寝ていた。  
 昼食をとった後、真っ直ぐに図書室を訪れた芳香を待っていたのは。  
「……すごいわね」  
 気持ちよさそうに午睡する、麗の寝顔。  
 ぶ厚い動物図鑑に背を預け、わずかに胸を上下させるほかは、まったく動くこ  
となく。熟睡している。  
 芳香は起こしては悪いと、静かに麗の隣へ腰を下ろした。  
 来る途中、本棚から抜き出してきた、飛行機関係の本をめくる。  
 芳香自身は、飛行機への興味は薄いのだが、ユウが好きなのである。飛行機や  
車、動かすことのできる機械――のりものが。  
 ただ、のりものならば、なんでも良いわけではないらしく。速いのりもの、車  
やバイク、モーターボート、とりわけ飛行機が好きなようで。  
 ユウ一人で造ったというプラモデルを、数個見せてもらっては、それがどんな  
飛行機なのかを延々と説明されるのだが。  
 言われても、よく分からず、ただ曖昧に返事をすれば。  
『もう、ちゃんと聞いてるっ?』  
 と怒られるため。  
 話についていくには、前知識が必要。  
 そのためこうして、予習をしているわけだ。  
 だが、カタカナや英数字で書かれた専門語の羅列を見て、本の選択を間違った  
ことを理解した。  
 そもそも小学生相手なのだ、そんなに踏み込んだ知識はなくてもいい。と芳香  
は考え、本を替えてこようと立ち上がろうとした――が。  
「……え?」  
 制服の袖に、わずかな力を感じた。  
 いつもならば気づかないような、ほんのわずかな力。  
 寝ている麗に気遣って、静かに動いていなければ、気づかず立ち上がっていた  
だろう。  
 麗の手が袖を掴んでいた。  
 どうしたのだろうと麗を見たが、まだ、すやすやと眠っている。  
 芳香は浮かしかけた腰を下ろし、再び本をめくり始めた。  
 ――暇つぶしくらいにはなるよね。  
 そう考え、読み始めようとした直前、麗が身体をもぞもぞと動かし。芳香の目  
に、それが露わになった。  
 
 
 不自然な体勢で寝ていたせいか、体のあちこちが痛んだ。  
 麗は猫のように身体を伸ばしながら、あくびを一つした。  
 ――何分寝ていただろう?  
 今の麗にとって時間は貴重品だ。一分のロスすら、惜しく思える。気を抜いて  
眠ってしまったなど、本来ならば、あってはならないことだ。  
「……あら。おはよう」  
 耳元で突然話しかけられ、麗は間の抜けた声を漏らし、ねぼけたままの視線を  
動かす。  
 
「ああ、おはよ。芳香」  
「うん」  
 芳香は紫陽花のように微笑み、うなづいた。  
「まだ、次の授業までは時間があるから。もう少し寝ていていたら?」  
「ん――いや、大丈夫。芳香の顔見たら、目が覚めた」  
 そういって、麗は子供のように笑った。  
 芳香は片眉をわずかに動かし。  
「……どういう意味?」  
 と麗に問う。  
 麗はへへっと笑い。  
「さっあねぇ。ところでさ、決まった?」  
「…………え?」  
「芳香のお父様に会わせてくれる日のこと、決まった?」  
 麗が言い直して、芳香はようやく理解し、頷いた。  
「再来週の日曜日……でも、貴女がどんな期待をしているのか分からないけれど。  
娘の私から見ても、父は……その、人好きが激しいから……」  
 それが芳香の心がかりだった。  
 父が優しくないわけではないし、父親として不足だとは言わないが。それでも  
母が死んでからというもの、父は気難しい顔をしてばかり、微笑む顔すら喪って  
しまったかのようだ。  
 そんな父と、麗を会わせるのは、二週間前の今から緊張の糸が芳香を絞めつけ  
てくる。  
「別に、芳香のお父様と、友達になるつもりじゃないんだしさ。挨拶したいだけ  
だから、そんな心配しなくていいって」  
 あっけらかんとして麗は言った。  
「………でも…」  
 だが、芳香の顔は晴れない。  
「麗がそういうのなら、……いいけれど」  
 
