○5  
 表通りから住宅街へ一本入り込んだその路地を、千晶はひとり駆け抜けていた。  
「確か、こっちの方から――」  
 せわしなく視線を巡らせて全周囲を警戒しながら、少女はひたすら町を行く。最初に飛び出したときに明たちを引き放す必要があったため、スタートダッシュで全身に汗がわっと噴き出てしまっていた。  
 その汗に濡れて肌へ貼り付き、ブラジャーをくっきり透かしてしまいそうになっているブラウスの布地を、何度も指でつまんで引き剥がす。足運びの度にブラジャーの束縛から飛び出そうと跳ねる乳房を気にしながら、千晶はなおも前進していく。  
 今、さっきまで自分を守ってくれていた仲間たちの人垣はない。背中を預けられる相棒の明もいない。  
 そして行く手に広がるのは、今一つ土地勘のない校区境界の街並みだ。千晶はさらにそこをも乗り越えて、東小の校区側へ、深く入り込んでしまっている。  
 乳房の存在を持て余したまま、ひとり敵地に入り込んでしまった千晶。しかし彼女には、そうしなければならない理由があった。  
 視線を感じたからだ。  
 その視線は小学六年生の幼い身体に、あまりにも見事に乳房を成熟させてしまった少女に対する好奇のものではない。そう直感していた。  
 今日から千晶がその胸の豊かすぎる実りを明らかにし、周囲の視線を一身に集めてしまっている。ゆえに千晶は今までと違って必然的に、そうした周囲からの自分の見られ方を意識せざるを得なくなっていた。  
 だから、彼女は改めて気づくことができたのだ。今までもずっと自分を観察し続けていた、その正体不明の視線の存在に。  
 それは思い返せば、まだ彼女が頑なに胸を縛り付けて隠していた、一年近く前からおぼろげに感じていた。当時は大して気にしてもいなかったが、世界に対して敏感になった今は違う。  
 あの視線は確かに自分を、自分だけを観察している。  
 あるがままに世界と向き合わなければならなくなった今だからこそ、自分は今こそその正体を突き止めなければならない。  
 そしてそれは明や他人の力を借りることなく、自分一人で成されなければならない。たとえ乳房を縛り付けることはやめたとしても、この程度のことで明たちを煩わせるわけにはいかないのだから。  
 そんな衝動が、千晶の心と五体を前へ走らせ続けていた。  
 ぱったりと人通りの絶えた昼下がりの街は、あたかも無人のようにすら見える。おぼろげな感覚だけを頼りに視線の主を手繰り寄せようと、千晶が曲がり角へと駆け入ったとき。  
「「あ」」  
 目の前に、敵がいた。  
 東小学校の男児――昨日の公園戦争をはじめとする今までの戦争で何度となく殴り倒してきた男子の顔が、千晶の目の前に出現していた。  
「たっ、谷川千晶! てめェ昨日はよくも、今日という今日こそ覚悟しやが、……れ……?」  
 咄嗟に身構えて戦闘態勢を取ろうとしたその少年は、しかし次の瞬間、言葉を失って硬直する。  
 目の前にいるのは見慣れた仇敵。町内最強を噂される西小学校の最凶女子、全力をもって倒すべき敵たる谷川千晶だ。  
 しかし彼女の胸には今、白いブラウスを大きく押し上げて存在を主張する二つの隆起があった。  
 汗に濡れた布地に包まれながら弾むその質感と量感、白い布地に透けて浮き上がる下着の輪郭が放つ圧倒的な存在感は、彼の理性と判断力を一瞬、ほぼ完全に停止させた。  
「ヤッ!!」  
「ブハッ!?」  
 そしてその一瞬に、千晶の拳が彼の顔面を吹き飛ばしていた。彼は自分の見た状況の意味をまったく理解することも出来ずに崩折れたが、彼が最初に上げた叫びは閑静な住宅街を突き抜けて、近くの仲間に届いていた。  
「ん? なんだなんだ?」  
「千晶――おい、いま谷川千晶って言ってたか!?」  
 時はあたかも放課後、そしてここは東小学校の校区内だ。街並みの静かさもあって遠くにまで声は響き、そして何人もの気配と足音がこちら目掛けて殺到してくるのを千晶は聞いた。  
