○8
「あ、……上がって……」
「お邪魔しまーす!」
おずおずと案内する歩美に続いて、千晶の元気良い挨拶が作倉家の中に響きわたった。
作倉家は閑静な住宅街の中にたたずむ、谷川家や八坂家とそう大差ない一戸建てだった。
自宅の玄関口でスリッパに履き替えながら、歩美は来客用の上品なスリッパを靴箱から出し、膝を突いてそっと千晶に差し出す。千晶は頷きながら脱いだ靴を揃え、きょろきょろと家の中を見渡した。
やはり内装の印象も千晶や明の家と大差ない、清潔な中流風である。しかしその屋内には今、人の気配はまったく感じられなかった。
その千晶の疑問に先んじるように、歩美が口を開く。
「家族はいま、誰もいないの。お父さんもお母さんも仕事だし、今日はお兄ちゃんも大学だから」
「お兄さん?」
歩美の何気ない説明に、しかし千晶は耳をひくつかせて勢いよく食いついた。すかさず目を輝かせて歓声をあげる。
「作倉さん、お兄さんいるんだ? いいなーっ!」
「……そ、そんなにいいものじゃないよう……カッコ良くもないし、ぐーたらだし、いろいろ変なこと手伝わせられるし……」
「どうして? 羨しいよっ。ボクは一人っ子だったから、家族に男の兄弟がいたらきっと毎日もっと楽しかっただろうなあ、って思うもん」
「千晶くん……」
「でもボクの場合は、近所に友達がいたからいいんだけどね」
本当に楽しげに、無邪気そのものの笑顔を向けてくる千晶に一瞬、歩美は声も失ってじっと見惚れた。
その千晶が急にはっとする。
「あ、前――」
「え?」
そうして千晶に視線を奪われながら進んだその一歩で、彼女は上がり口の角に頭をぶつけた。前髪の裏、頭の中に火花が飛び散る。同時に大きく突き出した胸もぶつかって、その肉のクッションで弾き飛ばされるように後ろへよろめいた。
「あううっ……!」
「だ、大丈夫?」
「あ、へ、……平気っ。私は、平気だからっ!」
「そう……?」
慌てて咄嗟に言いつくろいながら、心配そうに駆け寄って覗きこんでくる千晶から視線を振り払い、歩美は恥じらいに頬を赤らめて大股歩きで廊下を進んでいく。やがて引き戸を開いて、その前で立ち止まった。
「こ、ここ。何にもないけど……座って、ゆっくりしてね」
「うん!」
千晶が通されたのは、ダイニングと一繋がりのリビングになっているらしい一室だった。歩美はテレビの前のテーブル周りに大きなクッションを二つ引き出し、リモコンで冷房を操作しながら、額の汗を腕で拭う千晶に微笑みかけた。
「いっぱい汗かいちゃったね……。んと、今タオルと何か飲むもの持ってくるね。待ってて!」
「そんなに気を使わないでね。飲み物は水でいいよ――あっ」
パタパタと走り去る歩美を見送ったと思った次の瞬間には、汗で滑ったのかなんなのか、視界の向こうで派手に転倒する音が聞こえた。
とはいえすぐに起き上がったらしく、またパタパタと足音を響かせはじめたので追いはしなかったが。千晶は苦笑しながら、クッションに軽く背中を預けようとした。
しかし千晶はその途中で、思い切り汗かいちゃってるから、べったりできないなと思いとどまる。それで背中をつけずに座り込むだけに止めたが、それでもここに来て、今まで溜まった疲れがどっと噴き出してくるのを千晶は感じていた。
昨日の今日だもんな……東小と公園で戦争して、明と二人でシバケンの兄貴をやっつけて、夕立に降られたと思ったら、明にお風呂で裸を見られちゃって……いろいろあって。その後はお父さんにも今までのことをぜんぶ話して、百貨店ではじめてブラジャーを買って。
それで今日は朝から委員長と悶着起こして、体育倉庫で喧嘩して、クラスのみんなに事情を説明した挙げ句、放課後になったらこれだもん。すごい密度だ。
元気と活力には人一倍の自信があるさすがの自分も、いささか疲労が溜まりきっていることを自覚して、千晶はまず張りつめた脚を伸ばすと、片脚ずつのマッサージを開始した。
しなやかに筋肉のついた脚を両手で強弱をつけながら揉みほぐすうち、盆に二人分のジュースとデザート、それに二枚のタオルを載せた歩美が戻ってきた。
「ごめんね千晶くん。急だったから、何にも用意できないけど……」
「そんなに気を使ってくれなくていいのに」
千晶は苦笑しながらも、ひんやりとグラスにいっぱいの水滴をまとったオレンジジュースより、まずはタオルを手に取った。
すでに逃避行の熱は冷めはじめ、部屋にも冷房が効きつつある。何より先にこの全身へ噴き出した汗を拭かなければ、ひどい風邪を引いてしまうだろう。
「んっと……じゃあ作倉さん、ここでボクの体、拭かせてもらっていいかな?」
「う、うん。どうぞ、使って!」
歩美の許可を取ると千晶は彼女に背を向け、いよいよブラウスのボタンを外しはじめた。
白い布地はたっぷりと汗を吸って肌に貼り付き、今や千晶が身につけているGカップのブラジャーと、それが包みこむ自己主張の激しい身体の曲線をくっきりと浮かび上がらせてしまっている。
