○14  
 明が千晶を従えて教室へ戻りついたのは、すでに昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った五時限目開始五分前のことだった。  
 教室の後ろのドアを開いてさっと室内全般へ視線を巡らしたとたん、明は思わずうっと呻いてその場で立ち止まる。  
 普段なら皆まだまだ遊び足りない、話し足りないとばかりに教室内に散らばっているはずのこの時間に、  
六年三組の同級生たちは皆一様に席へ着き、ノートと教科書を準備しながら神妙な顔で揃って前を向いていたからだ。  
 授業参観の時でさえ皆一斉にはこんなに真面目な態度を取らないであろうと思われる、その異様な光景の中心核を探せば、そこには早くも教卓の向こうに掛けている担任教師・藤原通子の姿があった。  
 いつにも増して厳格な視線で教室中を睥睨する彼女からの独特の圧力が、不可視の力となって六年三組を支配しているのだ。  
 むろんその対象は、普段から明や千晶とつるんでいる悪童グループも例外ではない。  
 先ほど第三校舎の裏側で別れたあと、藤原教諭からの追及を避けるために二手に分かれて先行していたカンチこと高橋貫一も、不可視の麻痺光線で刺し貫かれでもしたかのように自分の席で固まっていた。  
「……八坂君、谷川さん。一緒だったんですか」  
 他教室からの喧噪がどこか異世界からの雑音のようにも聞こえるそんな教室の中に、絶対の支配者たる女教師の声は一際はっきりと響いていた。  
「ええ。二人でちょっと、ボールで遊んできてました」  
「ふうん、そうですか。ボール遊び……健康的でいいですよね。でも、そういえば先生もさっきは校内をあちこち見回っていたんですが、あなたたち二人の姿は見当たりませんでしたね……」  
「えー、そうですか? この学校、意外に広いですから。一人でちょっと探したくらいじゃ、ちょっと難しいと思いますよ」  
「何にせよ――」  
 奇妙な沈黙の中を隣り合った席へと歩く中で、千晶と明は通子の目を見て話さなかった。通子の方も別段それを咎めるでもなく、二人へ向かって言葉を掛けた。  
「今までみたいな危ない遊びはもう、先生はこれから絶対に許しませんからね。これからは、特に厳しく行かせてもらいます」  
 明はその静かな宣戦布告を他人事のように、机上へ教科書とノートを並べながら聞いた。さりげなく一瞬だけ、振り向かずに目だけで千晶の横顔を視界に捉える。相変わらず感情のない、ただ人形のように整っただけの千晶の横顔を。  
 明は口許をきゅっと引き締め、拳をきつく握りなおす。  
 壁時計の分針が0を刻み、本鈴が鳴った。  
「起立!」  
 委員長・国東真琴の凛とした号令が、三十名の児童の背筋を跳ねさせた。  
 
○15  
「――いい……方法?」  
「ああ」  
 スポーツグラスに射し込む光を跳ね返しながら、その長身の少年は不敵に笑ってみせる。  
 第三校舎の裏手に現れた六年四組学級委員長にして西小悪童連の参謀長、岸武志は千晶と明、そして藤原教諭の異常な張り切りぶりを告げに現れた高橋貫一の三人を前に、自信ありげに頷いた。  
「いや、しかし、岸よぉ……さすがにいくらなんでも、今回ばかりは無理じゃないのか? 今度の通子ちゃんは理由がよく分からんけどとにかくマジモンの本気で、徹底的になりふり構わず使える手段は何でも使ってくる覚悟なんだぞ……。  
 今日明日はすっぱり諦めたふりしてすっとぼけといて、ほとぼりの冷めた頃に改めてやらかすってのが、一番いいと思うんだが……」  
 だが、途方に暮れながらおずおずとそう告げたカンチにふっと息を吐き、岸はあくまで怜悧なままの態度を崩さずに告げる。  
「なあカンチ。そうやってただ何日もひたすら通子先生から逃げ回って、それで俺たち外野はともかく、肝心の当事者二人は納得するのかよ?  
 少なくとも真理の方は、そんな話は絶対呑まないだろう。皆の前で大見得切ってみせた明の言質まで笠に着て、無茶苦茶言って暴れるだろうな」  
「そりゃ、そうかもしんねえけどよぉ……」  
 今までも何度となく煮え湯を飲まされ続けてきた天敵・鬼マリの理不尽な凶暴さをまざまざと思い出して、不満げに引き下がるカンチから視線を剥がし、岸はちらりと明と千晶を一瞥する。そして軽く挑発するように、ふっと笑い飛ばしてみせた。  
「ずいぶんな自信だな。……じゃあ聞かせてもらおうじゃねえか。岸、お前の作戦ってのを」  
 落ち着き払って明が言うと、岸はゆっくりと頷いた。  
「まず早速、時間と場所の話だが。ずばり放課後すぐ、この第三校舎を使う」  
「第三校舎ぁ?」  
 自分たちのすぐ背後にそびえる、第三校舎の巨大な影を顎でしゃくってみせた岸に、明とカンチが声を上げる。  
「第三校舎って岸、この校舎裏でか? いや、無理だろそんなの。通子ちゃんはもうとっくに、ここもパトロールの経路に組み込んじまってる」  
「誰がこんな目立つ外なんかでやらせるって言ったよ。もっと人目のないところでやるに決まってるだろ」  
「へ? じゃあ、それってまさか、校舎の……中? いや、いやいやいや。第三校舎は放課後とか、使わないときには鍵掛けられてて入れないように――」  
「まさか……」  
 戸惑うカンチの横で呟きながら、明はスポーツグラスの奥へと視線を据える。  
「岸。お前、手に入るのか? その、……第三校舎の、鍵が」  
「!?」  
 目を白黒させるカンチをよそに、岸はゆっくりと、力強く頷いてみせた。  
「ああ、少しの……決闘に必要な間、ほんの二、三十分間だけならな。  
 ――いつも第三校舎の鍵を管理してる家庭科の早川先生が、今日は特別に早退する。まあ早退ったって俺たちの放課後すぐの話なんだが、そこからずいぶん急ぐらしくてな。偶然そこを聞きつけたとき、さりげなく協力を申し出ておいたのさ。  
