「…だから、見たくないって言ったのに…」  
 
『樹海』を見終わった健太たちの暗い表情を見て、私はしょんぼりと呟いた。  
雨の日は西小とも一時休戦だ。退屈な放課後、私たちはうちに集まってビデオを観ることにした。  
しかし上映作品を巡って激しく意見が対立し、結局全権を委任されたユマがレンタル店から借りて来たのがこの、『樹海(きのうみ)』だった。  
 
『樹海』は鴇岳事件という実際の事件を脚色したドラマで、その陰惨で猟奇的な内容が話題になった作品だ。  
…そして、東小に転校してくる前の私が準主役で出演し、図らずも白瀬紗英の顔と名前が全国に知られるようになった作品でもある。色々な意味で、あまり見たくない作品だった…  
 
「…で、でもサエさぁ、こんなドラマって、面白くなるように色々実際より大袈裟にしてるんだよな!?」  
 
一番深刻な顔で画面に張り付いていたゴトーが懸命に明るさを装って言う。  
 
みんなも笑って同意し、私を見る少し怯えた目は和らいだ。しかしゴトーの見解は間違いだった。この作品に関しての現実は、虚構よりはるかに暗い。  
私はこれまであまりみんなに仕事の話をしたことはなかったが、時間もあり、雨は当分止みそうになかった。  
 
秋雨の夕暮れ、少しぞっとする話も悪くないかも、と思った。  
 
「…あのね、私『樹海』のクランクイン前に役作りの為に、って実際の鴇岳事件のドキュメント本渡されたの。 一応全部読んだんだけど、その話聞きたい?」  
 
私の言葉にみんなは息を呑んで小さく頷く。意外と怖がりのユマがエリの腕をギュッと握った。  
そしてまるで事件当事者の告白を聴くように張り詰めた空気のなか、健太が促すように片方の眉を上げて私を眺めた…  
 
 
鴇岳の山腹から県境の川沿いには、鴇岳樹海という広大な森林地帯が広がっている。  
戦後の混乱期、国内を騒然とさせた『鴇岳事件』の舞台は、この森のほぼ中心に位置する、二階建ての古ぼけた山小屋だった。  
鬱蒼とした木々のなかに実在した『人さらい』の実話は、未だ聞く者を戦慄させる。  
 
 
「…ここから逃げる為に食料をこっそり貯めてた子がいるの。誰だと思う?」  
 
小夜の命令で集まった少女たち、十歳から十二歳までの六人の少女たちは、怯えたまだ幼い顔を見合わせて山小屋の前に並んでいた。  
全員、『古賀』という男に誘拐され、この深い森のなかへ監禁されている少女たちだ。  
連続誘拐の最初の被害者がこの、山小屋を取り仕切る細身で冷酷な十二歳の『小夜』だったのかどうかはわからない。  
しかし、『古賀』を『お兄ちゃん』と呼び、彼に尽くす小夜は、間違いなく、この閉鎖された世界の支配者だった。  
小夜を除く少女たちは『古賀』の嗜好なのか、一様に年齢不相応に豊かな胸をしている。  
誘拐された時に着ていた服を全て小夜に取り上げられた彼女たちは、窮屈で粗末な襤褸に身を包み、寒さと不安に震えていた。  
 
「…チカ、 あなたは犯人を知ってるわね?」  
チカと呼ばれたお下げの少女は、この場にそぐわぬ明るい声と表情で、迷わず一人の少女を指差す。  
 
「うん!! 知ってるよ。この子!!」  
 
チカに差された少女、誘拐されて間もない新参の少女は驚愕の表情で告発者を見た。  
 
「…チ、チカが、あんたが、一緒に逃げよう、って!!」  
 
「嘘おっしゃい。知らせてくれたのはチカよ。」  
 
鋭い瞳で少女を睨み据えた小夜は、複雑な安堵の表情を浮かべた残りの少女に冷酷な声で命じた。  
 
「…滝で頭を冷やしてあげて。」  
 
「いや、いやあっ!!」  
 
四人の少女は唇を噛み、目を伏せながら仲間の衣服を剥ぐ。小夜が巧みに植え付ける、互いへの不信感。これこそが少女たちにがっちりと嵌められた足枷だった。  
 
「…やめてっ!!…誰か…」  
 
無表情な仲間に引きずられてゆく少女の行き先には、雪解け水が迸る小さな滝があり、日の差さぬ浅い小川に注いでいる。  
その流れは彼女たちの心を映すように、凍てつきそうに冷え切っていた。  
「放してっ!! お願い!!」  
 
