○1  
「やぁい、やーい、おっぱいお化けー。来れるもんならここまで来いよーっ」  
「かっ、返して! 返してよっ!!」  
 ――どうして、こんなことになったんだろう。  
 人気のない昼下がりの裏路地を、携帯電話を手にした悪童どもがはやし立てながら逃げていく。その背へ必死に追いすがろうとするのは、一見してずんぐりとした地味な印象を与える少女だった。  
 彼女の表情を覆い隠すように乱雑に伸びた長い黒髪が、悪童たちを追って駆けるたびに躍っている。だがそんな髪よりも激しく派手に揺れ動くのは、野暮ったい厚手の上着の下で波打つように暴れまわる、ふたつの巨大な肉塊だった。  
 赤いランドセルを背負った小学五年生の彼女には、まったく不似合いな早熟すぎる乳房。しかしその並外れた重さと大きさは、少女の元より鈍い運動能力を、さらに鈍らせてしまっていた。  
「おいっ、アレやろーぜ!」  
「ああ、アレな――オッケー!」  
 悪童どもが視線を交わして立ち止まる。少女がずっと遅れて追いついてくるのを、彼らはニヤニヤ笑いながら待ち受けた。  
 そして駆け込んできた少女が掴みかかってくる直前に、手にした携帯を放り投げた。  
「ヘイパース!」  
「あいよっ!」  
「あっ、――!」  
 咄嗟のことに青くなった少女の頭上を、彼女の携帯電話が飛び過ぎる。放物線を描いて宙を舞ったそれは、別の悪童の掌へ吸い込まれるように収まった。  
 鈍足の少女を振り回して弄ぶように、悪童どもは右往左往する彼女の携帯電話をパス回しし続けた。  
「や、やめて! やめてよ、投げないで! 壊れちゃう……落っことしたら、携帯壊れちゃうよ!!」  
「落とさねーもん。俺らはお前みたいなオッパイお化けと違って、そんなにドン臭くねーからな!」  
「ヘイヘイヘーイ、どうしたどうしたー? 胸デブおっぱいお化け、返してほしいならさっさと来いよーっ」  
「ど、どうして……どうして私に、こんなことするの……?」  
 怒りと悔しさを表情へいっぱいに滲ませながら、少女は前髪越しに震える瞳で彼らを睨みつけた。  
 だが彼女には、問うまでもなく分かっていた。彼らの行動に理由などないのだ。ただ彼らの目の前に無力な、からかいがいのある玩具があったというだけ。  
 友達もおらず運動も苦手で口べた、そのうえ、この胸――あまりに悪目立ちしすぎる身体的特徴を備えた自分は、まさに彼らのような悪童たちが面白半分に弄ぶことの出来る、格好の獲物でしかないのだ。  
 そして人通りも少ない路地、家からも学校からも離れたこの場所で、自分を助けてくれそうな人など誰もいない。  
 だから彼らがこの邪悪な遊びに飽きるまで、自分は選択の自由すらなく、ただ一方的に付き合わせられ続けるしかないのだ。  
「うっく、ひどい……ひどいよ……どうして、……どうして、こんな……っ」  
 あまりに理不尽な彼らの仕打ちに、思わず視界が滲みそうになる。しかし必死に涙をこらえて、少女は携帯電話を取り戻すために、なおも突進を繰り返した。  
 そんな彼女の反応を楽しみながら、再び携帯電話が放り投げられる。  
「へへっ。ほら行くぞパース!」  
「ホイ来た――へっ?」  
 そのパスの軌道を空中で、何者かの割り込みが断ち切った。  
「えっ……?」  
 何事もなく通るはずだった携帯電話のパスを、見事に空中でカットしてみせたその影へ、全員の視線が集中した。  
 飛び込んできたのは、たった一人。  
 厚手のパーカーの襟元で、二筋の紐が躍って弾む。幼くもしなやかな筋肉を備えた脚はハーフパンツからすらりと伸びて、バスケットシューズがアスファルトの路面を削るように音を立てて、着地した。  
「な、――」  
 誰もが凍りついた時間の中で、その乱入者はまっすぐに手近な悪童の内懐へ詰め寄り、突き蹴りの一撃で腹をたやすく撃ち抜いていた。  
「ゲフォァッ!?」  
「お、おっ、お前は西小の――ガハッ!!」  
 地面へ転がってのたうち回る仲間を見下ろしながら、悪童どもの一人がその名を叫ぼうとした。  
 しかし叫びが言葉になる前に、乱入者が放った飛び込みざまの右ストレートが、彼の顎を吹き飛ばす。  
 
 圧倒的な運動能力の差で少女を弄んでいた悪童たちは、一瞬にして、今度は狩られる立場へ突き落とされていた。  
 そしてその狩られていく悪童たちより、誰よりもその少女自身が、目の前の現実へ適応することが出来ていなかった。  
 素早くしなやかに力強く、断固たる意志の力を見せつけながら、冴え渡っていく技の数々。  
 それらが次々と繰り出されては、反撃もままならぬ悪童たちを一方的に駆逐していく。  
 その徹底的な猛攻は、彼女が今までに見たどんな動きよりも力強く、そして美しかった。  
「わっ……わああああああ!!」  
「たっ、助けて。助けてーっ!!」  
 ろくな反撃も出来ずに打ち負かされて、悪童どもは半べそをかきながら一目散に敗走していく。彼らの背中が完全に路地の向こうへ消えたのを見届けると、乱入者は息を弾ませながら少女へ振り向いた。  
「――大丈夫?」  
「あ、……う、うん……」  
「そう。よかった」  
 思わず身を堅くした彼女を前に、乱入者は今の猛襲から一転した、柔らかな微笑みを浮かべてみせた。  
 そして奪回した折り畳み式の携帯電話を開き、その全体を眺める。  