 だからその鍵を早川先生から俺が受け取って、職員室へ返す。当然俺が職員室へ鍵を返すまでには、若干のタイムラグがあっても怪しまれない。……そういう話になっている」  
 
「お前が? できるのか、そんなこと?」  
「後先考えずに暴れっぱなしの誰かさんたちと違って、俺はそれなりに先生方からの受けもいいんだよ。  
 まして早川先生は俺たちの事情にも疎いし、あの通子先生とだって特別仲がいいってわけじゃない。むしろ遠いな。  
 ――まあこういう情報を仕入れられることも含めて、職員室にちょくちょく自然に顔を出せる学級委員長の特権ってやつだな」  
「なるほど……!」  
 岸は教師らと特に密に接する学級委員長として、またその立場以上に優れた頭脳と観察眼から、西小学校教師陣の人間関係にも詳しい。  
 その分析はこれまでも西小悪童軍団にとっては常になくてはならないものであったのだった。  
「そして通子先生はこの、今日の第三校舎の事情を知らない。いつも通りにキッチリ施錠されて、放課後はすっかり誰も立ち入れなくなってるものだとばかり思ってる。そいつは賭けたっていい。  
 だからその通子先生の灯台元で、俺たちは足下をすくってやるのさ」  
 その岸が、こうまで言うというのなら――確かにかけるのだろう、藤原教諭の布陣の裏を。  
「んで、部屋はあそこだ。二階の多目的学習室」  
「多目的……?」  
「あー、かるた部屋か」  
 第三校舎には多目的学習室と呼ばれる、一面畳張りの広い部屋がある。  
 普段は各種の室内レクリエーションの他には、かるたなどの日本伝統の遊びなどを実習する授業程度にしか使われていないため、児童らには専らかるた部屋などと呼ばれていた。  
 クッション性に優れながらも足場は確かな畳張りの、危険な障害物のない広い部屋。  
 縦横無尽に駆けずり回り、互いに組み合いながら派手に打ち倒しあう決闘なら、これ以上適した場所もないだろう。  
「ふーん。確かにそこなら通子先生の目も十分誤魔化せるうえ、派手に決闘する環境も申し分ないとして……そこに行くまでが問題だな。  
 監視の目をどうする? 相手は通子先生の一党だけじゃない、それこそ興味本意の連中のが学校中に光ってるんだ。誰か一人にでも、移動中を捕まえられたらアウトだぞ。そこから通子先生に手繰られちまう」  
「そいつも考えてある」  
「何?」  
 頓狂な声を上げた明とカンチに、岸はさっき二人が隠れていた倉庫のほうを指した。隣にリヤカーが何台か並んでいる。  
「これも早川先生からの頼まれごとなんだが。さっき職員室の方にごそっと届いた、家庭科教材の搬入作業があるんだ。  
 その教材が結構な量でな、ああいうリヤカーでも使わないと追っ付きそうにない。……だからその作業で、もう一台くらいリヤカーが増えてたとしても、疑問に思う奴はいないはずだ」  
「つまり……そのリヤカーにシートを被せるなり、段ボールに入るなりして潜り込んでいけば――」  
「そう。第三校舎までは人目をはばかることなくフリーパスってことだ。そして作業は荷卸しまではやらなくていいってことになってるから、リヤカーごと中へ入れたら、そのまま俺が外から施錠できる」  
「お誂え向きの密室が完成するってわけか。なるほどな……!」  
 確かに岸らしい、実に大胆ながらも緻密な計画だ。これで一気に、今日放課後直後の決闘が現実味を帯びてきた。  
 
「ただ、あとはそのリヤカーにこっそり乗り込むところまでをどうするかだが――」  
「そいつは俺に任せてくれよ。お前がここまで仕掛けてくれて、決闘旗揚げ人の俺が何もしないってわけにはいかないからな。  
 ――学校中へ決闘がらみのそれっぽい偽情報をリークさせて、人の動きを分散させてみる。信用できそうな奴らを何人か選んで、サクラに使ってみるとするさ。そう、カンチ、お前とかな」  
「え? ……ええっ!? お、俺っ!?」  
 それまで半ば他人事のように、ぽかんと半分口を開けながら立ち聞いていたカンチが、弾かれたように慌てふためく。  
「当たり前だろ? まさかお前、ここまで計画を聞いといてただで帰れるなんて思ってないよな? きっちり口を堅くしてもらうのは当然として、その上でしっかり働いてもらうぜえ」  
「う、うう……。そういうの、俺にできっかなぁ……?」  
「心配すんなって。俺らが付いてる――おまえはあくまで自然体で秘密っぽく、それっぽい感じで垂れ流してくれればいいのさ」  
「うう。こーゆー頭脳労働系って苦手なんだよな……」  
「だぁーいじょーぶだよ、なんとかなるって! よろしく頼むぜ」  
「ま、そういうことだ!」  
 笑いながら、明と岸は同時にカンチの肩を叩いてのけた。嫌そうに唸りながら、それでも観念したのか何か思考を巡らせはじめた。  
 そんなカンチから顔を上げて、岸が明へ視線をくれる。  
「さて、ガセネタをばらまく情報工作要員には五時限目とその休み時間を目処に、ねずみ算の要領で勝手に増えてくれるとして……第三校舎の中に入れるのは、最低限度の人数にしなきゃならない。  
 リヤカー二台の大きさから考えて、俺の見積もりではせいぜい三人までが限界ってところだろう。まず決闘当事者の真理と千晶で二人、それに勝負を見届ける立会人が一人。  
 決闘の審判であり、勝敗に関わる一部始終を見届け、反則行為があればこれを止めるのが立会人だ。明。お前、当然これやるよな?」  
「ああ……。いざとなったら一人でどちらか片方を押さえ込める力があって、なおかつ引き受けても話の面倒くさくならない奴が必要、ってことだろ? 鍵とかでいろいろ忙しいお前以外で適任、となると、どうやら俺しかいねえよな……」  
 頬を掻きながら明がふっと呟くと、含みのある顔で岸は笑った。  
「そういうことだな。よろしく頼むぜ、決闘立会人」  
「ああ。まぁ俺が仕切るとなったらまた真理が文句言うかもだけど、その辺はうまく押し切るよ。とにかく――ありがとな岸、カンチ」  
