○3  
「…………」  
「…………」  
「…………」  
「…………」  
 第二会議室には、最初から妙に重苦しい空気が充満していた。  
 小ぎれいに片づけられてがらんとした空虚な印象を与えるその一室で、外からの光を背負いながら部屋の奥に座る教師と、その向かいに座る児童が一人。面接か何かの配置に近い。  
 その担任教師に呼び出された女子児童、谷川千晶はどこか落ち着かないそわそわとした態度のまま、ただ無言で対面に座る教師からの言葉を待ち続けていた。  
 ちら、と千晶は横目で壁時計を観察する。まだ自分がこの部屋へ入ってきてからたったの三分しか経っていないことに千晶は驚き、次にこの三分間、ずうっと無言のままで黙りこくってしまっている、目の前の担任教師へ視線を向けた。  
「あのー、……藤原先生……?」  
「…………」  
 さすがに沈黙に耐えかねた千晶が呼びかけても、担任教師はひどく難しそうな顔で目線を半ば伏せたまま、微動だにしない。  
 再び言いづらい空気を感じて、千晶はその場に肩を狭めて萎縮した。  
 なんだろう。……ものすごく、居づらい。  
 確かにいつも喧嘩やイタズラのことがばれる度、先生に呼び出されて何度も怒られてはいたけれど、今回のそれは、何だか別種の居づらさを感じてしまう。  
 千晶がもじもじとパイプ椅子の下で足を動かし、意味もなく天井の模様や本棚に並ぶ書名を確かめはじめた頃、まるで彫像のようだった担任教師が、ようやく彼女に言葉を発した。  
「――谷川さん」  
「あっ。はいっ?」  
 大粒の瞳を瞬かせ、慌てふためいて千晶が答える。  
 しかし初めての言葉を千晶が受け取り、それに対して何らかの言葉を返す前に、担任教師は猛然と席を立っていた。そのまま決然たる意志を秘めた力強い足取りで、まっすぐ千晶のほうへ向かってくる。  
「え……? え、え、え……っ?」  
 ぞわり、と背筋に総毛立つものを感じながら、窓からの逆光に浮き上がりながら近づいてくる担任教師に、千晶は戸惑いの瞳を向ける。しかし、逃げることは出来なかった。相手は同輩の悪ガキなどではなく、自分たちの担任教師なのだから。  
 きゅうっと身を縮めながらも着席したまま待つ千晶の背後で、担任教師は足を止める。  
「せ、せんせ……っ、きゃうぅっ!?」  
 そしてそのまま一気に後ろから担任教師の両手が伸びて、有無も言わせずに千晶の左右の乳房を鷲掴んだ。  
「あは、あぁっ……っ!」  
 ぎゅうぅっ、と握りつぶそうとするかのように、十の手指が乳肉を犯す。  
 突然の展開に思わず甘い悲鳴を上げて、千晶の背中がびくんと跳ねる。その動きはそのまま千晶の胸へ跳ね返り、千晶の巨乳全体を掌握せんとする教師の手指へ、乳房の肉とその頂をいっそう強く食い込ませてしまう。  
 教師はそんな千晶の巨乳を両手でしっかりと揉み掴んだまま、下半分から支えるように持ち上げた。その左右で1キロほどにもなる重量の負担を、ブラジャーからその両手に移し変えることで、じっくりと重さを量りとっていく。  
 そして、その小学校六年生にあるまじき圧倒的な質量を文字通りに教師の手中へ掌握すると、今度はその手指に再び圧力を加えてきた。  
 厚手のTシャツと二枚重ねのGカップブラジャー、カップの形を整えるためのワイヤーを含んだ合計三枚の布地が教師の手指に巻き込まれ、みっしりと張りつめた乳肉のみずみずしい弾力によって抵抗されながら、しかし深々とその内側へと沈みこんでいく。  
 その柔らかな変形が限界に達する寸前、教師が力を抜くと、その十指はブラジャーのカップの中で元の美しい形を取り戻そうとする巨乳の弾力に押し戻されていった。  
 しかし千晶のみずみずしい乳肉がその形を復元させる寸前、再び教師の握力が襲いかかる。何度も何度も、ぎゅうっ、ぎゅむうっと、千晶の乳房を変形させていく。  
 