「ん……どこも壊れてないみたい。でもボクは携帯とか持ってないから、細かいところまでは分からないんだ。自分で確かめてみて」  
 取り上げられていた携帯電話が、その手からそっと優しく彼女へ渡された。  
「ど、……どうして……」  
「ん?」  
 相手の表情を直視できず、口ごもりながら俯きがちに、少女はその疑問を問うた。  
「どうして、……どうして、助けてくれたの? 友達でもないのに、顔も名前も知らないのに……私みたいな……私なんかの、こと……」  
「んっと、……それは……」  
 その質問に、ショートの黒髪が揺れる。一瞬だけ考えるような仕草を見せたのち、ぱっと表情を輝かせながら答えを寄越した。  
「まず、ボクが許せなかったから。何人もで寄ってたかって、あんな風にして一人をいじめる奴らなんて、ボクは大っ嫌いなんだ。それと――」  
 僅かにはにかみながら、続けた。  
「ボクは、キミに……元気になってほしかったから」  
「えっ……?」  
 不意に胸の奥底で、心臓が強く跳ね上がるのがわかった。  
「あんな奴らなんかにあんなこと言われたって、気にしちゃダメだ! 負けないで。本当のキミのことは、キミにしか分からないんだからっ」  
 一気に力強く言い切られて、その場にただ立ち尽くしながら、少女の全身を熱い血潮が巡りはじめた。熱が増していく。目の前の凛とした双眸から、どうしても視線を剥がすことが出来ない。  
「こっ、こっち! こっちだ――」  
 そのとき路地の向こうから、さっきの悪童どもの濁声が飛んできた。同時に、大勢が必死に走ってくる足音も。  
「ごめん、隠れて」  
「え?」  
 少女の揺れる想いを、その一言が断ち切った。  
「あいつらが戻ってくる。西小のボクと一緒にいるのを見られたら、キミはそのことでまたいじめられちゃう」  
「……そ、そんな。だって私、まだ――」  
 ――あなたの名前も、教えてもらってないのに。  
「ごめんね。でも、もう行かなきゃ」  
 なおも縋りつこうとしてくる少女の手をそっと取りながら、たしなめるように諭す。少女はそれを震える瞳で見つめ返していたが、二人にはもう迷える時間は残されていなかった。  
「いっ、居たぞーーーっ!!」  
 さっきの三人が他の連中を引き連れて、十人近くの大軍に膨れ上がりながら戻ってきた。  
 
 ぶん殴られた半べその顔を、悔しさと怒りで塗りつぶしながら、悪童どもはそれこそ束になって突進してくる。もはや最初にいじめていた少女の存在などは完全に忘れ去って、ただ、侵入者たった一人を攻撃するためだけに。  
「うおおおおおっ! こっ、こんの野郎ーーーっ!!」  
「はっ!」  
 だが怒りに任せた悪童どもの突進は、まったく足並みなど揃っていなかった。一番足の速かった者が後続を引き離して真っ先に到達し、そしてそのままカウンターを喰らわされて道路へひっくり返った。  
 そして侵入者は逃げながらも、先走ってきた先頭集団を各個撃破していく。その手強さを肌で悟った悪童どもが足並みを揃えたときには両者とも、その背中はもう路地のずっと向こうにまで消えていた。  
「また、――会えるよね……」  
 路地に面した民家の塀。  
 生け垣の隙間からそれを見送りながら、少女は携帯電話をぎゅっと握りしめて呟いていた。  
 
 
○2  
「か、……完敗だ……っ!!」  
 東小学校、六年一組。  
 朝のホームルームを控え、児童たちの大半が登校してきた教室の一角に、ある者は肩を落とし、またある者は頭を抱えながら、一群の男子たちが集まっている。  
「ちっくしょう。まさか豪華絢爛空前絶後、必勝確実のあの布陣が破られるなんて……今度こそ絶対、絶対勝てると思ったのに……!」  
「それにしても、まさか……シバケンの兄貴までやられちまうなんてなあ……」  
「ところでシバケン本人はどうしたんだ?」  
「今日休みー。どうせデタラメ吹き込んで兄貴引っ張り出してきたのがバレて、あのあと死ぬほどぶん殴られたんだろ」  
「けっ。要はあいつらだよ、八坂明と谷川千晶! あの二人さえ最初にツブせりゃ、西小の他の連中なんざ大したこたねえんだ!!」  
「でもなー、あの連携プレイだけはどうしようもねえぞ。正直奴らに二人でがっちり組まれたら、十人がかりで行ってもツラい」  
「どうすればいいんだ……!?」  
 雁首揃えて深刻そうに話し合っている男子たちは、校区境界近くに新装開店したコンビニの覇権を賭けて、昨日の公園戦争で隣の西小学校勢と総力を挙げて激突し、そして見事に敗れた東小学校側の主力メンバーたちだった。  
「――ホント、バッカみたい」  
「小六にもなって何やってんだか。しかもここ最近、ずーっと西小相手に負けっぱなしらしいじゃない?」  
「ま、所詮はウチのバカ男子どもじゃね……」  
 彼らとは教室の対角線上。女子の一群がその集まりを白けた瞳で見つめながら、こっそり持ち込んだローティーン向けのファッション誌を囲んで談笑している。  
 しかしその中の一人がわずかに頬を上気させ、照れながら呟いた。  
「でもさ……あいつらはしょうもないバカどもだけど、西小の八坂明くんって、ちょっとカッコいいかも。なんか、ワイルドな感じ」  
「あー。それはあるかも。うちの学校のいらんことばっかりやってるバカ男子どもなんかとは、ちょっと違う感じはするよね」  
