二人になる事すら出来ない。  
もっとも、私が教師、彼が生徒じゃしょうがない事なんだけど。  
そう。この現状は予想していた事態。  
だけど、二人になる時間すらないのはちょっと辛い。  
毎日顔を合わせるのに、会話もするのに、そういう雰囲気を出せないっていう状態もかなり辛い。  
そうなる前の二ヶ月はおしゃべりするだけで満足だった。……多分。  
多分と言うのは、あくまで私が感じたことであって、実際彼がどう考えているか知らないからだ。  
それでも、あんな事になりさえしなければ、時々二人になれる時間を楽しむくらいで  
穏やかに日々を過ごして卒業を迎えられたのかも、なんてしようもない仮定が頭に浮かぶ。  
過去における仮定なんて無意味なのにね。  
 
ともかく、そんな訳で私はこのところ微妙に欲求不満だ。  
安田君と二人で過ごせないってい事に対する純粋な理由なのか、  
それともえっちがしたいのにできないっていう事に対する不順な理由なのか、  
その辺りは自分でもよく分からないんだけど、とにかく欲求不満。  
このところ、ずっと胸の辺りがもやもやして、なんとなーくイライラしてる。  
生徒と接している時にそのイライラを出さないようにはしてるつもりだけど、  
完璧に制御できてる自信はない。  
今週に入ってチョークがよく折れるのは、湿度のせいじゃなくてきっとそのせいだ。  
しかも、暇さえあれば、こんなことばっかり考えてるし……。  
 
私は湯飲みを空にすると、テーブルに置いて、なんとなくっていう感じでゆっくり辺りを見回した。  
頭の中で考えてる事が他人に聞こえる訳はないなんて、よーく分かってるつもりなのに、  
それでもやましいところがあるとついついきょろきょろしてしまう。  
今もそう。  
だけど、当然、こっちに変な視線を向ける人はいない。  
昼休みの数学研究室はいつもと同じ。  
私を含めて七人の教員と、質問に来てる何人かの生徒でそこそこにぎわってる。  
目の前の副主任と隣のじじ様が生徒に取られてしまってるおかげで話し相手がいないまま、  
私は雑念を払うべく、大学入試の資料かなんかに手を伸ばしてみた。  
来年は三年生の担任になる筈だから、今まで程のんびりしてはいられない。  
進路を決めていない子のためにも、と取ってつけたようなセリフを  
頭の中で並べながら表紙をめくると、がらりと扉が開く音がした。  
 
どうせまた質問に来た生徒だろう。  
そう思って顔を上げないでいたら、質問に来た生徒、というのは合っていたけど、  
「岩瀬せんせー。質問に来ましたー」  
と、聞き慣れた声がした。  
顔が緩みそうになるあたり、やっぱり私はかなり安田君にその気になってるらしい。  
出来るだけそっけない表情を作って顔を上げると、見慣れないめがね君がこっちに来るところだった。  
一瞬、誰?と思ったけど、よく見るとやっぱり安田君だ。  
見慣れないせいか、黒い細フレームの眼鏡がなんだか浮いて見える。  
「あれ?どうしたの?さっきまで、眼鏡なんてかけてなかったでしょ」  
資料を閉じて、元あった場所に戻しながら聞くと、彼は困ったような怒ったような顔をした。  
「うん。さっきまではコンタクトしてたんすけど、中谷とぶつかった拍子に取れちゃって……」  
「見つからなかったの?」  
「違う。何人かで探してたら、通りかかった島崎に踏まれて……ぱき、って」  
挙がった名前があまりにも状況にふさわし過ぎるメンバーで、私が思わず笑ってしまうと、彼は、  
「笑い事じゃないっすよ」  
と、不満そうにぼやいて、持ってきたノートを開いた。  
開いたページは三時間目の授業でやった位置ベクトルのところ。  
「はいはい、ごめんごめん。  
……で……、今日のところね。どこら辺が分からなかった?」  
「えーっと、こっちのAとBの間に点Pをとる方の話は分かったんすよ。  
だけど、外にPを取るとよく分かんなくなっちゃってー……」  
二人の時はタメ語なのに、安田君は周りに人がいると絶対に敬語らしきものを混ぜて話す。  
なんとなく違和感のある喋り方に耳を傾けつつ、要らなくなったプリントを取って裏返して、  
「はいはい、みんなそこで嫌になっちゃうんだよねー。  
ま、ベクトル問題でマイナスが付くやつは、問題解いて慣れるのが早いんだけど……」  
と、前置きをしながらその上に適当に線を引いた。  
 