ボタンを外し終えて上体の肌から濡れそぼったその布地を引き剥がすと、それだけで不快感が大きく減じられて、千晶は深く息を吐いた。
さらにハーフパンツに手を掛けて引き下ろしながら脚を引き抜くと、千晶は大人向けの白いフルカップブラジャーと水縞模様のショーツというアンバランスな下着姿になって、テーブル上のタオルを後ろ手に取った。
そして作倉歩美は自らも厚手の野暮な上着を脱ぎながら、そんな千晶の後ろ姿に見惚れていた。ほう、と感に堪えずに息をつく。
同じ性別、同じ学年。そして自分と同じように、望むと望まざるとに関わらず、女の脂肪をその一カ所にたっぷりと蓄えてしまった、早熟しすぎた二つの乳房に悩まされているはずなのに、こうして見る千晶の裸身は歩美のそれとは大きく趣を違えるものだった。
日々の激しい外遊びのなかで自然に鍛えられ、幼い細さを残しながらもよく引き締まった四肢には、贅肉の甘みはひどく乏しい。せいぜい腰に多少のまろみを感じさせる程度である。
しかし、そんな中性的な趣すらある四肢とは裏腹に、その胸には透き通りそうなほどの汗に濡れたブラジャーに包まれながら、重たげな小学生離れした二つの巨乳が確かに息づいているのだった。
(千晶くんの身体、すごくきれい……やっぱり素敵……私なんかとは全然違う……本当に、かっこいいな……)
互いにほんの数歩の距離で背中合わせに、自分もベージュの下着姿の半裸を晒しながら、歩美は何度となく背中越しにちらちらと千晶の様子を窺っていた。
しかし歩美はやがてそこから、器用に背中を拭こうとしていたはずの千晶の姿が不意に消え去ったことに気づいた。
いない。
「えっ、――ひゃうっ!?」
どこへ――混乱した歩美は次の瞬間、突然の感覚にその全身を凍結させた。
「すごーい……作倉さんの胸ってボクのより、もっとおっきいんだ……」
「ちっ……千晶、くっ……!?」
何を、と咄嗟に言おうとしたが、最初に振り向いていたのと逆側の頬に彼女の息吹を感じて、歩美は耳まで赤くなりながら、ただその場に立ちすくむしかなくなっていた。
作倉歩美の胸から大きく前へ、上へと張り出し、ベージュの巨大なブラジャーをその内側からみっちりと満たしながらも、さらに窮屈そうにしている爆乳を左右のその頂から、千晶は両手いっぱいに包みこもうとしていた。
千晶は両手の五指を大きく広げて、ブラジャーのカップへ浅く食い込ませている。しかし千晶が手にしているのは歩美の乳房全体ではなく、あくまでその尖端付近の一部に過ぎない。だからといって、つまんだりしているわけでもなかった。
理由はごく単純に、歩美の乳房があまりに大きすぎるからだった。まだ幼い千晶の掌では、その全容を包み込むためにはまったく手の大きさが足りていないのだ。
だが仮にこれが千晶でなく一般的な成年男性であったとしても、結果は大して変わらなかったかもしれない。それほどまでに、歩美の乳房は大きかった。
「すごい、こんなに……作倉さんのオッパイって、こんなに大きかったんだ……」
「ちっ、千晶くっ、だめ……あああっ!」
歩美の肩へ顎を乗せるようにして覗き込みながら、千晶はその両掌でブラジャーの中に、歩美の爆乳を思うがままに変形させていってしまう。
歩美はか弱い抗議の声を上げようとしたが、背後から覆い被さられるように迫られ、カップ越しとはいえ千晶に両の掌で探るように乳房をまさぐられてしまうと、切なげな甘い悲鳴を上げながらわずかに身をよじるだけで精いっぱいだった。
しかし欲情からではなく、純粋で無邪気な興味から歩美という同い年の少女の乳房を捏ねまわす千晶は、それがひどく性的な責めと愛撫になってしまっていることに気づいていない。
だが途中で何かに気づいて、千晶は自覚のない攻撃を止め、その瞳を瞬かせる。
「ん? これって……?」
歩美の乳房を包み込んで支えるブラジャーの、そのカップの裾野に上から指を差し入れる。たっぷりとした歩美の乳房を支えてぴんと十分に張った布地を、少しだけめくり上げた。
「二枚重ね?」
目を丸くして千晶は呟く。前髪に隠れがちな表情を困惑と羞恥、そして喜悦でひどく混乱させながら、ようやく歩美が回答した。
「う、うん。わたしの胸、あんまり大きすぎるから……普通のブラ一着だけだと、すぐに揺れて痛くなっちゃうの。……だから、こうやって、二着重ねて……」
「あ、……そっ、そっかー! 一枚だけで揺れるなら、二枚重ねにすればよかったんだっ!!」
「あんっ……う!」
そのコロンブスの卵というべき発想に千晶は刮目し、外側の一枚目のブラジャーをめくっている右手と異なり、まだ歩美の乳房を包んだままの左手に思わず力を入れてしまう。
千晶が意図せぬその刺激に歩美は顔を逸らして喘いだが、すぐに圧力も弱まり、その手も離されてしまう。
「あっ――」
もう、終わりなの……?
