自由とは何か?
誰かからそんな質問をされたとしたら、神宮隼人はこう答えるであろう。
たまの休みの日、昼過ぎまで惰眠を貪る人間が居ても良い。
自由とは、そう言う事だ――と。
「で……そんな俺のささやかな幸せの時を奪おうとしてるのは、一体どこのどいつだ?」
ノックの音と、ドアの向こうで彼の名を呼ぶ声。
執拗に繰り返されるそれらに、耐え切れず隼人は目を醒ました。
『神宮隼人、いるのでしょう? いつまでも眠っていないでここを開けなさい、神宮隼人!!』
「あいつか……今から着替える。ちょっと待ってろ!」
まるで頭痛を堪えるかのようにこめかみを揉み解しながら隼人は寝巻きを着替え、玄関へと向かった。
『神宮隼人! いつまでぐずぐずしているのです?』
「はいはい、今開けるよ――っと!」
執拗に繰り返されるノックに対する恨みの意味も込め、やや乱暴にドアを開ける。
瞬間、ドアが何か柔らかい物にぶつかった音と、そして小さな呻き声の様なものが洩れた。
「やば――平気か?」
ちょっと反省しながら、ドアの向こうにいる人物に声をかける。と、そこに居たのは――
「いえ、問題ありません」
ノックのし過ぎで赤くなった手で、ぶつかって赤くなった鼻を押さえながら気丈にそう言うメイド服の長身の女性と、
「まったく、いつまで私を待たせるつもりですの?」
細身に似合わぬ豊かな胸を強調するかの様に腕を組み、隼人を見下ろすようにして見上げる金髪の小柄なお嬢様。
「相変わらず、君は色々な意味で非常識だな。ソレーナ=アレクセーエヴナ=シュルツカヤ」
「あら、私のどこか非常識ですの?」
まるでわかっていない表情で、お嬢様――ソレーナが隼人に尋ねる。
どうやら彼女にとって、朝っぱらから大声で叫んだり、手が痛くなるほどにノックをメイドにやらせる、というのは常識であるらしい。
「君も大変だな、ヒルデガルト」
「いいえ隼人様、御心配なく。これもメイドの務めです」
こちらもまるで気にしていない様子のメイドの言葉に、隼人は無言で肩を竦めた。
「――で、今日は一体何の用だ、ソレーナ=アレクセーエヴナ。まさか用も無しに、折角の人の休日を邪魔しに来たんじゃないだろうな?」
「あら、婚約者に逢いに来る、と言うのはそれだけで立派な用事だと思いますけど?」
ソレーナの口にした婚約者、と言う言葉に隼人の片眉がぴくりと動く。
だが隼人が反論の言葉を口にするより早く、ソレーナは言葉を続け、
「冗談ですわ。用ならちゃんとありますの。今日は日曜日。しかも、絵に描いた様な素晴らしい快晴。
――と言うわけで、神宮隼人。これから私をどこか楽しいところへ連れて行きなさい!」
「寝言は寝て言え。じゃあな」
即座に言い捨て、ドアを閉じようとする隼人。だがドアが閉まりきるより早く、その隙間に足が挟まれる。
「ヒルデ、ナイスですわ♪」
忠義なメイドが自らの足を以って、ドアが閉まるのを防いだのだ。
はっきり言って、隼人から見ても物凄い痛そうだった。
「……君も本当に大変だな。ヒルデガルト=シュミット」
「いえ、私はお嬢様に仕えるメイドですから」
隼人は観念する事にした。
これ以上問答を続ければ、自分やソレーナはともかく、この忠義なメイドが色々と大変だ。
「はいはい俺の負けだ、ソレーナ=アレクセーエヴナ。
君の強引さと君のメイドの忠誠心には本当に頭が下がる。それで、一体どこに行きたいんだ?」
隼人の問いに、ソレーナはつんと澄ました表情で、
「さあ? それは貴方が決める事ですわ、神宮隼人。どうぞ、私が喜びそうな場所へと連れて行って下さい」
そんなソレーナの言葉に、思わず隼人は天を仰ぎ、しかし一度首を振ると、
「お前な――いや、わかった。部屋の中に俺の予備のジャンパーがある。とりあえず、それを着て待ってろ。俺は単車を出してくる」
「ジャンパー?」
「単車に乗るなら、君のその格好は寒すぎる。それに、単車の排気を浴びたら、君の自慢の長い金髪があっという間に傷むぞ」
「――わかりましたわ」
隼人と入れ代わりにソレーナが隼人の部屋へと入っていく。だが彼女のメイド、ヒルデは何故か主人の後を追いかけない。
「どうした?」
「隼人様、一体どちらにお出かけするつもりで?」
「ちょっと行った所の水族館で今、北極海の生き物展をやってるんだ。あれなら、お嬢様のお眼鏡にもかなうだろうさ」
その言葉を聞いた瞬間、ヒルデがふっと微笑を浮かべる。
「ふふ。やはり、隼人様はお嬢様の事を大事に思っていらっしゃるのですね」
「何故そうなる」
憮然とした隼人の言葉に、しかしヒルデは一層笑みを濃くし、
「だって、お嬢様が今日こちらに来る前から、わざわざお嬢様が好きそうなイベントについて、下調べなさっていたのでしょう?」
「別に。最近、俺が北極海の魚介類の生態に興味を持っただけだ。――クリオネとか」
「はい。それでは、そう言う事にしておきましょう」
「……勝手にしてくれ」
憮然とした表情のままその横を通り過ぎ、しかし隼人は彼女の方へ振り返り、
「――ところで、君は付いて来ないのか?」
「デートなのでしょう? なら、私の出る幕はございませんよ。