必死の叫びは小夜はもちろん、誰の心にも届かない。ただ目を閉じ、抗えぬ命令に従うのがここでは賢明なのだ。  
 
「やめて… やめて…」  
 
抵抗も空しく仰向けに四肢を押さえつけられた少女の顔が、ちょうど迸る滝の真下に運ばれる。  
 
「ぐふ!! やめ…」  
 
容赦なく口と鼻を襲う冷たい水流はたちまち少女を窒息させ、加えて彼女はもはや冷たさを通り越す鋭い痛みに裸身をくねらせる。  
浅い水に跪いてめいめいもがく手足を押さえる四人は、懸命に震えを隠そうとするが、苦しみに痙攣する指先を正視できずに、縋るような視線を遠慮がちに小夜に送った。彼女が決して慈悲など見せないことを知りながら。  
小夜は犠牲者が抵抗心を放棄する瞬間、何もかもを自分に捧げる瞬間を、彼女は蛇のような瞳でじっと待っているのだ。  
苦悶にぶるぶると激しく揺れる乳房、せわしなく上下する滑らかな腹。そして…同性として、苦しむ仲間への最後の情けとして、皆が決して目を向けようとしない秘めやかな部分。  
冷たい眼差しでそのすべてを凝視し、やがて限界を迎えた少女が蒼白な四肢をガクガクと震わせ失神したのを確認すると、ようやく小夜は滝に背を向けて言った。  
 
「薪小屋へ運んでおいて。服は着せないでいいわ。」  
 
四人は協力して機敏に仲間を水から引き上げる。卑劣な裏切り者、チカを責める者はいなかった。  
小夜の命令通りぐったりとした仲間を小さな薪小屋に寝かせると日はもう沈んでいた。とぼとぼと山小屋に戻った虜囚たちは互いに目を合わすことなく、粗末な食事を摂り始める。  
そしてこの夕食の時間、二階から『古賀』に名前を呼ばれた少女が一人、あるいは数人、黙って階段を登ってゆくのが毎日の日課だった。  
攫われてまだ日の浅い者はすぐに階上から聞こえてくる、か細い喘ぎ声やすすり泣きにたまらず耳を覆うが、すぐに慣れて黙々と食事を続けるようになってゆく。  
 
そして、囚われの少女が増えるにつれ、『古賀』に呼ばれることがほとんどなくなった小夜が残酷な遊びを残った者に強制するのも、大抵この時間だった。  
以前、もう少し寛容だった小夜が二階から聞こえよがしの喘ぎ声を響かせていた頃と違い、階下では、小さな笑い声が漏れることすらない。  
 
薪小屋の少女は息を吹き返し、自分に暖かい毛布が掛けられているのに気づく。そして重い倦怠感と吐き気のなか、誰かが髪を優しく撫でているのにも気付いた。  
 
 
「…動かないで。ご飯は持ってきてあげるから。」  
 
小夜の声だ。抗えない恐怖と涙がすぐに込み上げる。  
 
「あ…あぁ…」  
 
しかし少女を覗き込む小夜の顔は穏やかだ。感情を窺わせない、鋭くどこか淫蕩な顔。  
 
「…逃げようなんて思っちゃ駄目。ここは安全なんだから… 森から出るには大人でも二日はかかるんだよ。迷子になって死んじゃうよ?」  
 
ガチガチと震えながら頷く少女のまだ冷たい胸を、小夜の華奢な指先が毒蛇のように這い回る。  
 
「…綺麗なおっぱい… 私は忙しいから、かわりにあなたたちが可哀相なお兄ちゃんを慰めてあげるのよ…」  
 
小夜は呟くと、少女の豊かな胸を愛おしむように撫で続ける。『古賀』とは違う繊細な愛撫に戸惑う彼女は、小夜の瞳に燃える激しい羨望と嫉妬に全く気付かなかった。  
 
そして夜。  
小夜が寝る前に小屋の外に放つ、獰猛な山犬の徘徊する音が響き、闇の中、猟銃を携えた『古賀』が階下に降りて再び気紛れに少女たちを弄ぶ。  
恐怖の日々における唯一の救いである貴重な眠りは、やっとそのあとに訪れるのだ。  
 