「あッ……あっ、あああ……ッ……。せん、せ……せんせい、だめぇ……やめてぇ、そんなふうに、ボクのおっぱい、さわらないでぇ……あ、ふぅ……ぅッ」  
「…………」  
 千晶の唇から弱々しく、熱のこもった悲鳴が切れ切れにほとばしる。しかし担任教師が千晶の懇願に答えて、その凌辱の手を止めることはない。  
 両乳房の実りをそのふもとと下半球から支えようとする教師の掌から少し離れて、左右とも人差し指と中指の付け根付近のやや上に、千晶の乳首が位置していた。  
 むさぼるように千晶の乳を揉みしだき、捏ね回す教師の掌は、三枚の布地越しに次第にその敏感な尖端を刺激し、硬く大きく尖らせつつあった。  
 その左右に尖る鋭い頂へ触れられずに済んでいるのは、千晶の乳房があまりに大きく、そのために下から支え持とうとする教師の掌に全容を握られずに済んでいるからに過ぎなかった。  
 もしも少しでも乳房の握りを変えられてしまえば、千晶ははしたなくも堅く尖り立ってしまったその尖端の存在を教師に知られてしまうだろう。  
「やっ……や……やだあぁ……っ」  
 混乱と恥辱の中で、噛み殺すようにか細い悲鳴が千晶の唇から掠れて漏れる。しかし、その懇願が教師の耳へと届くことはなかった。  
 まだ壁時計の針は九時を指してもいない。この一室にも朝の爽やかな光が射し込み、学校中の教室で始業前のホームルームが行われているその最中、谷川千晶は担任教師の手によってその発育しすぎた乳房を蹂躙され、思うがままに変形させられてしまっていた。  
 だが今回やはり、担任教師のその行動はあまりに大胆不敵に過ぎた。  
「千晶っ!!」  
「谷川さんっ!?」  
 バン、と会議室のドアが開き、室内の異常を察した二人の児童が飛び込んでくる。  
 六年三組学級委員長の国東真琴と、谷川千晶の幼馴染みにして無二の親友、八坂明だ。  
「なっ――」  
「そんな……」  
 そこで二人が目撃したのは、椅子に座らされたまま背後から両の乳房を握りしめられ、いいように捏ね回されてあられもなく喘ぐ千晶と、彼女を抱え込むようにしながら、両手でその瑞々しい巨乳を無造作に弄ぶ担任教師の姿だった。  
 担任教師と親友、同級生による、決してあり得ないはずの光景を直視して、二人は言葉を失って立ち尽くす。  
 それでも一瞬の躊躇の後、八坂明が前へ進み出た。思いの丈を一気に吐き出す。  
「なっ、何やってるんですか……藤原先生えええええええ!!」  
「や、八坂くん、国東さん……!? い、……いや。その、……実際に目で見てみたら、この手で確かめてみたくなっちゃって、……つい……っ」  
「つい、じゃないでしょう、先生……」  
 自分でも身に覚えのあるその経験を追想しながら、国東真琴が息を吐く。  
 そこでようやく千晶の両胸から離した両手をあてどなく虚空へさまよわせながら、六年三組担任教師、藤原通子は我に返ったように頬を真っ赤に染めた。  
 
○4  
「うん、……うん。それはやっぱり本当に、谷川さんのからだの成長の証なのね。ううん……ごめんなさいね、いきなり乱暴なことしちゃって」  
「い、いいえ……も、もう……ボクも、気にしてないです……」  
「…………」  
 今度は千晶の左右両後ろに明と真琴が立ち、両者を隔てる長机もないまま、藤原通子は自らの教え子、谷川千晶と間近な距離から向かい合っていた。  
「谷川さんの胸がいきなり、こんなに大きくなっちゃったなんて他の先生から急に聞いたから、先生もびっくりして、すっかり気が動転しちゃって……ごめんなさいね、谷川さん。胸、痛くなかった? いきなり触られて、嫌じゃなかった?」  
「う、ううん……ぜんぜん大丈夫、です……」  
