○1
「みんな、おはよーっ!」
「おう。明に谷川、おはよー」
「谷川さん、おはよー!」
西小学校、六年三組の教室。いつも通りの時刻にいつも通り二人で登校してきた谷川千晶と八坂明は、クラスメイトたちと挨拶を交わしあいながら席へ向かった。
その豊満な曲線を初めて露わにしてしまった昨日の登校時にはさんざ目を引き、教室中から男子たちの露骨な欲望の視線をすべて集中させてしまった千晶の胸。
しかし昨日繰り広げた一連の大騒動とその事後処理の甲斐あってか、今朝の教室において彼女を迎えるそれは、さほど不快なものではないようだった。
むろん周囲から興味や憧憬の視線が、今日も相変わらずTシャツの布地を巨大な質量でツンと突き上げてしまっている、二つの隆起に注がれてしまうのを完全に無くすことは出来ていない。
しかし、皆はもう知っていた。そのまったく小学生離れした圧倒的な存在感の巨乳を備える少女は、あくまでも今までと変わらないあの谷川千晶であり、明朗闊達な自分たちの友人であるという事実は何ら動かない、ということを。
そうした認識があの大騒動の前後を通じて徹底されたことで、千晶にとっても昨日ほどの不快さは与えられてはいないようだった。
また、彼女は他にも対策を講じてきている。
今日の千晶の服装はいつものハーフパンツに、正面にプリントが施されたTシャツ。その胸を飾る黒を基調にした洒落たプリントは大きく、かつ厚手で、汗に濡れても下着の線をそう簡単には透かさない。
それにその下、乳房自体を直接包むブラジャーについても、今日の千晶は改良を加えていた。運動に伴う巨乳の揺れと弾みを少しでも抑えるため、二枚重ねにしてきたのだ。
昨日出会った東小の爆乳少女、作倉歩美から学んだ教訓である。これで注文しているスポーツブラジャーが届くまでの間、千晶は体育の時間やその他の遊び、喧嘩の類を間に合わせるつもりだった。
「どう、明? 防御力も機動力も、これでだいぶ上がったよね。もう昨日みたいな失敗は繰り返さないよ!」
今朝の出会い頭にはその場でくるりと身を翻し、大きく突き出した乳房を昨日の揺れ幅よりはいくぶん小さく、しかし確かに柔らかそうにたゆんと弾ませながら、両拳を力強く握りこんだ千晶はそう笑ってみせたものだった。
確かに巨乳解禁初日となった昨日、初めての不慣れな服装で過ごした一日は万事が散々だったと明は思う。
一日にして急膨張したようにみえた千晶の胸をイタズラだと誤認して、学級委員長の国東真琴が千晶の巨乳を鷲掴みにした。しかもそれが本物だったことでパニックに陥り、一気にブラウスを引きちぎるように脱がせてしまった。
前をボタンで留めるブラウスなどという、取っ組み合いのことなど何も考えていないような防御力不足の上着など着てきたからだが、何もかもが準備不足だった昨日の時点ではやむを得ない選択だったらしい。
乳房の存在を隠すためにきつく締め付けて押しつぶすのを止め、素直にブラジャーの中でそのままの形と大きさを保たせるようにしたことで、千晶の体型は激変した。
そのため胸周りは実に20センチ近くも大きく前へ張り出して、今までの夏物衣料はほとんど使えなくなってしまっていたのだ。
それで母の遺品のブラウスを押入の奧から急遽引っ張りだしてきたのだったが、いかんせん、やんちゃな悪ガキライフを漫喫中の千晶にとって、あれは脆弱すぎる衣服だった。あの有り様では、東小との戦争をはじめとする戦いの日々には使えないだろう。
それに普通のブラジャーだけでは乳房の揺れを抑えきれず、千晶が全力疾走すれば激しく波打って邪魔になり、また、激しい格闘戦を展開するときには乳房から丸ごと外れて、その本丸を剥き出しに放り出してしまいさえもした。
そんなわけで昨日の夜も千晶は父親と買い物に出かけ、毎日二枚重ねにするための追加のブラジャーや夏物の上着をあれこれ買い足してきたのだった。