説明をしている間、彼は「うん、うん」とか、「そこ、もう一回」とかくらいしか  
言葉を発しなかったけど、一対一で喋るのすら久しぶりなせいか、  
私は安田君の声をやけに近くに感じていた。  
それでも、彼は真面目に質問できているんだから動悸が早くなるなんて不謹慎だ、と  
自分に言い聞かせながらどうにか説明を終えて、  
「……と、こんな感じで分かってもらえた?」  
と言いながら、彼の方を振り返った瞬間、カチ、と私の眼鏡に何かがぶつかった。  
「あ、う……っつ」  
驚いて思わず顔を引いてから、ぶつかったのが安田君の眼鏡だと気が付いて、私はかなり慌てた。  
彼も慌てて顔を引く。  
「えっ、あー、ごめん、だいじょぶ?痛くなかった?」  
「あっ、あー、だいじょぶっす。これ、……この眼鏡、すんごい度が弱くってー。  
見えづらいなーとか思ってたら、顔が下がりすぎちゃってたらしくー……」  
「あ、ああ、そうなんだ。予備でも、眼鏡の度はこまめにちゃんと合わせといた方がいいよ」  
どこかで聞いたセリフを言って笑って見せたつもりだけど、  
眼鏡がぶつかるって事は相当顔が近づいてたって事でしょ?  
……うわ、実は傍目にかなり恥ずかしい距離じゃない?  
傍から見て、変に見えなかったかな。  
わざと、って事はないと思うんだけど……。  
っていうか、こんだけ近づいてもちゅーの一つも出来ないのも悔しいなあ。  
くっそう……。  
私がまた不謹慎な事を考えてると、安田君は気のせいか赤く見える顔の割に冷静な口調に戻って、  
「あと、もう一個……」  
と、ノートを捲った。  
勉強熱心、いい生徒だ。  
くう、これが彼氏だって自慢したいのに出来ないのもまた……。  
と、勝手に逸れていく思考を手元に手繰り寄せて、私はノートに目を落とした。  
 
「うん、どこ?」  
「これなんすけど」  
ページは先週の単元。  
そんなに難しくないところだったから、彼なら質問する必要ないのに、と思っていたら、  
「ここ」  
と、ノートの右下隅を指差された。  
計算式からちょっと離れたところだ。  
なになに。  
『したい』  
?  
…………死体?  
……いや、違うな。  
………………。  
安田君?これって、もしかして、『I want to do.』みたいな?  
ちらりと顔を上げると、さっきより少しはなれたところにある顔が、どう?と聞いてきた。  
どう?じゃないっ!  
「あー……、これー……。これはね、うん、難しいね」  
「えー」  
えー、じゃないっ!  
私だってねえ、と言いたいのを堪えつつ、どうにか笑顔を作って、  
「まあ、そのうち、ちゃんとするから」  
傍から聞いて違和感がない程度の日本語を苦し紛れに並べると、  
彼はどこか不満そうな様子を残しつつも、  
「はーい、分かりました。ありがとーございました」  
と、言ってくれた。  
 
教室に戻ろうとする安田君を見送ろうと、軽く手を振ると、不意に副主任から声をかけられた。  
「あら、岩瀬先生、顔が赤いわよ」  
まずい、顔に出た?  
帰りかけていた安田君が足を止めて、こっちを向いた。  
それでも、そっちには顔を向けないようにする。  
「え?そうですか?」  
動揺を悟られないように出来るだけ、落ち着いて顔を隠したりしないように副主任の方を向くと、  
彼女は軽く二回頷いて、  
「うん、やっぱり赤いわ」  
と言った。  
言われてから気がついたけど、確かに顔が熱い。  
まさかばれてないよね。  
落ち着こうとすればするほど、顔は熱くなる一方で、私はさりげなく頬に手を当ててみた。  
外から触っても熱いのが分かる。  
どうしたものかと思っていると、横に立っていた安田君が口を挟んできた。  
「先生、もしかして風邪じゃないすか?今、流行ってるし」  
バカ!あんたのせいでしょうが!  
と言いたいところだけど、彼は彼なりにフォローしてくれてるんだろうし、  
どっちにしたってそんなこと言う訳にもいかない。  
「おかしいなあ、だるいとかはないんだけど……」  
話を合わせながら、少しでも顔を冷やそうと手で顔を扇ぐと、  
副主任が教員用の時間割表を見てから、改めてこっちを向いた。  
 