 千晶は椅子に座ったまま、しかし若干その胸を両腕の奧へかばおうとするかのように引き気味な姿勢で、自分たちのクラスを担任するこの女性教師を見つめている。  
 藤原通子、26歳。今日も白いブラウスと清楚なスカートに身を固め、いくぶん癖のある明るい髪をボブカットにした彼女の雰囲気は穏やかかつ上品で、決して相手に嫌な印象は抱かせない。  
 全般におっとりとした性格だが芯は強く、総じて細やかな心遣いをみせる女性であるため、児童からの人気は決して低くなかった。  
 そんな教師だった藤原通子だが、さすがに出張でほんの一日空けた間に突然、ボーイッシュでやんちゃな教え子だった谷川千晶がこれほどの巨乳少女になっていたという事実は、さすがに想像力の限界を超えていたらしかった。  
(あー……通子先生、テンパってんなー……)  
 そんな担任教師の現状を、あくまでも冷静に明は評価する。  
 だいたいデリケートな思春期の性に関わるこの問題に関して話し合う場で、幼馴染みの大親友とはいえ、男子である八坂明を場の流れからそのまま同席させてしまっている時点で、彼女の混乱の深さが知れようというものだった。  
 そんな通子に対して、事態に関する一通りの説明を終えた真琴が、最後にクラスの現状を報告する。  
「先生。谷川さんのこの件については、昨日の段階ですでに谷川さん自身からクラス全員に対する説明がなされたほか、自習時間中に設けた臨時ホームルームでの討議で、皆の認識は固まっています。  
 谷川さんはもうその胸の膨らみを無理に押しつぶして隠したままの不自然な服装ではなく、今後は自然なスタイルで生活する。私たち同級生もその事情を認識して、谷川さんと今まで通り自然に接していく、というものです」  
「フフ……フフ、そう……ありがとう、国東さん。あなたはいつも、とっても優秀な委員長さんですね……」  
「はあ……」  
 心ここにあらずという仕草の通子を前に、真琴もさすがに釈然としない風情で小首を傾げる。  
 要するに、担任教師である彼女自身がこの件に関しては最後尾にいたという事実を追認しているに過ぎないのだが、微妙に目が遠くばかり見ているようにみえてしまうあたり、本当に納得してくれているのだろうかと不安になる。  
 これではどちらが教師だか分かったものではないのだが、実際に藤原通子の特徴は、国東真琴の隣に並んだときこそ実に顕著に現れる。  
 藤原通子の身長は、たったの150センチでしかない。千晶や明を含むたいていの児童より、かろうじてほんの少し高い程度だ。  
 本来は気性も穏やかなために、全体としてはいくらか落ち着いた印象が加味されてはいる。  
 しかし、顔立ちも整ってはいるものの、それは美人というよりは可愛いといったほうが適切な部類のそれであり、つまるところ、童顔だった。  
 そして最後に止めを刺すのが、その著しく起伏に欠ける慎ましやかな胸である。  
 要するに11歳の女子児童である国東真琴と、26歳の担任教師である藤原通子が並んだ場合、まったく初対面の人間には、どちらが教師でどちらが児童なのかを言い当てることは相当に困難。そういうことなのだった。  
 そして今日あらたに、その乳房の発育において、谷川千晶が藤原通子と決定的な、圧倒的な大差をつけてしまったことが明らかになった。  
 自分の身体の貧弱さは今までも理解していたこととはいえ、ここに来て、発育の良い教え子たちにこうも圧倒されてしまうとは。  
 人間は外見ではない、本当に大切なのは人間の中身なのだと、児童たちのみならず自分自身に対してもいくら言い聞かせていたといっても、通子はとても心穏やかにしてなどはいられないのだった。  
 今も両の掌へ鮮烈に残る、教え子、谷川千晶のたわわに実ったその乳房。その質量はいったい、自分の胸の何倍に達しているのであろうか……。  
 