二枚重ねのブラジャーに、厚手のプリントを正面に大きく施したTシャツ。今度こそその堅牢な守りを得て、いささか自己主張の激しすぎた千晶の巨乳も、今日はだいぶおとなしい風情で静かに息づいている。
「どうかな、明。これで胸を苦しくしないままで、また一昨日まで以上に戦えるようになったんじゃないかなっ?」
「まあ、そうかもしれんけどな……」
自信満々に鼻息を荒くしてみせる千晶を前に、うーんと唸りながら明が言った。
「ま、まだ何もかも二日目だしな。いろいろ試行錯誤しながら、今後も逐次やり方を考えていこうぜ。必要なことがあれば俺も何でも協力するし、他にも頼める奴らはいるしな」
「んー……そうだね。じゃあ明、今日の放課後あたりさ、またいろいろ実験してみようよ? スパーリングとか、今の状態でどれだけ戦えるかも知っておきたいし」
「ああ、そうだな。それならそれで、場所と面子をどうするか――」
考えながら千晶に言いかけて、明が自分のランドセルを席へ下ろそうとしたその時。
脱靴場へと続く階段の方から凄まじい勢いで駆け上がってきて、さらに猛然と廊下を爆走する上履きのけたたましい足音が、教室の外から響いてきた。
その勢いのまま叩きつけるようにして、隣の六年四組で扉が開く。
「大西真理復ッ活ッッッ」
そして脈絡もなく、その突入者が壁の向こうで大声で叫んだ。
「大西真理復ッ活ッッッ」
「大西真理復ッ活ッッッ!」
一人で同じ科白を何回も叫び続けながら、声の主が四組をドタバタと駆け回る足音ばかりが壁越しに三組へ聞こえてくる。
明と千晶が同時に、かなり嫌そうな目で互いの顔を見合わせた。
「大西真理復ッ活ッッッ」
「うるせー鬼マリっ!! 病み上がりの朝からわけわかんねーこと叫んで暴れてんじゃね、ぺごらっ!?」
「大西真理復ッ活ッッッ!!」
勇敢な誰かが暴徒の前に立ちはだかろうとして、あっさり殴り倒されたらしい。派手な打撃音と転倒音とともに、隣室じゅうを縦横無尽に駆け回る足音がなおも続いた。
そして一通り六年四組に騒音と奇声をまき散らした後、彼女は蹴飛ばすように扉を開けて、六年三組に突入してきた。
「大西真理、復ッ活ッッッ!!」
「いや、もう十分分かったからさっさと帰れよ」
「帰れ、帰れー」
汗に濡れたストレートヘアの黒髪を跳ね上げさせ、息を荒げながら突入してきたその女子に、明と千晶は揃って冷たい視線と言葉をぶつけていた。
○2
西小学校六年四組、大西真理。
その荒い気性と喧嘩っ速さから鬼マリとも呼ばれる彼女は、千晶と明にとっては幼稚園以来の幼馴染みである。幼馴染みではあるのだが、その関係は千晶と明のようなきわめて友好的なそれとはまったく異なる。
真理は特に千晶との間で、もはや宿敵とも言える長年の敵対関係にあった。
理由はよく分からない。単に相性の問題か、過去に関係を決定的にこじらせてしまうような偶発的な何かがあったのか、同じく悪ガキ男子的なメンタリティを共有する少数派の女子同士として、激突せざるを得ないのか。それはもう今となっては、本人たちにすら分からない。
だがいずれにせよ、誰にでも分かることが一つ。
谷川千晶と大西真理は水と油。取扱注意、混ぜるな危険。
とにかく一触即発なのだ。この二人を一緒にさせたまま放置しておくと、ほとんどの場合は喧嘩が発生する。しかもお互い、西小が誇る最高級の戦力なのである。それは壮絶な戦いで、そう簡単に止められるようなものではない。
だから西小の総力を挙げて東小と雌雄を決さんとしたあの公園戦争当日の朝、真理が高熱を出して病欠したことを聞いたとき、皆は密かに安堵した。
彼らは真理という強大な戦力が欠けることより、その強大な戦力が敵前で、千晶相手の潰し合いをはじめる可能性を危惧していたのだった。