 
   ※※※  
 
   
 使用人の子であるユウにも、暇な時には仕事が与えられる。  
 仕事といっても、両親の手伝いであるが。  
 今日は庭での落ち葉拾いが、彼に与えられた仕事だ。  
 子供用という物がないため、自らの背よりも長い竹箒を使い。落ち葉を掻き集  
めては、ゴミ袋に詰めていく。  
 実に単純で、地味な作業だ。  
「………はぁ…」  
 ユウの口から重たいため息がこぼれた。  
 なんでこんなに、この庭は広いのだろうか。  
 見渡してみて暗鬱な気持ちが差し込む。  
 腕時計を見る――十時三十分。  
 落ち葉拾いを始めたのが、九時頃だから、もう一時間半もやっていることにな  
る。  
 どうりで、とユウは想った。  
 今日中に終わらせれば、お小遣いが貰える。それでプラモデルを買うつもりで  
いた。  
 だから張り切って、一心不乱にやっていたのだが……  
「……もお、だめだぁ」  
 バタッと地面に倒れ込む。  
 背中に感じる冷たい土の感触が気持ちよかった。  
 服を汚したことで、母さんに怒られると考えて、寒気がした。  
 
 ……でも、いいや。  
 少し休もうかと考えていると、顔に影がかかった。  
「………あれ…?」  
「よっ、ちびっこ。元気してた?」  
 聞き覚えのある声だった。  
 視線を走らせる。  
 口の部分にフリルが装飾された靴下/白すぎない健康的な脚/外へと広がる膝  
丈スカート、視線はその中へ吸い込まれ――  
「あれ?」  
 と疑問を覚えた。  
 この屋敷内、スカートをはくのは、芳香くらいだ。ユウの母親はいつもパンツ  
ルックだし、他の女性使用人たちも年齢のためかスカートはあまりはかない。  
 華美な装飾を嫌い、ただ実務を優先する芳香の父らしくはある。  
 だから、覗き込んだスカートの中、穿いている下着が白でないことに、ユウは  
違和感を覚えた。  
 お風呂にはいる前――衣服を脱ぐさい、芳香が穿いている下着は常に白だ。  
 一度気になって、ユウが芳香に訊いたところ。  
『お父様がね、買ってきてくださるから。それを穿いているだけよ。  
 …………それよりも、ユウ。人の下着の色なんかいちいち憶えてなくていいか  
らね』  
『あれー、芳香さまー、顔赤いよ、風邪ひいたの?』  
『――っ!? お、大人をからかわないのっ』  
 ということらしい。  
 しかし、見えている下着の色は――赤だ。  
「あれれ?」  
「こらっ、挨拶が先っしょ」  
 膝が曲がり、スカートに喰われる――もとい、頭の横に一人の少女が座りこみ。  
 ゴツっ、と頭を叩かれた。  
「うぅ〜〜、おはよぉ、変な名前のお姉さ――」  
 ガスッ  
 鈍い音がした。  
 ゴロゴロと転げまわるユウを見ながら、麗はまったくとため息を吐いた。  
「失礼なガキだな。貶すんじゃなくてさ、誉めなさいって。ウソでもいいからさ。  
そういう、細かい気遣いが、女の子を喜ばせるもんだよ」  
 ぴたりとユウの動きが止まった。  
 ――喜ばせる?  
 ユウは勢いよく身体を起こし、麗を見つめた。  
「あ、あのさっ、訊きたいことがあるんだっ!」  
「…………はぁ?」  
 