「いやあ、俺だって正直退屈してたしな。肝心の現場には立ち会えなくても、デカい仕事にワクワクしてるんだ。あとで話を詳しく聞かせろよ、明!」  
「おう、分かってら。ただ――」  
 そして明は、その少女にそっと視線を移す。  
 自らの相棒にして決闘の当事者、谷川千晶は三人の輪から三歩も引いたところで外れたまま、どこか他人事のようにも見える姿勢で終始沈黙していた。  
「じゃあ、……時間も押してるし、今んところはこれで。とりあえず帰りのHRが終わったら、第二校舎の下駄箱に集まるってことにしようぜ。あとで分かんないこととかあったら、また連絡すっから!」  
「おう。四組の方は任せとけ」  
「うう、……大丈夫かなぁ……?」  
「…………」  
「さっ。行こうぜ、千晶!」  
 そして彼女の肩を掴んでぐいと引っ張り、明は前を向きながら勢いよく駆け出す。  
 身にまとう布地を汗に濡らしながら、張りつめた二つの半球を浅く弾ませる少女は始終うつむいていて、教室までの間、明と言葉を交わすことはなかった。  
 
○16  
「気をつけ。礼!」  
「ありがとうございましたっ!」  
 五時限目の終了を告げるチャイムが鳴り終わるとともに、授業終了直後の喧噪の中、明はひとり教室を離れていた。  
 最初はあくまで自然な風を装って教室からの距離を取り、それから十分に離れて藤原教諭らの目がないことを確認すると、軽快に駆け出していくつもの教室を巡り、悪童仲間たちに次々と声をかけていく。  
 そしてそれらの接触とともに明が彼らへ流したのは、五時限目の間に練っておいた偽装プランだった。  
 いわく、藤原教諭の追及がなぜか今回は並外れて厳しく、決闘準備のために非常な苦労を強いられていること。そのために決闘の場所については非公開とし、秘密主義を貫かざるを得ないこと。  
 それでも今なお決闘予定地は探し続けざるを得ず、可能な限り今日中の開催を目指して、彼らに対して有力候補の情報提供を求めていること。  
 それらの件を一人ずつに持ちかけて相談し、時には彼らが示す決闘候補地情報に興味を示す素振りを見せ、またあるときには既に意中の場所があることをヒントとともにほのめかせる。  
 明は表向きには彼らへ秘密厳守を強く求める態度を貫きながら、それとなしに陽動目的の偽情報を会話の端々から握り込ませ、信じこませていった。  
 いずれも最後に念押しした、一応の口止めが功を奏するはずだ。それらの偽情報は秘密という甘美な響きによって信憑性を伴いながら、しかし確実に少しずつ漏れ出して、静かに、静かに広がっていくはず――。  
 明はその可能性を、熱っぽい瞳で話に食いついてくる彼らの表情から確信していた。  
「これで誘導が上手く行けば、監視の目はほとんど明後日の方へ散らばってくれるはずだよな――」  
 また五年生の一人と相談を終え、口止めすると踵を返して駆け去りながら、明は口の中だけで小声で呟く。  
 時間がない。これからさらに数人の悪友たちの元を巡って、明は午後の決闘に関する偽情報を掴ませていかなければならないのだ。  
 そして明が六年生教室が連なる方面へ戻ろうと、渡り廊下へ駆け入ろうとしたとき、何かぴりっとした感覚が脳天から突き抜けた。  
「っ!?」  
 その刹那、何か黒い影が猛スピードで、渡り廊下へ飛び込む明の視界を突き抜けた。  
 咄嗟に速度を緩めていなければ顔面に直撃、明は顎から一気に天井まで突き上げられていただろう。  
「と、ととっ、ととととっ!」  
 そこで無理矢理に身を捻ってかわした明が目にしたのは、ホットパンツから伸びるすらりとした少女の脚。そのまま天井そのものを狙うかのように、その直線が突き上げられている光景だった。  
 見事に自らの顔面の直前まで、まっすぐ伸びた膝を届かせるという柔軟な関節の稼働域、そして蹴りの速さ、鋭さ、精確さ。そして何よりも遠慮というもののまったくない、鋭利そのものの攻撃の切れ味。  
 それら全てを誇るかのように傲然と、大西真理は八坂明を見下ろした。  
 ほとんど直上にまで蹴り上げたその太腿が、真理の右乳房をTシャツとスポーツブラジャー越しに軽く押しつぶしている。  
 その乳房の弾力で押し戻されたかのように、真理はゆっくりと右足を床へと戻していった。  
「てっ、てんめえええぇ……。いきなり何しやがるんだ!? 俺に喧嘩売ってんのかこのヤローッ!!」  
「はぁ……? 何言ってんの。私に喧嘩売ってるのはアンタの方でしょ、明」  
 理不尽な奇襲についてまったく何の反省の色もないまま、辻斬りよろしくその強烈すぎる最上段蹴りをくれた少女は、明をうろんに睨んでみせた。  
 腰に両拳を当てつつ、そのツンと形良く突き出した自己主張の激しい胸からのし掛かるように押し出して、真理は明を圧迫する。  
 
「明ぁ。さっきの話なんだけどさー……千晶と私の決闘。なんか通っちゃん先生が絶対させないさせないって、今回やたら張り切ってくれちゃってるみたいなんだけど……その辺のとこ、いったいどうするつもりなのよ?」  
「あー……そのー……。それはだなー、真理……」  
「それであんたに直接話聞こうとして三組行っても、どこほっつき歩いてるんだかで全然捕まんないしさー……あんた、マジで何コソコソ裏でやってるわけ?」  
 だから、それを何とかするためにいま必死こいて東奔西走してるんだよ。頼むから今は邪魔してくれるなってバカ真理――  
 明は心中でひどく毒づきながらも、素早く周囲へ視線を巡らせた。幸い近くに人通りはなく、会話内容を聞かれる心配はない。  
 ままよ、と明は思いきった。  
「真理、おまえは何も心配する必要ない。ぜんぶ俺たちに任せとけ。ちゃーんと責任持って、俺らがお前らの決闘を膳立てしてやる」  
「へぇ、本当? 本当だろうね明。もしこの期に及んで、今頃嘘なんぞ吐きくさったら――」  