「やば……っ!」  
 千晶はさっと青くなった。  
 東小勢との遭遇戦。確かに頭の片隅で想定していた事態ではあった。だが、こうも早く起こってしまうとは思っていなかった。  
 孤立無援で敵地に一人。しかも、このブラジャーでは胸の押さえにはあくまで無いよりマシという程度で、押し潰してきつく縛り付けていた昨日までのようには戦えないことは、今朝の体育倉庫で証明済みだ。  
 だが思考を逡巡させる千晶をよそに、最初に遭遇した男子は芋虫のように地面を転がって千晶から逃れ、次の叫びを発していた。  
 
「こっ、ここだー! 千晶がっ……谷川千晶のヤツがひとりでここにいるぞーっ!!」  
「黙っててっ!!」  
「ゲブッ!?」  
 千晶の蹴りにとどめを刺されて、その男子は轢かれた蛙のように道路へ潰れる。  
 そしてとうとう路地の向こうへ東小勢の先鋒が姿を現したとき、すでに千晶は脱兎と化していた。  
 退却、逃げの一手。もうそれしかない。西小の校区まで逃げ込んで、明たちとの合流を目指す。それしか考えられなかった。  
 だが千晶の背中を追う東小勢は、彼女の上を行く手を用意していた。  
「あれだ――おい剛、ケータイ!」  
「あいよっ!」  
 倒れた仲間と逃げる千晶の背中を見つけた瞬間、東小男子の一人がポケットから携帯電話を取り出した。慣れた動作で発信履歴から仲間の番号を選び出して掛ける。  
「おい大介? オレオレオレ。今どこいたのさ――吉井屋の裏? じゃあすぐ来いよ、いま雄太ん家の前の通り! 千晶のヤツ追っかけてるんだ、そう、今日言ってた各個撃破のチャンスってやつ! 戦争だからとにかく速攻で来いって!!」  
 何人かが携帯で連絡を取り合って仲間を呼び寄せる。そうしながら走るうち、最初に千晶と遭遇して倒された仲間を一人が助け起こした。  
「おい、大丈夫かっ!?」  
「きょ、……きょにゅ……」  
「は?」  
 定まらない視線で宙へ手を伸ばしたあと、仲間の胸ぐらをがっと掴み、そして目を見開いて大声で喚く。  
「ち、千晶が……谷川千晶が。巨乳に……巨乳になってやがったあああ!!」  
「お前は何を言っているんだ?」  
 意味不明の言動に眉を顰めながらも、とにかく彼を助け起こして、彼らは再び千晶追撃に復帰する。  
 最初はほんの三人だった追っ手はすぐに膨れ上がり、もう六人ぐらいになっている。  
「やっ、やだっ……」  
 疾走に息を切らせながら、千晶の唇から切なげな呟きが漏れた。身体の上下動の度に弾み回る乳房が上体のバランスを乱して、西小学校でトップクラスに位置する千晶の駿足を、大いに乱してしまっている。  
 背中の敵を振り切れない。それどころか、距離が詰まっているような気さえする。  
 千晶は左腕で左乳房の中心を押しつぶし、右の手のひらに右乳房をGカップ越しにぎゅっと掴んで、無理矢理揺れを抑え込んだ。しかし片腕が振れなくなってしまったことで、やはり十分な走力は発揮できなくなる。  
 それでも完全に追いつかれてしまう前に、西小の校区まで飛び込んでしまえばいいのだ。そこまで行けば誰か仲間がいるだろうし、地の利だってこちらにある。  
 そう希望を抱いていた千晶の前方に、その進路を塞ぐようにして新たな敵が出現した。  
「おう、いま到着する、いま曲がって通りに出るとこ――おおっ!?」  
 携帯で通話しながら曲がり角から飛び出してきた男子が、胸をかばいながら突っ走ってきた千晶の姿に目を見張る。三人。  
 千晶は素早く周囲の状況を確認する。  
 挟まれていた。背中からは六人の敵、前方には西小校区への進路に三人。  
 どうする? あくまで前方の三人を突破するのか――後ろからの六人が追いついてくる前に? この邪魔な胸を抱えたまま、たった一人で打ち破れるのか?  