「保健室、行ってきたら?」  
「え、でも、多分平気ですし」  
「でもねぇ、さっき彼も言ったみたいに風邪流行ってるし……。  
先生、三年生も受け持ってるでしょ?受験生にうつしたら大変よ?」  
「まあ、そうですけど……」  
「次の時間、授業無いでしょ?保健室のお留守番も兼ねて、熱測るついでに休んでらっしゃいよ」  
「お留守番……ですか?」  
「そう。今日、保健の先生いらっしゃらないから、誰かお留守番してないといけないの」  
そう言うと副主任はにっこり笑った。  
そうか。本来のお留守番役は、副主任、貴女でしたか。  
要するに私は熱の計測を口実に、体よく保健室のお留守番役を押し付けられたのだ。  
まあ、急いでやらなきゃいけない事がある訳じゃないからいいけどね。  
「分かりました。じゃ、お言葉に甘えて、五時間目は保健室にいます。  
多分、大丈夫だと思いますけど、念のため」  
副主任とやり取りする間に、私の顔の熱はだいぶ冷めてきていたけど、  
せっかくだから、保健室でごろごろさせてもらう事に……。  
って、他に生徒が居なかったら、それってもしかしてすんごいチャンス?  
と、安田君に視線を向けそうになって、私は自分の中に浮かんだ考えに呆れてしまった。  
不謹慎とかそういう次元を超越してる。  
ここは学校、教師としてあるまじき発想を即座に浮かべた自分の頭に  
ある種の感動さえ覚えてしまう。  
そんな私の考えに気づいているのかいないのか、安田君は涼しい顔で副主任と  
私の会話を聞いていたけど、私が立ち上がる前に、  
「じゃ、先生、また分かんなかったら質問きます」  
と、さっさと数研を出て行ってしまった。  
あまりにそっけない態度に身勝手な不満を覚えつつ、机の上に出しっぱなしになっていた  
ボールペンやら蛍光ペンを筆立てに戻すと、私は笑顔で副主任に手を差し出した。  
「宮城先生、保健室の鍵、下さい」  
 
当然のことながら、保健室には鍵がかかっていて誰も居なかった。  
よくよく考えたら、昼休みに保健室に鍵をかけておく時点で副主任は  
保健室のお留守番なんてやる気がなかったのだ。  
ま、来るか来ないか分からない生徒のために昼休みを潰すのもバカバカしい  
という考えには私も賛成だけど。  
せっかく保健室に来たんだし、と熱を測ってみたけど、熱なんてある訳がない。  
36.1度。平熱。いたって健康だ。  
熱を測ってる間に予鈴が鳴ったせいで、賑やかだった廊下も今では静まり返っている。  
窓の外には静かな校庭。  
体育の授業はなし。  
こりゃ、ケガ人なんて来そうにないね。  
来るとしたら腹痛を装ったサボりの生徒。  
……しまった、参考書の一冊も持ってくるんだった。  
せめて計算用紙とボールペン。  
これからの一時間、何もする事がないことに気がついて、私はため息をついた。  
まったくなんにもする事がないくらいなら、忙しいほうがマシだ。  
「いいや。もう、寝よ」  
誰も居ないのに、そんな風に呟いて、私は窓側のベッドへと足を向けた。  
校庭でも眺めていようかと思ったけど、あるのはフェンスの向こうのマンションだけ。  
天気もイマイチ。  
こりゃ、本格的に寝るしかないな。  
私はベッド周りのカーテンを引いて、即席の個室を作った。  
狭い空間は落ち着くからすぐ寝られる。  
私は靴を脱いでベッドに上がると、眼鏡を枕元において毛布を頭までかぶった。  
 
ひんやりとしていたシーツが自分の体温でいい感じに暖まってくる。  
遠くで本鈴が鳴っている。  
お留守番は嫌だけど、たまにはこういうのもいいかも。  
見つかったら、やっぱり熱がありました、って言えばいいし……。  
ふふ……。  
まどろみの心地よさに意味のない笑みがこぼれた瞬間、  
私の安らかな時間はガラリという無遠慮な音によって打ち破られた。  
ガラガラ、ぴしゃっ!勢いよく開いた扉は、今度は物凄い勢いで閉められた。  
「せんせー」  
安田君だ。  
一瞬、どきりとしたけど、安眠を妨害された私は寝たフリをして、返事をしないでいた。  
「せんせ、居るんでしょ?」  
居るけど寝てますよー。  
心の中で返事をして、寝返りを打ち、改めて毛布を頭までかぶると、すぐ後ろで声がした。  
「先生、職務怠慢」  
「私は具合が悪くて寝てるの。サボってる訳じゃありません」  
毛布から顔を出して声のした方を向くと、カーテンから頭だけ突き出してる姿が  
ぼんやりと目に映った。  
「先生、マジで具合悪いの?」  
具合と言うより、機嫌が悪いの。  
「そういうあなたは何?授業はどうしたの?休みじゃないでしょ?」  
思った事の代わりにサボった生徒を発見した風紀の先生のような事を言うと、  
彼は断りもなくカーテンのこっち側に入ってきた。  
 