「クドいぞ真理! 俺のことよりおまえは自分のことだけ心配してろっ。いいか? 集合は四時十分、この第一校舎一階の社会科準備室前だ。そこに遅れたら敵前逃亡とみなす。  
 審判兼立会人はこの俺一人、他のギャラリーは一切なしだ! 今からこの話を誰か他の奴に一人でも漏らしたら、決闘妨害の敵前逃亡とみなす! 分かったかっ!?」  
「…………」  
 明が一気に言葉の塊を叩きつけると、真理は唇をへの字に曲げて少し考え込んだ。ようやく納得したのか、両乳房の重みを支えるように腕組みしながら頷いてみせた。  
「ふーん……分かったよ。だけど、本当に大丈夫なんだろうな?」  
「甘く見るなよ、んなもん大丈夫に決まってるだろうが。お前こそ千晶にワンパンでぶっ倒されたりしないよう、せいぜい体を温めとくんだな」  
「はっ! その台詞、そっくりそのまま返すよ明」  
「あん?」  
 そこで初めて、真理は犬歯を見せて笑ってみせた。半ば苛立ちを含んだ、嘲るような笑いだった。  
「だから、肝心の千晶だよ。あいつ、何だかわかんないけど今朝から変にむくれちゃっててさぁ。何なのあいつ、今日のアレ? 私ムカつき度合いハンパないんだけど。  
 ま、あいつの事情がどうあれ、私はただ全力でブッ潰すだけなんだけどさ。あんまり歯ごたえなくても、それはそれで十分ムカつくからね。――あいつのケツ、しっかり叩いといてよね!」  
「いっ!?」  
 真理は言いながらすれ違いざま、明の尻を派手に鳴るほど強く叩いた。思わず軽く跳ね上がりながら、しかし明は、そのまま走り去っていく真理を追おうとはしなかった。  
「分かってんだよ……そんなの」  
 今さらお前になんか、言われなくたって。  
 ちらと横目で、廊下の時計を確かめる。時間はもう残されていない。  
 外部からの妨害を排除して決闘そのものを成立させるための布石、情報工作の仕込みは一通り終わった。しかし明にはまだ最大の、そして、最も重要な任務が残されていた。  
 
○17  
 六時限目。  
 あちこちの教室で授業中、教師の目を盗んでメモ書きの紙片が机と机の間を渡っていく。この四年一組の教室でも、それは例外ではなかった。  
 その内容は、言うまでもなく今日の決闘。勝者は誰か、何口賭けるかという決闘賭博。そもそも決闘それ自体があるのかないのか、あるとするなら時間と場所は、といった情報提供の呼びかけ。  
 誰もが気もそぞろに過ごすばかりの授業の中で、回覧メモへ書きこむ鉛筆の音ばかりが大きく響く。小さな紙面の白さがなくなるほどに真っ黒く、有らん限りの思いと考えが書き殴られていく。  
「…………」  
 亜沙美はそんな紙片を渡されて一瞥するや、昼休みの脱靴場で派手にぶちかましたあの頭突きで腫らした額の下で、ひどくその表情を曇らせた。  
 途端にとても抑えきれない不機嫌さが、客観的に見れば可愛らしい九歳の少女の顔立ちの中へにじみ出ていく。そこへふと目をやった隣席の男子児童が、意味もなく怯えさせられてひっとうめいた。  
「売っとんのか……?」  
 思わずそう呟いた亜沙美の眼下で、四年一組における勝敗の趨勢に関する予想は、圧倒的に谷川千晶優勢に傾いていた。  
 確かにある意味、妥当な結果と言えた。  
 実績の面でも公園戦争への病欠など、真理はここ最近いまいち締まらない。しかも『己が欲するままを為せ』と言わんばかりにエンジョイ・アンド・エキサイティングの精神にきわめて忠実に生きる真理の暴虐は、しばしば四年生の彼らをもその餌食にしていた。  
 同じいたずら者のおてんば少女ではあっても、それなりに話が通じて遊びやすく、何より無茶な暴力を振るったりはしない千晶のそれとは異なる。気まぐれかつ意地悪で凶暴な真理は多くの下級生にとって、まさしく予測不可能な災厄であり、恐怖の対象であった。  
 そんな真理に対するある種の下克上として、千晶はこの賭けで彼らからの希望を託されていたのだ。諸悪の根源、大魔王真理を倒す正義の勇者千晶。  
 これこそ、この決闘が悪童連中のみならず、どちらかといえばその被害者側の児童たちからも熱い注目を浴びる一因であった。  
 だがそんな結果が、真理一番の妹分を自認する亜沙美にとって面白かろうはずもない。  
 真理は据わった目のまま、無言で筆箱から極太マジックを取り出すと、余白すべてを占領し尽くす勢いで鼻息荒く、『絶対真理ちゃん!! 十口 亜沙美』と記名した。  
 習字の課題だってこんなに力みはしなかっただろうというほど一筆一筆に入魂し、そして『美』の字の最後の払いを止めて、亜沙美は満足げに息をついた。  
 亜沙美一人の特大文字列が紙面の三分の一近くを占拠したせいで、この紙だけをぱっと見れば、真理支持者が優勢と見れないこともない。だが、これでいいのだ。  
「ふぅ……」  
「あ、亜沙美ちゃん……」  
 一仕事やり遂げた表情で椅子に背中を預ける亜沙美に、さっきの気弱そうな男子児童が話しかけてきた。いつも以上に青ざめた、景気の悪そうな顔だった。  
「……ぁに? あんた。あたしになんか文句あんの?」  
 隣の席で不景気な顔をされるのが気にくわないという理由だけで、しばしば亜沙美から理不尽な暴力を受けているその少年は、亜沙美の眼光を受けてさらに情けなさそうにその表情を歪めた。  
「そ、そうじゃなくて……」  
「ならなんだってのよ?」  
「そうか……『絶対真理ちゃん!! 十口 亜沙美』か……」  
「そうそう、絶対真理ちゃん! 当たり前でしょそんなの……ん?」  
 椅子から身を乗り出して食いかかりながら、背後に気配を感じて亜沙美はその場で立ち止まった。  
 嫌な汗が背中を流れる。  
「…………」  
 ゆっくりと亜沙美が振り向いたその先で、ジャージ姿の担任教師が無表情に亜沙美を見下ろしていた。  
 途端に静寂を取り戻した教室から、特大のげんこつが落ちる音は、廊下にまで重たく響いた。  
 
「何やってんだ、あいつ……?」  