「うんうん。喧嘩とかは別にどうでもいいけど、確かにすっごい強いよね。昨日の大騒ぎでも、他の奴らとは動きとかが全然違うっていうか……なんかもう、完全に別格って感じ!」  
「ん?」  
 耳ざとい一人の女子が、仲間のその発言から揚げ足を取る。  
「あれ? あんた……まさか昨日のアレ、わざわざ見に行ったの?」  
「えっ!? い、いやっ……そ、そうじゃなくて! 私はただ、お母さんに頼まれてお使いに行った帰りに偶然……っ!」  
「おおっ! これは……」  
「ぜひ詳しいお話が聞きたいですね!!」  
 ひゅう、と誰かが口笛を鳴らす。空気が一気に白熱した。思わず一線を越えて出過ぎてしまった彼女からさらなる言葉を引き出すべく、周囲の女子たちがはやし立てる中、その熱に浮かされたように別の少女が呟いた。  
「でも私は八坂くんより、その相棒の谷川千晶くんって男の子の方が好みだなー……。強くて元気だけど笑顔が爽やかで、ちょっと優しい感じの美形だよねっ」  
「え……?」  
 小さく嬌声をあげて身悶えたその少女を、八坂明を巡って熱をあげていた仲間の少女たちが、戸惑うような視線で見つめた。目配せを交わし合ったあと、一人が言う。  
「あれ……アンタ知らなかったの? ……あの谷川って子、女だよ?」  
「え……? え……えええっ、まっ、マジでっ!?」  
「マジ、マジマジマジ。あたし西小の子に直接聞いて裏取ったし、あたしもあの子が赤いランドセル背負ってるところ見たことあるもん」  
「えーなにー、それ超ショックなんだけど……」  
「やっぱり八坂くんよ、八坂くん! あー、今度思い切って一回告ってみよっかな……!」  
「なっ! ダメ、ダメダメダメダメー!!」  
「こういうのって、やっぱ早い者勝ちでしょ?」  
 だがそのとき、格好のネタを肴にして盛り上がる少女たちに、それが面白くない男子の一人がちょっかいを出してきた。  
「へっ……やめとけやめとけ。お前らみたいなブスヒスガキの三拍子揃ったショボショボ女子どもなんざ、あいつの方から願い下げだろうぜ!」  
 
「はぁ? 誰もあんたなんかに聞いてないんですけど!」  
「うるさいわね。負け犬はさっさと帰れ。そして死ね」  
 とたんに少女たちから放たれた言葉の弾幕が、彼の全身をズタボロに撃ち抜く。しかし彼はぐっとそれをこらえて、彼女たちに必殺の反撃を叩きつけた。  
「へっ……知らなかったのかぁ? 西小の八坂明、あいつは根っからの巨乳好きなんだぜ。お前らみたいなペチャパイのガキどもなんざ、あいつのほうから願い下げだろうぜ!」  
「な、……何よ、それ?」  
 思わぬ角度から反撃を受けた少女たちは、強気な表情を崩さないまま、しかし思わず自らと周囲の胸を見渡す。決して巨乳などとは呼べないが、それでも年相応ではあるはずだ。  
「あいつはエロ本とかも巨乳のやつしか見ないんだぜー。グラビアとかでも、オッパイちっちゃい女優のやつなんかは全部スルー。ましてやお前らのペチャパイなんか、圏外中の圏外に決まっブホ!!」  
 得意げに喚き散らしていた言葉の途中で、彼の顔面に国語の教科書が突き刺さった。  
 続いて重量級の教科書類や資料集、さらにはまだ中身入りのランドセルそのものまでが片っ端から投げつけられて、無謀な告発者はあえなく床へ沈んだ。  
 自分たちの発育状況に対する侮辱、憧れの男の子への夢を汚されたという思い、こんなバカ男子などにバカにされたという屈辱が、彼女たちを行動させたのだった。  
「……あー……なんか、最ッ高にムカつく」  
「ゴミのくせに手間かけさせんな、って感じ?」  
「死ねよゴミクズ」  
 瞬時に殺気を沸騰させた女子たちと対決する余力はないと判断したか、仲間の男子たちが彼を無言で自陣へ救出していく。それを殺伐と見送りながら、少女たちは元の話題に回帰した。  
「……でも、どうなんだろ。男って結局、胸……なのかな?」  
「んなわけないっしょ。そんな男なんて一部だよ。……だいたい本当にそうだったらさ、アレは今頃街一番のモテモテさんだよ?」  
「ん、……そっか。そうだよね」  
 あざ笑うように吐き捨てて、彼女たちが向けた視線の先。  
 そこではちょうど、すらりとした身体をお洒落な服に包んだ華やかな彼女たちとは対極に位置するようにも見える少女が、席でぽつんと一人座って、視線を手元へ落としていた。  
 目元の表情を隠すように伸びた乱雑な髪、暗い色調の垢抜けない衣服。仲良しグループが集まる朝の風景の中で孤立している彼女は、一見して明らかに地味な印象を与えている。  
 だがその衣服の胸は大きく盛り上がって布地を前へ突っ張らせ、そのために本来決して大柄でも肥満体でもない彼女の体格を、倍近くも大きく見せてしまっていた。  
「六年一組 作倉歩美」と記された名札が、柔らかな脂肪に押し上げられた曲線の上で所在なさげに載っている、  
 いまクラスメイトの少女たちから、嘲笑にも似た視線を向けられているその少女。作倉歩美は自らの机と両腕、そして胸の膨らみに囲まれて他者の視線から覆い隠されるようになった空間で、携帯電話を操作していた。  
 その液晶画面に、デジカメ写真のスライドショーが躍っている。それらは一見してすべて、彼女と同年代の男児たちの元気な外遊びの風景を写したもののようだったが、奇妙な共通点がふたつ存在していた。  
 まず、被写体となった少年たちが、誰一人としてカメラの方を向いていないこと。まるで自分たちが撮影されていることに、まったく気づいてすらいないかのように。  