「……下っ腹の調子がおかしいんです」  
眼鏡をかけていないせいで表情がよく分からない。  
授業をサボった事なんてない子だから、もしかしたら本当にお腹でも壊したのかも。  
しぶしぶ起き上がって、枕の横に置いていた眼鏡に手を伸ばした瞬間、その手首をつかまれた。  
「は?」  
びっくりして顔を上げると、目の前には顔。  
いくら近眼でも、これだけ近かったらはっきり見える。  
「先生……、何拗ねてんの?」  
「拗ねてる?誰が」  
「先生が」  
言っている意味が分からない。  
そう抗議しようとすると、  
「……ま、いいや。……ね、ちゅーしよ。ていうか、させて」  
と、顔が更に寄ってきた。  
心構えが全く出来てないかったせいで、思わず顔を引いてしまう。  
「たっ、……たんまっ!」  
「なんで?」  
なんでと言われても、ただ驚いたというのと、本当に久しぶりに二人っきりになったせいで、  
緊張しているだけだから、どうも上手く返答できずに困っていると、  
目の前の顔があからさまにヘコんだ表情になった。  
「……やっぱ、ダメ?」  
「あ、違う違う。えーと……ダメじゃないよ?」  
むしろ私だってしたかったんだけどさ。  
久しぶりで照れてんだよー、と思ってからそんな事を思った自分に顔が熱くなってきた。  
いい年して、何をそんなにうぶな事を……。  
 
安田君の彼女になってから、どうもこう……しばらく無縁だった感情が湧き上がってきて、  
私は結構戸惑ってしまう。  
今も結局、その辺りをちゃんと伝えられずにいると、彼は私の手首を掴んでいた手を  
手の方に移してから握り直して、大きな深呼吸をした。  
「ごめんね、先生。ホントはこんな予定じゃなかったのに」  
決まり悪そうに空いた手で髪をかき上げると、安田君は隣に座っていい?と聞いた。  
私もようやく落ち着いてきたから、いいよ、と言うと、彼は手を繋いだまま私の左に座った。  
「こんな予定じゃなかった、ってどんな予定だったの?」  
落ち着きを取り戻して、口調まで教師のそれに戻ってしまう自分を恨めしく思いながら、  
私は彼の横顔を覗き込んだ。  
「えー……。なんていうか、久しぶりだからちょっと普通に話してー、  
で、その後ー……出来たら嬉しいなー、って感じの予定」  
彼はそこまで言うと、ぷいと顔を背けてしまった。  
うわぁ、可愛い。  
私だって、さっき保健室のお留守番を賜った時にはそんな予定が頭に浮かんだ。  
でも、安田君はそっけなく出て行っちゃうし、お留守番はそのまま押し付けられるし……。  
ああ、なるほど。彼が言ったことは正しい。  
私はちょっと拗ねてたみたいだ。  
まあ、そんなんじゃ拗ねたくもなるよね。  
自分の行動その他を反省してはみたものの、実は彼も同じ心境だったことが嬉しくて、  
私は彼の腕に寄りかかった。  
 
ぴく、っと彼の肩が強張って、手がぎゅっと強く握られた。  
顔がこっちを向いたから、私も彼の方に顔を向けると  
見慣れない眼鏡の向こうに見慣れた赤い顔があった。  
やっぱり普段眼鏡をかけてない人の眼鏡顔は新鮮だ。  
家ではいつも眼鏡なのかな。  
家ではどんなかっこうしてるんだろ。  
なんて事を考えてたら、彼の顔がだんだん固くなってきた。  
「せ、先生……。オレ、意外と我慢強くないんだけど……」  
変に気取らないところが可愛い。  
可愛いだけじゃなくて、嬉しい。  
にやけた顔になってるのを自覚しながら、私は彼の眼鏡に手を伸ばした。  
「我慢強かったら、我慢しちゃうの?せっかく、久しぶりに二人になれたのに?」  
大人しく眼鏡を外された安田君の喉仏があからさまに上下に動いた。  
生唾を飲み込むって、ホントにあるんだ。  
「……いいの?」  
緊張してるのか、掠れた声がまた私をドキドキさせる。  
あー、まずい、まずい。  
「ホントは良くないんだけど」  
そう、良くないんだけど。  
学校だし、保健室だし、ホントに具合の悪い子が来るかもしれないし。  
だけど、  
「私も意外と我慢強くないんだよね」  
それに、時間も無いし。  
 