「まあ、別にいいや……。真理、もう熱はいいのかよ。お前が二日も休むなんざ滅多ないよな」
「ははっ! あんなショボい風邪で、この私がそう何日も止められるかよ! 風邪ごときは気合いと根性だけで治す! 九度の熱でも景気付けに腕立て50回こなしてやったぜ!」
「ンなことしてっから治り遅ーんだよ!」
「ねえ、やっぱりキミってバカでしょ?」
「抜かせ! とにかく私は治った! 風邪との戦いに勝った! 大西真理、復ッ活ッッッ!!」
「だからそれはもういいっつってんだろがアホ真理!!」
「さっさと帰れ!!」
二人からの罵声を浴びながらも、真理が得意げにTシャツの腰へ両手をやって偉そうに身体を反らせば、その胸には布地を突き上げる二つの膨らみが誇らしげに重く弾んでみせている。
かつて三組の国東、四組の大西と密かに言われていたように、大西真理は凶暴な女悪ガキであると同時に、西小を代表する巨乳少女でもあった。
そして何事にも厳格で、決して無闇には肌を曝そうとしない国東真琴と異なり、真理は奔放――というか、むしろ万事が適当でがさつな性格だった。
体育の着替え時間などではまったく何の遠慮もなく、四組の男子クラスメイトたちの前でその早熟な乳房のきわどい姿を平然と曝け出していた。
キツくつり上がってひどく勝ち気な印象を与える目、赤い唇から威嚇するように飛び出す肉食獣のような犬歯、肩より長く伸びたストレートの黒髪、すでに160センチを超える国東真琴ほどではなくとも、11歳にして155センチに迫る長身。
そして何よりもその胸に実りを結んだ、手のひらいっぱいほどの大きさもあろう二つの乳房。
そうした野生的な美貌の片鱗を見せはじめている真理の無遠慮な半裸は、男子たちの度肝を抜いて羨望や欲望の的にされてはいたが、真理本人はほとんどそうしたことに気を回さなかった。気づいてすらいないこともあった。
さすがに自分を無遠慮にジロジロと見ている奴がいようものなら、真理も鋭い視線で睨み返しながら一気に距離を詰めて向かっていくのだが、それだって本人の言葉を借りるなら、『なにガン飛ばしてくれてんだよ?』というだけのことである。
胸を見られること自体には大して頓着していないらしい。
真理も数年前から次第に大きく膨らんできた乳房の存在については何とも邪魔だなと苦々しく思っていたし、毎朝付ける下着が一枚増えたことについても鬱陶しがっていた。
だが逆に言えば真理にとって、自分の胸で急激な成長を見せはじめた乳房の存在など、その程度のものでしかなかったのだった。
少なくとも今日、この日までは。
「……うん?」
反らしていた胸を戻しながら、何かに気づいたように真理が呟く。目を瞬かせ、彼女はじいっ、と千晶を見た。
より正確には、千晶のTシャツを自分のそれより一回り以上も大きく派手に押し上げている、その胸の内側に詰まった何かに。
「ああ、このパターンは……」
危機を予測した明が動くより早く、真理が無遠慮に、しかし獲物を狙う蛇のように素早く容赦のない動きで手を伸ばした。
しかし真理の手が目標へ届く寸前、待ちかまえていた千晶の前拳がパンと軽やかにそれを跳ね返し、本人も間合いを切って後方で身構えた。
昨日の対真琴戦からの教訓か、この展開を予測していたらしい千晶が、つまらなさそうにフンと鼻を鳴らす。
にも関わらず、真理は伸ばそうとしていたその掌をその場で意味もなく数度開閉させ、千晶の胸を見て、千晶の顔を見て、明の顔を見て、自分の胸を見て、最後にまた千晶の胸を見た。
気抜けした声で呟く。
「何それ?」
呆気にとられて呟いた真理に、千晶はただフンと鼻息を鳴らしてそっぽを向くだけで、何も答えようとはしなかった。そうするうちに真理もまた、千晶ではなく明の方に視線を戻した。ぽかんとしたまま、しかし何かを目で訴えている。
ひょっとして、これは俺の仕事なのか?