乳房を責めたてた千晶の気まぐれな指遣いは、やはり気まぐれな唐突さで幕を閉じた。
歩美は思わず熱い喘ぎ声をあげそうになったが、なんとか理性を保つと、肩に顔を乗せる千晶へ問いかけた。
「だ、だからね……えっと。その、……わたしも千晶くんの胸……ちょっと、触ってもいい?」
「? うん。いいよ」
背中の千晶にあっさりと快諾されて、歩美はゆっくり向き直った。
今まで背中に推し当てられて潰れていた、自分のそれよりは幾分小振りだが、それでも十分すぎるだけの質量を備えた張りの強い乳房が、白いブラジャーに包まれながら形良く整えられたままプルンと揺れた。
「じゃ、じゃあ……わたしも、千晶くんの、胸に、……触る……ね……」
「ん」
声と指とを細かく震わせながら、歩美は広げた両手を笑顔の千晶の胸へ伸ばした。
楕円の半球のやや下側から、その誇らしげに膨らんだ左右の重量を支えるように、両掌でそっと包む。
歩美のそれよりは小さくても、なお彼女の掌には十分に余る千晶の乳房が、ブラジャーの中で歩美の手指に圧される。カップの構造が持つ最初の抵抗強度を歩美の握力に崩されると、千晶の巨乳はその内部から形を変えられていった。
その歩美の十指の侵入を感じて、千晶が眉をぴくんと跳ねさせる。
「んっ……」
(ああ、……これが、千晶くんの……)
汗を含んだブラジャーはその水分を通して、千晶のきめ細かなみずみずしい肌と、柔らかくも張りの強い、指を押し返してくる誇らしげな乳房の肉感を伝えてくる。
(わたし、触ってる……千晶くんのおっぱいを両手に包んで、揉んでるんだ……)
その全体を、容赦なくまさぐりたい。二つの丘の頂に埋もれているはずの赤い宝石を剥き出しにして、この指先で襲撃したいという衝動を抑えながら、歩美は千晶がそうしたように、カップの端っこを少しだけめくりあげた。
汗ばんでみっしりと水滴をまとった乳房の裾野から、封じられていた汗が体温の熱気を伴いながら沸き上がってくる。
これが、千晶くんのにおいなんだ……
「ん、作倉さん、……どう……?」
陶然たる想いに囚われ、目の前の夢のような情景の甘美さに浸りながらも、千晶の呼びかけと視線にすんでのところで押しとどめられ、歩美ははっと我に返った。
「あっ……ん、うん……。これだけ大きくて重たくなってるのなら、千晶くんも、二着重ね着にするといいと思うよ。それなら走ったりしても、今よりは暴れなくなると思うから」
「そっかー……やっぱり、いろいろ工夫しないと駄目なんだねー。これから暑くなって、洗濯するぶんも増えるから……もっといっぱいブラジャー買っておかないと駄目なのかなぁ」
うーん、とその乳房の前に両腕を組んで千晶が唸る。ものすごく居づらそうな顔の父親に連れていかれたデパートの女性用下着売場で見かけたブラジャーの値札を思い出す。
お小遣い、減らされちゃうかも……
千晶が嫌な想像に傾きかけて渋面を作った時、彼女はじっと自分を見つめる視線を感じて顔を上げた。
「ん……作倉さん、なに? どうかした?」
「え……? あっ、ああ!!」
前髪の奧から千晶を凝視していた歩美が、不意に呼びかけられて慌てふためく。千晶はそんな彼女の視線が自分の胸に集中していたことに気づいて、ああ、と苦笑した。
「あー……そっか。そういえば、作倉さんにはなんにも説明してなかったね。ボクの、この胸のこと」
「う、……うん。わたしも、今日千晶くんのことを見て……いきなり急に大きくなってて、すごくびっくりした。……どういうことなの?」
「去年ぐらいからボクの胸、急に膨らみはじめたんだ。どうすればいいのか分からなくて、今までは無理矢理押しつぶしたり、体の線が出にくい服を着たりして隠してたけど、結局こんなに大きくなっちゃったし、もう夏だし……
どう頑張っても、これ以上は隠しきれないって分かったから。だから今日から苦しい思いまでして無理に隠すのはやめて、自然に暮らすことにしたんだ」
「そうだったんだ……あ」
落ち着いた千晶の話に頷きながら、歩美は何かに気づいて声をあげた。
「じゃ、じゃあ。去年のあのとき、千晶くんが、わたしを助けてくれたのは、ひょっとして――」
「……うん。見かけたのは遠目からで、本当に偶然だったけど――胸のことでいじめられてたキミが、なんだか他人事とは思えなくて。だからボクはそんなことで人をいじめる奴らが許せなくて、それであいつらをやっつけたんだ」
それから表情を翻し、千晶は歯を見せて笑った。
「それにそもそもボクは、ああいう大勢で弱いものいじめする奴らが大っ嫌いだったからね」
「そうだったんだ……」
微笑みながら、歩美はその自らのひどく重たげな胸の膨らみを、下から支えるように両腕で抱いた。簡単に紅潮しきってしまいそうになる顔を逸らそうとするかのように呟いた。
「……ま、待ってて。またマンガとか持ってくるね」
「うん」
部屋の隅から汗で濡れたブラウスを掛けるハンガーを持ち出して渡し、歩美は二枚重ねたベージュのフルカップブラジャーと、同じくベージュのショーツという下着姿のままでひとり自室へ走った。
階段を上がってドアノブを回し、部屋へ飛び込むと内側から鍵まで掛けて、歩美は弾む心臓を無理矢理落ち着けようとするかのように、先ほどまでの逃走時よりも激しく息を荒げた。
「はあ、はあ、はああぁ……っ。ど、どうしよう……わたしの、こんなに……もう、こんなに大きくなってきちゃってるよう……」
その息づかいで大きく波打つように揺れる、歩美の胸に息づく二つの爆乳。