と付け加えようとした瞬間、ベッドに押し倒された。  
「んっ!……ぅ、んっ、…まっ」  
ちょっと待て、と抗議したくてもそんなのさせてもらえない。  
半ば無理矢理みたいにして舌が口の中に入ってきた。  
待ってってば、君の眼鏡をどこかに置かなきゃ、って思うのに、言いたいのに……。  
いかん。  
唇を離したくない。  
もうずーっとこうしてたい。  
口の中で乱暴に動く舌に応えながら、私は眼鏡を持ったままの手を彼の首に廻した。  
眼鏡を持ってるせいでちゃんと彼に掴まれない。  
だから、これをどうにかする時間が欲しい。  
でも、唇は離したくないから、結局このまま。  
ちょっと矛盾した二つの気持ちの間にいると、お腹の辺りを探る感触がした。  
始めは放っておいたけど、手がジャージに潜りこんで来て、  
つたない手つきでTシャツの上を探られると、さすがにくすぐったい。  
私は我慢できなくて、身体を捩ってしまった。  
「ふ、はっ……」  
今までちょっとずつしか入ってきてなかった酸素を一気に吸い込むと、  
彼は同じように喘ぎながら、私のジャージのファスナーを一気に下ろした。  
続いて、ズボンの中に突っ込んであるTシャツの裾を引っ張り出されて、  
熱くなってたお腹の辺りがちょっとだけ涼しくなった。  
 
「先生って、Tシャツの裾、入れちゃってるよね」  
顔は良く見えないけど、少し不満そうな声に私は頷いた。  
「だって、おばちゃん先生たちがだらしないから入れなさい、って言うし」  
「でもさー、なんかダッサくない?」  
「それは私だってそう思うけど。でも、しょうがないじゃない。  
生徒の取り締まりより、教師の取り締まりの方が実は厳しいんだもん」  
そう。厳しいのだ。  
だって、生徒を指導する立場にいる人間が乱れてたらいけないから。  
だけど私は今現在、よろしくない教師の見本みたいな事をやってる。  
まだ不満そうな声を発している彼を適当にあしらいつつ、  
右手に持ちっぱなしになってた安田君の眼鏡を掛けてみた。  
置き場に困ってたっていうのもあったけど、彼の顔を見たいと思ったっていうのもあったから。  
掛けてみると、ちょっと大きいけど、この眼鏡、なかなかはっきり見える。  
どうやら彼は私並に視力が悪いらしい。  
眼鏡が不可欠って、何気に辛いよね。  
ふふ、案の定膨れてる……わりに、手はしっかり……っていうか、  
「でも、脱がすの手間だし……って、先生何やってんの?」  
「……安田君、これ、すんごい度が弱いんじゃなかったの?」  
安田君の質問には答えず、逆に問い返すと、彼はTシャツの中で胸の辺りに登ってきていた手を止めて、  
一瞬、何を言ってるんだろう、という顔をした。  
それからすぐに、ああ、と呟いて、  
「だって、あの場であの状況だったら、そう言うしかなかったからさ」  
と、あっさり言ってのけた。  
 
予想外の反応に抗議しようとすると、彼の顔が近づいてきて、ほっぺたに軽くキスをされた。  
それだけなのに、私は妙に動揺して声を裏返してしまった。  
「やすっ……あ、あのねえ」  
そんな私を差し置いて、今度は唇に軽くキスすると、ほっぺから首の方にキスをし始めた。  
「ちょっ、……だ、ダメ……」  
「ダメ。先生、いい匂いなんだもん。  
さっきだってさ、すっごい久しぶりに先生の傍に立ったらさ、先生の匂いがしてさ」  
さっきまで包むくらいの感じだった手が、ブラの上から胸を揉んでくる。  
首からくるぞくぞくした感覚のせいか、手の動きにも簡単に身体が反応してる。  
少し落ち着いていた身体がまた高まってきた。  
どうせする事はするんだから、堪える必要なんかないのに、  
心構えをしてなかったタイミングでコトが進行し始めたせいか、  
完全にペースを彼に持っていかれてしまった。  
「匂いなんてしないからっ!」  
どうにかこうにかそう言ったけど、彼は取り合わない。  
「するの。でねでね、あー、先生の匂いだー、って思ってたら、  
知らないうちにあんなに近くに行っちゃってた、とそういう訳」  
「なにっ、それ……って、首…は、あっ!」  
だめだ、頭がくらくらしてきた。  
聞こえているのかいないのか、それとも聞かないフリなのか、  
歯で鎖骨の上をなぞられて、音がするほどキスをされて、  
思わず上がりそうになる声を殺すのだけで手一杯。  
「わざとじゃなかったから、オレもびっくりしちゃったんだけど」  
で、とっさにあの言い訳か。  
 
