――有を与えられた無は、決して無へは還えらない。  
 ゼロに1を与え、1とする。これが無に有を与えるということだ。  
 しかし、  
 1から1を引いてゼロとしても、それは無ではない。  
 そのゼロは、かつて1があった場所。  
 無である、真なるゼロは汚れなき黄金。  
 ならば。有を奪われた私は、――  
 
 
   ※※※  
 
「うららぁ? 変な名前ー」  
「こっ、こら、駄目よ。人の名前を変なんて言ったら」  
「アハハ、いいよ、気にしなくて。馴れてるからさ」  
 そう言って鈴村 麗(スズムラ ウララ)は、親しき友人である芳香を宥め、  
小さい新たな友人の言葉を許した。  
 見た目通り――というべきか。  
 女性的な線を損なわず、どことなく好青年然とした雰囲気を纏う麗を、一言で  
形容するならば。  
 まず美少年という言葉が浮かぶが、しかし、それは彼女の薄く日に焼けた健康  
的な表面をなぞっただけに過ぎない。  
 芳香はこの三週間、同じ時を共有して、彼女に別な側面を感じていた。  
 麗という少女を言葉で表すならば、  
 ――月の光のよう。  
 だと感じていた。  
 月光は、陽光と比べれば弱々しい。  
 だが、そこには毅然とした強さがある。  
 
 闇に呑まれず、中天で瞬き。闇の中を進む者の足下を照らし、助ける。  
 芳香は自らの置かれた闇の中へ、手を差し伸べてくれた麗を、そのような存在  
だと想っていた。  
 学校に友達がなく、孤独であった芳香へ、手を差し伸べてくれた麗。――芳香  
は幾百、幾千……いや、月を囲む星と同じ数の言葉をもってして、この友人へ感  
謝を伝えたかった。  
 だから、麗が芳香の家を訪れたいと言った時も。  
 父が海外へ行く日を選び、執事たちへ根回しを済ませて、友人を歓迎した。  
 家の内外、庭に咲く花がどこにあるかまで、芳香自ら案内し。少女二人のため、  
出された料理はささやかであったが、麗を驚かし、  
「凄いものね」  
 と感心させた。  
 その後、ようやく芳香の私室へ案内された。  
 もしかすれば、麗がこの日、一番驚いたのは、この時かもしれない。  
 芳香は少し頬を赤らめた。  
「な…………えぇと………すごい…綺麗好きなのね」  
 麗は驚いたことを誤魔化すように言った。  
 芳香は首を横に振り、俯いた。麗が驚いた理由を、ハッキリ理解していたから  
だ。  
 豊日家の令嬢である芳香の部屋には、在るべきはずの私物は数少ない。  
 私室なのに、私物が少ない。  
 あるのは、生活に必要な家具と衣服、教科書類だけ。ぬいぐるみもテレビも、  
パソコンもない。  
「父のね、教育方針なの」  
 と芳香は、弁解するような口調で、短くいった。  
「……驚いたよね」  
「そりゃ、まあ」  
 麗は肯定したが。芳香が考えていたような反応――冷笑/哀れみ/憐憫、その  
どれも見せず。俯き、強ばった芳香の手を掴むと、唯一の窓まで歩み。  
 窓に填められた鉄格子を指さし。  
「過保護なのはなんとなくわかったけど、ここまでしてるとちょっと笑えるかも」  
 言いながら、鉄格子を掴んでガタガタと揺らしたり、窓の外を見たりと、麗は  
落ち着きなく動いた。  
 その様子は子供っぽく、見ている芳香も気が抜けた。何もない部屋を見られて、  
どう想われるかと思ったが、麗はそんなことは気にしないでくれるみたいだ。  
「ねぇ、あれ、誰?」  
「え……?」  
「ほら、あの小さい子」  
 窓の下から、ユウが手を振っていた。  
 
 
「でも、めずらしいなぁ」  
 ユウは公園でサッカーをしてきた帰りで、お腹が減っていたのだろう。芳香が  
麗へお茶受けとして出したお菓子を、もぐもぐ食べながら。  
「芳香さまが友達連れてくるなんて」  
 
