食欲の秋。  
コンビニの肉まんを求めてわざわざ西小エリアまで遠征に行く健太達を見送り、ダイエット中でぐう、と鳴るお腹を抱えて家に帰ると、ポストに一通の私宛ての手紙が投函されていた。  
見覚えのない几帳面な文字。差出人の懐かしい名前に、しばらく我を忘れて立ちすくむ。  
 
芹沢綾女  
 
芹沢綾女。『驚異のEカップ小学生!!』として青年誌のグラビアを飾っていた彼女は、かつての私の友達と呼べる、数少ないジュニアモデルの一人だった。  
同い年だが、私とは正反対の明るく天真爛漫なキャラクターと驚異的なバストが売りだった綾女。胸を締め付ける複雑な想いに封筒をぎゅっと握りしめたまま、私の心は東小に転校するずっと前、彼女と過ごした短い春の日々に帰っていた。  
 
 
初めて彼女と出会ったのは、まだ五年生になったばかり、と言っても、仕事で殆ど登校できない私が、皮肉にも文芸雑誌のグラビア撮影の為、山奥の廃校に何時間も車に揺られてたどり着いた時だ。  
まだ肌寒い春の空気の中でスタッフと離れ、寂しげに佇む木造の校舎を、たまらなく切ない気持ちで見上げていた私に、後ろから大きな声で挨拶してきたのが綾女だった。  
 
『おはよーございまーす!!』  
 
色白で健康的な肉付きに人懐っこい童顔。  
いささか子供っぽいボブカットは発育のよい彼女には少しちぐはぐで、それがかえって彼女の暖かい魅力を引き立てていた。  
確か二人での撮影と聞いていたのを思い出し、挨拶を返してそそくさ立ち去ろうとした、あの頃の人見知りな私を彼女は逃がさなかった。  
 
『待ってよお!! B級まっしぐら!! だけど、私、いい仕事するよ!? 芹沢綾女、十歳 本名同じ 身長…』  
 
容姿から所属事務所まで、ちらちらと値踏みし合うジュニアモデル同士の関係に慣れていた私は、彼女の身も蓋もない自己紹介に戸惑ったが、  
仕方なく彼女と並んでブランコに腰掛け、彼女の陽気なお喋りを聴いているうちに、ふとなぜか、長い間眠っていた空想癖が、春風に運ばれたように、ふと蘇っていた。  
 
…山奥の分校のたった二人の同級生。仲良しで、ライバルで…好きになる男の子は…  
 
気ままに想像の翼を広げられなくなって、どれくらい経っていただろう。  
 
『…こんな学校に、通えたらなあ…』  
 
屈託のない笑顔でブランコを漕ぎながら、彼女は私と同じ夢想を、しんみりした口調で呟いた。  
 
『…綾女ちゃん、小学校行ってる?』  
 
仕事以外のことで人に質問するのは、その時本当に久し振りだったと思う。  
 
『全然。行っても浮いてるし、周りは陰口ばっかり。』  
 
あの頃は私も同じように思っていた。与えられるだけの仕事、軋みを上げる家庭。そして友達のいない学校。  
その真ん中で、自ら作った垣根の高さに気付いていなかった私。  
でも、あの花曇りの午後、確かに私は知り合ったばかりの綾女と友達になって、こんな小さな分校で思いっきり遊び、勉強できればいいと、心の底から願っていた。  
 
 
そして、そんなささやかな希いは、時として叶えられることもある。  
スケジュールのトラブルで、カメラマンの到着が大幅に遅れると連絡が入り、私と綾女は歓声を上げた。  
車で仮眠を始めたスタッフに鍵を借りて校舎に入り、埃っぽい廊下をバタバタ走って階段を駆け上がると、すぐにずっとこの学校の生徒のような気分になった。  
 
『…一時間目!! とりあえずホームルーム!!』  
 
『遅刻でーす!!』  
 
適当に飛び込んだ教室には、机がたった三つ。綾女は笑って言った。  
 
『あはは。一人欠席。先生も休みだね。』  
 
二人で黒板に『日直 白瀬紗英 芹沢綾女』、そして大きな字で『自習』と書いた。  
 
それから私達は、日が落ちるまで学校中を探検して遊んだ。  
古ぼけた講堂の床を軋ませてドッジボールをして、黴っぽい図書室で、空想の男の子にラブレターを書いた。  
そのときの出鱈目なボーイフレンドの名前は、たしか『遼』だったと思う。健太、ごめんなさい。  
それにしても、友情の芽生えは、どこか恋に似ているのだろうか。間近で微笑む綾女を見ている私の胸は、ずっとドキドキ高鳴り続けていた。  
 