うまく誤魔化したのは認める、けどっ!  
いつの間にブラを外したんだか、地肌に手が触れてる。  
そりゃ、フロントホックだから、後ろよりはいいだろうけどさ、  
「あ……んッ!!」  
バカ、弄るな!声が……  
とっさに手に触れた毛布を握り締めて、唇を噛む。  
安田君はそんな私に気が付かないらしい。  
「せんせーの胸、やらけー……」  
そう言ってもらえるのはすごく嬉しいんだけど、今はあんまり堪能しないで欲しい。  
Tシャツの中で手探りしつつ、上からは頬ずりしたりキスするのも、私を簡単にくらくらさせる。  
この程度でいっぱいいっぱいになるなんて、どうやらさっきのほっぺへのちゅーで  
簡単に私のスイッチは入ったらしい。  
それは自覚できてるんだけど、スイッチをオフに出来ない。  
「ん、くっ!」  
なんでTシャツの上から噛むの?  
そのおかげで私がびくっと身体を強張らせると、やっと安田君の顔がこっちに向いた。  
「先生、もしかしてちょっと感じてくれてる?」  
聞かなくたって分かるでしょう?  
っていうか、分かってくれ。  
しかも、ちょっとじゃないんです。  
私こんなに過敏だったっけなあ……。  
頭の中ではあれこれ浮かぶのに、出来たのは頷くことだけだった。  
 
それだけだったけど、彼はすごく嬉しそうな照れ顔になって、Tシャツの下から手を出すと、  
毛布を握ったまんまだった私の手を握って、またキスをくれた。  
少し落ち着いて息が出来る。  
彼は今度はおでこに軽くちゅーをすると、どことなくバツが悪そうな顔で  
まじまじと私の顔を覗き込んできた。  
ああ、そっか……。  
「ね……、そろそろしない?」  
「いいの?」  
意外そうな顔がおかしい。  
毛布から手を離して、念のために腕時計を見てから彼の首に手を廻した。  
「したい、って自分で書いてたじゃない」  
「……うん、まあ」  
「次、いつになるかわかんないよ」  
「だよね」  
なんでためらってるんだろ。  
さっきまで、あんなに積極的だったのに……。  
「時間、なくなっちゃうよ」  
「え、まだ時間ある?」  
表情がぱっと明るくなった。  
なんだ、時間気にしてたんだ。  
したくてしょうがない、っていう反面、そういうところに気を遣ってる  
アンバランスな感じが、また私のツボを刺激する。  
私はそんな彼がおかしくて、思わずくすくす笑ってしまった。  
「笑わないでよ。  
担任と学級委員が二人してロングホームルームに遅刻したら、さすがにやばいじゃん」  
「そのくらい、ちゃんと分かってる、って」  
 
彼がジャージを脱がせ易いように腰を浮かせる。  
脱がすのなんてまだ慣れてないらしくて、少し手際が悪いけど、そこがまたいい。  
さっき首やらなにやらにキスされたお返しに、脱がせてもらってる間、  
私は彼の耳やほっぺたをいっぱい唇でなぞった。  
彼もくすぐったいらしくて、私がそうすると首を竦めて、あう、とか声を立ててくれる。  
嬉しさに胸のドキドキがまた早くなってきた。  
声を聞きたくて、もっと何かしようとすると、腕からするりと逃げられて、  
ジャージを下着ごと全部脱がされてしまった。  
下半身がスースーする。  
下着と一緒に脱がされるのはちょっとやだ。  
時間が無いのは分かってるんだけどね。  
ちょっと不平を言いたい気にもなったけど、今はストップ。  
浮いてしまった手を彼の制服に伸ばして、私は彼のブレザーの襟を引っ張った。  
「なに?」  
「ね、これくらいは脱いで」  
そう言っただけなのに、安田君は何故か顔を赤くして、私の要求に素直に応えてくれた。  
彼がブレザーを脱いでる間、起き上がって、  
むき出しになっちゃってる下半身をTシャツの裾で隠そうとすると、  
「先生、エローい」  
と、彼が笑った。  
そう言われると、意識してなかっただけになんだかすごく恥ずかしい。  
「え、別にエロくないよ。  
ただ、ねえ、なんかそのままって言うのもちょっとなんかなあ、って」  
「あ、先生照れてる」  
ブレザーをベッドの下に落とした安田君は、からかうようにと言うよりは嬉しそうに笑った。  
 