グレープフルーツはおろか、それこそゆうにメロンさえも包み込めるかに見えるそのブラジャーのカップが、今はそのレースの布地をきつく張りつめさせて、着用者自らと同様に悲鳴を上げていた。
歩美の胸の高鳴りも知らずに、突然後ろからの奇襲でぎゅうっと握りしめ、容赦なく揉みしだいてきた千晶の手指。その気まぐれな動きは、まるで彼女の意志を無視してこの肉体を蹂躙し――リョウジョク、しようとするかのようだった。
いま、カーテンを掛けられたままの、昼なお薄暗い歩美の子ども部屋。
親でさえそうそう立ち入りを許さないこの部屋には、いくつか秘密の箇所があった。
そのひとつ――ベッド下の引き出し。そこには歩美の兄の収集品からあるものはこっそり、またあるものは交渉の末に集めてきた、何冊かのマンガ本が入っている。といっても、いま歩美の本棚に堂々と立ち並んでいるような、普通の週刊誌や単行本の類ではない。
総じてぺらりと薄く、そのわりに表紙と内容に過激な性描写をちりばめられたそれらの本は、いわゆる十八禁同人誌と言われる代物だった。
その中で痴態を繰り広げるのは、いずれもその胸へ十分以上に大きな乳房を備えてしまった美少女たちだ。
出会ってすぐ、まだ千晶の本当の性別を知らなかった頃、ひとり自分を慰めるとき、歩美はそれらのヒロインを自分に、その相手を千晶になぞらえていた。
不埒な妄想を弄ぶ自分の汚らわしさを嫌いながらも、快感を覚えたばかりの幼い本能はそれに逆らいきれず、歩美は何度も自涜を重ねた。
そのときと同じことがいま、自分の身体に起こっている。他ならぬ千晶自身の手で火を付けられて、起こされてしまっている。
歩美はおもむろにシャツをたくし上げると、自らの乳房を包むブラジャーのカップの上縁に手を掛け、そのまま剥き下ろした。
ブラジャーの強固な圧迫から逃れ出ようとしたかのように、圧倒的な質量を備えた二つの爆乳が弾けるように転び出た。
「どうしよう……もう、こんなに大きくなっちゃってる……」
内から沸き上がる熱をその全体に帯び、堅く張りつめてツンと上を突き上げようとしている歩美の爆乳。
極度の興奮によって充血したその乳房はすっかり堅く張りつめて、普段は乳輪の中に埋もれているその尖端までもがぷっくりと顔を出そうとしていた。
「……あっ、あああっ……千晶くん……千晶くん、千晶くん、千晶くうんっ……」
千晶くんに抱かれたい。
何度も盗み見てきた兄のいやらしいマンガ本の中の美少女たちのように、千晶くんと身も心も無茶苦茶に乱れた挙げ句、熱く激しく結ばれたい。
そんな欲望も、一年前のあの日からいくらもしないうちに明らかになった千晶の本当の性別という事実で、一度は断たれたはずだった。
しかし、千晶が同じ女子であったという現実をもってしても、歩美の強い想いを断ち切るには至らず、かえってその情熱と欲望を別の方向へと進化させたのだ。
ブラジャーから剥き出しにした白い乳房を右手で交互に揉みしだき、ショーツから熱い液体が伝い落ちていくままに左手で陰核をいじり回す。
「千晶くん……千晶、くんっ……! あっ、あ、あああ……っ」
そうして何度めかの高ぶりに達したのち、歩美はうっすらと濡れ光る手をショーツの内側から目の前に引き出した。虚脱したようにのろのろとした動きでティッシュを引き抜きmその手を拭き取ると、彼女は素早く本棚のマンガを物色して部屋を閉ざし、再び階段を下りていった。
「千晶くん、マンガ持ってきたよ! ……どうしたの?」
「…………」
なおも冷めない熱を抱えながら、歩美が少年マンガを何冊も抱えて居間へ戻ると、千晶はリビングの片隅で目を丸くして、壁に架けられた何枚もの絵やポスターを見上げていた。
それらは東小学校での課題として出された、防犯や環境保護、それに動物愛護といったキャンペーン向けのポスター。それに図工の時間に描かせられたであろう、写生や人物画の類だった。
生き生きと活写された動物、燃え立つように鮮やかな生命感に溢れた自然の緑、整然としていながらも、今にもすべてが動き出すような臨場感に溢れた構図。
まさに小学生の域を超えた技術と感性の冴えで、それらはことごとく小学校や市の優秀賞に輝き、県や全国での受賞にまで達した作品も少なくなかった。
「す、すごいね……これ全部、作倉さんがひとりで描いたの……!?」
「え……? あ、ああ……うん。……いちおう……」
「むちゃくちゃ……無茶苦茶うまいよ! こんなに絵の上手い子、西小になんか一人もいない!」
表情を溢れる興味と感動に輝かせ、千晶はまっすぐに歩美を見つめてくる。自分だけに向けられるその熱い瞳に、歩美はそのまま自分が溶けだして、かたちのない熱いスライムになってしまうかのような感覚に襲われた。
しどろもどろになって応答もできなくなってしまっている歩美の、その腕に抱えられた少年マンガの単行本に千晶は注目した。
「んっと……あ。それ、リッターxリッター?」
「え、……う、うん」
「リッターxリッター! あれ面白いよね、ボクもすっごい好きなんだー!」
リッターxリッターは、週刊少年誌で連載中の冒険マンガである。偉大な騎士(リッター)であった行方不明の父の背中を追って、自らも騎士を目指す少年が騎士団の試験を受けて叙任され、仲間たちと駆け出し騎士として世界を冒険する物語だ。
ちなみに今はさる王国を乗っ取った異形の騎士王とその邪悪な騎士団を討ち果たすため、仲間の騎士たちとともに潜入してようやくバトルが始まったところなのだが、作者が異常に遅筆で休載が多く、連載は遅々として進んでいない。
それはともかく、いま小学生たちにかなり人気のマンガであることは間違いないのだった。