 
『…それでね、その子が機材の下敷きになったスタジオでね…』  
 
うす暗い音楽室で、綾女が語る業界の怪談に息を殺して聞き入っていると、ぎしぎしとドアが開いて、私のマネージャーの真田さんが現れた。  
 
『わっ!?』  
 
飛び上がった私たちに真田さんは、カメラマンの到着が明日に延びたこと、今晩は近くに宿を手配したことを告げた。  
 
『…じゃ、すぐ出るからね。』  
 
再び私は心の中で歓声を上げ、ウキウキと綾女を見たが、彼女は少し不安げに眉を曇らせていた。後で聞いたことだが、綾女の撮影延長と宿泊に関して、金銭的な問題が出たのだという。  
 
民宿までの車中、綾女は目を伏せて、じっと大人の話を聞いていた。  
そういう事に関わりを持たなかったあの頃の私は、窓の外を流れる山の夕暮れを少し眠たげに、ぼんやりと眺めていた。  
 
 
『川でも撮影? 地蔵橋から下流は深いから、行っちゃいけないよ。』  
 
人の好さそうな宿のおじさんと、他にお客さんもいないのんびりした雰囲気。自習の後は修学旅行気分だ。  
食事と、明日の打ち合わせが終わり、真田さんとスタッフ達は、囲炉裏を囲んで賑やかにお酒を呑み始めた。  
 
『綾ちゃん、温泉、温泉!!』  
 
私たちはばたばたと食事を終え、上の空で段取りを聞き流して、一目散に駆け出した。目的は民宿に着いた時から気になっていた『露天岩風呂』だった。  
 
『…うわあ、紗英ちゃん、川が見える!!』  
 
『明日、あの川へ裸足で入るんだよね…』  
 
鬱蒼とした山々と夜空に包まれ、ひんやりと澄んだ空気のなか、もうもうと湯気を上げる岩風呂はは確かに風情たっぷりだった。  
でも、私がもっと驚いたのは、厚手のパーカーに隠されていた綾女の巨大な胸だった。  
ほんのりと朱に染まった、駝鳥の卵のような見事な乳房は、形よく並んで谷間を作り上げ、熱い湯の流れの中で柔らかく揺れていた。  
 