 そして写真の中心には必ず、黒髪ショートのボーイッシュで活発な美少女――いま話題にもなっていた西小学校の女子、谷川千晶の姿が、ことごとく捉えられていることだった。  
 フォルダが切り替わり、風景も変化する。映されるのは公園を背景に入り乱れて、殴りあう多数の少年たち。紛れもない昨日の公園戦争の写真だったが、やはりそれら全ての中心となる被写体は、谷川千晶だった。  
 無意識のうちにひとり表情を緩め、表示を進めていく歩美。  
 そんな彼女の表情に陰りが入ったのは、スライドショーが昨日の戦いのハイライト――シバケンの兄を相手に、千晶と明が二人がかりで戦う場面を捉えた一枚のときだった。  
 巧みな連携で中学生の巨体を追い詰めていく千晶の躍動感に溢れた動きを、的確に捉えた一枚。写真そのものは会心の出来と言えたが、彼女が暗い視線を向けたのは、その千晶が表情を弾ませながら、八坂明とアイコンタクトを取っているところだった。  
 並外れた強敵を向こうに回しての激しい戦闘の中で、明るく輝いたその表情。写真の中の千晶の輝きに引き込まれるほど、見つめる彼女の苛立ちは募っていった。  
 
 一考ののち、彼女は画像編集メニューを起動した。  
 素早くポインタを動かして範囲指定し、その写真から明の部分だけを切り取って削除してしまう。写真に不自然な切り欠きが生じたが、歩美は気にする様子もなく、その欠損部分をもっとも周囲になじむ色合いで塗りつぶした。  
 ふっ、と安堵の息をついたとき、教室に予鈴が鳴った。  
 学級委員長が束になったプリントの背を教卓で叩き、気の早い児童たちがそれぞれの席へ移動しだす。それまで空いていた歩美の周りの席にも、次第に人が戻りはじめた。  
「まーた一人でニヤついてたし。キモいよね、何あれぇ。男子ってさ、胸さえあればあんなのでもイイわけぇ?」  
「特殊趣味だよね、アレに反応するようなのは」  
「――やっぱり各個撃破だよ、各個撃破しかないって! あいつらがバラで行動してるところを見つけたら、とにかく速攻で攻撃すんの!」  
「でもなー、あいつらって本当にいっつも一緒に行動してるぞ? 単品でも相当手強いことには変わりないわけだし、そんな都合よく隙なんか見せてくれるかねー」  
「いつでも一緒……ひょっとして、実はあいつら付き合ってるんじゃね?」  
「いや、それはねーべ。いくら明が好きモンでも、さすがにあんな男女はねーな。胸もねーし」  
「そこ、もう先生来るよー! いつまでもダベってないの!」  
「うっせーよ! ……よーし、放課後にもまた集まって対策会議な。あの二人、今度こそ地べたに這わせてやんぜ……!!」  
 なお止まぬ朝の喧噪の中、口許に浮かべていた薄い笑みを緩めて、少女は名残惜しそうに携帯の液晶画面を消した。その写真フォルダを閉じてパスワード付のセキュリティに隠しながら、歩美は一限目の教科書類をランドセルから机上へ並べていく。  
 教室の前が開き、担任教師が入ってきた。忘れもしない一年前のあの日、運命の人が助け出してくれたその携帯電話を、歩美はそっとランドセルへ滑り込ませた。  
 
 
○3  
 むいむいむいむい、と独特の低音を響かせながら、それはやってくる。  
 甘く芳醇でありながらひどく危うげな質感と、重たくも冷たい気品の双方を同時にたたえた白いうねりが、天空からゆっくりと降りてくる。  
 しかし、やがて白いうねりは大地に触れて、螺旋を描きながら昇りはじめた。そして自らの重さが限界に達する寸前、その頂から断ち切られる。  
「――はい! お待ちのお客様、どうぞ!」  
「おおおおおおお……!」  
 若いアルバイト店員から笑顔でそっと差し出されたソフトクリームを、八坂明はひどく興奮した面もちで受け取った。  
「お会計、31円になりまーす」  
「はい!」  
 使い古した子ども向けの小さながま口から、明はちょうどの額の小銭を支払う。そして喜悦を抑えきれない表情で振り返り、仲間たちの様子を確認した。  
「よしっ。……アイス頼んだのは、これで全員だな?」  
「しつこいよ明。とっくに揃ってるって。お前が最後なんだっての」  
「題目はいいからさー、とにかく早く食べようぜ。溶けちまうよー」  
「ったく、少しぐらい待てよ。さっき渡されたばっかりだろが……」  
 愚痴りながらもそれでも上機嫌に、明はソフトクリームを握って、皆を先導するようにそのコンビニの外へ出た。  
 新装開店セールの旗幟がはためく店舗前で、初夏の日差しと熱気が一気に全身へ照りつけてくる。コンビニの冷房を少し浴びた程度ではとても引ききらなかった汗が再び、ひっきりなしに額を伝い落ちてきた。  
 コンビニのゴミ箱が並ぶ横、ちょうど日陰になっている場所に八人で陣取る。  
「よーし。それじゃ昨日の公園戦争の大勝利と」  
「コンビニ新装開店セールの独占成功を祝って!」  
「いただきまーーーす!!」  
 谷川千晶の弾んだ声まで、果たして皆が待っていたかどうか。  
 七人の少年と一人の少女はコンビニの前で、みな一斉にソフトクリームにかぶりつきはじめた。  
「んー……んまい! ちべたい! 勝利の味!!」  
「こいつがこのまま、ずーっと30円だったら最高なのになぁ……!」  
「そんなんだったら俺、毎日ここに通っちゃうぜ!!」  