   ※※※  
 
「ごめん、遅れた」  
 芳香の顔を見るなり、麗は笑って謝った。  
「……いえ」  
 芳香は、門をくぐってから三十分しても麗が、玄関に着かないから、迷ったの  
かと思ったが。どうやら違ったようで、安心した。  
「それで、芳香のお父様は?」  
「それが、仕事が入ったみたいで出かけて今はいないの。――でも、お昼には一  
旦帰ってくるそうよ」  
「そっか、大変だね、大企業の社長さんは」  
 感心したような、気が抜けたような声で、麗は呟いた。  
 芳香は、小さく苦笑を浮かべると、頷いた。  
「少し……喜んでいたわ」  
「――へ?」  
「私が、その、……初めて、友達を連れてくるからって」  
 気恥ずかしげにいう芳香。  
 麗は当惑したような表情を浮かべていたが、口端に笑みを浮かべ。  
「それなら、いいけどさ」  
 暗い声で呟いた。  
 芳香が、そのことに気を取られる前に、麗は言葉を接いだ。  
「そうだ。持ってきたよ、これ」  
 言って。手にした紙袋から、全国チェーンのおもちゃ屋のロゴが入った冊子を  
取り出し、芳香に渡した。  
 渡された芳香は、目を輝かせ、顔をどうしようもなく弛ませて。  
「ありがとう」  
 と言った。  
 麗は頷き。  
「ついでに、本屋でプラモデルとかの雑誌も何冊か買ってきたよ」  
「本当?」  
「ウソ言ってどうするのさ。それより、部屋行って読もう。ここで読んでたら、  
あのちびっこに気づかれるよ」  
「あ、うん。そうね」  
 二週間後に控えたユウの誕生日。  
 それを祝うため、芳香はユウに何かプレゼントを買ってあげることにした。  
 これまではケーキを自作していたが、今年はケーキとプレゼントの二つを渡す  
ことにしたのだ。  
 理由は、簡単である。  
 去年までの芳香は、外出する機会は少なく、してもおもちゃ屋に寄る暇などな  
かった。――それは今年も変わらない。  
 しかし、一つ変わったことがある。  
 麗だ。  
 麗に、ユウが好みそうな物が載った本やチラシを、持ってきてもらい。麗に頼  
んで買ってきてもらうという、計画である。  
 一時間ほどの協議の結果、芳香の目から見て格好いいプラモデルを幾つか選び、  
芳香は深々と頭を下げて、麗に調達を頼んだ。  
 その時、ちょうどよく部屋の扉が叩かれ。  
「お嬢様」  
「はい」  
「旦那様が帰られました」  
「……分かりました」  
 芳香の父が帰ってきた。  
 
 時間は仕事で忙殺され、本来割けないはずの時間を割いてまで、昼食を共にし  
てくれる父に芳香は感謝した。  
 嫌いではないし、幼い頃は大好きだったが。母が死んで以来、父は仕事に精力  
を注ぎ、まともに口を聞く機会は少なくなった今となっては。苦手意識が芽生え  
ていたが、今日ばかりは心から感謝していた。  
 席に座らず、窓から庭を眺めている麗は、緊張しているのか。しきりに体を揺  
らし、何度も腰を掻いた。  
 いつもは冷静な彼女らしくないと、芳香は思ったが。自らも緊張しているため、  
笑えない。  
 父と昼食を共にするのは、数ヶ月ぶりだった。  
 父と会話しなければならない。  
 嫌な汗が背を伝う。  
 