 だがここまで追い詰められてもなお、やはり彼女は歴戦の強者・谷川千晶だった。  
 たとえ勝算はどうあれ、彼女は前方への突撃を敢行せんと思考を切り換えた。強い視線を正面目掛けて突き刺す。  
「くっ、来んのか、こっち来んのかっ!?」  
「バカ落ち着け、三人がかりだぞ! 谷川千晶、今日こそ三つに畳んでやらァ!」  
「ん……あれ? あいつ、何で胸なんか押さえてるんだ?」  
 正面の敵が三者三様に喚き散らしながら身構える。待ち受ける敵陣へ向かって弾丸のように突き刺さるべく、千晶はさらなる加速をかけようとした。  
「――千晶くん、こっち!」  
「えっ――?」  
 だがそのとき千晶は脇から、誰かが自分を呼ぶ声を聞いた。  
 
「こっち! 裏道があるの、早くっ」  
「え? 裏み――」  
 わずかに行き足を鈍らせ、流れる風景へ視線を走らせる。だが民家が連なるばかりの左右に、人の姿は見当たらない。  
「はやくッ!!」  
 決して大きくはないが、いっぱいの切実さをたたえた強い発声が千晶を呼んだ。  
 同時に目前の物陰から突き出された掌が、千晶を誘うように数度閃く。白くて小さな手だった。  
 覚悟を決めた。  
 バスケットシューズの靴底がきゅっと鳴る。民家の塀と塀とに挟まれた手狭な裏路地へ、千晶は鋭い急旋回で滑り込んだ。  
「あっ、なんだ!?」  
「逃げんのかよ千晶!」  
 白昼の道路から飛び込んだ裏路地は、別世界のように暗く湿っていた。その中を、闇に溶けこむような衣服の背中が逃げていく。  
「こっち、こっち! ついてきてっ。千晶くん、とにかく、早く!」  
「う、うんっ!」  
 一も二もなく、千晶はその背中を追った。すぐ後ろの路地の入り口に、追っ手の気配が迫ってくる。  
 裏路地は細く折れ曲がりながら続いており、見通しが利かない。  
 そんな中を、長い黒髪を跳ね回らせながら必死に走る、目の前の足取りは鈍い。だから重い乳房の激しい弾みに煩わされてはいても、なお俊足の部類にある千晶はすぐに追いついた。肩を並ばせる。  
 千晶はそのときはじめて、その子が自分のそれよりもさらに大きな胸の膨らみを上下に激しく弾ませていることに気づいた。  
 同時に、苦しげなその横顔が、見覚えのあるものであることも。  
「キミは――」  
「こ、ここっ!」  
 千晶が何か言おうとしたとき、その少女が息を切らせながら苦しげに言葉を吐いた。同時に世界が光に満ちる。  
 二人は民家の間を抜けて、護岸された川の手前へ飛び出していた。  
 だが、左右に道はない。  
「い、行き止まり……!?」  
「違うのっ。この向こうに――来て!」  
 激しい呼吸に全身をひどく喘がせながらも、少女はなおも先導者たらんとガードレールに足をかけた。  
「くぅ……っ!」  
 しかしリーチと体力の不足によるものか、うまく乗り越えられずに彼女はあえぐ。  
 だが、その意図は十分理解できずとも、咄嗟に横から先んじた千晶が彼女のその手を強く掴んだ。握りしめて、引く。  
「あっ――」  
 平衡感覚と運動神経に優れた千晶が、その身体ごと重心を動かす鮮やかな動きで少女の全身を一気に引っ張り上げた。  
 ガードレールの向こうのわずかな地積に足場を置いて、千晶はその全身ごと飛び込んでくる少女の身体を力強く抱き止めていた。  
 野暮ったく伸びた黒い長髪がふわりと広がり、いつも一緒に遊んでいる仲間の男子たちとは違う甘いにおいが鼻孔をくすぐる。前髪が風に吹き散らされて、雪のように白い顔から大粒の瞳が千晶を見上げた。  
 そして次の瞬間、千晶より少し背の低い彼女の顔は肩に、その乳房は千晶のそれの下半球へと突き刺さるように押し当てられる。  
「!?」  