 好き勝手な感想を漏らしながら、忙しそうに買い食いに精を出す彼らは今朝、明・千晶の二人と体育倉庫で激突した、クラスメイトの悪童たちだった。  
 彼らがいつも一緒に遊んでいた、女の性別というものを感じさせなかったボーイッシュな少女、谷川千晶。  
 しかし、その彼女が今まで必死に隠していた秘密――それまでずっときつく縛りつけて隠していた、はちきれそうなほど豊かに育ちすぎていた乳房のことを公表したために、今朝のクラスには異様な波紋が広がった。  
 彼らはその余波として、千晶の胸への対処について思わぬミスを犯してしまった学級委員長・国東真琴を体育倉庫へ連れ込み、怪しげな私刑を加えようとしたところで、他ならぬ明と千晶によって制圧されたのだ。  
 しかし結果的にはこの喧嘩が、この問題――千晶の胸にまつわる波紋を、ある程度の解決に導くことになったのだった。  
「うう、痛ててて……」  
「ん? どうした?」  
 ソフトクリームの冷気と甘味をじっくり味わっていた明が、いきなり腹を押さえた仲間の顔を覗き込んだ。  
「いや、今朝の体育倉庫で、いきなり谷川にもらった人間酸素魚雷……。アレのダメージが未だに残ってて……正直、ソフトの冷たさが胃袋にまで染みるんだわ」  
「俺もー。昨日の今日だってのにアレだったもん、まだホントに身体のあちこちがギシギシ痛え」  
「お前らってさあ、マジで手加減なかったのな……」  
「へっ、何言っていやがる。俺ら二人を相手にしてその程度で済んだんだから感謝しやがれ。オレと千晶は、いつでもどこでも全力だぜ! なあ千晶!」  
「ん?」  
 空いた左手でぎゅっと握り拳を作って、明は無二の相棒の目の前へ顔を突き出した。  
 突然話を振られた千晶は目を瞬かせ、口いっぱいに頬張っていたソフトクリームを離した。口周りを汚す白い残滓を舐め取りながら、あどけない笑顔で答える。  
 
「えへへへへ、まあそうだねー。みんなにはボクの胸を潰して縛りつけたりせずに、普通の格好でどこまで戦えるか、っていうののいい実験台になってもらったよ。……ストレス解消にもなったしね!」  
「な、なんだとう!?」  
「あ? おまえ文句あんのか、今からここで二回目やんのか?」  
「いや……なんでもねっす」  
 明に凄まれて、千晶に食ってかかろうとした悪童が肩を竦める。しかし皆の雰囲気は和やかで、楽しげな失笑が漏れるばかり。千晶も笑顔を大きくしていた。  
 小学生の域を遙かに超えた目を奪う巨乳と、それに女としての色気という魂を吹き込む、恥じらいの仕草。  
 その二つが、密かにきつく縛りつけられて封印されていた胸以外はしごく見慣れていたはずのこの少女を、並外れて魅力的な格別の美少女へと――彼らにとって完全な別人へと、変えてしまったのだ。  
 しかし今朝の戦いが、そうした違和感をいくらか中和させた。  
 少なくとも彼らにとってあの戦いは、谷川千晶は決してその胸とともに理解不能な美少女に変わり果ててしまったわけではなく、今までと変わらないケンカ仲間の古強者、悪友としての谷川千晶であり続けている、という事実を確認させる儀式となったのだった。  
 拳の触れ合いがわだかまりを消した。少なくとも彼らが今後、千晶のことを単なる性欲の対象としてだけ見るようなことはなくなるだろう。  
 あの体育倉庫でこの六人を追い出したあと、和解に成功した学級委員長・国東真琴のことを明は思い出す。  
 体育倉庫へ突入して助け出した当初、彼女はひどく取り乱していたが、話し続けるうちに次第に冷静さを取り戻し、教室へ戻る頃にはすっかりいつもの彼女に戻っていた。  
 そして真琴は復帰早々、有無を言わせず教師不在のホームルームを見事に仕切って、千晶の胸への節度ある態度を、断固として呼びかけてくれたのだった。  
 喧嘩の敗北で頭を冷やした六人も、消極的ではあるがその傘下へ入ったことで、少なくとも表面的には六年三組に千晶に対するコンセンサスが成立した。  
 まだ担任教師との話し合いが残っているが、少なくとも六年三組において、千晶があの胸のことで苦しい思いを強いられることは、思ったよりも早くなくなってくれるかもしれない、と明は前向きに期待した。  
「……よーひっ、はふぇおはりっ!!」  
「あっ!? 畜生、負けたっ!!」  
「早すぎんだろ谷川!!」  
 千晶の叫びに振り向けば、コーンまで含めて一気に全部を食べきったところだった。  
 もしゃもしゃ音を立てながら噛み潰し終えたコーンを呑み下して、千晶はガッツポーズで幸せそうに宣言した。  
「うーっし。まだまだ行くよっ、二本目突入っ!!」  
「早食いの上に大食いかよ。千晶、ちょっと飛ばしすぎなんじゃねーか?」  
「早食い上等! ソフトクリームが30円なんてチャンスにやらずに、いったいいつアイスの大食いなんてすればいいのさ? 今日のボクは食べるよ! 徹底的に食べるっ!!」  
「その前に、千晶。お前の口の周り、アイス付いてんぞ……ほれ」  
「ん」  
 さすがに呆れ顔の明が千晶の口許から白い塊を拭ってやろうとしたとき、千晶はほぼ同時にぺろっと舌を出していた。  
 少女の舌がソフトクリームと、明の指先を舐めるように触れた。  
「……!?」  
 思わず素早く右手を引っ込め、どぎまぎしながら明は左手でそれを隠す。  
 同時に目だけで周りを窺った。幸い、周りの連中からは死角になっていたか、あるいは一瞬の出来事で見られてなどいなかったようだが。  