そんな彼をちょっと睨む。  
別に怒ってたりする訳じゃないんだけど、指摘されて自分の照れを肯定できるほど  
私はまだ人間が出来ていないらしい。  
「そんな顔しないでよ」  
彼はあくまで嬉しそうだ。  
「うるさいなぁ。エロい事しようとしてるんだから、エロくてもしょうがないでしょ」  
筋が通っているようで通っていない言葉を返すと、何それ、と安田君は  
ズボンの後ろのポケットからお財布を出しながらまた笑った。  
「何よ、さっきから」  
「そんな先生も先生じゃない先生っぽくて嬉しいなーって。  
……ちょっと恥ずかしいから、こっち見ないで」  
どうにも上手く言い返す言葉を出せずにいた口を塞がれた。  
ちょっとびっくりしたけど、すぐに目を瞑ってそっちを見ないようにする。  
うずうずしてる身体を抑えるように、Tシャツの裾を握り締めてるくせに、  
キスを深くしようとしてる自分がいる。  
だって、お財布が床に落ちる音とか、ベルトを外す音とかが聞こえたら、  
スイッチの入った身体は余計に加速していく訳で、ここまで来て止められる方がどうかしてる。  
「…ん、……あ」  
また、舌が触れ合って、ぞくぞく感が増してきた。  
今度はさっきほど乱暴じゃないけど、それでも私を逃がさないようにしっかりと絡み付いてくる。  
触られてるのは唇だけなのに、身体中が彼を欲しくなってきてる。  
「ん……ン、んっ……」  
どこから出てるんだか分からない声が漏れ始めると、安田君は今度はさっきより優しく  
私をベッドに押し倒した。  
 
手が脚の間に入ってきた。  
当然指がそのまま……。  
「っ……」  
やだ、そこされると……。  
「う……ッ、ふ…うぅ……」  
私の反応にあわせるみたいにして安田君の指が動いてきて、それにまた反応しちゃう。  
声を殺そうとするせいで酸欠になって、かえって頭がくらくらしてくる。  
もうちょっとの間、この感覚に身を任せていたいけど、そうも行かない。  
私は力が入らなくなってきた手で、上にかぶさってる彼をどうにか押すと、唇がちょっとだけ離れた。  
「安田、くん……」  
一度深呼吸。  
「あの、もう、いいよ」  
「でも、もうちょっとした方がよくない?」  
どこで仕入れた知識?と思いつつ、彼の肩に置いてた手に目を向けると、  
やっぱり時間があんまり無い。  
「……そのうち、もうちょっとして。時間ないし」  
「あー、そっかぁ」  
とてもとても残念そうな声。  
私も残念だ。  
でも、  
「でも、私はこうやってられるだけでも嬉しいな」  
彼の顔を引き寄せて、鼻の頭にキスしてあげると、安田君は、  
「そだね。オレもここまで出来ただけでも、すっごい嬉しい」  
と照れながら答えてくれた。  
 
身体の中に熱い塊が入ってくる。  
目の前の顔が切なげに眉を顰めてる。  
たったそれだけなのに、この三週間くらいの空白が簡単に埋まっていく。  
「やっぱ、先生の中気持ちー」  
最後まで入ると、安田君はぎゅっ、て抱きしめながらまた幸せそうな顔でそう言ってくれた。  
「ずーっと、ここにいたいー」  
バカな事言わないの、と笑いたい反面、私もずうっとこうしてたいとか思ってる。  
「早く卒業してね」  
「卒業までおあずけ?」  
ちょっと重さがかかって、中からあの独特のぞくぞくが湧き上がってくる。  
「機会があったら、……したいけど、でも、難しいじゃない」  
考えてる事が事だけに、口に出すのが恥ずかしくて、私は後半もごもごと呟くみたいにして言った。  
なのに、そのコメントは安田君の心をキャッチしたらしい。  
はにかんでるくせに、嬉そーな顔でキスをしてから、更に嬉しさを隠し切れない様子で、  
「機会があったらしてくれる?」  
と、聞いてきた。  
彼が乗り出してきたせいで、また奥の方が圧迫される。  
「んっ!……機会が、あったらね」  
熱くなって多分赤面してる顔を、これ以上見られたくなかったのと、  
どうやっても抑えられない声を押し込めるために、私は安田君の顔を  
自分の方に引き寄せて、彼の唇で自分の唇を塞いだ。  
 