 少女の乳房は最初、堅さを伴って千晶の乳房へ突き刺さった。  
 乳房を包むブラジャーのカップ自体が備える堅さがなぜか千晶のそれを上回り、そしてその内部に秘めた圧倒的な質量をもってそれぞれの尖端から、ブラジャーという殻を崩された千晶の胸へ食い込んだのだった。  
「ひ、あぁ……っ!」  
 乳房を乳房で、貫くように犯される。そんな予期せぬ突然の感触に、不覚にも千晶の唇から甘い喘ぎが漏れた。だが、それも一瞬のこと。  
 重力加速度を伴う体重によって十分な荷重が加えられると、その堅いカップの輪郭もあえなく崩れて、互いの重たくも柔らかな四つの肉塊が触れあい、巨乳同士が押し潰しあう感触が二人を満たした。  
「……っ!」  
 電気のように言葉にできない感覚に思わず身震いしながらも、千晶は力強く地面を踏みしめ、密着しかけた少女の身体を引き離した。  
 少女の瞳は一瞬どこか宙に泳いだようだったが、後方から響いてくる足音を聞くと、はっと我に返って千晶の手を掴んで引いた。  
 
 
○6  
「へっ、千晶のバカめ! この先は行き止まりだ!」  
「不慣れなアウェーで単独行動なんかしたのが運の尽きだぜ!」  
 挟撃の形になっていた前後の面子が合流し、東小男子の面々は十人近い大集団になって千晶の逃げ込んだ裏路地を走っていく。自動車一台通るのがやっとの狭い裏路地は彼らによって埋め尽くされ、蟻の這い出る隙間もない。  
「なあ。でもよー……」  
 念願の勝利と復讐へ向けて驀進していくかにも見える彼ら。だがその中の一人が、浮かない顔で疑問を口にした。  
「ひょっとしてこれ……待ち伏せか何かなんじゃね? 腑に落ちねえよ、あの千晶がのこのこ一人でウチらの校区うろついた挙げ句、ぜんぜん逃げ足も遅いなんてよー……」  
「あ――た、確かに。千晶ってあいつ、いつもはもっと、デタラメなくらい足早いよな?」  
「わ、罠か!?」  
 だが浮き足立つ仲間を、リーダー格の一人が叱責した。  
「うるせーよ! 待ち伏せ上等じゃねーか、俺らの庭で出来るもんならやってみろってんだ! それともお前ら、この人数で仕掛けてまた返り討ちに遭わされるつもりか!?」  
「そ、そういうわけじゃ……」  
「行けば分かる! 行けば分かるってんだよ!!」  
 言い合ううちに道を突っ切り、日向の光が前に開ける。ガードレールが行く手を塞ぎ、彼らは川にぶち当たった。  
「……あれ……?」  
 ガードレールから身を乗り出し、周囲に視線を巡らして、彼らは宿敵の姿を探す。  
 いない。  
 目の前には開けた川、左右には高い塀と民家。そのどこにも少女の気配は存在しない。  
 身軽な何人かが仲間の手を借りて塀の上にもよじ登ったが、その先にもやはり求める少女の姿はなかった。  
「……いねえぞー……?」  
「い、いないって……そんなわけあるか! そこまで離されてたわけじゃねえんだ、急にそこまで逃げられるわけが……ちゃんと探せ!」  
「おわっ!?」  
 塀に乗り上げて向こうを窺っていた少年が、尻を蹴り上げられて向こうへ落ちる。だがその瞬間、彼の悲鳴とともに何かが割れる音と、男の太いだみ声が響きわたった。  
「こらあああぁぁぁーーーっ!!」  
「ヒイッ!?」  
 塀の向こうで凄まじい足音が二組響き、悪童どもが身を竦ませる。落とされた少年が疾走しながら絶叫した。  
「にいっ、逃げろおおぉぉぉーーーっ!!」  
「待てやガキどもおおぉぉぉーーーっ!!」  
 その民家の門口から飛び出してきた少年を追って、主人らしい中年男が血相変えて突進してくる。屈強な禿頭のその手には、割れた鉢植えの哀れな破片。  
「ぎゃっ……ぎゃあああああーーー!!」  
 袋小路の過密な路地裏は、たちまち阿鼻叫喚の地獄と化す。  