「へへっ。明、お先っ。ソフト二本目いちばん乗りはいただきだよ!」  
「え、あ――ああ……」  
 明るい宣言を残し、バスケットシューズとハーフパンツから伸びるしなやかな脚を操って、千晶は再び店内へ軽やかに駆け込んでいった。  
 初夏の眩しい日差しの下、輝く白いブラウスの布地が、大人っぽいフルカップブラジャーに形よく整えられた乳房の弾みに突き上げられて、ふわりと揺れる。  
「ひっ、ひくひょう。負けらんねえええ!」  
「俺もっ!!」  
 千晶に触発された数人が、一気に無理矢理ソフトクリームを食べきって、再びコンビニの店内へ突入していった。  
 
「死ぬなよー……」  
 ちびちびと舐めながら見送る明は、気の毒そうな目で彼らに呟く。あれだけダメージが蓄積しているというのに、ただ負けず嫌いと言うだけでよくやるものだ。  
 負けず嫌いと言えば、明もどうでもいいようなことで千晶相手に張り合うのはしょっちゅうだったが、こと食べ物に関しては別だった。  
 食べ物はゆっくりじっくり、しっかり味わって食するものだという信念があったからだった。  
 しかし、それにしても今日は暑い。前日の真夏日という天気予報は、決して的外れなものではなかった。  
 千晶のブラウスという薄着を今朝はじめて見たときは度肝を抜かれたが、この暑気ならば、その選択も決して間違いではなかったと理解できる。  
 身体のラインを隠すために厚着の下で蒸し焼きにされる前に、千晶が昨日の決断を下すことが出来たのは幸運だった、と明は思う。  
「でも、谷川の……すっげーよなぁ……」  
「ん?」  
 下にしゃがんだ仲間に小声で呟かれて、明は彼の見つめる先を視線で追う。  
 そこには店舗前面のガラス張りに面して展示された写真週刊誌の表紙で、豊かな胸を谷間も露わに突き出しながら微笑む、妖艶な美女の姿があった。  
「見ろよ。この女優、Fカップだってさ」  
「すげーな。でけー……。一回でいいから、こういうオッパイ揉んでみてーなぁ……」  
 声のトーンを落としながら、少年たちはひそひそと猥談に興じた。さすがに千晶と一緒の時には出来る話ではないが、この手の猥談は今までもときどき行っていた。  
 しかし、話題が今この方向へ流れれば、当然のようにそれを避けて通るわけにはいかなくなる。  
「でも、正直……谷川のって、これよりもっとデカくねーか……?」  
「……なあ、明ー。……谷川のムネのこと、……お前はいつから知ってたわけ?」  
「…………」  
 カリッ、とコーンをはじめて噛みながら、明はその場に残った二人を交互に見る。その瞳は切実な好奇心をいっぱいにたたえていた。  
 まさか……まさか自分が全てを知ったのは昨日、千晶の風呂場に乱入したときで、しかもそのとき、自分は裸と裸で後ろから千晶の乳房を両の掌に包んで自在にそれを揉みしだき、  
あまつさえ桜色の乳暈に埋もれていた乳首へと乳肉を搾り出すかのように執拗に弄んだ挙げ句、最後は彼女の腰へ背後から射精して汚してしまった、などと……。  
 そんな真実は、口が裂けても言うことが出来ない。しかし今ここで何か言わなければ、自分は説明責任を欠いたことになり、それは自分と、何より千晶にとっての禍根を残すことになりかねなかった。  
 砕けたコーンと混じり合いながら、冷たいクリームが喉を沈んでいくのを感じつつ、明はゆっくりと口を開いた。  
「あー……それはだな……昨日のあのデカいの、東小のシバケンの兄貴だっけ? あのデカブツを仕留める戦いを終えて、あの夕立で解散した後にだな、あったんだよ。千晶のほうから、今後の戦闘についての相談が」  
「ふんふん、ふんふん」  
「あの胸を皆に隠してた次第は、今朝も教室で話したとおりだ。だがこれからの戦いに当たっては、そういうわけにもいかなくなるってことでな……。正直な話、あんなデカいオッパイって戦うとき邪魔だろ?」  
「あー。確かに、アレは……」  
「デカくて重そうだよな」  
「お前ら、少し考えてみろよ。あれ1キロぐらいあるんだぜ。千晶はそんなのが胸に付いてる状態で、今日も昨日も一昨日も、そのまたずーっと前から戦ってたんだぜ!!」  
「い、いちきろぐらむ……!!」  
「1キロって……1キロってつまり、これと同じぐらいってことか!?」  
 二人は新装開店セールで大安売りしていた、1リットルサイズのペットボトルを足元のレジ袋から取り出して、自分の胸へ当てたりしながらうろたえる。  
「待てよ? 両方で1キロってことは、片方で500グラムってことか?」  
 その呟きで、昨日の浴場で鷲掴みにしたやわらかな肉塊の張りつめた重量感をその掌に改めて思い出し、明は思わず唾を呑んだ。  
 千晶が身につけているブラジャーのカップには左右それぞれに500グラムもの、あのすべすべで柔らかいのに、揉みしだく手指へ吸いつくようだった弾力抜群の乳肉がいっぱいに詰まっているのだ。  
 あれでは乳房全体をしっかりと包む込むフルカップといえども、今朝の激しい戦いでカップが丸ごときれいに弾け飛んでしまったのは、無理のないことだったのだろう。  
「よっ、ほっ、せっ、…………。これで、これであの動きを……!?」  
「やっぱスゲーな、谷川……!」  
 1リットルのペットボトルを胸にあてがったままコンビニの駐車場を動き回るという、傍目にはまったく意味不明の行動をとっていた二人が、それぞれ真剣な表情で呟いた。  
 