「そうだ。んっと、作倉さん……ゾン描ける? ゾン!」
「えっ……ゾン?」
ゾンはリッターxリッターの主人公の、小柄な少年騎士だった。
歩美が戸惑っている間に、千晶は部屋の隅から裏面の白いチラシとペンを目敏く見つけて持ってくる。期待に輝く瞳で、千晶は歩美を見つめていた。
「え、えーっと、……う、うん……描いてみるね」
「ホントにっ!? ありがとー!!」
大げさに見えるほどにはしゃぐ千晶を見ると、歩美もまた自分の胸が高鳴ってくるのを感じていた。リビングのテーブルに腰を下ろし、チラシの裏にペンを走らせはじめる。
それを脇から千晶が覗きこんではいたが、絵を描いている歩美は完全にその世界へ没入していて、それで集中力を紛らわされてしまうようなことはなかった。
そして、一気に描き上げる。
「うわああぁぁ……!」
耳元で響く千晶の声が、現実世界へ戻ってきた歩美の魂を揺さぶる。その反応が想像できず、歩美は怯える瞳で横目をやった。
「すごい……かっこいーーー!!」
スーパーのチラシを握りしめ、千晶は震える声でそれを見つめた。
「すごい。作倉さんって学校の絵だけじゃなくて、マンガもすごい上手に描けるんだ……!」
「そ、……そんなこと、ないよう……」
惜しみない千晶の賞賛に、恥じらいながら肩を竦める歩美。
しかし歩美の描いた少年騎士ゾンは、原作で描かれている特徴のポイントを的確に押さえながらも、歩美自身による独特のアレンジを加えられた見事なものだった。
「えっと、じゃあ、えっとね! 次はキリアと、あとそれから、ユプーお願い!」
「う、……うん!」
請われるままに、歩美はペンを走らせた。主人公ゾンの親友であるクールな少年騎士や、圧倒的な膂力を振るう異形の騎士三人衆の一人などを次々に描き出していく。
歩美の筆で生き生きと、目の前に蘇っていくリッターxリッターのキャラクターたち。
描き進めるうち、やがて二人はリビングの床にクッションを出して寝そべり、次々に描き上げていく歩美の筆致を千晶が熱心に観察していた。
楽しげに、そして熱心に覗きこみながら、不意に千晶が歩美に尋ねた。
「んっと、……作倉さんは、誰が好きなの?」
「へ?」
その質問を横から受けて、しかしすぐには言葉の中身が理解できなかった歩美は、次の瞬間に真っ赤になった。
「ちっ、ちちち千晶くん!? そ、それって、どういう――」
「ん?」
千晶は予想外の反応に目を丸くしたが、次の瞬間には、何事もなかったかのように真意を告げた。
「もちろん、リッターxリッターのキャラ! ボクはゾンがいちばん好きなんだ。主人公だし、仲間思いのいい奴だし、どんなピンチでも諦めないし!」
「あ、ああ……そっち、なんだ……」
あらぬ想像を働かせた自分を戒めながら、歩美が自分の意見をまとめようとしたとき、それに先んじて不満げに千晶が言った。
「けど、明の奴はキリアのほうが好きだって言うんだ。確かにキリアはボクもそんなに嫌いってわけじゃないけど、でもそんなにカッコいいかな?」
ぴくん、と。
その名を聞いた瞬間、歩美の筆が僅かにブレて、綴っていた輪郭に小さな歪みを作った。
「……、あ……」
「ん?」
「あの、……千晶、くん。……明くん、って、いうのは……」
「え? ああ」
千晶ではなく、まっすぐに向かった紙面だけを見つめながら、歩美は千晶に尋ねてきた。その表情は千晶からは死角になって見えない。
しかし千晶は屈託もなく、前置きも無しに会話に登場させてしまった人名を説明した。
「明はね、八坂明っていうんだ。ボクの一番の親友で相棒。家がすぐ近くで、保育園に入るより前からずっと一緒に遊んでたケンカ仲間の幼馴染みで、今も同じクラス。昨日東小と公園で戦争したときも、今日もさっきまでいっしょに公園下に新しくできたコンビニに居たんだ」
「……、そう」
また歩美の筆が、新たなキャラを一体描き上げる。しかし彼女はそこでいったん筆を止め、歩美は黙りこくったまま、隣に寝そべる千晶を見つめた。
「……ねえ。千晶くん……」
「ん?」
精気の輝きに満ちた無邪気な瞳が眩しい。歩美はその光に怯みながらも、それでも意を決して、千晶にそっと問いかけた。
「千晶くんは、……その、明くんのことが、……好き、なの?」
「え……?」
純粋に、質問の意味が理解できない。
千晶はそんな表情で、顔全体に困惑を貼り付けて戸惑ったが、しかし、次の瞬間には、どうにか答えを用意していた。
「あ、ああ……うん。好きか嫌いか、って言われたら、うん、まあ、好きだよ」
「――そういう、曖昧なことじゃなくて」
「え?」
胸の下に抱きかかえるクッションごと、身体の位置と向きを直して歩美は千晶に迫った。
千晶の方でもその正体は理解できずとも、歩美の瞳に宿る真剣さだけは感じ取って、口をつぐんだ。
部屋から音が消える。
壁掛け時計の秒針だけが時間を刻んでいく中で、千晶は得体の知れない気配に戸惑い、歩美はとうとう胸の内側から飛び出してしまったその思いを扱いきれず、どう手綱をつけるべきかを必死に探す。
だが、先に沈黙に耐えきれなくなったのは歩美の方だった。意を決して行動に出る。
ペンを離して千晶の手を手に取り、瞳の奧を覗きこむようにして歩美は尋ねた。
「ねえ、千晶くん。千晶くんはその、八坂明くんのことが、男の子として……恋人として、好きなの?」
「……え?」
鳩が豆鉄砲でも食らったような顔になって、千晶はそのまま黙って考え込んだ。
「こ、……コイビト……? う、うーん……なんだろう……ボクはそういうのって、よくわからないんだけど……」
――そもそも男女の仲とは、恋愛とは、いったい何なのだろう?