 ガチャリ。  
 
 堅い金属の音が、二人きりの室内に響いた。  
 反射的に、芳香は顔を上げ、椅子から立ち上がった。  
 麗は躯を震わせ、しかし、ゆっくりと振り返った。手は腰を掻いている。  
 重々しく扉が開かれる。  
 少女は、唾を呑み込んだ。――自らの緊張を、失せるために。  
「すまない、遅れた」  
 鉄を、何者にも砕けぬ鋼鉄を音にしたような声が、髄に響く。  
「――さあ、始めよう。片岡、持ってきてくれ」  
「只今」 ユウの面影を持つ、豊日家に仕えて三十余年の使用人は。芳香たちには一時し  
か姿を見せず、立ち去った。  
 芳香の父――勇は、ちらりとだけ芳香へ視線を向け、直ぐに移した。麗をまっ  
すぐに見据える。  
「初めまして、と言った方がいいのかね? 鈴村麗さん」  
 その口元には、――微笑。  
 芳香は目を疑った。  
 父に、あの堅物の父が微笑を浮かべるなど、信じられなかった。  
 麗も負けていない。  
「――お久しぶりです」  
「最早、隠す気はない、か」  
 勇はほうと唸った。  
「三度目でいいのかね?」  
「四度目――いえ、今日で五度目です」 そうか、と勇は頷く。  
 
 ――いったい、二人は何を話しているの?  
 状況に対し、付いていけてない芳香は、呻くことすらできないでいる。  
 ただ、二人の間には、芳香と父の間にすらない、親しげな空気が流れているよ  
うに芳香には思えた。  
 
「――で、今日はなんの用事で来たのだ?」  
「お食事を、共に」  
 
 
   ※※※  
 
 
 父と娘とその友人での昼食は、とても華やかなものだった。  
 芳香は珍しくよく話し、食事中、箸を休めることはあっても、会話を途切れさ  
せることはなかった。――何かを畏れるように。  
 畏れ、  
 恐れ、  
 それが何処より来る物か、芳香にすら解らなかった。  
 ただ、怖い。  
 麗は芳香の言葉によく相槌を打ち、聞き、時には混ぜっ返して場を賑わせた。  
 勇は、微笑でそれを眺めた。  
 とても、とても――とても。  
 とても、穏やかな時間がすぎた。  
 終われば、瞬き一つで回想しえる時間にしか感じなかった。  
 だから――  
「言い遺すことはありますか?」  
 麗が脈絡なく、そう云った時、穏やかな時間が大切な物に思えた。  
 麗は微かな笑みすら浮かべてそういった。  
 勇は、首を横に振った。  
 それは諦めでも/呆れでも/妥協でも/悲観でも/許可でもない――拒否。  
「それは、君の方だ、鈴村の娘」  
「……貴方が助けを呼ぶより速く、終わる」  
「何を言って――」  
 芳香が耐えきれず、声をあげた。  
 それは、銃声によって、かき消された。  
 
 耳が痛くなる轟音。  
        ――が、重なる。  
 驚いて目を瞑った芳香が、再び目を開いた時、見たのは。  
「…………ぃ……いや……」  
 平然と立つ父の威様。  
 スーツとシャツが破れ、着込んでいた、防弾チョッキが破れた隙間から見えた。  
「悪いが、まだ死ねないのでな」  
「……ああ、そう」  
 麗は口端を釣り上げ、笑った。  
 その右肩は、赤く染まっていく。  
 麗の背後の壁が焦げ、穿たれていた。  
「じゃあさ、こういうのは?」  
 麗は笑っていた。声をあげず、笑っていた。  
 その左手に持った銃口が、呆然としたまま動けないでいる芳香に向く。  
「死んでよ、社長さん。じゃないとさ死なすから、お宅の娘さん」  
 ――意味が、分からなかった。  
 麗は笑う。  
「安心して、芳香。芳香の為なら、あんたのお父様は死んでくれるからさ」  
「…な……なにを…いってるの?」  
「そんなの後々」  
 麗の右肩から流れる血は、その量を増していく。銃口が小刻みに震えていた。  
「う、麗……怪我の手当しないと」  
 状況についていけず、混乱した芳香は、そうとしかいえなかった。  
「その必要はない、ここで、始末する」  
 勇は立ち上がり、麗へと歩み寄っていく。  
 麗は、足をひきずるように、後退する。  
 