 用意していた口上がすんなり受け入れられたことに内心ひそかに安堵しながら、明はあくまで表面上は落ち着き払ったままの仕草で言ってのける。  
「それを縛り付けずに普通にするってことは、苦しさからは解放されるけど、今度はその重さに振り回されることにもなるってことだ。当然、コンビネーションだって変えなきゃいけない。だからいつも必ずコンビで戦う俺に、あいつは一番最初に相談してきたんだよ」  
「そっか、……確かに、そうだよな……」  
 だがその片方が、不意に何かに気づいたように訊いてきた。  
「ところでさ、明……」  
「ん?」  
「お前さー……なんで谷川のオッパイが1キロぐらい、とかって知ってるわけ? ……なんか、それ……妙に具体的じゃね?」  
「……!」  
「あ。そう言われてみれば、そうだなー」  
 もう一人もポンと手を打ち、明に疑問の目を向けてくる。  
「オッパイの具体的な重さなんか、今まで気にしたこともなかった。そういえば……なんでそんなこと知ってるんだ、明?」  
「え? ええとっ! そ、それはだな……!!」  
 まさか昨日、両の手のひらにたっぷりと包んで、その重量のすべてを支えてのけた、その感触からの算出値だなどとは言えない。  
 とても言えないので、明の脳細胞はテストの時間よりも素早くフル回転し、そして、ひとつの脱出路を捻り出した。  
 ええい、ままよ。  
「お、お前らバカだなー。アレだよ……計算だ、計算。そんな数字、計算して出したに決まってるだろ?」  
「計算?」  
 胡散臭そうなジト目に対し、いかにも自信ありげな仕草で明は鷹揚に切り出した。  
「おうよ。あれだ……お前らも知ってるはずだ。あの有名な話を――『オッパイは、水に浮く』ってことを!」  
「『オッパイは……水に浮く』!?」  
「そう。そして、理科の時間に習っただろ……? 物には密度ってもんがあるんだ。密度が水より小さければ水に浮き、重ければ沈む……!」  
「ふむふむ、ふむふむ……」  
「え? あれ……?」  
 成績の若干いい方が明の話に振り落とされまいと必死に食らいつき、頭の悪い方は首を捻りながらも、それでも黙って聞いている。  
「つまりだ……! オッパイは、水よりもちょっとだけ軽い! そして同時に、算数で習った、ものの体積を求める公式があるだろう……! この二つを併用することで、……千晶のオッパイの、その重さを導き出すことが出来るのだ!!」  
「おっ……おおおおおおお!!!」  
「え……じょ、……定規や巻き尺も使わずに……?」  
「フッ。バカだなお前らは、そんなことだから、いつまで経っても俺たちにケンカで勝てないんだよ」  
「なっ……どういうことだ!?」  
「つまり、こういうことさ。俺や千晶のような本当に強いヤツは、激しい戦いの中でも1センチ単位で距離や長さを測ることができる!  
 そんな俺の目ヂカラをもってすれば、千晶のオッパイの大きさなど、服の上からでも手に取るように分かるのだッ!!」  
「なっ……なんだってーーー!!」  
「じゃ、じゃあ……アレか!? 明、お前はあそこの道行く若妻風の女の人のも読めるのか!?」  
「……82のCだな」  
「さっきレジの後ろにいた、バイトっぽいおねーちゃんのも!?」  
「あれは79のB。シャツの布地が張ってる微妙な角度ですべてが分かる」  
「すっ……すげええええええ! さすがは明だぜ!!」  
「師匠と呼ばせてくれえ!!」  
「フッ……よせよ。巷のエロい大人たちの間じゃ、これくらいのテクは常識なんだぜ?」  
 今までを遙かに上回る尊敬の熱が籠もった瞳で、二人は興奮しきって明を見つめた。  
 なんとかうまく行った。  
 適当な理屈だけの純然たるハッタリ勝負だったが、それでもなんとかこの場は切り抜けた。案の定理科と算数に死ぬほど弱かった、悪友たちのバカさ加減に内心で感謝しながら、ニヒルな風を装ってそっぽを向く。  
 
 コーンの中から垂れ下がってくる、いい加減溶けてきたソフトクリームを舐め取りながら、不意に明は顔を上げた。  
「? どした?」  
「あ……いや……。なんか、さっきから……誰かに、見られてたような気がして――」  
「誰か? って」  
「……誰もいねーぞ……?」  
「あれ?」  
 三人はきょろきょろと周囲を見渡す。道路を行き交う自動車、時たま通り過ぎる自転車や歩行者、この開店セールを狙って押し寄せてきている近所のおばさんたちの他、確かに彼らへ視線を向けようとしている者など、どこにも見当たらない。  
「っかしいなあ……。気のせいかな?」  
「昨日の今日だしな。さすがにお前も疲れてるんじゃね?」  
「うーん……」  
 首を傾げる明の視界の端で、コンビニの自動ドアが開いた。冷気とともに、両手にソフトクリームを構えた千晶が得意満面に飛び出してくると、脇の二人が尊敬の目を彼女へ向けた。  
「いちきろ……いちきろぐらむ……」  
「谷川……お前ってやっぱスゲーな!」  
「へっ……?」  
 脈絡もなく賞賛の言葉を浴びせられて、千晶は目を瞬かせて停止する。下手に墓穴を掘られる前に食い止めようと、明は頭を振りながら声を上げた。  
「それにしてもお前、まだ二つも喰うのかよ?」  
「えへへへー。せっかくだもん、レパートリーは出来るだけ制覇しておかないとねっ」  
