「佐藤夏美といいます。
私もここの卒業生で、また教師としてこの学校に戻ってこれて嬉しいです。
まだ先生としては半人前で、授業とかわかりにくいかもしれませんが、
先輩としてはいろいろ相談にのってあげられると思うので、
友達感覚で気軽に話しかけてください」
新学年の始まり。
最初のホームルームで教壇の前に立つのは、見慣れない若い女性。
早速このクラスの副担任を任せられた夏美が、ベテランの担任教師の脇で
緊張しながらも段取り通りホームルームを仕切っている。
自己紹介を済ませた夏美が出席簿を広げ、つたない動作で点呼を取り始める。
名前を呼ばれた生徒に、一言メッセージをつけさせ
それに丁寧に返事を返す姿がなんとも初々しく、教師という仕事に対する希望を窺わせる。
「松田祥一くん?」
窓際の後方の席で頬杖をつきながら彼女を眺めていた一人の少年の名が呼ばれた。
「あ……、はい」
今までボーっとしていた祥一が、それに少し慌てて座り直し返事をする。
「休み明けでまだ気が抜けてるのかな?」
それを見た夏美が微笑みながら声をかけてくる。
クラスの中にかすかな笑い声が起こった。
「あ、いや、べつにそんなわけじゃ…」
「明日からはシャキっとしようね。
私やクラスのみんなに簡単な自己紹介とかはあるかな?」
祥一が、とりあえず考えてるフリをする。
中高一貫のこの学校で、現在高等部2年生の祥一にとって
クラス替えがあったとはいえ、周りはたいてい知った顔ぶれ。
彼らには特に改まった自己紹介など不要だった。
「えっと、部活も特にやってなくて、成績も真ん中くらいで……。
だぶん普通の高校生だと思います」
彼としては狙ったわけではないが、またクラスに失笑に似た笑いが沸き起こる。
「アハハ…、祥一くんは面白い人だね」
そう言って学生と一緒に笑う夏美。
だけど祥一にとって、その行動は鬱陶しいだけだった。
高校生の彼にとって、学校の教師などというものは
自分達をより良い大学に入れてくれるために、部活動でより良い功績を残すために
尽力してくれればいいだけの存在であって、
親や友人のように悩みを打ち明ける存在でもなければ、
いきなり下の名前で呼んでなれなれしくされることを望む存在でもなかった。
そしてこの時こう思った生徒は彼以外にも少なからずいた。
さらに、夏美は背が低く、制服を着ていれば学生と見間違うような幼い顔立ちで、
彼女のことを教えていた古株の教師から未だに子供扱いされていたり、
休み時間や放課後は女子連中と同じ目線で世間話をしているところを見ると
はっきりいって教師としての威厳は伴っていなかった。
夏美は、試験的に祥一たちのクラスをはじめ、いくつかのクラスで単独で教鞭をとることになったが、
その授業運びが未熟というか、勉強不足の部分の露呈させてしまい、
彼女は時間と共に、多くの生徒からなめられていった。
そして、一学期も終わろうかという初夏の放課後。
祥一ら、部活もバイトもしていないいつもの4人で教室に集まって
いつものようにくだらない話で盛り上がっていた。
「なあ、あの佐藤とかいう新任のセンコーだけどよ、
まだ学生気分が抜けてないから、からかうとおもしれーぞ」
「ああ、わかるわかる。
俺らでこの前、『初体験はいつですか?』って訊いたら
恥ずかしそうに『高1の時』とかマジ返事されてよー」
「そうそう! 誰も初エッチの話なんかしてねーのにさ」
「そういや、うちらの学年で本気であいつに告ったやつがいるらしいぜ」
「マジかよ!?
まー、あのセンコーも顔だけは可愛いから無理もねーか」
「ハハ…、おまえあんな幼顔が好みなのかよ?」
「それよりか、あいつ3年の授業で生徒に泣かされたらしいぜ。
『あなたの授業では受験に生かせません』とか言われたらしくてよ」
「あー、聞いた聞いた。
なんでも授業開始の挨拶の時に、学級委員長に直に言われたんだろ?」
教師が生徒に笑いのネタにされることなんて珍しくはないが、
夏美に対する生徒の態度は、笑いのネタというよりむしろイジメに近いものがあった。
特に彼女は、男子生徒から色々な意味で恰好の獲物にされていた。
やがて、彼らの話題が過激な方向へずれ始める。
「なあ、明日から土日祝で3連休だろ?