わからない。
生来そうしたもの全般に対して興味が薄く、また実生活でも漫画などのフィクションの分野においても、ほとんどそうした要素に触れることなく育ってきた千晶は、歩美からのその質問にひどく混乱する。
ましてやこの十年間、今までもずっと変わることなく続いてきた自分と明の関係に、そんな得体の知れない要素が持ち込まれることになるとは思わなかった。
だから千晶はひどく曖昧な思いのまま、その率直な胸のうちを言葉に曝した。
「んーと、……ボクと明は、たぶんコイビトとか、そういうのとは違うと思う。明はいちばん大事な友達だし、ボクがケンカするときも、ほかに何して遊ぶときも、明と一緒にいて、一緒にするのが一番楽しい。どんな秘密だって、いっしょに分かち合える」
「え……、え……? じゃ、じゃあ……千晶くんにとって、八坂くんって――」
しかし千晶が語る明の話は、歩美の抱える概念からは大きく中核を外して、四方八方へ乱れ飛んでいた。千晶が感じている明との友情は、彼女の理解を超えてしまっていた。
しかし同じく混乱しながら言葉を探す千晶も、何が自分の思いを一番的確に表しているかを探しだし、それを口にした。
「一番の友達だけど……でもボクにとっての明は、コイビトとかいう特別なものじゃないよ。……うん。だからボクと明は、コイビト、っていうんじゃないと思う」
「そ、……そ、そうなんだ……」
それでもその否定の言葉を聞いて、歩美はどうにか安堵する。笑顔と同時に、眦に薄く涙が浮かんだ。
良かった。
谷川千晶にとって最も身近な男子、八坂明。
彼こそは彼女に思いを寄せる歩美にとって最大の障害であり、いちばん近くで千晶の笑顔を独占する、憎き恋敵だと思っていた。
一度の会話を交わしたこともないのに、ずっと敵視してきたその少年が実は恋敵でもなんでもなかったと知って、歩美は全身にみなぎっていた敵意と緊張が急速に弛緩していくのを感じていた。
そんな歩美の内心を知ってか知らずか、千晶は何気ない調子でさらに続けた。
「うん。ほんとはね……ボクのこの胸のことも昨日、明に裸を見られちゃったのがきっかけなんだ」
「え?」
歩美は一瞬、自分が何を言われているのか、千晶が何を言っているのか、理解することができなかった。
そんな歩美の混乱をよそに、千晶はなおも話し続ける。
「昨日、東小とのケンカのあと、ひどい夕立に降られちゃって。急いで帰ったんだけど、家は鍵がかかってて入れなくなっちゃってたから、明の家でお風呂を貸してもらったの。そのとき明に、ずっと隠してきたボクの裸を見られちゃったんだ」
「みられちゃった、って……」
「いきなりのことだったから、ボクも明も、最初はすごく混乱したけど。でも、明は言ってくれた。もう苦しい思いしてまで、無理にこの胸を隠すことなんか無いって。明日学校で変なこと言ってくるような奴らがいたら、ボクと一緒にやっつけてくれる、って」
朗らかに千晶は微笑み、力強く拳を形作る。
「ボクの身体はちょっと変わっちゃったけど、明は今までと何にも変わらない。ボクの一番の友達なんだ」
「……そ、……」
「ん?」
しかしにわかに震えはじめた、歩美の瞳と口許に気づいて、千晶は小首を傾げる。
「そんなの……そんなのあるはず、ない」
「え?」
「男子が、……男子なんかがそんなこと言って、優しくしてくれたりするはずなんてない! あいつらって、あいつらって凄くスケベで、いやらしくて、いつも変な目でわたしのことを見てくるんだもん!」
「さ……作倉さん……?」
態度を急変させ、ひどく興奮しはじめた歩美に千晶は戸惑い、わずかに身を引く。しかし次の瞬間にはそんな彼女に対抗しようとするかのように、千晶も口を開いていた。
「明はそんなんじゃないよ! 確かに男子はオッパイが好きで変なのも大勢いるけど、明は違う。少なくともボクには違う! いつも一緒にコンビで息を合わせて戦うから、昨日だって明にはボクのオッパイも触らせてあげたけど、全然変な感じにならなかったもん!」
「さ、触らせて……って、……え、えええ……っ!?」
まったく予想外の爆弾を叩きつけられて、ただ呆然と歩美はうめいた。
『恋人ではない』と千晶自らが断言した、八坂明。しかし彼は風呂場で千晶の裸身を目撃し、あまつさえ男子の身でありながら、その乳房を触ることさえ許された、というのだ。
「そ、そんなの……そんなの嘘! わたしがこの胸のことでどんなにいじめられて、嫌な思いをさせられたときだって、男子は誰も助けてくれなかった!
ニヤニヤしながら無神経な目でジロジロ見てきて、いつもわたしはすごい嫌だった。男子ってそんな奴らばっかりだもん! その明も、きっと千晶くんの胸を変な目で見てるに決まってる!」
「なっ……」
嵐のような感情の爆発で突然に打ちつけられるが、千晶はそれに怯むよりも、はるかに強く反発した。
「どうしてっ! どうして作倉さん、そんなに明のことを悪く言うの!? 何にも知らないのに、一度も会ったことも喋ったこともないのに!」
「ち、千晶、くん……」
敵意に近い強烈な感情を叩き返されれて、今度は歩美が怯んだ。千晶の瞳は、歩美が憧れたその瞳は今もなお強い意志の光をたたえて、歩美の答えを待っている。
歩美はその力には逆らえず、しかし胸の中で今や強大な嵐となって渦を巻くその感情を抑えることもできなくなり、そして、最後にそれを口にした。
「わたし……わたし、千晶くんのことが、好き」
「えっ?」
「千晶くんのことが、わたしは一年前のあの日から、ずっと、ずうっと好きだったの。男子なんかじゃ駄目なの。女の子同士でもいいの。だから……だから千晶くん、お願い。わたしの、……わたしの恋人に、なってください」
「そ……それは……」
「明くんじゃなくて、お願い……千晶くん、わたしと……」
歩美が肘で大きく身体を寄せてくる。思い詰めた瞳で間近に見つめ合い、熱い吐息も互いの素肌に感じる距離で、二人は息を呑んでいた。
予想だにしなかった飛躍。
身を投げるような思いでその告白を口にした歩美を前に、千晶はひどく戸惑い、意志の力に満ちていた瞳も泳がせて、そして最後に、視線を落としながら小さく呟いた。
「ご、ごめん……。作倉さんの言ってること、やっぱりボクにはよく分かんないや……」
男女の仲も理解できず、またろくに親しい女子もいなかった千晶にとって、それはあまりにも理解に困難でありすぎる概念だった。
すでに内心では、薄々と予測できていたその答え。それを受けて歩美は完全に凍りつき、また千晶の方もどうすればいいか分からず、戸惑いながらただ黙り込んだ。
幼い二人だけのその空間を、再び長い空白が押しつぶしていく。
互いがそれに耐えきれなくなってしまう寸前になってようやく、歩美の震える声が、その沈黙を切断した。
「か、身体……冷えて、きちゃったね」
「え? ……ああ、うん」
確かに時計を見れば、作倉家に入ってからすでに一時間近くの時間が流れていた。絵描きに熱中するあまり二人ともすっかり時間を忘れていたが、冷房はすでに室内へ行き渡り、身体の熱もとうに冷めている。このまま下着姿の半裸で居続ければ風邪を引いてしまうかもしれない。
「……待ってて。いま、暖かい飲み物……紅茶か何か用意するから」
「……ん、うん」
歩美はすっくと立ち上がり、振り返りもせずに隣のダイニングへと姿を消す。それをどこか釈然としない表情の千晶が、寝そべったままで見送った。
盆の上から空になったグラスを流し台に置いて、かわりにティーカップとティーバッグを歩美は黙々と用意していく。
手が震えて、カップとカップが、カップと盆が乾いた音を立てた。
すぐに荒くなってしまいそうな息を、熱くなった目頭から零れ落ちそうな涙を、必死で抑えながら、歩美は紅茶を用意した。
負けた。
一年間、ずっと暖めてきた、何度も励まされてきたこの想いが、あんな子に……あんな男子なんかに、負けてしまった。
「……千晶くん。砂糖、入れたほうがいいかな?」
「あ、……う、うん。お願い!」
もう何もかも、終わりなのだろうか?