お嬢様の事――よろしくお願いいたします」
「……あいよ」
一礼するメイドに、隼人は歩き出しながら手を振って応えた。
# # #
「何と言うか……シュールな光景だな」
「あ、貴方がそうしろと言ったのでしょうっ!」
隼人が裏の車庫からアパートの入り口に単車を転がして来たのとほぼ同時、ソレーナの方もジャンパーを着てその場にやって来ていた。
長く多いその金色の髪を、どうにかこうにかして服の背中に押し込んでいるせいで、その姿は酷く滑稽だ。
元々は隼人のジャンパーである為、サイズはかなり大きめのはずなのだが……
背中に髪の毛を詰めている上、彼女の豊かな胸の所為で、微妙に膨らんで見える。
袖のあたりはかなり余っているあたりがまた萌えポイントだ。
とは言え、彼女の様な長い髪の持ち主が単車に乗る際は、そうでもしないと髪の毛が排ガスで傷むし、何よりタイヤに巻き込んだりして危険である。
「安全の為だ。我慢しろ、ソレーナ=アレクセーエヴナ」
「ええ、わかっていますっ」
まるでハムスターの様に頬を膨らませ、ソレーナがタンデムシートに腰掛ける。
ちなみに横座り。危険なので良い子は真似しちゃいけません。
「じゃあ、行って来ますわ、ヒルデ」
「はい、お嬢様。楽しんできてください」
「ヴィクターの運転するいつもの車も良いけど……こういうのも、悪くはありませんわね」
「何か言ったか?」
「いいえ、何でもっ!」
二人の乗る単車は既に高速に乗っていた。
隼人が単車の免許を取ったのは高校時代(学校側には無許可)であり、また彼は既に成人している為、高速での二人乗りも合法である。
慣れているのか、その運転に危なげなところは少しもない。
ソレーナは始めは恐くてたまらなかったが、体に感じる風と移り変わる景色、そして何より愛する人の背中を感じられる、と言うのはなかなか悪くないと思った。
「神宮隼人、もっと飛ばせませんの?」
「二人乗りで無茶をする気はないね。それに、俺は安全運転を重視する男なんだ。日本で二番目くらいに」
叫んでもなかなか会話ができないので、ヘルメットをぶつけるようにして囁き合う。
「ちなみに、一番は誰ですの、それ?」
「今度、DVDを貸そう。ソレーナ=アレクセーエヴナ。あれは名作だ。一度は見ておけ」
「……???」
と、高速道が今までの地上から、高架部分へと差し掛かる。
「風が強くなってきたな。ソレーナ=アレクセーエヴナ、もっとしっかり掴まっておけ。でないと飛ばされるぞ」
隼人にそう言われ、しかしこれ以上体を密着させる事に僅かな躊躇いを覚えるソレーナ。
「その……動きにくくありませんの?」
「君が風に煽られて体勢を崩した方が、俺にとってはより面倒だ。変な遠慮はするな」
「仕方ありませんわね。あくまで安全の為ですから、他意は無いですわよ? 勘違いしないで下さいね、神宮隼人」
言って、より体を密着させる。
安全のためのヘルメットが、今は真っ赤になった顔を隠してくれるのがありがたかった。
風を切る感触も、くっついた体の頼もしさも、どちらも彼と出逢うまでは知らなかったものだ。
以前の彼女は、本当に世間知らずのお嬢様だった。それが変わったのは、やはり、神宮隼人と出逢ってからだ。
口を開けばつい憎まれ口を叩いてしまうが――ある意味、彼女とずっと一緒のメイド、ヒルデガルトと同じくらい、あるいはそれ以上に――彼女は隼人を頼りにしていた。
「ねぇ、隼人。私は――」
「前から思ってたんだがな、ソレーナ=アレクセーエヴナ」
ほぼ同時に言葉が発され、慌ててソレーナは続く言葉を飲み込んだ。
まさか、彼も同じ思いだったのだろうか?
考えてみれば、婚約者同士になったとは言え、それは当事者抜きで親たちが決めたことだ。
彼自身の口から、はっきりとその事について感想を聞いた事は一度も無い。
それどころか朝のように、婚約の事を口に出すと、彼はいつも不機嫌そうな顔をする。
けれど、まさか本当は――
「貴方から話しなさい、神宮隼人」
先ほどとは別な意味で速くなる鼓動を抑えながら、ソレーナは言う。
不安を押し殺すように、彼に回した腕にぎゅっと力を入れながら。
促され、隼人は僅かに言葉を選びながら――
「君は、細いし背が低いくせに、胸はでかいよな。何喰ったらそうなるんだ? やっぱ遺伝――おい、危ないぞ
運転中に暴れ――こら、洒落にならんぞ、ソレーナ=アレクセーエヴナっ!?」
「煩い煩い煩いっ、何ですか貴方はっ! 人が真面目にときめいているときにもうっ! 信じられないっ!! 朴念仁!! 唐変木!!!」
「ソレーナ=アレクセーエヴナ。君はロシア人の癖に、やけに変わった日本語を知っているんだな――待て、本気でまずい。
ちょっと落ち着け、ソレーナ! このままじゃ本当に――」
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「肝心なところで素直になれない。本当にお二人とも、似た物同士ですね」
高速道路上空を飛ぶヘリの中で、そんな呟きを漏らすメイドさんの姿があったそうな。
どっとはらい。