 チョコミントの鮮やかな青と、クランベリーの薄紅色を交互に突き出してみせながら、千晶はそこへ思いきりかぶりついた。  
「ったく……。腹冷やすなよ?」  
「らいひょーふ、らいひょーふっ!」  
 いっぱいの笑顔で、千晶は氷菓を堪能する。  
 しかしそんな彼女が、真顔に戻って周囲を目だけで見回した。  
 見られている。確かに、誰かに。  
 背筋を少し、冷たい何かになぞられたような気配が伝っていく。  
 喧噪と光に満ちた昼下がりのコンビニ前で、千晶は視線を巡らしてその気配の源を探る。  
「――? 千晶、どうかしたのか?」  
 気づけば、最初のソフトクリームを今頃食べ終えた明の顔がすぐ目の前に迫っていた。  
「ん、……なんでもないよっ! 気のせい、気のせい!」  
「?」  
 目を瞬かせて下がる明をよそに、千晶は再びソフトクリームを口にしながらも、さりげなく視線を巡らせる。  
 感じていた。ここへ来るまでの道のりや、さっきのコンビニの店内でもそうだったように――今の自分の胸には、ひどく不躾な視線が四方八方から突き刺さっている。  
 昨日までの自分は、明をはじめとする仲間の男子たちに混じって元気よく遊び回る、悪ガキたちの中に溶け込んだ一人に過ぎなかった。  
 だが、もう今日からは違うのだ。  
 あまりに豊かに育ちすぎて、上着の布地を突き上げている二つの乳房は、着衣を通してもなお周囲の視線を集めている。  
 それらの視線の主は、老若男女を問わない。平日の午後ということもあって成人男性は少ないが、多数を占める中高年の女性たちは同性の気安さもあってか、千晶に露骨な奇異と好奇の視線を向けてきていた。  
 そんな彼女たちからこの胸について話しかけられずに済んでいるのは、単に八人もの大人数で行動しているからだろう。仲間たちが人垣になってくれているのだ。  
 見下ろせば、眼下の視界を塞ぐほどに、Gカップのブラジャーの中身を満たしていっぱいに張りつめた乳房が、ブラウスの布地を突き上げている。  
 暑気に煽られてその上へ垂れ落ちそうになったクランベリークリームをコーンの上から舐め上げながら、千晶は改めて、自分の胸にこうも大きく育ってしまった、二つの重たい膨らみを思う。  
 同級生の女子たちには、まだブラジャーの必要性すら感じられない者も少なくないのだ。それなのに、なぜ自分だけがこうなってしまったのだろう。自分は女の子らしくもないのに。  
 ――ボクはこのまま明たち男子に混じって、ずっと遊んでいたいのに。  
 
 思考を沈ませかけた千晶の肩を、誰かが叩いた。  
「ん――?」  
 振り返った千晶の頬に、むにっ、と人差し指が突き刺さる。してやったりという表情で、明が間近で千晶を覗き込んでいた。  
「よっ。どうしたよ、もう限界かぁ? 楽しくなさそうだぞ千晶ぃ!」  
「やっ、――やったなあああ!!」  
 ソフトクリーム二つを手にしたまま、千晶は構わず襲いかかる。身軽な明は猛ダッシュで千晶の射程圏内から逃れて、駐車場のずっと向こうで陽気に笑った。してやられたにも関わらず、千晶にも笑顔が戻っていた。  
 千晶の憂鬱さを払ってくれるのは、やはりこの少年の存在だった。  
 物心ついた頃から、今までずっと一緒だった親友。毎日のように互いにケンカし、遊び、そして協力しあってきた、分かちがたい半身のような存在。  
 昨日の風呂場で秘密のすべてを曝け出したときも、明は自分のすべてを受け止めてくれた。その揺るぎない力強さに、千晶は明との友情の絆がいっそう深まったことを感じていた。  
 
 
○4  
 小遣いをはたいて仕入れた安売りの菓子が、コンビニ袋をいっぱいに膨れ上がらせている。そんな袋をめいめい手に手にぶら下げて、八人組は歩きで帰路についていた。  
「へへへ。ま、めぼしいものは押さえられたな」  
「ああ。これで一週間は食うに困らん!」  
「なあ、これからどうするー?」  
「ん? そうだな……」  
 今後の予定を聞かれて、明は皆を見渡した。  
 思ったよりも狙った菓子類の在庫が豊富だったせいか、少し買い物が過ぎてしまった。公園に寄ってバスケか何かやっていくつもりだったが、これから何をして遊ぶにしろ、いったん荷物を置いてからもう一度集まるのが得策だろうか。  
 今日は何しろ千晶の胸にまつわる騒ぎで手一杯で、放課後の過ごし方まで頭が回らなかった。だが何をするにせよ、少なくとも今日一日の行動の基準は千晶になる。  
「千晶。お前はどう思――」  
 さてどうしたものかと悩んで、相棒本人の意見を求めようとした明は、そこに不可解な表情を見た。  
 今までの話などまったく上の空といった様子で、千晶はどこか遠い場所をじっと見つめていた。  
「――千晶?」  
「ごめん、明」  
「わっ!?」  
 いきなり彼女のコンビニ袋を押し付けられ、慌てふためいて明はよろめく。仲間に一瞥だけをくれながら、身軽になった千晶は駆け出していた。  
「悪いけど先に行ってて! ボク、ちょっと用事が出来たから!」  
「用事? おい千晶、用事って何だよ?」  
 しかし戸惑う明が問いかけようとした間に、千晶はその俊足で裏路地へぱっと駆け込む。  
「千晶っ?」  
 明が追ってその入り口に立ったときには、もう彼女の背中はどこにも見えなくなってしまっていた。  
 
 

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