「あー、その。これは、実はな……」
千晶と違って真理から特別に敵視されているわけではない明は、その場の空気を読むと渋々前に進み出て、千晶の事情を説明した。
「ウッソだぁー。そんなこと、あるわけないじゃーん」
「いや、だからな……」
最初は笑い飛ばそうとした真理だったが、明だけでなく千晶本人、そして周囲の三組クラスメイトたちの態度と反応を見るうちに口許の笑みが薄れていき、最後には完全に消えた。
「え……? じゃあ、千晶……アンタのそれ、マジで、去年からずっと……?」
「こんなことなんかで嘘ついたりしてどうすんのさ。真理と違って、ボクはそこまで幼稚じゃないですー」
憮然としたまま口を尖らせ、挑発するように言ってみせる千晶。しかし真理はあまりのことに、再び半分魂が抜けたようになってしまっていた。
真理の脳裏に去来するのは、例年の身体測定。
小学校低学年までは大差なかった、真理と千晶と明の身長。しかし中学年に入る頃、そこには明らかな差が生まれはじめた。
真理が一頭地を抜いて伸びはじめたのだ。せいぜい同級生たちの平均ぐらいでしかない明と千晶を差し置いて身長を伸ばした真理は、身体測定の度に得意満面で千晶を上から見下ろしてやったものだった。
以来、千晶への体格的優位は、真理にとって自尊心を構成する主要な柱の一つとなっている。
負けた?
別にどうでもいい一カ所でのこととはいえ、この私が身体の大きさで、千晶に負けた?
さらにじいっ、と真理は俯いて、自分の胸板からTシャツの布地を突き上げる二つの脂肪塊を見下ろす。
確かに、何の役にも立たない代物である。
無駄に重いし、揺れるし、動きの邪魔になるし、何も下着を付けずにいると、先っぽが布地に擦れて痛くなるし。
真理はその存在を疎ましく思い、なんとか小さくできないものかと策を巡らせたこともあった。しかしそれらは効果なく、いま現に結果としてあるのが真理の胸に育ったその巨乳である。
今まではただの邪魔者だった。周りの女子たちを見渡しても、全然ない奴の方が多いのに、なぜ自分だけこうなるのかが分からなかった。
その存在はただ疎ましいだけで、実力伯仲する千晶との戦いにおいて、不本意なハンデとして存在しているものだったのだ。
だが、今。
それと同じものが、あの千晶の胸にある。しかもなぜか、自分のそれより一回りも大きな威容を誇りながら。
つまり、……これは、あれか。
今までの一年間、千晶は自分のそれよりもずっと大きく膨らんでしまった乳房の存在に悩まされながら、それでもなお、自分と互角に戦い続けていたと、そういうことなのか。そうなのか。
この胸の大きさで不本意なハンデを負わされていたと思っていた今までの自分の方が、実は逆に、千晶のほうにハンデを付けられた状態で今まで一年、やっと互角に戦えていたというのか。
「…………」
「……あっ! おお、いたいた――」
そのとき再び三組の扉が開き、一人の少年が姿を現した。落ち着いた怜悧な雰囲気を漂わせるその少年は、西小最強の三人が異様な雰囲気を漂わせながら集まっているその空間に、物怖じする様子も無しに近づいてきた。
「ん? おう、岸! おはよっ」
「あっ! 岸、おはよー!」
「おはよ、明、千晶。昨日は放課後も大変だったんだってな?」
表情を完全に消して黙り込んだまま、お地蔵さんのようになっている真理以外の二人と朗らかに挨拶を交わしながら、岸と呼ばれた少年は爽やかに笑ってみせた。
「へっ……なーに。あんなもん、俺らにとっちゃ全然たいしたことねーよ。なあ千晶?」
「うん、楽勝っ!」
「二人で敵中大突破かよ。連中の校区で十人以上に囲まれたって話じゃねえか? まったく、一昨日のシバケン兄貴の退治といい、お前ら二人の仕事にゃ畏れいるぜ」