陰鬱な思いのまま、歩美は戸棚を開けて角砂糖を探す。そしてその途中で、それの存在に気づいた。
「これって――」
それは、白い小さな紙袋だった。市民病院の名前と連絡先が印刷されている。見覚えがあった。以前風邪を引いたときに服用した薬の残りだ。
薬らしくない奇妙な甘さと、服用後すぐに眠くなってしまったその即効性を歩美は思い出す。そして思い出して、それに気づいた。
いま彼女が取りうる、新たな行動の選択肢が加わったことに。
……千晶くんがわたしの想いを受け入れてくれないのなら、受け入れたくなるようにしてあげればいい。
八坂明みたいながさつな男子なんかより、わたしの方がずっといいって分かってもらえれば、きっと千晶くんもわたしが好きになる。わたし抜きでは、いられなくなる。
だから、……それを千晶くんに、教えてあげる機会のためなら……そのためなら。
でも、だけど……。
葛藤の末、歩美はその白い小さな紙袋からその薬を取り出した。
一瞬の躊躇の後、多めの角砂糖もろともにそれをティーカップの中の熱湯へ溶かしこむ。歩美は盆を抱え、千晶が待つリビングへ向かった。
○9
「よう……生きてるか……?」
「……なんとかなー……」
必死の逃走劇の末、かろうじて怒れる追撃者の魔手を逃れた千晶追撃隊の生き残りたちが、三三五五とその公園に集まりはじめた。
いつもの遊び場になっている公園へ、誰が示したわけでもないまま誰からともなく自然に集結し、あとは携帯電話のネットワークがそれを補完した。
川を強行渡河したもの、生け垣の中へ潜ってすり抜けたもの、ドブを突っ走って逃れたもの。ひどく濡れたり汚れたりした靴が、彼らの苦闘を語っていた。
「ちっくしょう……それにしても千晶の奴、いったいどこへ消えたってんだよ?」
「気味悪ィよな……まるで煙みたいに消えちまうなんてよ」
自分たちの庭と自負する校区内で、こうも容易に出し抜かれたことに、少年たちは不審そうに顔を曇らせる。
「なあ。気味悪いと言えばよ……」
だが、その中でずっと押し黙っていた一人――千晶と最初に遭遇し、いきなり殴り倒された男子が、俯き加減に言い出した。
「いきなり何を言ってるのか分からねえだろうし、最初は俺も何を見たのか分からなかった……頭がおかしくなりそうだったが……」
「は?」
「なんだ? いきなりどうした?」
急に深刻そうな顔で、しかし、どこか頬を上気させながら言い始めた彼に、全員からの不審げな注目が殺到する。
そして、言った。
「谷川千晶のやつ……今日いきなり凄ェ巨乳になってやがったんだよ!!」
一瞬の空白が、公園の空を通り抜ける。
「はっ……きょっ、きょ……」
「巨乳ううう? あの千晶がああああ??」
話にならないという風情で、皆が一斉に呆れかえった声を上げた。気の毒そうな目で首を振りながら一人が呟く。
「お前なあ……どんだけ溜まってるんだよ。いくらなんでもヤバすぎるだろそれは。いいから今日はもう帰れ。そこの水道で頭冷やして、さっさと家で抜いてこいって」
「ちっ……ちげーよ!! ボール入れてるとか風船や果物とか入れて遊んでるなんてそんなチャチないたずらじゃねえ、もっとリアルで重くて柔らかそうなものの片鱗を見たんだ! 俺は確かに、谷川千晶の巨乳を目撃したッ!!」
「いやだから、んなもんイタズラだって。千晶って明とつるんでしょうもないことするの好きじゃん」
「白昼夢だろ。今日特に暑いしな」
「逃げ水が見えるぐらいだしな」
「信じろよッ!! お前らなにか、俺のこの目が信じられねえってのか!?」
「ふーむ……」
気の毒そうな視線の中、一方的に白熱していく言い争いを眺めながら、最初に千晶を追っていたグループの一人が、千晶の正面から現れて挟み撃ちにしかけたグループの連中へ尋ねた。
「お前らはどうだったんだよ? 俺たちは背中しか見てないから結局分かんないけど、お前らは千晶を正面から見たんだろ?」
「ああ。――そういえば確かにあいつ、胸を押さえながら走ってたような気も……」
「だろっ!?」
賛同者の出現に、聞き耳を立てていた目撃者が息を切らして振り返った。爛々と輝きながら執拗に同意を求めてくるその目に思わず半歩引きながら、別の一人が意見の後段を引き継いだ。
「い、いや……でも結局、けっこう遠目から、しかも走りながら見ただけだしな……はっきりとは。ただ単に、買い物袋か何か抱えてるだけだったかも」
「あー、……そう言われるとそうかも……」
「つうかよー……やっぱこんなの、考えるまでもねえだろ……どうやって一日で、あの洗濯板がそこまで成長すんのよ」
彼らが谷川千晶と交戦し、苦汁を飲まされたのは昨日の話だ。自分たちと同い年少女の乳房がたった一日で爆発的に膨らむなど、すでに分別の付きつつある六年生たちには容易に信じられることではなかった。
「だからっ! 俺は本当に見たんだってばよ!!」
「あのさー、それとは関係ないんだけど……」