「おっきい、すごい、収まりきらない……やわらかくって、むちむちしてて……なのにあんなに張りが強くて、ぱつんぱつんで、指の隙間から溢れてこようとしてて……」  
「…………」  
「…………」  
 俯きながら自分の乏しい両胸を両手で鷲掴み、その存在を確かめるように精いっぱいに乳房の肉を全体から掻き集めながらブツブツと何か呟き続ける担任教師の前で、  
当事者の千晶が椅子の上で萎縮し、委員長の真琴もすっかり困惑してしまっているのを見て取って、明がおずおずと通子に呼びかける。  
「あの……せんせ? せんせーい?」  
「……あ? あ、ええ……ああ、おほん」  
 それでなんとか教師としての意地と矜持を取り戻したか、幾分わざとらしい咳払いの後、藤原通子はその口許にいつもの優しい微笑みを取り戻しながら、言った。  
「ん、んっと、……谷川さん。今まで、本当にごめんなさいね。先生、谷川さんが女の子の身体のことで、そんなに苦しんでたことに気づいてあげられなくて」  
「そ……そんなこと、ないです。ボクも勝手に怖がって、一人で閉じこもって考えてたから……。もっと早くに、先生に相談しておけばよかったと思います」  
 本当にそう思ってんのか……?  
 親友のどこか強ばった横顔を胡散臭そうな横目で見る明をよそに、通子ははにかむように微笑んだ。  
「と……とにかく、先生の方でも、これで事情は分かりました。これからは谷川さんのその胸のことを考えながら、授業と行事をやっていきます。谷川さんと相談しながらやっていきたいと思いますから、何か気になることがあったら、積極的に先生のところに来てくださいね」  
「はい。――よろしくお願いします!」  
 それでも真摯な表情で語りかけてくる通子を前に、千晶も緊張を和らげながら答えてのけた。  
 もともと藤原通子は決して悪い教師ではない。確かに今までは千晶や明の仕掛けるイタズラやあちこちの喧嘩の件で怒られることが多く、二人にとっては国東真琴同様に苦手とする相手だったことは確かだ。  
 しかし、二人は影で担任教師の指導に対してそれなりに愚痴りながらも、一方ではその裏表のなさやクラスメイト全員に対する細やかな気遣い、常に公平さを重んじる態度には素直に好感を覚えてもいた。  
 去年の担任だった矢崎教諭ほどではなくとも、まあそれなりには尊敬に値する大人。それが二人の藤原通子教諭に対する認識であった。  
 まあ、こういう状況ではおそろしくテンパるみたいだけど。  
 教師たちの行状を採点する心の通知書に新たな一行を付け加えながらも、明は担任との面接が無事に終わりつつあることに胸をなで下ろそうとしていた。  
「先生、ありがとうございました!」  
「ええ……。じゃあ国東さん、先生はまだ一時限目の用意があるから、谷川さんたちと先に教室へ行っていてね」  
「分かりました。自習を続けます」  
 千晶が朗らかに席を立ち、真琴が力強く頷きながら指示を反芻する。  
「じゃあ、俺たちはこれで――」  
 明が第二会議室のドアに手を掛け、退出しようとしたとき、通子ははっと息を呑んだ。思い出したように、呟く。  
「そうだ。八坂くん、谷川さん、ちょっと待ちなさい」  
「……はい?」  
「?」  
 急に呼び止められて、不自然な姿勢で明が止まる。  
 まだ何かあるのだろうか? 真琴と千晶の視線が妙に張りつめた藤原通子の表情に集まったとき、担任教師はその腰へ両拳を当てて、今までとは少し違うトーンで話しはじめた。  
「あなたたち……一昨日も東小の子たちと、また大勢で喧嘩したそうですね?」  
「…………」  
 途端にばつの悪そうな顔で、千晶と明が視線を交わす。このままいつものお小言タイムに突入だろうか?  