「まあね」
「まあな!」
揃ってまんざらでもなさそうな二人と笑みを交わすと、岸は石像と化したままの真理に振り向いた。
「さてと。じゃあ俺はこのバカ持って帰るわ。朝のHRまでに座らせとかないとな」
「あー……。大変だな、学級委員長」
同情するようにしみじみ明が呟くと、いや、別に俺も嫌々やらされてるってわけじゃないからな、と岸は軽く笑い飛ばしてみせた。
岸武史は六年四組の学級委員長であり、東小との戦争のような事態になれば、西小側のブレーンとなって働く男である。
成績優秀、読書を趣味として博識であるだけでなく機知に長け、なおかつ世渡りや人の心にも巧みな男。にもかかわらず、決して嫌みな印象を残させない。
ともすれば何事に対しても力押し一辺倒となりがちな明や千晶、真理たちにとって、岸はまさになくてはならない存在であった。
「職員室から戻ったら、こいつが登校早々あっちこっちで奇声上げながら大暴れしてるなんて聞いたからさ。四組の俺が収拾せにゃあいかんだろうよ。おい真理、帰るぞ」
「…………。……ない……」
「……あん? なんだって?」
俯いたまま何かを呟いた真理に構わず引いていこうとして、岸が彼女の右腕を掴む。
「認めない……認めないッ!!」
「おあ!?」
力任せにいきなり岸を振りほどいて、真理は火でも付けられたかのように前進、一気に千晶の前へ出てきた。そのまま右腕を振り上げるや、千晶の鼻先へ人差し指を槍のように突きつけ、叫ぶ。
「谷川千晶ッ! 今日という今日こそは決戦の日だ! 積年の大根、今こそここで晴らしてくれる! 私と決闘しろッ!!」
「え?」
「なっ……」
「何ぃいいいーーーっ!?」
「え……ダイコン……?」
何の脈絡もなく突然叩きつけられた挑戦状に、教室じゅうがざわめいた。決闘? あの因縁の二人が今日、ついに正面衝突するのか?
「は、……はあああああ!? 決闘!?」
「て、てめー……決闘とかって、正気で言ってんのか真理!?」
呆れ返って明が叫び、机に腰をぶつけていた岸もまともに食ってかかる。
「私抜きで勝手に東小と戦争おっぱじめやがって、それでたまたま手柄挙げながら勝てたからって、アンタのそのムカつく態度が気に喰わん。今ここでまとめて決着つけてやる――かかってきな、千晶!」
「んなバカな理屈があるかよ!?」
病欠した真理抜きで公園戦争に踏み切ったのは、確かに明や千晶、岸らの判断によるものだ。何しろ総力戦だし、皆の予定と都合というものがある。
真理一人の都合のために西小のみならず東小へ開戦予定を遅らせさせることなど、とうてい出来ようはずがなかったのだ。言いがかりにもほどがある。
いきなり何を言い出すんだこいつはという目で、明と岸が真理を見ている。確かに真理抜きで戦争を始めて終わらせてしまった以上、どこかで必ず絡んでくるだろうなとは予測していたが、まさか千晶相手の決闘を希望してくるとは。
真理は気まぐれな暴君だったが、これはさすがに予想の斜め上だった。
「お、おいっ……谷川と大西、あの二人、マジで今からやんのか!?」
「こいつはすげぇ……西小最強生物決定戦だな!」
無責任な連中が好き勝手なことを言い出して、教室の空気をさらに加熱させる。誰もが一気に沸点を振り切った教室の中で、千晶だけがしごく冷静に見える冷ややかな瞳のまま、真理にあっさりと答えてのけた。
「決闘? いーよ。やろうよ。真理とボクのどっちが強いか、この際はっきりさせちゃおうよ」
「ちっ、千晶! でもお前っ」
「いいの。黙ってて明」
目を剥いて制止しようとする相棒を押し退け、千晶は真理の目の前へ進み出ながら、前後の拳を胸の高さに構えてみせた。
「どうする? どうせやるんなら早い方がいいよね。今からここでやっちゃおうか」