「口の中に物を入れて話したら駄目だって、何回言えば分かるの」  
 芳香はそう言いながら、ユウがぽろぽろと口からこぼすお菓子の欠片を拾い、  
食べ終わると口元を拭ってやった。  
 麗は半ば呆れたように、その様子を見ながら。  
「そうなの?」  
 と芳香へ聞いた。  
 人前だから恥ずかしいと逃げるユウを、芳香は小脇に抱えたまま、きょとんと  
した表情を浮かべ。――直ぐに色が失われた。  
「それは、その……」  
 “友達がいなかったから”……そのたった一言を芳香は言えない。  
 エスカレーター式に昇っていける学園、小さな庭の中に十余年もいながら、友  
達の一人も作ることもできない。人付き合いが悪い、性格が暗い、麗――初めて  
できた友達にそうは思われたくなかった。  
 だから、言えない。  
 言えば距離を置かれる、嫌われる……それはイヤだ。  
 この沈黙も、答えと捉えられかねないと、理解しながらも。芳香は巧い取り繕  
いはないかと、頭の中で捜査する。  
 しかし、………………見つからない。  
 もとより口の立つ方ではないし、嘘をつくことも不得手。混乱した頭では尚更  
だ。  
 困窮極まり、芳香は、それでもヘタクソな言い訳をしようとした  
 ――その直前。  
「あっ――!」  
 麗が短く声をあげた。  
 ユウの前に置いてあったコップに、芳香の肘が触れ、倒れ、  
芳香の膝の上に落ちた。  
 コップに半分ほど残っていたオレンジジュースが、こぼれ、満遍なく芳香のス  
カートを汚した。  
「大丈夫?」  
 麗がおそるおそる聞く。  
 芳香は「ええ」と答えながらも、コップをテーブルに置き、ひどく静かに立ち  
上がると。麗へ小さく頭を下げ。  
「ごめんなさい、着替えてきます」  
 
 ――しかし、トラブルはこれだけで終わらなかった。  
 
   ※※※  
 
 週明けの図書室、昼休みになると芳香はいつものように現れ、先客がいること  
に、ほっとした。  
「やあ、また来たね」  
 麗は、『図解科学よく分かる 深海魚の生態』という本から顔を上げ、にやっ  
と口端を曲げて言った。  
 しかし、芳香の顔は晴れず。座らずに、頭を下げた。  
「この前はごめんなさい」  
「いやいや〜……なんか謝るようなことされたかな」  
 芳香は静かにうなづいた。  
「そうだったかな。それより座らないの?」  
 麗はぽんぽん叩いて自らの隣を示し。それでも、まごまごしている芳香の手を  
掴み、引き寄せた。  
「えっ」  
 
 思い切り引き寄せられた芳香は、短く悲鳴をあげて、麗の上へと落ちた。  
「……つぅ」  
 自ら引き寄せておきながら、麗はその衝撃に呻き。  
 芳香は落ちたことを謝ろうとして、言葉が出てこなかった。  
 無造作なまでに、麗の腕が芳香を抱きしめていた。  
「………な、なにを…」  
「――はい。よし」  
 ぽんぽんと背中を二度叩かれ、解放されたは、それでも困惑顔の芳香に。麗は  
くすりと笑いかけ。  
「そんなに謝らなくてもいいっての。友達なんでしょ? 私ら」  
「それは……でも」  
「でも、なにさ?」  
「………まさかユウがあんな子だとは思ってなかったから…」  
「ああ」  
 何かを思い出したのか、麗はくくっと苦笑し。  
「なに謝ってるのかと思ったら。あんなの、子供のイタズラじゃない。胸触った  
り、スカートめくりなんてさ。むしろ好かれてんだって思ったくらいよ」  
「……そういうもの?」  
 麗は頷いた。  
「ま、胸がないとか、ほんとは男じゃないの? とか抜かされた時には殴ろうか  
と思ったけどね」  
「あの子、そんなこと言ったの?」  
「うん。――ま、別にいいけどさ。確かに芳香と比べたらないし」  
「そ、そんなことないわ」  
「だからいいって」  
 麗は小さく苦笑し。  
「また、遊びに行っていい」  
 訊いた。  
 芳香は少し驚き、おずおずと、小さく――しかし、しっかりと頷いた。  
「よし。……あ、そうだ。今度は芳香のお父様に逢わせてくれない?」  
「――え?」  
 麗は微笑み、友人にいった。  
「だって、会ってみたいじゃない。日本で一番大きな会社の社長さんなんてさ。  
だから、――だめ、かな?」  
 
 
   ※※※  
 
 嬉しいのに、  
 喜ぶべきことなのに、  
 ……なぜだろう。  
 あの人が、友達ができてから、変だ。  
 何かが――何かが、変わったような気がする。  
 どことは言えないけれど、なにがとは言えないけど、何かが変なのだ。  
 
 
「え――、なにか言った? ユウ」  
「……ううん、なんにもいってないよ」  
「そう」  
 芳香さまは変わっていない、  
「芳香さま」  
「……なあに?」  
「手、つないで」  
「どうしたの甘えて」  
 芳香さまは変わっていない、こんなにやさしい――でも……  
「そういえば、麗がまた来てくれるそうよ。来たら、謝らないとね」  
「…………うん」  
 ……なぜだろう。  
 やさしいし、大切にしてくれるし、一緒にいてくれる……でも。――違う。  
 ぼくは――――  
 

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