芳香の父は、祖父が遺した会社があったとはいえ、それはとても小さい物だっ
た。会社を現在の位置にまで興したのは、一重に芳香の父の実力であり、今は亡
き芳香の母の実家のおかげである。
故に、旧式然とした風潮をまだ色濃く遺す、財界では。芳香の父は、
『成り上がり者』
『玉の輿に乗った“幸運”な男』
どちらも真実であるから、芳香の父はゆったりとした笑みで受け止めるだろう。
ただ、彼にはもう一つの名がある。
『疫病神』
芳香は聞かされていないし、父は教えないだろう、蔑称。
成り上がるために、仕方なく――と、父は言い訳しないだろう。――侵してき
た犯罪の崖際で踏みとどまるような行為。
決して娘には伝えないであろう、回想するだけで吐き気が催される悪行。
それは、芳香の耳には入らずとも、芳香を苦しめる。
財界の子息が集まる私立校という檻の中に、芳香は噂という鎖と楔に囚われた、
ちっぽけな存在にすぎない。
昼食を終えた昼休み、芳香は図書室に居た。
お嬢様学校の時間割は、時代に反するように、ゆったりと作られていて。昼食
後、三十分程度の休憩を挟む。
その時間、芳香は毎日図書室に籠もっていた。
本棚に挟まれた一角が、彼女の小さな領地だ。
芳香は小学校高学年の頃から、こうして図書室に通い詰めている。その時既に
教室に彼女の場所はなかった。
幼い頃から、芳香は休み時間いつも一人だった。
誰も話しかけてこなかったし。話の輪に加わろうとしたら、その輪は直ぐに解
ける。芳香は、クラスメイトに話しかけて、談笑した後。そのクラスメイトが、
芳香に話しかけられたことを、嫌そうに友達へ話していたのを最後に。芳香側か
らクラスメイトへ話しかけることはなかった。
外から転入生が来て、たまに友達になれても、遅かれ早かれ離れていってしま
う。
この十七年間、芳香はあの幼い友人以外、友達を持ったことはなかった。
だから、最初、それは自分への言葉ではないと思った。
クスクスと笑う声が聞こえ、柳眉の間に皺が寄る。
声は続いた。
「豊日さん、無視しないでよ」
「――え?」
芳香は呼ばれてたのだと、ようやく気づいて顔をあげると、そこに一人の少女
が立っていた。
芳香と同じ制服に身を包んだ、どことなく立ち姿がスッと伸びやかな少女。
髪は長くなく、そうと云われなければ、美少年だと見間違えかねない容姿。そ
の両眼が帯びる、意志のような物に、芳香は押された。
その手には、一冊の本が握られていた。
芳香が戸惑っていると、少女はひらひらと本を振り。
「コレ、棚に戻したいんだけど。ちょっと退いてくれない?」
本の角で指したのは、ちょうど芳香が背にしていた本棚だった。
「――あ、ごめんなさい」
芳香が慌てて立ち上がると、少女は
「悪いね」
涼やかな声でいって、本を棚に戻し、その隣の本を掴んだ。そこが動物関係の
本が収まっている棚であることを、芳香は知っている。
「ありがと」
少女は立ち去ろうとし――立ち止まった。
「あのさ」
振り返って芳香に訊く。
「こんなところで読んでたら、目、悪くするよ」
両側を本棚で囲われたスペースを照らすのは、天井に固定された一本の蛍光灯、
その淡い光だけだった。
「あ、うん。……それは分かっています。でも、ここが好きなんです」
それは、どうしようもない現実から逃避した芳香の、たった一つのオアシスと
言える場所。
芳香は小さく情けない笑みをこぼした。
「ふぅん」
少女は唸ったっきり、何か思案している様子だった。
芳香はどぎまぎしながら、少女の反応を待った。
少女は何事か考えたあと、結論したらしく、頷くと。
「椅子は?」
ぶっきらぼうに芳香に訊いた。
芳香は慌て、
「ごめんなさい、持ってきます」
パイプ椅子を取りに走ろうとした、その腕を掴まれた。
声を小さくあげて、芳香は振り返る。
「いいよ、自分で取ってくるから」
苦笑しながら少女は言い。
「豊日さんの分も持ってきた方がいい?」
芳香はいつもここでは、絨毯の上に直で座っていた。芳香がそういうと、少女
は笑い。
「なら、私も」
と言って、腰を落とした。
芳香は僅かに逡巡したあと、少女から少し離れた位置に座った。
ちらっと見ると、少女は既に本を読み始めていた。
芳香は、中が見えていると言うべきか迷い。そのまま言えずに、昼休みが終わ
った。
その日は少女の名前が聞けずに終わった。
翌日も少女は現れ、
「熱心だね」
と笑った。
「――てことがあったの。……聞いてる? ユウ」
「聞いてるよー」
屋敷のバスルームで、芳香に頭を洗ってもらっているユウは、適当な返事を返
してよこした
芳香は弟のようなユウの反応に、少し不満を覚え。自然、シャンプーで髪を洗
う動きも激しさをます。
「いたたっ、痛いよっ」
「あら、ごめんなさい」
それにしても、と。芳香は小さな悩みを頭に浮かべたが、今日も明確な答えは
得られない――。
――あの少女は誰なんだろう?