「今日ちゅう今日こそは許さんぞぉ! お前ら全員夜まで正座じゃああああーーーっ!!」  
「たっ、助けてえええぇぇーーーっ!!」  
 怒れる男から逃れようと何人かは路地を逆走し、また何人かは川へ飛び降りて散り散りになりながら必死に走った。後ろを振り返る余裕も、仲間を思いやる余裕さえもない。  
 谷川千晶追撃部隊は壊滅した。  
 
○7  
 不意に闇の中へ光が射して、千晶は思わず目をすがめた。  
「ほら、ここ――ここが、出口だよ」  
 円筒の中で不自然に腰を曲げながら、二人は這うように低い姿勢で歩いていく。目の前の少女の声は、苦しげな熱い息づかいの中にもどこか喜色をにじませていた。  
 そして、世界が開ける。  
 暗くじめじめした、しかし同時に冷んやりとした空気が籠もった土管の中から、二人の少女は数分ぶりの脱出を果たした。  
 見上げれば目の前を覆う、萌え立つような草むらの緑が眩しい。草むし朽ちかけた左右のコンクリートから身を乗り上げて辺りを見渡せば、そこは堤防裏から川へと注ぐ排水溝のひとつだった。  
 そして背の高い草の間から千晶が顔を出して見渡しても、やはり周辺に敵の気配はない。どうやら無事に逃げきれたらしかった。  
「こんなところがあったんだ……。それにしてもキミ、よくこんなの知ってたね?」  
「い、いろいろあって……わたし最近、こういう抜け道みたいなところに詳しくなったの。でも、良かった。――おかげで、千晶くんの役に立てたから」  
 感嘆する千晶を前に、激しい運動のためだけでない紅潮を顔面全体へ昇らせながら少女は言った。その少女の顔をまじまじと見つめながら、千晶は探るように言葉をかけた。  
「えーと……その。キミ、前にもボクと会ったことがあるよね……?」  
 千晶の言葉に少女は一瞬かすかに寂しさの陰をよぎらせたが、すぐにそれを打ち消してゆっくりと頷く。  
「うん。去年の十月九日の放課後。クラスの男子にいじめられてたわたしを、千晶くんが助けてくれた」  
「ああ、――うん。そう……だったね」  
「あのときわたし、本当に嬉しかった。だからずっと、ずっと待ってたの。千晶くん――わたしがあなたの力になってあげられるときを」  
 乱れて額へ張り付いた前髪の間から瞳を熱で潤ませて、少女は千晶の手をそっと取りながら近づく。  
 熱い息づかいを肌に感じる距離から真っ直ぐに見つめられながら、千晶は穏やかに微笑んだ。  
「そうだったんだ。ありがとう。あのときのキミが、今度はボクを助けてくれたんだ」  
「あ――」  
 そんな千晶から思わず手を握り返されて、乱雑な前髪の奧で少女の頬が真っ赤に染まる。その劇的な反応も意に介さず、千晶は彼女に尋ねた。  
「んっと……、ボク、まだキミの名前も知らないんだ。改めて自己紹介するね。ボクは西小学校六年三組、谷川千晶。キミは?」  
「わ、わたしは……わたしは東小学校六年一組の、作倉歩美っ」  
 ふむ、と千晶は小さく頷き、ぎゅっと歩美の手を強く握った。  
「作倉さん……でいいかな? 助けてくれて本当にありがとう。いつか改めてお礼させてね」  
「え……?」  
「ごめん、さっきから友達を待たせてるんだ。だから、もう帰らなくちゃ。今日はありがとう!」  
 あっけなく、二人の掌が離れた。  
 
 千晶が軽やかに身を翻し、歩美に背中を向けてしまう。その俊足で、彼女の手の届かない場所へまた行ってしまう。  
 そんな。  
 だって、せっかく、やっと――  
「待っ――」  
 それじゃあ、と千晶が一言残して駆け出そうとしたとき、歩美は思わぬ行動に出ていた。  
 咄嗟に大きく一歩踏み出し、千晶の手を両手で強く掴む。しがみつくように腕を絡め、体当たりするようにして千晶の足を止めていた。  