 髪を結い上げた頭を涙目で押さえて、机に突っ伏す亜沙美。そんな彼女の姿を窓越しに認めながら、彼女の宿敵、バンこと板東宗介はポケットに片手を突っ込んでその廊下を通り過ぎる。  
 彼が向かうのはそうした授業風景から離れた、男子トイレの個室だった。  
「さてと。何はなくとも、まずは情報情報、っと」  
 便意を装って自然に教室を離れたバンは、教師や同級生らの目を盗んで密かに持ち込んだ携帯電話をそっと開く。彼はそのまま手慣れた動作でブックマークを開き、さらにパスワードを入力して、そのサイトにログインしていく。  
 バンが真っ先に目指したのは、サイト内の掲示板だった。  
 そこには既にいくつものスレッドが乱立し、あるものは必死に情報を求め、またあるものは己の推測をめいめい好き勝手に並び立てている。  
 しかしそれらのスレッドの多くは、今日――それも昼休み以降から急速に乱立しだしたものだった。テーマはいずれも共通している。  
『西小最強巨乳女子決定戦、本日開催!!』  
『西小学校最強生物予想スレ』  
『通子先生がすごい張り切ってるけど、この決闘本当にあるの??』  
『【お前ら】六年女子頂上決戦情報まとめスレ【教えろ】』  
 昼休み、瞬く間に西小学校の校内を駆け巡った二人の六年生女子による決闘の情報は、過去最大級の瞬間風速を教室の風景にも、そしてオンラインの場にももたらしていた。  
 西小学校裏サイト。瞬時にして西小学校生徒の大多数にとって最大の関心事と化した決闘騒ぎに関する最新情報を求めて、携帯電話を持つ児童らからの大量のアクセスがここへ集中していたのだ。  
「なーんか今回、千晶ちゃんも明くんも歯切れ悪いしな。だからって周りに聞き込んでも、事情知ってる奴とかろくにいねーし……」  
 千晶に対して憧れの念を強く抱くバンにとって、やはり今回の決闘は決して見逃すことの出来ないイベントだった。真理と千晶の衝突は今までも繰り返されてきたが、今回ほど本格的なものは前代未聞だったからだ。  
 しかし、情報がない。  
 当事者たちは藤原教諭の介入を恐れてか、偽情報をばらまこうとしている節が見受けられたし、ならばと身の回りの友人たちにもほとんど総当たりで仕掛けたものの、めぼしい情報はほとんど何も得られなかった。  
 そして、時間もない。あの真理の性急さを考えれば、約束した放課後よりも後回しになるとは考えにくいからだ。  
 まずかった。昼休みには亜沙美やマユ相手に啖呵も切ったが、その後、彼自身が遠目に見た千晶はなぜか今までにないほどに消沈し、およそいつもの覇気というものがなかった。  
 大西真理を相手に雌雄を決するこの日に、彼女はなぜか普段の元気を失っているのだ。  
 なればこそ、今こそ。この自分が決闘のまさにそのときにそばについて、声援を送らなければなるまい。  
 そこで希望を託したのがここだ。匿名性を前提として数々の情報がタレ込まれてきたこの西小裏サイトならば、ひょっとして今回の情報も入手できるのではないだろうか?  
 だが長居は無用。わずかな時間のうちに最大の情報を得るべく、バンは次々とリンクを辿りながら素早くページを送っていく。  
 ふと隣の個室からもキーボードを操る機械音が聞こえてきていることに気づいて、バンは苦笑した。どこの誰だか知らないが、とにかく今は皆がこの情報に夢中らしい。  
 中にはいい加減な憶測に基づき、今日の決闘はやっぱり中止だの、いいやどこそこで強行実施されるだのと好き勝手に書き散らしている連中もいる。  
 だが、そうした手合いはすぐに他の連中から的確な突っ込みを受け、結局はろくな反論も出来ずにそれきり黙り込んでしまうことがほとんどだった。  
 
「なんだよ、ゴミばっかじゃん――お」  
 そんな彼が、不意に出会った記事で指を止める。いま書き込まれたばかりの記事だった。  
 この掲示板への書き込みは匿名が原則で、皆が実名ではなくHNで行っている。  
 それでもここで使用されるHNの多くには継続性があり、なりすまし防止用のトリップの存在もあって実際の個人情報が分からなくても、書き込み者各人をある程度まで客観的に識別することは可能だった。  
 そしてそこへ唐突に、今までこの話題にはまったく噛んでいなかったHNがその一件だけ、決闘に関して言及していたのだ。  
 それは、彼には見覚えのある――というより大多数の西小裏サイト利用者たちにとって、決して忘れられないHNだった。  
 彼あるいは彼女はどこのスレッドにあっても、常に短切明瞭な発言で物事の本質を言い当てていた。  
 たとえ場が荒れそうになったときでも、他とは明らかに一線を画するその知識量と論理性をもって鮮やかに、場の空気を本当にがらりと変えてしまう。  
 西小裏サイト以外にも携帯電話を通していくつかのオンラインコミュニティを渡り歩いている彼は、そのHNの存在こそがこのサイトの空気を常に一定の正常さに保つための不可欠の要素であることに気づいていた。  
 その正体についてはしばしば話題にも上がり、詮索する者も後を絶たない。しかしオフラインの世界でそのHNの主を捜そうとしても、その痕跡を掴むことは誰にも出来なかった。  
 そして、そのHNが時に予言者めいた精度で、未来に起こる何かを言い当てたことも、決して一度や二度ではなかった。  
 そうした大胆さと繊細さも、そのHNへと皆が抱く神秘性をかき立てる働きを示していたのだ。  
 そして今、一部では管理人の別HNではないかとも言われるそのHNが、決闘の日時と場所について触れていた。  
 教師たちの意識と行動導線からの死角、癇癪玉である真理が許容しうる範囲、偶発的な妨害要素の不在、決闘場としての素養、西小からの距離と立地。  
 それら数々の必須要素を綿密に分析した末に導き出された、真の戦場となるべき資格を備える場所――彼が言い当てる、その決戦場とは。  
「――本命は……、横穴公園か!」  
 拳を握りしめ、快哉をバンは叫ぶ。間違いない、これだ!  