疑惑と屈辱に翻弄される単調な日々。繰り返す心と身体の痛みに少女たちは心を無くし、やがてさす朝の光さえ彼女たちにとっては、新たな恐怖の始まりを告げるものでしかなかった。  
 
そんな哀れな少女たちにとって、支配者である『古賀』の不在は安堵であり恐怖だった。  
痩せて落ち窪んだ顔に爛々と光る目。常に猟銃を抱えて脚を引きずり歩くこの復員姿の男は夜にしか行動せず、日中は日の差さぬ山小屋の二階で少女たちへ無言の支配を続けている。  
彼は時々、閉ざされた自給自足の暮らしに不足する必要最低限の物資と、新たな少女を求めて、戦争で負傷したらしい足を引きずりながら深い森から出て行くが、そんなとき彼の猟銃を預かり、残った少女たちを監視するのは、もちろん小夜の役目だった。  
そしてそれは、小夜にとって、昼夜問わぬ緊張を意味する。浅い仮眠しかとらず少女たちを見張る小夜は憔悴し、山小屋は『古賀』が帰るまで、彼女の罵声と殴打に支配される。  
無口な『古賀』が出掛けるとき、いつも情愛のこもった仕草で彼を送り出す小夜を捕らわれた少女たちは、拾われた戦災孤児ではないか、あるいは『古賀』の実の妹ではないかと憶測を巡らせていたが、小夜の口から真実を聞いた者はいなかった。  
…そして『古賀』が山小屋をあとにして一週間、前例のない長さの彼の不在に、この小さな世界は急速に破綻へと転がり落ちつつあった。  
 
 
「…ご、ごめんなさいっ!! ごめんなさい!!」  
 
少女たちが陰気な目で見守るなか、小夜によるチカへの暴行は続いていた。  
今日ついに、少女の一人が脱走したのだ。いまや支離滅裂で矛盾した命令を繰り返し、些細な物音に猟銃を振り回す小夜と交代で少女たちの監視に当たっていたチカが、つい居眠りをした僅かな隙のことだった。  
 
「馬鹿!! 役立たず!!」  
 
ヒイヒイと泣いて転がるチカを銃の台尻で小突き回しながら、小夜は血走った瞳を他の少女たちに向けた。  
 
「…あんたたち!! 若丸のお墓を作るのよ!! 早くしなさい!!」  
 
脱走した少女は行きがけの駄賃のように番犬を殺し、さらに小夜の任務を過酷なものにしていた。  
しかし、この日の朝、彼女の『任務』はすで無意味なものになっていた。『古賀』は大規模な警官隊の包囲網に追い詰められ、鴇岳の手前で射殺されていたのだ。  
すでに官憲は少女たちの救出にむけて、その目をこの深い樹海へと向けていた。  
 
のろのろと立ち上がり、小屋の扉に向かう少女たちに銃口を向けていた小夜は、再び甲高い声を上げる。  
 
「…だめ…だめよ!! 一匹じゃ若丸がかわいそう。 この馬鹿も、チカも一緒に埋めるのよ!!」  
 
もはや狂った小夜の命令。わなわなと震える、暴発しそうな狂気を前にして少女たちは立ち止まり、ゆっくり向きを変えた。  
 
「…犬は犬同士、お似合いかもね…」  
 
自らに向けられた仲間の恐ろしい視線に、チカはべったりと這いつくばる。  
かつては『古賀』の寵愛を独占したこともある、えくぼの愛らしい顔立ちは見る影もなく憔悴し、この栄養不足の時代、奇跡のように豊かに膨らんだ胸は恐怖に激しく波打っていた。  
 