声もなく呆然と眺めていると、綾女はぷるん、と胸を突き出して笑った。  
 
『…商売モンだからね。凄いでしょ!?』  
 
その頃から少し膨らみつつあった私の胸など、比べものにならない圧倒的な迫力にため息をついていると、綾女はぽつりと、寂しい眼差しで私に言った。  
 
『…今日はほんとにありがとう。紗英ちゃんのお陰で、こんな楽しい一日を過ごせた。』  
 
『何言ってるの。お互い仕事でしょ!?』  
 
『…結局、私の宿泊費ね、紗英ちゃんの事務所が出してくれたんだ…』  
 
契約。事務所。そんな言葉に関わることなく、自分が一番不幸だと思っていた傲慢な私。  
周りを見て、聞き、学ぶべきことは沢山あったのだ  
 
『…この仕事で、私は紗英ちゃんのオマケなんだよ。しかも補欠の補欠。ほんとはもっと格上の子が来るはずだった…』  
 
綾女は寂しげに微笑んで呟きながら、ずっと握っていた紐のようなものを私に見せた。  
 
『…水着だよ。ほら、こんなに細い… いつもの、私の撮影衣装。』  
 
彼女の大き過ぎる胸を覆うには、余りにも小さい、まるで眼帯のようなビキニ。  
 
何も言えず、ただ差し出した私の手にすがりつき、優しい瞳を潤ませた綾女は声を殺して泣いた。  
 
『…私がこんな水着でヘンな雑誌に出なきゃ、みんな食べていけないって… でも、恥ずかしい… 恥ずかしいんだよぅ…」  
 
遠い山の杉並木がざわざわと鳴る。  
暗く、深い深い山奥の夜、裸のまましくしくと泣く二人の少女はちっぽけかもしれなかった。  
 
一人じゃない。一緒に苦しみ、支え合える友達ができた… あのとき、綾女を膨らみ始めた胸にギュッと抱き締めながら、私は無邪気にもそう信じた…  
 
 
湯上がりの火照った体を浴衣に包み、私たちが枕を並べた部屋からは、まだ咲かぬ桜の大木が見えた。  
 
『…桜、見たかったね…』  
 
綾女の柔らかな胸に居心地よく凭れ、忘れていた深い安堵の中で私は呟いた。闇に映える満開の桜が瞼に浮かぶ。  
 
『咲いたら、きっと見にこよう。同窓会だね。』  
私の髪を撫でながら綾女は静かに答える。きっと彼女の瞼にも、私と同じ眩しい桜色が広がっていたと思う。  
 
『約束ね…』  
 
いつか桜舞い散る春、あらゆる苦しみから自由になった私たちが再会する日を心に描き、綾女と私は約束の唇を、そっと重ね合った。  
 
遠い春の夜から戻った私は、震えつつ手にした封筒を見つめる。  
…もうひとつ、苦い思い出を封じ込めた心の封筒を開かなければ、まだ私は、綾女からの手紙を読むことは出来なかった。  
 
あの仕事が終わった後、再会を固く誓って別れた私たちは、時々電話で励まし合いながら、再び日常に戻っていた。作られた『白瀬紗英』と『芹沢綾女』の息苦しい日常に。  
時々、コンビニの本棚の成人誌のコーナーで、扇情的なコピーと並んでいる綾女の水着姿を目にしたが、彼女と私が、電話でその話題に触れることは一度もなかった。  
心なしか明るさを失っていく綾女の声を案じても、なかなか顔を合わす機会は持てず、やがて、彼女からの連絡は途絶えがちになっていった。  
私もますます過酷になる仕事に疲れ果てて、あの夜、胸に描いた満開の桜をいつしか見失ってしまっていた。  
厳しくても楽しかった服飾関係の仕事は次々と父に取り上げられ、替わりに押し付けられる、騒がしく脈絡のないテレビやイベントの仕事がバリバリと魂を削ってゆく。  
あの頃、もはや私は迫り来る限界に向かって、機械仕掛けのようにギクシャクと稼働している人形に過ぎなかった。  
 
 
暑苦しいネルシャツ、蒼白い顔を隠すニットキャップと眼鏡。  
最後に綾女と会ったとき、とぼとぼと大型書店の中を歩いていた私の姿だ。  
壁一面のコミックや文学書に囲まれていると、ほんの少しだけ不安やめまいから解放される。  
だから私は、僅かな時間があれば、よく本屋に逃げ込んでいた。  
 
「リッター×リッター」の新刊を見つけ、その病的に繊細な筆致にしばし見入っていると、突然、店内放送が芹沢綾女の名前と、写真集発売記念握手会の開始を告げた。  
 
『こんにちわぁ!! 綾女でぇーす!!』  
 
聞き覚えのある声に、急いで書店の片隅のイベントスペースに急ぐ。  
久しぶりに見る綾女が愛想よくサインや握手を求める客に対応する姿が見えた。少し痩せたようだった。  
 
…綾女、頑張ってたんだ…  
 
にわかに弾んだ心のままに握手会の行列に並んで綾女と話す順番を待ち、やがて私は大胆過ぎる衣装を着けた綾女の前にたどり着いた。  
 
『綾女!! 久しぶり!!』  
 
上気した笑顔が私を見つめる。彼女はただニコニコと、感情を映さぬ瞳を私に向け、荒い吐息で手を差し出した。  
 
『…綾女?』  
 
営業用の笑顔。せわしない呼吸と汗。私を忘れたのだろうか?  
慌てて帽子と眼鏡を外した。  
 
『綾女、紗英だよ!?』  
 
『…サエ?…サエ…』  
 
虚ろな瞳で私の名前を呟いた綾女は、やっと不気味な違和感を感じ取った私の手首をグイと掴み、耳をつんざく金切り声を張り上げた。  
 
『みんなぁー!! 私の友達のサエだよー!! 白瀬紗英ちゃんだぁー!!」  
 
彼女の冷たい手が、驚く私を無理やり引き寄せ、アクシデントに驚いた客がざわめく。  
 
『白瀬紗英!?』 『何!?スペシャルゲスト!?』 『握手できんの!?』  
 
騒然となった一角で、どっと押し寄せる観衆に揉みくちゃにされながら、綾女はケラケラと耳障りな声で笑い続け、  
やがて従業員に引きずられて行った私が、事務室で厳しい叱責を受け始めても、何事もなかったかのように、写真集のセールストークを甲高い声で続けていた。  
 