それが合図だったみたいに、安田君が少しずつ動き始める。  
始めはゆっくりだったけど、すぐに動きは強くなっていって、  
塞ぎあってる口の方も強く貪られた。  
彼が時々漏らす、堪えた声が直接身体に響いてくる。  
どこもかしこも私の身体は安田君でいっぱいになってきてる。  
このところ、私の中に巣食っていたフラストレーションが一気にどこかへ飛んでいく。  
彼の事を抱きしめてもっといっぱい彼を感じようとしていると、唇が離れた。  
「あ…っ、出……ッ!」  
思わず目を開けて彼を見上げると、間近にある眉間にぎゅうっと力が入って、  
次の瞬間、身体がびくっと跳ねた。  
「く、あっ!……んぅ、っ…………」  
少しの間震えてた身体は急に力がなくなって私の上に落ちてきた。  
ちょっと苦しい。  
でも、ホントに全部を預けてもらえてる気がして、私は彼をそっと抱きしめた。  
ずっとこうしていたいけど、そういう訳にもいかない。  
それは安田君も分かってるらしくて、だるそうに起きあがると、私から身体を離して  
きょろきょろと周りを見回した。  
それから、すごく気まずそうな顔で、  
「……先生、ティッシュ持ってる?」  
と聞いてきた。  
 
私たちは恥ずかしいね、って笑いながら保健室のベッドの上で背中を合わせながら後始末をした。  
「ホントだよー。こないだは先生、イっちゃってたから良かったけどさー」  
「それはそれで、気がついた時、私が相当恥ずかしかったんだけど……」  
「そうなの?」  
「そうなの」  
思い出しただけで熱くなってきた顔を手で扇いで、ベッドから降りる。  
下に落ちてた服を拾って、着なおすと、後ろからぎゅっと抱きしめられた。  
「んー、もう、先生大すきー」  
びっくりしたけど、それ以上にこれはすごく嬉しい。  
私も大好きだ。  
そう返そうと思ったけど、目の前に来た安田君の腕時計を見て、私は焦った。  
授業終了までもう二分もなさそうな時間だ。  
もうちょっとこうされてたいのにっ!  
でも、今はそんな事いってられない。  
私は安田君の腕の中で回れ右をすると、ちょっと背伸びして軽いキスをした。  
「ね、時間、まずいから」  
「え?マジで?」  
彼も焦って時計を見る。  
「うお、まっずいじゃん。てか、先生、眼鏡返して」  
踏み出しかけてた足を止めて、安田君が手を出してきた。  
すっかり忘れてたけど、そういえば私がかけてたのは私のじゃなくて、彼のだ。  
 
眼鏡を外してぼやけた視界の中、出された手に乗せてから、ベッドの方を見る。  
しわくちゃになったベッドのシーツに気恥ずかしさを感じながら、  
枕の横に置きっぱなしだった自分の眼鏡を取って、それをかける。  
「先生、じゃ、またね」  
焦りを含んだ声でそう告げる彼に、後ろ手に軽く手を振ってシーツを直し始めると、  
一度遠くなりかけていた足音がまた戻ってきた。  
「どうしたの?」  
振り返ると、安田君はいつもの照れたような顔で、  
「忘れ物」  
と、身体を軽く屈めてきた。  
チャイムが鳴ってるじゃない!と思った瞬間、  
カチ。  
眼鏡がぶつかって鼻がぶつかった。  
そんでもって唇も。  
私が言葉を失っていると安田君はもう一回、またね、と言って  
ベッドを囲んでいるカーテンの外へと姿を消した。  
取り残された私はしばし沈黙。  
軽く動揺してる頭を諫めつつ、どうにか痕跡を残さないようにはしてみたけれど、  
授業にも間に合うように教室に戻ったけれど、  
不覚にも六時間目のロングホームルームの内容はさっぱり頭に入ってこなかった。  
 
(終)  
 

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