少女は芳香の名前を知っていたが、芳香は少女の顔に覚えがなかった。
同じ制服を着ているのだから、同じ学校の人間だと考えて良い。けれど、それ
ならば。なぜ話しかけてきたのだろう?
他のみんなは、教科書を忘れた隣の席のクラスメイトでさえ、芳香には頼ろう
としないのだ。
それをあんなに自然に話しかけてくるとは――?
「いたっ、いっ――ッ!! ……けが、毛が抜けたよ。抜かな――イダッ!!?」
幼い悲鳴がバスルームをつんざいた。
***
名前が聞けないまま、一週間が過ぎた。
不思議と、あの少女とは図書室以外では遭わなかった。
タイミングは少なく。
芳香は訊こうとして、いつも訊けない。
少女は今日も芳香の小さな領地を訪れていた、珍しく、芳香の方が遅くなった。
「や、また来たね」
我が物顔で言う様は、しっくりきていて違和感はない。
芳香は曖昧に頷き、座ろうとして、やめた。
「……どうしたの?」
少女の狐のような瞳が、芳香を捕らえる。
芳香は、少し困ったような顔で。
「あの、」
「ん? なになに?」
「えぇと……今日は早いね」
またタイミングを逃した自分を呪いたくなりながら、芳香は絨毯に腰を下ろし
た。あまり人が踏み込んで来ない領地の芝は、ふかっとまだ起毛していて、座る
には気持ちいい。
少女は乾燥した笑いを浮かべ。
「……実をいえば、さぼった」
芳香は、少女の言葉の意味が理解できなかった。それに気づいて、少女が補足
する。
「授業を受けなかったってこと」
あっさりと独白された内容に、芳香は自らの耳を疑った。
まるで異世界の言語を聞いたかのように、芳香は動きを止め、頭の中で少女の
言葉を理解しようとするが。根が真面目すぎる芳香には、何度考えても分からな
かった。
芳香は首を素早く巡らせ、本棚以外に誰も見ていないことを確認してから。
「なんで、そんなことをしたの?」
極小さな声でそう訊いた。
少女は掠れた笑いをこぼした。
「別にいいじゃない、みんなしてるんだしさ」
芳香の胸に“みんな”という言葉が突き刺さったが、少女は気づかず。
「それに、授業受けてるのってヒマじゃない。ねぇ?」
「……そうかな」
芳香は曖昧な顔をした。
「そうだって」
少女はまるで、芳香がユウに手をやかされた時のような表
情で微笑し。芳香の手を掴んだ。少女の手は、優しく、暖かだった。
芳香は驚き/困惑/不安が入り混じり、その上から、嬉しさの香辛料をかけた
ような複雑な表情を浮かべ。少女をみた。
少女は変わらぬ笑みの中に、親しみをたっぷりと、隠そうともせず。
「私たち、友達じゃない」
それが当然のように言った。
芳香は顔を更に複雑にして、まるで砂糖菓子のように脆くなった感情を、抑え
きれないように。唇が震えた。
「…………え?」
短いたった一呼吸を吐くだけのために、長い時間を必要とした。
少女は、“聞こえなかったフリ”をした芳香のために、繰り返した。
「私たち友達でしょ? ――芳香」
――湿った砂糖菓子は、どうしようもなく、た易く。
少女は笑った。
「なんで泣くのさ」
――それが私と彼女が友達になった瞬間だ。