「た…助けて、お願い…」  
 
もはや掠れた喉を震わせるだけのチカの懇願と、粛々と彼女を取り囲む少女たち。  
脱走した少女に続き、また一人、この忌むべき山小屋の住人が減る間際のことだった。  
 
「静かにしなさい!!」  
 
突然の小夜の叫びにチカまでがすすり泣くのを止めた。  
 
ザッ……ザ ザッ……ザ  
 
特徴ある『古賀』の足音。扉の前で途絶えたその音に続いて、これもまた聞き覚えのある、小さくせわしない扉を叩く音。  
 
「お兄ちゃん… お兄ちゃん!!」  
 
蒼白く引きつっていた小夜の顔に笑顔が浮かぶ。チカを囲む姿勢のまま凍りついた少女たちを蹴散らし、彼女は扉に走った。  
 
「お兄ちゃん!! …寒かったでしょ!? あのね、ごめんなさい、若丸がね…」  
 
もどかしげに鍵を開けながら小夜は喋り続けた。しかし、力いっぱい扉を開いた彼女を待っていたのは、『古賀』の抱擁ではなかった。  
 
「きゃあっ!?」  
 
重い丸太の一撃が小夜の頭を掠め、続く体当たりで小夜と侵入者の体が重なって小屋に転がり込む。  
 
「あんた!!」  
 
小夜を襲った侵入者は昼間脱走した少女だった。この呪われた樹海から脱出するには充分な装備と仲間が必要、と冷静に判断した彼女は、用心深く小屋の近くに潜み、突撃の機会を窺っていたのだ。  
 
「手伝って!! こいつをやっつけて、みんなで逃げるのよ!!」  
 
帰還した仲間の勇気に、少女たちは眠っていた自由への希望を取り戻し、鬨の声を上げて、まだ猟銃を握り締めて倒れている小夜に殺到した。  
ただひとり、頭を抱え震えているチカを残して。  
小夜は華奢な体からは信じられぬ力を振り絞り、反逆者たちと揉み合ったが、猟銃を握った指は蹴られ、踏みつけられて、小夜の権力を維持してきた兵器は、ついに彼女の手から離れた。  
 
「チカぁ!!」  
 
勢いよく床を滑った重い猟銃は、小夜を押し潰すように重なった少女たちのもとを離れてチカの膝で止まった。  
 
「撃ちなさい!! こいつらを…」「駄目!! あんたも一緒に…」「チカ!!」  
 
猟銃を拾い上げたチカに錯綜する何重もの怒号が飛ぶ。しかし彼女をこの状況に追い込んだ生まれ持っての意志の弱さは、やはりまた彼女に猟銃の照準を定めさせることは出来なかった。  
 
「いやあああああ!!」  
 
震える銃口を突き出したまま、チカは開きっぱなしの扉に走る。猟銃は轟音を響かせることがないまま、走り出したチカと共に暗い森のなかに消えた。  
…やがてチカの叫びが闇に吸い込まれて消えると、山小屋を制圧した少女たちの憎しみに満ちた目は、ゆっくりといまや無力である小夜を見おろした…  
 
 
…暗い樹海に木霊する小夜の悲鳴、という陳腐な演出で、ビデオは幕を閉じる。  
少女たちが小夜に対して凄惨な復讐を行ったのか、そうでなかったのかはわからない。  
深い森のなか、衰弱しきって発見されたチカと、ただ一人家族からの捜索願いが出ていなかった小夜を含め、身も心も深く傷付いた彼女たちは数日後、捜索にあたった警官隊によって保護されたという。  
その後、小夜の消息は伝わっていない。  
 
 
 
…私の話が終わり、ゴトーたちが帰ってふたりきりになっても、健太はぼんやり考え込んでいた。  
もう、窓の外は暗かった。テーブルの片付けを済ませて健太と並んで座り、私は尋ねる。  
 
「何、考えてるの?」  
 
「…なんで小夜は、古賀みたいな奴を好きだったんだろ?」  
 
ただ欲望のままに女の子を弄んだ変質者。そしてひたすら利用されながら彼に尽くした小夜。どんな理由も二人の行為を正当化することは出来ない。  
でも小夜は、どこで道を踏み外したのだろう。悲劇への長い道のりの途中、古賀を救える彼女の愛は確かにあったはずなのに。  
 
「…じゃ、俺も帰るわ。明日、交流試合だし。」  
 
私の答えを待たず、健太が立ち上がった。  
 
「待って。」  
 
小夜を演じた頃より大人になった私の身体、心よりほんの少しわがままな身体が健太を捕まえる。  
 
「ん…」  
 
顎を上げて私のキスを受け止めた健太の瞳に一瞬の戦慄が浮かんで消えた。  
理由もなく高鳴る胸にぎゅっ、健太の顔を抱き寄せると、深い森のなかで悲しい叫びを上げ続ける小夜の声が聞こえたような気がした。  
 
 
END  
 
 

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