「へ、へ、へぇ……! 逃げ出さないなんて関心だね、千晶。……それじゃあ本当にここで一番強いのは誰か、あんたにじっくり教えてあげるよ……!」
牙のような犬歯を大きく剥き出しにして、しなやかな猫科の肉食獣のように真理が笑った。千晶は一歩も引かずに黙ってそれを見返している。
「な……何をバカなこと言ってるんだよお前ら! もう先生来るぞ、ホームルーム始まるだろが!」
「関係ない。その前に終わらせる」
「そう。私がアンタをブッ倒してね!」
足を使って身体全体でリズムを取りはじめた真理のストレートヘアが風を孕んでふわりと広がって弾み、千晶が足で周りの椅子や机を押しやって戦場の環境を整えながら、次第に呼吸を整えていく。二人とも、すでに完全な臨戦態勢だった。
「おいおい、おいおいおいおい……」
この二人に本気で暴れられたら、引き離しながら押さえ込むには自分たちだけでは心許ない。
そう思って明は同級生たちを見渡したが、彼らは未曾有の対決を前に完全に手に汗握る観客モードに入っているか、二人が今まで振りまいてきた暴力のことを思い出して恐怖と嫌悪で逃げ腰になっているか、のほぼ二種類しかいなかった。
「つ、使えねえ……どいつもこいつも、ホンット使えねえ……」
「しょうがねえだろ……怪獣大決戦だぞ、これ。たいていの奴にゃ敷居が高すぎるだろ」
痛恨の思いとともに愚痴を吐き出しながら、明は岸と目線を合わせる。半歩引いたところから情勢を見極めようとしていた岸も、ここで腹を括ったらしかった。
鎮圧のための援軍は無し。すでにお互い出来上がってしまっているこの二人を、自分たちだけで止めるしかなかった。はっきり言って分が悪すぎたが、これとて友の務めである。いきなり一時限目から臨時学級会などまっぴら御免だ。
ひゅっ、と風を切るように呼吸が鳴る。
獲物へ襲いかかる寸前の虎のように、真理が重心を沈めながらバネをためた。その第一撃をくぐり抜けながらカウンターを狙える位置を探りつつ、千晶がリズムを合わせはじめる。
「こうなりゃしゃあねえ。俺ら二人で行くぞ、岸」
「いや……待て、明」
「?」
いよいよ戦いの気配が最高潮に達しようとしたその瞬間、明は岸へ目配せをくれようとして、それに気づいた。
そして、目を見張る。
「あれ?」
「んぐぁっ!?」
いきなり蛙の潰れたような声を上げて、真理が突然後ろから絞め上げられながら宙に手足をバタつかせはじめたのだ。慌てふためいて真理が喚く。
「な、なんだテメー! は、離せっ、離せよ、このっ!!」
だが、しなやかな長身の真理がいくら力強く身をよじって暴れても、音もなく彼女の背後へ忍び寄っていたその影は、まったく身じろぎもしないのだった。
落ち着き払った声が、背中から問う。
「ねえ、大西さん。もうすぐ朝のHRの時間なのに、これはいったい、何の騒ぎ……?」
「お、お前っ……お前、国東真琴っ!?」
袖無しベストとブラウスにブラジャー、三枚の布地を通してなおも確かな乳房の存在が二つ、肩の後ろで潰れている。
教師以外でこれだけの胸と背丈、そして関節技の実力を備える女子は一人しかいない。
さすがに動揺の叫びを上げ、それでも逃れようと全身の力で暴れる真理へ、彼女を巧みに拘束する三つ編みと眼鏡の大人びた長身の美少女、国東真琴は力の入れ方を変えた。
「教室で騒がない」
「あうぐるえぎえわっ!?」
途端に関節へひしげるような痛みが走って、それこそ怪獣じみた悲鳴を上げながら真理はたまらず力を抜いた。
「やれやれ……サンキュな、国東。助かったわ」
この間に千晶が真理への攻撃を強行しないよう牽制しつつ、進み出た岸が真琴に礼を述べた。
「ううん岸君、大したことないよ。でもここから先は、私だけだとなんだから」