「動くな。――動いたら死なすって言ってんだろッ!」  
「それができるなら、もうしているはずだ。違うかね」  
 勇は無造作に麗の足を撃った――靴が削れた。  
「――ッッ!」  
 麗の顔が歪む。銃弾は、靴を削っただけだ。  
 勇は更に一歩進む、銃口が麗の胸に向けられる。  
「死ぬ前に、手引きした者をいえ。あの学校の制服は、そうたやすく手に入らな  
いはずだ」  
「コスプレショップで売ってたよ。写真撮らせてやったら、半額で売ってくれた」  
「どうやって、あの学校のセキュリティを破った」  
「制服着てりゃ、疑う奴はいないから、簡単だったよ」  
「その銃は」  
「本体だけで十万――結構安いよね」  
「高いな。その銃なら、五万で手に入る」  
「ああ、クソ。五万も損した――ま、いいや」  
 背中に窓が触れた、バルコニーへと繋がる窓に。  
「それより、知ってる? 撃つタイミングをさ、逃したら、もう撃てないって」  
 鍵を予め開けておいた窓に背中を押しつけ開き、バルコニーへと出た。  
「待て」  
 麗はバルコニーの柵の上に登り――  
「待って、ここ、三か――」  
 芳香が悲鳴を上げる。  
 その直後には、麗の姿は消えていた。「片岡ッ!!!」  
 勇が叫ぶや、扉が開かれる。  
 部屋の前で待機していた使用人たちが流れこむ。  
「賊が逃げた、探し出して始末しろ」  
「ハッ」  
 それだけを言い遺して、使用人たちは散っていった。  
 芳香のよく知るその人たちは、手に手に銃やナイフを持っていた。  
 
 ――なぜ。  
 その想いしか浮かばない。  
 ――なんで、こんなことに。  
 芳香は、その理由を知っているだろう男を見た。  
 
 
   ※※※  
 
 
 彼にはもう一つの名がある。  
『疫病神』  
 芳香は聞かされていないし、父は教えないだろう、蔑称。  
 成り上がるために、仕方なく――と、父は言い訳しないだろう。――侵してき  
た犯罪の崖際で踏みとどまるような行為。  
 決して娘には伝えないであろう、回想するだけで吐き気が催される悪行。  
 ――その一つを、父は娘に打ち明けた。  
 成し上がる為に人を蹴落とした。  
 成し上がる度に人を蹴落とした。  
 彼の後ろには怨嵯/怨恨/厭悪/嫌悪/憎悪が渦巻き、敵愾心を産み、敵意す  
ら公然と抱かせた。  
 それら総てを――穿ち砕いた。  
 ……反感は妬みに、  
 敵意は虚勢に…………  
 
 鈴村清盛、その男もまた、勇に敵対した一人だった。  
 勇が婿入りした豊日家ですら及ばぬ、財力と政治力を持った家の跡取り。  
 生粋の絶対者。  
 麗の父。  
 豊日勇の贄となった者。  
 互いが互いを喰い合い、潰しあった結果。  
 立っていたのは、勇の方であった。  
 清盛は総ての財を奪われ、力を失い――自らの命を断った。  
 芳香が小学校にはいったばかりのことだ。  
 そのことを、芳香は知らなかった……。  
 知らなかったことは、罪だ。  
 芳香は考え続ける。  
 私はただの籠の中の鳥だ。  
 芳香は思い続ける。  
 自らの私利私欲のため、他者を犠牲にした父を憎んだ/憎悪した/敵意を抱い  
た………………しかし。  
 ならば、あの人の娘である私は。私には罪はないというのか?  
 麗の父を贄に、麗が復讐に走るほどの憎しみを贄に、様々な怨恨を贄にして創  
り出された檻の中。ただ何もしてこなかった私に、なんの罪もないというのか?  
「…………っ!?」  
 銃声。  
 自らの部屋に閉じこもった芳香のにまで、庭で続く銃声が届く。  
 銃声。銃声。銃声。銃声銃声銃声銃声銃声銃勢銃声銃声銃斉銃声銃声銃声銃声  
「――もうやめてっ」  
 芳香は声を荒げ、泣き叫いた。  
 初めてできた友人は、芳香を利用するため、近づいたにすぎない。芳香の父を  
殺す為、近づいたにすぎない。  
 だが、しかし。  
 父には殺されるだけの、麗には殺すだけの理由がある。  
 自らの父を殺された麗が、殺した男を憎むのも無理はない。  
 だが、芳香にとっても父は掛け替えのない存在。  
 殺されて良い――などとはいえない。  
 それに。  
 麗は芳香を利用した、それだけだ。  
 けれど、芳香には麗が憎めなかった。  
 