「幸い、怪我人は特に出てないそうですし、親御さんからの苦情も特には上がっていません」  
「おお」  
 思わず口に出して呟いた明を、通子の鋭い視線が刺した。それで明は黙り込むが、あれほど大規模な戦争でけが人も苦情もないとは。  
 常に戦況の全般を見渡しながら行う岸のバックアップはやはりたいしたものだとしきりに感心する明をよそに、通子は意外な方向へ話を振った。  
「ただ……今回問題にしたいのは、その喧嘩そのもののことではありません」  
「へっ?」  
 
 拍子抜けする二人に構わず、通子はちらと真琴に視線を向けた。  
「……国東さん。先生はもう少し、谷川さんとお話があります。八坂くんと一緒に、先に戻っていてください」  
「え」  
「わかりました、先生」  
 どうして、今頃になって――  
 反駁しようとする明の肩に手をやって、真琴が彼を導く。明は最初抵抗しようとしたが、自分の目を見ながら外へ促す真琴を前にして、おとなしく彼女に従った。  
 会議室の扉が閉まる。  
 再び一対一になって閉ざされた部屋で、廊下を行く二人の足音が十分遠ざかったのを聞き届けたのち、ようやく通子は口を開いた。  
「谷川さん。その胸の存在を押しつぶして隠さず、普通にするようになってから、その……、男子や男の人たちから、谷川さんのことを見る目が今までと、ちょっと変わったと感じませんでしたか?」  
「…………」  
 千晶は答えず、ただ胸元へやった手をきゅっと握った。  
「谷川さんのその胸は、その、男の人たちにとって……たぶんクラスの男の子たちにとっても、すごく魅力的で……だから、それに変なことを――いやらしいことをしようとする男の人たちも、世の中にはたくさんいるんです。それは分かりますね?」  
「……はい」  
 考えながら答えた千晶に、通子は頷くと、なおも続けた。  
「谷川さんが女の子だからとか、そういうことで言うんじゃありません。ただ、乱暴な喧嘩のほかにも、いろんなスポーツとか、谷川さんが楽しいと感じられる遊びは、たくさんあるはずです。  
 ……これからも喧嘩のような危ないことを続けていると、谷川さんは今までよりもずっと、ひどいことをされやすくなるんじゃないかって……。先生は、それが心配なんです」  
「…………」  
 黙りこくったまま、俯き加減にそれを聞く千晶に、通子は明るく声色を変えて歩み寄りながら、励ますように言った。  
「谷川さん。谷川さんが今回、胸の膨らみを無理に隠すのをやめてくれたことを、先生はとても嬉しく思います。これから少しずつ、新しい遊びや楽しみ方を覚えていきましょう。ね? ……先生も、協力しますから。  
 だから、谷川さん。喧嘩は、これで最後に――」  
 千晶の手を取ろうと、通子は近づきながらそっと手を伸ばす。  
 しかしその手が触れ合う寸前、千晶は唐突に素早く後ろへ跳ねて距離を開き、そのまま乱暴に後ろのドアを開けると、ほとんど全速力で廊下を駆けていってしまった。  
「たっ、谷川さん! 待って――待ちなさい!」  
 慌てて通子が会議室から顔を出すが、ヒール付きの靴ではとても千晶の後は追えず、曲がり角の向こうに消えた彼女の背中をむなしく見送るだけだった。  
「……谷川さん……」  
 通子は扉を掴んだままでしばらくその場に佇み、やがて深いため息をついた。  
 闇雲に走る千晶が息を切らせながら角を曲がって駆け抜けると、その後ろでで、掃除ロッカーの陰から誰かがひとり追ってきた。  
「千晶! 千晶っ!」  
 明は真琴に頼んですぐに帰らず、近くで様子を窺いながら千晶のことを待っていたのだ。  
「千晶――どうかしたか?」  