 申し訳程度に便器へ水を流し、何食わぬ顔で携帯を隠すと、バンは身を翻して教室への廊下を軽快に駆けていった。  
 その足音が遙か彼方に遠のいた頃、バンの入っていた隣の個室でも水が流れた。扉が開く。  
 キーボード付きの携帯電話をポケットに隠しながら、岸武志はスポーツグラスの具合を直した。  
「ま、こっちの細工はこんなものかね……。あとは結局……あいつ次第だな」  
 
○18  
 六時限目が終わった。  
 帰りのHRを前に、校内は再び喧噪に満たされる。数百人の西小児童たちが一斉に教室から解き放たれて校内へ溢れ、班ごとにまとまって割り当ての場所を清掃していく。  
「千晶。行くぞっ」  
「…………」  
 他の班員らとともに教室を掃除していた明と千晶が二人で一つずつ、いっぱいになったゴミ袋を手にしてゴミ置き場を目指していく。  
 ただそうして二人で校内を歩いているだけで、いつにも増して皆の視線を集めていることを明は意識した。  
 ほんの昨日、千晶がその胸へたわわに実った巨乳の存在を明らかにしたときとはまた種類の異なるそれが、あらゆる角度から二人を取り巻いていることを。  
 とはいえ、それらの視線自体はむしろ明にとっても千晶にとっても、ごく慣れたもののはずだった。  
 あまりにも女らしすぎる、衣服の下からでもはちきれんばかりの美と性の魅力とを放散する千晶の巨乳へと突き刺さるそれとはまた違っている。  
 いま二人に注目している児童たちは、西小学校をかき回す台風の目――悪童どもの中核・八坂明と谷川千晶の二人組が今度はいったい何をやらかすのかと興味を湧かせて、その手に汗握る注目の視線を二人へ注いでいるのだった。  
 今までの二人がいつもそうして、彼らの期待へ応えてきたように。  
 だが今の千晶はむしろ、その巨乳が持つ圧倒的な存在感へと注がれる不躾な視線より、それら今までさんざん慣れていたはずの、二人の暴れ方に期待する視線の方を恐れているように明には感じられた。  
 ゴミ収集車の巡回を待つ鍵付きゴミ置き場に袋を放り込むと、明は不意に復路を変えた。教室へまっすぐ戻らず、千晶を導きながら第三校舎の裏手へ駆け込む。  
「……よし」  
 覗き込めば、ここの掃除担当はすでに姿を消していたようだった。人気のないその日陰へ千晶を連れ込み、明は間近で彼女に囁く。  
「さーて。すぐ邪魔も入ることだし、せいぜい二、三分しか時間なんて取れないだろうけど……真理と本気でやり合う前に、ここで最後の仕上げをやっとこうぜ。来いよ千晶。もっぺん相手してやるっ」  
 パンッ、と小気味よい響きを掌へ打ち込んだ拳で鳴らし、そのまま一気に跳びすさって、明は千晶へ身構えた。  
 しかし、千晶は反応しない。もはや身構えようとすらせず、ただ虚ろな表情で頑なに地面の一点を見つめたまま、唇を堅く結んでいる。  
 そして、言った。  
「……もう……」  
「へっ?」  
「もう、……いいよ、明。ボクになんか……もう、鎌ってくれなくたって」  
「――千晶」  
「悪いけどもう、やる気、出ないんだ。真理のことなんかどうでもいい。今日の決闘だって二、三発適当に殴られておけば、真理だってそれで勝手に満足するでしょ。  
 どうせ真理なんて、ただのバカだし。……あんなのとまともにつきあう気なんか、もう、ボクにはないよ」  
「千晶……、お前――」  
 その一言一句が、明の意識を急速に冷やしていく。  
 今朝から今の今まで、千晶がずっとその胸の奥に押し殺していた思い。ついにその直接の吐露を受けて、さすがに明は息を呑んだ。  
「お前……それは。それは、本気……なのか」  
「…………」  
「なんで……なんでだよ! いつもみたいに、あんな腕っ節だけが取り柄のアホ真理なんか、思いっきりブチのめしてやりゃあいいだけじゃんかよ。俺たち――俺たち、ずっとそうしてきただろ!?」  
「…………」  
 数秒の沈黙の後、千晶はゆっくりと頭を振った。そして千晶は絞り出すように喉を震わせて、その核心を胸の奥から拾い上げ、捧げる。  
「うん。そうだね……今までありがとう、明。でも、ボクはこれからは、もう……そういうことは、しない。決めたんだ。昨日までみたいなことは、ボクは、もう――」  
 
「嘘だ」  
 千晶の言葉を、最後まで言わせずに明が切り捨てた。有無を言わせない、何より強い一言だった。  
 明はそのまま猛然と間合いを詰める。棒立ちのまま、逃げようとも迎え撃とうともしない千晶の目の前へ飛び込む。  
 彼女の両肩を明は掴んだ。そのまま身体ごと強引に押し込んで壁へ、第三校舎の壁へ千晶の背中を押しつける。  
「お前……本当に、それでいいのか?」  
「……そうだよ。ボクにも明にも、きっと、こうするほうがいいんだ」  
「嘘だ」  
 逃げ場を封じて繰り返しながら、明はさらに身体を寄せた。右肩で千晶の頬を押しやって目の前に寄越し、前髪と息の触れ合う距離で、籠もった熱のすべてをさらす。  
「本当は……お前、本当はそうじゃないだろ? お前は――千晶はいつだって俺たちと一緒に、無茶なイタズラや喧嘩をするのが好きで、本当に根っから心底大好きで、だから俺たちといつも一緒に遊んでた。保育園からそうだった。  
 でも……でも、それは。お前のことだけじゃないんだ。俺だって一緒なんだ。  