『私たち友達でしょ? ――芳香』  
 
 麗の言葉は、総て演技だったのかもしれない。  
 それでも、それでも、芳香には真実だ。麗と友達として過ごした時間、それは  
真実だ。  
 ――銃声。  
 芳香は涙を流した。  
 何もできなかった/麗に何もしてやれなかった/麗の抱く想いに気づけなかっ  
た/何もしようとしなかった/何も知ろうとしなかった。  
 芳香の大きな瞳から、どうしようもなく感情が溢れる。  
 感情としか言えぬ、強く激しく、総てを内包しながら純然とした1でしかない  
感情が、ただ溢れた。  
 ――小さな足音は、聞こえなかった。  
「あれっ? なんで泣いてるの、芳香さまっ!」  
 ユウ――。  
 
   ※※※  
 
 視界が涙でぼやけている。  
 そこにいるはずのユウが見えない、私はやっきになって目を擦る。  
 でも、擦っても擦っても、涙は途切れてくれない。  
「どうしたの――あっ、どっかケガしたの? たいへんだっ、バンソーコー貼ら  
ないと」  
 ユウの声はとても近くに聞こえるというのに、眼は定まってくれず、ユウが見  
えない。  
 それでも、私は  
「違うの、これは」  
 言い訳をしようとした。  
 ――なんの?  
 分からない。  
「芳香さま?」  
 ……いや、分かっている。分かっているのに、私は目を背けようとしただけだ。  
 何もしてこなかった自分から、  
 何をしようとすらしない自分から、  
 それでは駄目だ、駄目だと、私の奥底にある何かが叫んでいた。  
「違うの、これは……違うの」  
「……ちがう?」  
 それはとても小さく、悲しくなるほど弱い。  
 いくら、ユウ相手にお姉さんぶっても。所詮私なんて……  
「これは、痛いから泣いてるわけじゃ――」  
 冥い、名状し難き感情の触手が私を絡めとり、言葉が失せる。  
 痛いから、泣いているわけではない――ならばこの涙は、なに?  
 痛い。  
 とても痛い。  
 心が、痛い。  
「芳香さま」  
 声、さきほどよりも近く。  
「動かないでね」  
 更に、近く。  
「元気がでるおまじない、してあげるから、泣かないで芳香さま。ぼくまで、泣  
きたくなるから」  
 視界はグシャグシャに歪み、喉はしゃっくりを繰り返す。  
 だから、何をされたのか、一瞬理解できなかった。  
 羽毛のような軽やかさ、そのため、何をされたのか、一瞬分からなかった。  
 永遠とも言える長い時間が訪れた。  
 崩壊する私の中で、ただ私を抱懐してくれる優しい温もり、小さなユウ。  
 無限時間、そのひらめきのような刹那で。  
 私の心の奥底に蟠る、感情が激発する。  
 微かな触れ合いが解かれる。  
「元気でた?」  
 エヘヘと照れたように笑うユウの声が聞こえた。  
「……うん」  
 私はわずかに顎を傾けた。  
「よかった」  
「ユウは優しいのね」  
 ぽつりと口から言葉が漏れていた。  
 照れたようにユウが笑う、涙で滲んでいた視界が、開けてくる。  
 ユウが笑っている。  
 友達すら作れず。友達ができても相手の気持ちすら理解できない。  
 そんな私に、ユウは優しくしてくれる。  
 唇に、ユウの感触がまだ遺っていた。  
 