「わっ、わあっ!? ど、どうしたの作倉さんっ?」  
「わっ、……わたし、わたしの――」  
「?」  
 自分でも想像できなかった動き。弾む巨乳を二つとも千晶の背中できつく押しつぶしながら、なけなしの勇気を爆発させて歩美は叫んだ。  
「――わたしの家、ここからすぐ近くなのっ! さっき追ってきた奴らも、あいつら凄くしつこいから、まだそこいらじゅうで千晶くんを探し続けてるはずだし、それに。それに……」  
「それに……?」  
 すがるようにしがみついてきたまま、必死に見上げてくる歩美に戸惑う千晶に、歩美は強い思いをぶつけた。  
「それに……わたし、千晶くんとお話したいの! す、少しだけでもいいからっ、いっしょに……わたしは千晶くんと、いっしょに遊びたいのっ!!」  
 胸に秘めていた想いのすべてを吐き出して、その強烈な反動に歩美は喘いだ。曝け出したことで急に羞恥と、そして恐怖の感情がぐっと強くなって渦を巻き、思考の全てを支配する。  
 千晶の腕にしがみついたまま、何も言えず、何も考えられない石ころのような状態になって、歩美は熱のかたまりになりながら凍りついていた。  
「……そうだね」  
 ぎゅっと目を閉じて抱きついたまま、ひたすら何かを耐えるようにしていた歩美が、その言葉にびくりと肩を震わせる。  
 怯える瞳で千晶を見上げた。その答えを待つ数秒にも満たない時間が、歩美にはまるで永遠のようにさえ感じられた。  
「確かに、あいつらって変にしつこいところがあるし。下手にうろついて、また見つかっても癪だから……せっかくだし。じゃあちょっとだけ、寄らせてもらおうかな?」  
「…………」  
 歩美は呆けたように、無言のままでその千晶からの返答を受けた。  
 だがその内容を理解した瞬間、歩美は目の奧にかっ、と、今までとは違う熱の炎が燃え上がるのがわかった。  
「うっ、……うん! き、来て……なんにもないけど、寄っていって!」  
 大げさなほどに激しく首を上下に振って、歩美はようやく千晶から離れる。未だ自分を取り巻く状況を信じることが出来ないまま、家路の方へ足を向けた。  
 千晶の手を繋ぎ直し、跳ねる心臓を抱えながら、歩美はゆっくりと歩き出す。千晶は後で皆に謝らないといけないなと思いながらも、一方ではこの新たな出会いを素直に喜んでいた。  
 脳裏を真っ白に灼き尽くされた歩美と、この新しい友人の家へ胸を弾ませる千晶。  
 そんな二人が、このとき自分たちを凝視する視線の存在に気づかなかったとしても、決してそれは責められることではなかっただろう。  
「あれ、……一組の作倉歩美と、西小の谷川千晶……? こんなところで、あいつらいったい何してるんだ?」  
 自転車に跨りながら携帯電話を手にした、東小学校の小柄な男子。  
 彼の携帯にも何度も着信があったが、家にいたために出るのが遅れた。ようやく仲間からの呼び出しに応じたときには、相手はすっかり興奮しきっており、かろうじて大急ぎで示された集合場所へ前進しなければならない、ということが分かっただけだった。  
 だから彼は、自分たちが召集をかけられた理由も知らない。その用件だけを乱暴に伝えた通話の途中で、唐突に何人もの怒号と悲鳴が入り交じり、それきり電話もつながらなくなってしまったからだ。  
 昨日の公園戦争でも東小勢最大の敗因となった宿敵・谷川千晶が、西小学校でも浮いた存在である同級生の作倉歩美と行動をともにしているということ。  
 その異様な組み合わせに違和感を覚えながらも、彼はひとまず自転車を立ち漕いで集合地点を目指した。  
 

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