 俺もバカな遊びが大好きで、東小と戦争したり、先生にイタズラ仕掛けたり、それで滅茶苦茶に怒られたりするのに、それが本当に楽しくって……でも、それには、お前がいなきゃダメなんだ。きっとお前が一緒にいなきゃ、俺は何やったって楽しくないんだ」  
「だけど――だけど、明。ボクは――ボクはもう、こんな身体で。今までとはもう何もかも、ぜんぜん違っちゃってて。やっぱりみんなももう、今までと同じようには見てくれなくて!」  
「もう忘れたのかよ、一昨日の約束!」  
 耳元へ叩きつけるように明は吠えた。  
「俺が、いつもお前の側にいる。ほかの誰が何を言おうと、何をしようと、お前の嫌な奴らはみんなお前と一緒にやっつけて、何でも一緒に乗り越えていく。そのためなら、俺は何でもする。いつでも側にいる! だから――」  
 瞳の奥が熱い。気づけば、いつしか息を呑んだまま、千晶は明の瞳を真正面から見つめていた。  
「……だから、千晶。これからもずっと、俺と一緒にいてくれ。お前も俺の側にいてくれ。俺は、嫌だ。お前と……お前と一緒にいられないなんて。そんなの絶対に、俺は、嫌なんだ」  
「……明」  
 壁へ張り付いていた千晶の両手が、そっと明の背中へ回った。  
 彼女を壁へ戒める明の腕力へ抗するように、んっ、と小さく唸って出したその力で、千晶は明に身体を寄せる。  
「……明は、しょうがない子だなあ」  
「なっ……何がだよっ!」  
 布の器に盛りつけられた二つの果肉が、少年の胸板でゆっくりと潰れていく。三枚の布地越しになお感じる頂の尖りが自らのそれに重なり合うのを感じながら、明もまたその両腕を千晶の腰へ回した。  
「んー……明がそんな風に言うんだったら、しょうがないよね。えへへ。やっぱり明って本当に、ボクがいないとダメな子なんだね」  
「お……お前なあぁっ!!」  
 生命の鼓動を、熱い体温を、汗と息吹の湿りを、肉の重さと柔らかさを、二人は間近で感じあう。共有しあう。  
 幼馴染みの異性の親友の、その存在を数十秒にわたって互いに確認しあった末、千晶は明の背中で小さく呟いた。  
「ありがと。明」  
「……おう」  
「ボク、頑張る」  
 
○19  
 西小学校職員室。六年生担任教師島。  
 今そこには学区内を中心にした市内地図が展開され、さらにその上へ無色透明のビニールシートが被せられて、マジックで各種の情報が書き付けられていた。その情報量は、すでに軍用地図の域に達している。  
「いいですか、丸川先生? 先生は自転車で、このルート上の巡察をお願いします」  
「はあ……」  
「私はこのルート上を巡察します。何か異常が発見された場合は、すぐに携帯電話で連絡してください。PTA有志の方や協力児童らからの情報にも、逐一耳を傾けてくださいね」  
 藤原教諭が悪童軍団相手に戦争を始めるらしいという情報は、職員室中に聞こえていた。丸川は校長や教頭、学年主任らの方もちらりと窺ってみたが、どうやら誰も止める気はないらしい。  
 聞けば自分以外にも、藤原教諭の影響下にある何人かの教師が動員されているらしい。校内にも校外にも張り巡らされた監視網は、悪ガキ少女二人の決闘を決して許しはしないだろう。  
「――それにしても藤原先生。いったいなぜ今日なんです?」  
「何が、ですか?」  
「い、いえ……うちの悪ガキどもを指導するのは、今までだってずっとやってきたはずですし。それがどうして今日はここまでやるのかな、と……」  
「…………。谷川さんは昨日、重大な決断をしました。その身体の女性としての成長と真摯に向き合い、新しい人生への第一歩を記すという決断です。これは彼女にとって、またとない更正の機会となるでしょう。  
 それに今の彼女にとって、今までのような危険な遊びを続けることは、著しくリスクが大きすぎます。今の彼女は、あまりにも……性的に魅力がありすぎますから。  
 よって。止めるならば、今しかないのです。何事においても、肝心なのは最初です。機先を制することが、何よりも重要なのです」  
「はあ……」  
「それから」  
 未だにピンと来ない風情の丸川にきつい視線を刺すと、藤原は話題をもう一人の当事者へ転じた。  
「今回の決闘云々を言い出した、大西真理さん。丸川先生が担任の彼女についても、この対策は重要なのです。  
 大西真理さんは確かに激高しやすい性格ですが、同時にそれだけ冷めやすい性格でもあります。  
 彼女が強く要求したという、今日放課後中の決闘――今日の徹底的なマークでこれさえ阻止することが出来れば、彼女はそのまま忘れてくれるでしょう。今までの経験上、私はそう見積もっています」  
「な、なるほど。確かに……」  
「大西さんへの抜本的な指導は、おいおい実施していくとして……いずれにせよ、今日は決戦です」  
 机上に両肘を突き、鋭い視線の前に両手を組みながら、藤原教諭は宣言した。  
「そう。本日この日をもって、谷川千晶さんは普通の女の子になるんです。いいですね、丸川先生。――そして、国東さん」  
「……はい」  
 丸川の隣に立つ長身の落ち着いた美少女へ和らいだ視線を移し、藤原通子は自らの教え子へ微笑みかけた。  
「あなたが積極的に協力してくれると聞いて、とても嬉しく思っています。一緒に谷川さんが正しい道へ戻るお手伝いをしてあげましょうね」  
 
○20  
 そして、放課後が訪れた。  
 岸武司と高橋貫一の二人に引かれて、下校する児童の波へ逆らうように、二台のリヤカーが西小構内の裏手を行く。  