「ああ。悪いけど国東、コレ四組まで一緒に持って帰ってくれるか」
「うん、分かった」
「ちょっ!? あんたら、何勝手に話進めてんのよ!? 千晶! おいコラ千晶っ、てめぇ何とか言えこの!!」
「じゃあ、岸君」
「はい、しゅっぱーつ」
「私の話を聞けえーーーっ!!」
真琴と岸が両脇から抱える形の二人がかりで、真理はずるずると引きずられながら三組から排除されていく。さすがに真理もこれには抵抗できず、恨みがましい視線と罵声を吐きながら、やがて三組から廊下へ姿を消し、さらにその気配も四組へと消えた。
「あの鬼マリに気配も気づかせず、有無も言わせずに一撃で仕留めるとはな……」
「やっぱ西小最強生物はウチの委員長ってことで決定なのか……?」
「昨日だってあいつが精神的に凹んでなけりゃ、俺ら六人まとめて一気にやられてたよな……」
「…………」
どうでもいい下馬評がひそひそと続く中、真理の強制室外退去・四組送還後しばらくして真琴だけが一人で戻ってくると、明は安堵の息をつきながら微笑んで礼を述べた。
「いやー……ホント助かったぜ委員長。ナイスタイミング」
「べ、……別に私は、八坂くんにそんな風に言われるようなこと、してないから。学級委員長として、当然のことをしただけ」
なぜか明から目を逸らそうとするかのようにして、先ほどまでの凛とした勇ましさが嘘のように、真琴が斜めに向き直る。だが明はなお朗らかに笑って、彼女に謝辞を述べた。
「んなこたねーって、流石だよ。やっぱうちのクラスは、委員長が頭でねーとまとまんねーよ」
「……そ、そう……かな……」
明から視線を逸らしながらも、どこか恥じらうように口ごもる真琴。そんな彼女に対して、明は相棒に同意を求めた。
「な、千晶!」
「…………」
明が笑って振り返り、真琴がほんの微かに寂しげな影をよぎらせながらその先を見ると、谷川千晶はどこか不満げな表情のまま、窓の外の風景を見ていた。明が苦笑する。
「千晶ぃー。いつまでヒネてんだよ? らしくねーぞ。アホ真理ごときに売られた喧嘩をあんなに安く買うなんて、お前らしくもねえ。どうしちまったんだよ?」
「…………。別に」
「……?」
彼女の反応が理解できず首を傾げる明に、千晶は吐き捨てるように言った。
「真理との決着は、いつかは必ずやろうと思ってることだったもん。さっきあそこで始められるんなら、ボクは全然それで構わないと思ってたから。それだけ」
「お、お前なぁ……」
少しは周りの迷惑も考えろよ、と言いかけて、明はその言葉を途中で呑んだ。よく考えてみれば、千晶ほど周りの連中のことに気配りと優しさを向けられる人間が、同級生の中に何人いるだろうか?
確かに千晶と真理は、今までも何度となく派手に激突してきている。その勝敗もその時によって様々で、完全な決着がついているとは言えない状況だったが、確かにそれはある種の儀式として、二人にとっては定期的に必要とされているもののようにもみえた。
そういえば最近、二人のそうしたs正面衝突はしばらく起こっていなかった。お互い何かとフラストレーションが溜まっている状態で、特に千晶はあの胸がらみでの心労もいろいろあった。真理相手に思い切り暴れてすっきりしたい、という気持ちもあったのだろう。
ならばここらで、派手な決闘をさせてやるのも友情のうちか。
「あ、そうだ」
そんなことを考えていた明にとって、どこか面白くなさそうにしていた真琴が急に挟んできたその言葉は、まさに寝耳に水となった。
「藤原先生が、谷川さんに話があるって。朝のホームルームは自習にするから、今すぐ第二会議室まで来てほしいんだって」
「へ……?」
突然出てきた担任教師の名前に軽く心臓を跳ねさせながら、明と千晶はぎこちない動きで互いの顔を見合わせた。