「……っ、あ、明……っ」  
 千晶はすぐに行き足を落とした。わずかに濡れた千晶の瞳が自分を見て、明ははっと息を呑む。  
「どうした、千晶? まさかまた、先生に何かされたか……?」  
「うっ……ううん。ううん、そうじゃない。そうじゃないよ、明……」  
 弾む胸と心臓を押さえながら、千晶は明に歩み寄る。そして立ち止まった明が何か考える前に、彼女は明へ身体ごと叩きつけるようにして抱きついてきていた。  
「ちっ……ち、ち、ちっ……千晶っ……?」  
「…………」  
 立ったまま真正面から抱き合いながら、二人は壁際へもたれて足を止めた。背丈はほんの少しだけ千晶が高い。耳許にかかる息が熱い。  
 
 通子による愛撫の余韻が残る大きな胸の膨らみが、三枚の布地越しとはいえ明の胸板でまともにぎゅうっと潰れる。  
 その柔らかさと弾力、そして布越しになお存在を主張するコリッとした尖端の堅さが、明の心拍数を一気に跳ね上げさせる。  
 しかし千晶の突然の行動も、そうして押し潰された肉の壁の向こうから響く心音の激しさを感じるにつれ、明は目の前で強ばって震える千晶の真意を理解して、そっとその背に両手を回して優しく抱いた。  
「――落ち着いたか?」  
「ん……」  
 その千晶の心音が十分に落ち着いた頃、明はそう声をかけた。  
「何があったか、わかんねーけど……そういうの、おめーらしくねーぞ」  
「ん……」  
 乱暴な言葉とは裏腹に、優しい口調で語りかける明に、千晶はその耳許で囁いた。  
「ねえ、明……」  
「ん?」  
「明は……明はずっと、ボクと一緒だよね? 離れていったり、置いていったりしないよね?」  
「い、今さらなに言ってんだよ……。当たり前だろ、そんなの?」  
 言いながら、明は自分を力強く抱きしめて密着する千晶の背中へ腕を回して、そっと優しく腰を叩く。自分からも軽く抱き寄せてみせた。  
 汗に濡れたボーイッシュなショートカットの髪とシャツが放つ熱気、そして千晶の洗い髪から漂うシャンプーのにおいを感じて、明は得体の知れない甘いうずきを感じた。  
 疾走してきて熱の塊のようになってしまっている千晶を、明は二人の汗に濡れながら、そのままで受け入れる。  
「俺は俺だし、お前はお前だ。今までずっと、俺たちこうやってきただろ? 心配すんな。俺はここにいる。お前抜きで、どこにも行きやしない」  
「ん。ん……」  
 どんなにきつく抱きしめて形が潰れても、二枚重ねのGカップという枠の中で形と厚みを保ち続ける乳房の向こうで、とくん、とくん、と千晶の音が少しずつ、少しずつ落ち着いていく。  
 とっくに一時限目の始まっている校舎の片隅、掃除ロッカーの陰での抱擁が、本当はどれだけの時間の出来事だったのか、明にはわからない。たぶん千晶にもわからないだろう。  
 いずれにせよ、それは始まりと同様に、突然に終わった。  
 夏の朝の熱気のなかで、同調していく心音とともに、身体の輪郭をなくして溶け合っていくかのようだった二人は、どちらからともなく、ほとんど同時に少し離れた。  
 ほんの半歩の距離から離れて互いの顔を見ると、千晶の表情からはもう、恐れや寂しさのようなものは消えていた。目尻に光るものだけはまだわずかに残ってはいたが、千晶はすぐにそれを腕でぬぐい取って消した。  
 それからいつも通りの、あどけない笑顔でほほえむ。  
「行こっ。明」  
「あ、――ああ」  
 千晶に手を引かれるまま、授業中の廊下を二人は走った。  
 

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