 
ようやく私が我に返ったのは、駆けつけてくれたマネージャーの真田さんの車の中だった。  
 
『…綾女が…綾女が…』  
 
憔悴し、涙ぐむ私に、真田さんは慎重に言葉を選びながら答えた。  
 
『これは…憶測だけどね…スポーツ選手のドーピング、は知ってるね?合法的な薬物でも…』  
 
憶測など決して口にしない真田さんの話を、後部座席で虚脱した私は半分も聞いていなかった。  
 
『…とにかく、綾女ちゃんとは、しばらく距離を取ったほうがいい。あの様子じゃ、もう…』  
 
私の知っている綾女はもういなかった。二人だけの分校も、桜の下の同窓会も、全てが儚い春の夢だった。  
仕事も、綾女も、そして自分自身もどうでもよくなって、涙すら枯れた。いっそ壊れてしまえば、父が愛想を尽かして放り出したくなる程に壊れてしまえば楽になれる…  
 
私の虚ろな笑い声に、真田さんが車のハンドルを指が真っ白になるほど握りしめたのを、ぼんやりと覚えている。  
 
…どれくらい経ったのだろう。  
静かな車内に、携帯電話がの着信音が響いていた。  
のろのろと耳元に運ぶと、綾女の取り乱した声が聞こえた。  
 
『紗英ちゃん!? 私!! 話があるの!! さっきは…』  
 
疲労感で唇すら重い。  
 
 
『…ごめん…とても…疲れてるから…』  
 
もはや全ては、何の脈絡も持たず崩れてゆく。  
 
『逢いたいの!! 紗英ちゃん!! 紗英…』  
 
力の入らない右手から、携帯電話がするりと滑り落ちた…  
 
 
 
綾女と私の繋がりは、これを最後に途切れた。  
ずっとしまい込んで鍵を掛けていた、棘のような苦い記憶。  
 
 
 
そして今、瞬く間に過去と向き合った私は、綾女の現在と向き合う決意をして、静かに封筒を開いた。  
 
何枚かのしわくちゃの便箋に殴り書かれた、幼稚園児の戯れ書きのような読み取れない記号の羅列に首を傾げる。  
はっきり読めるのは、便箋に青く印刷された、『青少年こころの医療センター』の文字だけだった。  
不安に震える手で便箋の束から皺のない、封筒と同じ筆跡の一枚を見つけた。  
 
『拝啓 突然手紙を差し上げる失礼をお許し下さい…』  
 
読み進むうち、震えは全身に広がってゆく。心療内科医からの手紙は、心を病んで入院中だという綾女の現在を淡々と綴っていた。  
 
『…同封したのは、貴女に宛てた彼女の手紙です。ご返信をお待ちしています。』  
 
もう一度、しわくちゃの便箋をじっと見つめる。そして、弱々しく、あちこちに記された『サえ』『さヱチゃン』の文字を見つけた私は崩れるように座り込み、顔を覆って泣いた。    
…最後の電話。他人に拒絶される事を何より恐れていた私が、他ならぬ綾女の、唯一の友人が必死に伸ばした手を、邪険に振り払っていた…  
 
身を灼くような後悔の激痛と、今、笑顔と温もりに溢れ暮らす自分の後ろめたさに、涙はいつまでも止まらなかった。  
 
(…ごめんなさい…綾女…ごめんなさい…)  
 
 
週末の健太の試合。明日の調理実習。決まりそうな『サンベリーナ』の仕事。  
あたふたと幸せな暮らしを送る私が、どんなに泣いても悔やんでも過去は何ひとつ変わらない。  
でも、現在は?そして、未来は…  
まだ終わってはいない。何ひとつ、終わってはいない。  
 
(…綾女、すぐ行くからね。 待ってるんだよ…)  
 
躊躇している時間など無かった。あの日の約束はまだ果たされていないのだから。  
先日フリーマーケットで見つけ、健太達に笑われながら買ってしまった大きな革のトランクに身の回りのものを詰める。  
急いで明日のスケジュールを白紙にしたら、すぐに出発だ。  
 
突然私に降り注いだ、暖かく眩しい夏の光のように、四季は誰にでも喜びと痛みを運んで巡る。  
 
あの大きな桜の木は、きっと穏やかな春の日差しの下で、私と綾女の同窓会を待っていてくれている筈だ。  
 
 
END  
 
 
 

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