これで負けたやつがあいつの家に潜入するってのどうだ?」
祥一と机を囲む友人の一人がカバンからカード麻雀を取り出し見せる。
期末テストも終わり、長期休暇を目前にした独特の開放感に包まれる彼らの中で反論する者はいなかった。
1時間ほどで無言の真剣勝負が幕を閉じる。
「祥一、珍しく惨敗だな」
結果は点棒を数え直すまでもなく祥一の最下位が明白だった。
「おまえ、本当はあいつの家に行きたくてわざと負けたんじゃねーの?」
周りからからかわれる。
いつもの祥一は、引きの強さと勘の良さで三回に一回は圧倒的な大差をつけ勝つ実力の持ち主。
「うるせーな、おまえらが仕込んだんじゃねーのかよ」
だが状況は3対1で、祥一も納得がいかないまでも、引くに引けない雰囲気になってしまった。
「あいつなら強引に押せばたぶん家まで連れてってくれるからよ!」
「証拠に写メでも撮って送れよ!」
「案外彼氏とかと同棲してんじゃねーの?」
人事のようにいい残して、3人が教室を後にする。
わざと独りで残った祥一もゆっくり立ち上がる。
「アホらし。 俺もさっさと帰ろ……」
周囲の悪乗りに半ば呆れながら祥一もカバンを掴むと下駄箱へ向かった。
すでに無人になった下駄箱の前で、靴紐を結びなおしながら
「生徒になめられるような教師が悪いんだろ…」
と独り言のように呟く。
「あれ、祥一くんも今帰り?
気をつけてね……」
突然の背後からの声に祥一が驚き振り返る。
彼の目にはカバンを抱え、こちらも帰路につく途中の夏美の姿が映った。
一方の夏美も、その祥一の動作があまりにも不自然で少し驚かされる。
「あ、先生……」
「ど、どうしたの…?」
普段それほど表情豊かでない祥一の顔にも驚きと焦りの色が隠せない。
だが、あまりのタイミングの良さに祥一の中ではちょっとした悪戯心が芽生えてきた。
「ちょっと相談に乗って欲しいんですけど…」
夏美も目を丸くして驚いたが、内心まんざらでもなかった。
ここまで、生徒に雑談の相手に選ばれたことはあったが
これほど神妙な面持ちで相談を持ちかけられたことはなかったからだ。
すでに春先に抱いていた理想も、淡い妄想として割り切りかけていた時の出来事。
悪い気はしないし、むしろ自信を取り戻す好機のように感じていた。
「うん、私でよければ何でも相談に乗るから、話してごらん」
しかし、祥一の方は心の中で会心の笑みを浮かべていた。
口の達者な祥一が、いかにもというような様子で次々に話し出す。
自分の両親が離婚しそうで、家にとてもいられる雰囲気じゃないとか
その両親が自分を煙たがっていて、離婚した際の親権を押し付け合い精神的に参っているとか
最近は友達の家に厄介になっていたが、それもそろそろ気の引ける回数に達しているとか。
もちろん根も葉もない嘘だが、祥一の巧みな演技で夏美まで深刻な顔になってきた。
実際ちょっと鈍くさいところのある夏美は、狡猾な祥一の敵ではなった。
気がつくと夏美は自分の車の助手席に祥一を乗せ、夕暮れの道をあてもなく走らせていた。
最初は生徒に頼られる自分に悦に浸って、軽い気持ちで相談を聞いたが
その相談相手のあまりにも悲惨な現状を聞かされ、なんと返事をしていいかわからなくなり、
もっともらしい答えを模索しながら生返事をしているうちに彼を車に乗せていた。
祥一は、夏美の口数が減るのを察して、機を見計らって止めを刺しにかかる。
「今日だけでいいから、先生のうちに泊めてくれないですか……?」
「え…………?」
夏美もある程度は予想していたが、こうまではっきり言われて狼狽してしまう。
「で、でもご両親が心配するといけないし…」
「話、聞いてなかったんですか?
あの両親がこんなことで俺のこと心配するはずないでしょ……」
夏美は触れてはいけない話題にまた触れてしまったと後悔する。
「で、でもさ、私の部屋散らかってるし……」
「なら、この辺で下ろしてくれて結構ですから……。
悪いけど、もう俺に関わらないでくれます?」
「じゃ、じゃあさ、夕飯だけ私のうちで食べていきなよ…。
落ち着いたら自宅まで送ってあげるから……」
両手で顔を覆って考え事をするフリをした祥一の真意は、
あまりにも思い通りにことが運ばれすぎて、つい漏れそうな笑いを隠すためだった。
それでも、そんなことに気づく余裕のない夏美は、
車を自宅のアパートの駐車場に止めて、彼を部屋の中へ招き入れた。