 校門と逆方向の裏手だけあって人通りは少なかったが、それでも出くわした何人かの男子が声をかけてきた。  
「――あ? あれ、岸君何してんの?」  
「早川先生に頼まれて、教材運びの手伝いだよ。ま、学級委員長は辛いってとこだな」  
「ふうん。で、そっちのカンチは?」  
「学級委員長の友達も辛いってとこだな……」  
「うはー、お疲れさんだな。――しかしお前ら、いいのか、アレ見に行かなくて?」  
「アレ? アレって?」  
「いやだから、谷川と鬼マリの怪獣大決戦だよ! なんでも横穴公園の裏手の林で、四時二十分から始めるらしいぜ。今から急がないと間に合わないぜ!」  
「横穴公園? なんだ、そういう話になってるのか?」  
「まあ噂だけどな。通っちゃん軍団の徹底マークを回避しつつやるには、確かにあそこぐらいしか無ぇよなって話さ。  
 高台公園は一昨日の戦争で使ったばっかだからマーク厳しいけど、横穴の方はほぼノーマークだからな。それにあそこ、鬼マリのホームグラウンドみたいなもんだし」  
「こいつは見逃せないでしょ……! んじゃ、俺ら先行してっから!」  
「おう。うまく見れたら教えてくれよ」  
「分かってらっての!」  
 ランドセルをバタバタと響かせながら駆け去ると、カンチは大きく息をついた。その後は誰とも出会うことなく、第三校舎の通用口にリヤカーを付けて鍵を開け、リヤカーごと進入させる。  
「よーし。……もういいぞ、お前ら」  
 リヤカーに小さく声をかけながら、岸はカンチと退出して、再び通用口を施錠した。そのまま立ち去っていく。  
 その二人の気配がじゅうぶん遠のいたころ、リヤカーを覆うビニールシートがのそりと動いた。  
「うんせっ、と」  
 片方のビニールシートから千晶と明が、そしてもう片方から真理が顔を出す。犬歯を剥き出しにして真理が笑った。  
「へぇ……? こういう趣向もたまには悪くないね。岸もたまには面白いことを考えるもんだ」  
「……岸の考えることはだいたい、いつでも真理の変な考えより面白いよ」  
「あんだとぉっ!?」  
 ぼそ、と呟いた千晶に、真理が剣呑な殺気を突き刺す。明が呆れて仲裁した。  
「どーどー、どーどーどーどー。お前ら気が早すぎ。ちゃんと決闘場所まで案内するから、それまでお互い手ぇ出さずに着いてこいよ。……言っとくけど、ここで立会人兼審判の俺に逆らったらそこで速攻不戦敗な」  
「ちっ……まあいいや。どうせ千晶はもうすぐ、嫌でも私に叩きのめされるんだからね」  
「はいはい。さ、順路はこっちですよー」  
 階段を上がり、多目的学習室の戸を開く。畳張りの広大な一室は無人のまま、静かに二人の少女決闘者を待ち受けていた。  
 軽く礼して入室すると、その中心に明は立つ。明が指さすままに従って、二人の少女が互いに六歩の間合いを取った。  
 
「ルールは簡単。武器の使用はNG。最後まで素手だけで戦うこと。危険な場合、勝負ありと見なした場合は俺が止める。……まあ、お前は普通に止めても言うこと聞かないだろうから、普通に実力行使ってことになるだろうけどな」  
「おう。分かってんじゃない」  
「そこで胸を張るな胸を。勝敗はさっきの反則があったとき、どちらかが負けを認めたとき、あるいは俺が勝負ありと認めて止めたときに決まる。OK?」  
「ふん、明。てめー、絶対に八百長なんざすんじゃねーぞ!」  
「や、八百長って、お前……意味分かって言ってんのか?」  
「バカ」  
「……? 何だってんだよ」  
「…………。まあ、いいや。準備いいか? いいならそろそろ始めるぞ。――両者、構え!」  
「はっ!」  
 裂帛の気合いとともに、真理が勢いよく半身に身構える。さながら獣の躍動を思わせながら、しなやかな四肢に力がみなぎる。  
 対する千晶は無言のまま、だらりと両手を脱力させて垂らしたままだった。先ほどからの気だるげな態度といい、これは戦意があるかどうかも怪しい。  
「…………。明ぁ……私さっきさ、ちゃんとやる気にさせとけって言ったよねぇ……?」  
「…………」  
 二人からの返答はない。真理のこめかみに青筋が立つ。  
 つまんねー……。適当にボコって終わりにするか。ていうかそれ以前に、なんかワンパンで終わりそうなんだけど。  
 まあ、いい。千晶の思惑がどうあれ、自分は千晶をぶん殴り、そして完全に自分が千晶より強いということを証明できさえすれば、何だっていいのだ。  
 今までの余裕、後悔させてやるよ、千晶――  
「――はじめっ!」  
 ばっ、と真理の素足が畳を蹴った。  
 一瞬で間合いを詰めて、拳を振り上げながら猛然と千晶へ迫る。  
 腰を基点にして上体を回し、遺憾なく体重のみならず突進の勢いまでもを乗せた一撃を、容赦なく棒立ちのままの千晶へ放つ。  
 勝利を確信して、真理が獰猛な笑みを浮かべたその瞬間。  
「やっぱり正面っ!」  
「なっ!?」  
 やにわに千晶の表情へ生気がよみがえり、喜色いっぱいの声を聞いたと思ったそのとき、真理の眼前で打撃音が弾けた。  
 跳ね上がった千晶の前腕で受け流された真理の右拳と、そして、その向こうでいっぱいに身体を捻りながら来る千晶の右拳を真理は目撃する。  
 やばっ、  
「カウンターっ!」  
 千晶が返した必殺の迎撃が、真理の打撃と一つながりの打撃音を響きわたらせた。  
 

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