「もう一度……元気を分けて欲しいの」  
「いいよ」  
 再び触れ合う唇と唇。  
 ユウの小さな顔が、とても近い。  
 ときめきがない――と言えば嘘になる。  
 だけど、今は、こうしていると、気持ちが落ち着いた。  
 頭が、白く染まり、明瞭になる。  
 
 ユウがいる。  
 父は私を閉じこめて、何も知らさせない。まるで、私を孤独にさせたいかのよ  
うに――でも、ユウがいる。  
 麗は私を利用しただけだった、私には友達がいない――でも、ユウがいる。  
「わわっ!?」  
 知らず、その小さな体を抱きしめていた。けっして逃がさぬようにと、拘束す  
る、強く強く。  
 ――けして、逃さぬように。  
「く、くるしいよっ、芳香さまっ」  
「ごめん……」  
「謝らなくていいよ――って、なんで更につよ――………うきゅぅ…」  
「ユウ、ずっと側にいてね。……ずっと」  
「…………ふぇ?」  
 呟いた言葉が、現実になるというなら、何度でも呟く。  
「ユウ、私のこと、嫌わないで」  
 願えば叶うというのなら、何度でも願う。  
 ――だから。  
「ユウは、私のことを好きでいて」  
 心の奥底に眠る勇気に灯を点し、私は言う。  
「ユウのことが好きなの」  
 ユウは驚かず/わめかず/嘆かず。まるでそれが当然のことのように、私に微  
笑んでくれた。  
「なにいってるのさ」  
 幼い、ようやく十一歳になろうかという、あどけない声は、私よりも強い。  
 羽の柔らかさを持ち、鉄の堅さを持つ――羽金の心の持ち主は、私の背中へ手  
をまわし。  
「ぼくは芳香さまが好きだよ、ずっと好きだよ。だから、泣かないでよ」  
「……うん」  
 私は、まだ何もできない/できそうにもない/できそうにもない自分を赦して  
しまえるほどに甘い。  
 父のように、揺るがない強さはない。  
 麗のような、強い執着や目的もない。  
 ユウのように、誰かを包める優しさもない。  
 ――何もない。  
 
 いや。  
 ある。  
 一つだけ、一つだけある。  
 心の奥底に眠る勇気、小さな灯火。  
「芳香さま、苦しいからちょっと弛めて、芳香さま」  
「……さまは要らないから、お姉ちゃんて呼んでくれなくていいから、ユウ――  
ううん。悠希。私のことは、芳香って呼んで」  
 仕えるべき主/姉――そのどちらでもない、対等な存在として。  
「お願い、悠希」  
 ユウ/悠希は困ったように笑い、そして――  
 
「芳香」  
 恥ずかしそうに、呼んだ。  
 私にはまだ、ユウキがある。  
 ――今はただ、それだけで、満ちる。  
 
 
   ※※※  
 
 
 ――喜ばせる?  
 ユウは勢いよく身体を起こし、麗を見つめた。  
「あ、あのさっ、訊きたいことがあるんだっ!」  
「…………はぁ?」  
「芳香さまをよろこばせたいんだけどさ、どうしたらいいと思う」  
「……よく分かんないけど、そういうのは自分で考えた方がいいんじゃ――」  
「だめなんだっ」  
 ユウは突如として、声を荒げた。  
「ぼく、バカだから。芳香さまがよろこんでくれそうなこと、わかんないんだ。  
だから、いっしょに考えてよ。お願いだから」  
 まくし立てるユウに、麗は驚き――直ぐに感づく。  
「あんた、もしかして……」  
 少年は、顔を赤くして、俯いた。  
 麗はその様子を見て、軽やかに微笑んだ。  
「ならさ、元気がでるおまじない教えてあげようか?」  
「――えっ」  
「落ち込んだ芳香が、一発で元気になるおまじないをさ」  
 
 
 
  〜fin  
 
 
 
 

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