それでもあくまでムキになって、いっこうに自説を曲げようとしない仲間に辟易しながらも、皆の背後に隠れるようにしていた一人の小柄な少年が、おずおずと手を挙げる。
彼は千晶と歩美が排水溝から脱出したところを目撃した、あの少年だった。
だが彼が二人の決定的な目撃情報を口にしようとした瞬間、すっかり頭に血が昇っていた目撃者が喚き散らして威圧する。
「うるっせぇよ健吾! てめぇ調子乗ってんじゃねえぞ、人が話してんだから聞けよこのタコ!!」
「うあっ……」
殺気を伴う異様な視線で睨みつけられながら煽られて、健吾と呼ばれた小柄な少年は青くなって黙り込む。彼はもともと気が強い方ではなく、グループ内での発言力にも乏しかった。
「あー、もう。分かった分かった……」
そのまま健吾に噛みつきかねない勢いの彼を押さえて、リーダー格の一人が冷静に話を切り出した。
「とりあえず、今は千晶の巨乳うんぬんの話はいったん脇に置いといてだ。とにかくあいつを捜索しようぜ。
まだ遠くまでは行ってないかもしれないし……昨日の今日で俺らの校区を堂々とうろつかれてたら、あんまりにもみっともなさすぎる。それに本人を捕まえれば、その話だってハッキリするわけだしな。お前もそれでいいだろ?」
「ああ、……それなら文句ないぜ」
「よし。じゃあそれぞれ受け持ちの地区を割り振って探しにかかろうぜ――連絡を密にな!」
「おうっ!!」
そして東小勢の生き残りは再び、千晶捜索作戦へ向けて再始動した。自然にグループが分かれると、それぞれに次々と受け持ちが割り振られていく。
「ところで、健吾」
その割り振りの途中で仲間に声をかけられて、むくれっ面で黙りこくっていた小さな肩がびくりと震える。
「お前さ、さっき何か言おうとしてなかったか? 何だったんだよ」
「……いや、別に。……何でもねーよ……」
「? そうか」
ぷいとそっぽを向くようにした健吾に、彼もそれ以上には追及しようとはしなかった。そのまま友達のところへ行ってしまう。
「……馬鹿にしやがって」
誰に対するでもなく、彼はぽつりと小さく呟く。
状況を決するほどの重要情報を握っていた自分に対する、いつもの調子でのぞんざいな扱いと、それに何も言おうとしなかった仲間たち。
あまりに軽んじられている自分の状況を再確認して、彼の中に怒りが静かに燃えたぎる。
だが同時に、彼はその最善の発散方法をも認識していた。
谷川千晶は、作倉歩美と一緒にいた。
この意味不明な組み合わせは、それこそさっきの千晶巨乳説にも負けず劣らず頓狂なものだったが、とにかく今は自分だけがこの情報を握っている。不愉快にも発言の機会は押しつぶされたが、その事実だけは変わっていない。
ならば、やるべきことは一つしかない。
この情報を元に千晶の首根っこを押さえるという大手柄を挙げ、自分の実力を皆に見せつけてやるのだ。そうすればもう、今までのような適当な扱いは出来なくなるだろう。
「ようし。それじゃ行くぞお前ら!」
「おうよ――谷川千晶、生きて俺らの校区を出れると思うなっ!!」
公園に怪気炎が立ち上がり、彼らは再び公園を発った。指示と確認の声が飛び交う中、健吾もまた、捜索隊の一人となって町へ散る。
とはいえ、自分一人ではとうてい千晶の相手など出来そうにない。手柄の鍵となる連絡手段、携帯電話を握りしめながら、健吾は決定的な瞬間を押さえたとして、誰にどのように切り出して情報を伝えるべきかを必死に考えていた。
健吾はそうして必死に考えていたので、自分の後ろから誰かが近づいていたことにも、思い切り羽交い締めにされる瞬間までまったく気づかなかった。
「っぶ!?」
悲鳴も上げられないまま物陰へ連れ込まれ、そこでようやく耳元に囁かれる。
「よう、お前ら……なんだか、ずいぶん楽しそうなことやってるじゃねえか」
「ほっ、……ほはへは!」
「うるせえよ、黙ってろ。俺がいいって言う以外声出すなって」
聞き覚えのある声――谷川千晶と並ぶ最大の強敵のその囁き声に、冷たい戦慄が背筋を突き抜けていく。
「じゃあ、まず聞こうか。千晶が――谷川千晶が今どこで、どうしてるのか」
せいいっぱいにドスを利かせた声で、八坂明は相棒の行方を詰問した。
○10
「あ、あはっ……あは、あはははははっ……」
作倉家のリビング。
冷房の強度をいくぶん弱めたその部屋で、作倉歩美はひとり立っている。
「お、教えて……わたしが千晶くんに、教えてあげるね……」
そして眼下でクッションに横たわり、安らかな寝息を立てている少女を歩美はじっと見つめていた。
「あんなバカで乱暴な男子なんかより、わたしの方が……わたしと一緒にいるほうが、千晶くんをずうっと幸せに、……ずっと気持ちよくさせてあげられるんだ、って……」
膝を折り、まったく無防備にさらけ出されてしまっている肌と肌とを近づける。触れ合わせる。
ずっと夢にまで見てきたボーイッシュな少女のまったく無防備な寝顔に頬を寄せながら、歩美は陶然と微笑んでいた。