トラブルは前触れもなく訪れる。  
すこし肌寒い朝、仕事で二日ぶりに登校した私を迎えたのは、騒然とする同級生達と、身に覚えのない自分のヌード写真だった。  
 
「ちょっと紗英!! これ…」  
 
教壇に集まったクラスメートのなか、エリがおずおずと私に一枚の写真を手渡す。  
そこには一糸まとわぬ裸身をロープでがんじがらめにされた、虚ろな表情の私が写っていた。  
 
「…黒板に、貼られてた…」  
 
うわずったエリの声。  
しばらく呆然とする私に、クラス全員の複雑な視線が集中する。  
動揺を見せないよう、深呼吸して、たどり着いた推論を口にしたとき、眠そうな健太が教室に現れた。  
 
「…ネットで流れてるアイコラだと思う。すごく良く出来てるけど、私はこんな仕事してないよ。」  
 
「…あ? なんの話だ。」  
 
私の釈明を聞き、きょとんとする健太に、ためらいつつ写真を差し出すと、彼は片眉を上げて顔をしかめ、吐き捨てるように呟いた。  
 
「…下らねえ悪戯だ。」  
 
未だざわつく教室に、姿の見えなかったゴトーとユマが息を切らせて駆け込んで来た。手には何枚かの同じ写真が握られている。  
 
「…とりあえず、全部、回収したと思う。あ、紗英、あんた大丈夫!?」  
 
どうやら他の教室にも、貼られていたらしい。  
それより、私の言葉を微塵も疑わない健太や、駆け回って写真を回収してくれたゴトー達の気持ちにジンとなった。  
 
「ありがと、みんな。」  
 
「…あんた、意外とタフね…」  
 
疚しい事がないのに泣いたりするのは嫌だった。呆れたように言うユマに、私は笑顔で応えた。  
 
「…昔は泣いたけどね。もう、アイコラは慣れたよ。」  
 
メソメソしても犯人を喜ばせるだけだ。それに、こんなことで健太に迷惑はかけられない。  
 
「誰の仕業だろ…」  
 
私の呟きに、黙って鋭い視線を周囲に配っていた健太が低いうなりで応える。  
 
「クラスの奴じゃねえ。」  
 
これだけ怒りを露わにする健太は珍しかった。  
 
「…気にしないで。…私、平気だから。」  
 
ただでさえ揉め事の多いときだ。これ以上…  
ふと、これが私だけでなく、健太に対する攻撃でもある可能性に思い当たった時、ジリジリと始業を告げるベルが鳴った。  
 
逆に健太を宥めながら、出来るだけ平然と昼休みまで過ごしたが、廊下を歩く度に突き刺さる視線と囁きにはさすがに参って、給食が終わってから、一人で屋上に上がった。  
 
「図工室にも、一枚。」  
 
ぼんやりと校庭を眺めていると、不意に後ろから聞き慣れない女子の声が聞こえ、振り返ると、  
同じクラスの作倉さんが立っていた。ひらひらと例の写真を手にしている。  
これまで、無口であまり目立たない彼女とは、ほとんど会話を交わしたことが無かった。  
 
「…落ち着いてるね。ま、心配しなくても、『お姫さま』は、みんなに守って貰えるもんね…」  
 
棘のある口調に少しムッとして私は黙り込む。彼女は淡々と続けた。  
 
「…いいよね。綺麗な人って。辛い事なんかあるのかしら?」  
 
皮肉な微笑み。  
そんな彼女の態度に朝からの怒りが爆発し、気がつくと私は、肌身離さず持っている一枚の写真を突き付けて、作倉さんに詰め寄っていた。  
 
「…これが誰か解る!?  
これが、一年前の、どん底の私!! お姫さまでも、綺麗でもない、辛いことばっかりの白瀬紗英!!」  
 
…不眠症で充血した虚ろな瞳、歯並びが悪いと抜歯されて腫上がった頬、そしてストレスで抜けた髪…  
父親も見限った、『使いものにならない』白瀬紗英の写真。  
 
両親が離婚したとき、転校したとき、何回か姓を変えられる機会はあった。  
しかし、健太と出会えた新しい私は、この写真の中の惨めな白瀬紗英を捨て、早川紗英になって彼女を忘れることがどうしてもできなかった。  
だから、私はずっと同じ白瀬紗英。  
辛かった季節を越えて、あの夏やっと健太のもとへ辿り着いた白瀬紗英。  
 
「…ごめん、作倉さん…そんなアイコラよりこの写真のほうが、絶対人に見せるの嫌だったのに…何故だろ。可笑しいね…」  
 
八つ当たりを詫びると、作倉さんは黙って踵を返し、歩み去った。  
その寂しげな後ろ姿は、どこか、私と似ているような気がした。  
 
 
…そして『時間』は容赦なく、未熟な私達に深刻な決断を迫る。  
放課後の教室にゴトーがもたらした知らせによって、事態は急転した。  
 
「…あの写真、大基の仕業だ。あいつとつるんでる二組の奴を締め上げたら白状したよ…」  
 
片岡大基。  
東小の危険分子である彼の動きに一番過敏にだったゴトーが、なぜか重い口調で私たちに告げる。  
健太は無言で椅子から立ち上がり、おそらく大基の元へ向おうと歩き出した。  
 
「待ってくれ!!」  
 
ゴトーは扉に立ちはだかり、苦しげに言い添える。まるで、自分の罪を告白するかのように。  
 
「…あのな… あいつ、ずっと昔から紗英の…ファンだったって…」  
 
刹那に冷たく、やりきれない想いが、じわじわと体を這い登ってきた。  
 
「…やきもちの暴発か…」  
 
桜井の呟き、そして沈黙。  
それぞれに恋の苦しみを抱え、そしてその痛みをよく知っている桜井が、ユマが、エリが、静かに席を立ち、無言で教室から姿を消す。  
 
「…ケジメはつける、って大基は俺に約束した。な、ケン…も少しだけ、待ってやってくんねーか!?」  
 
健太がゆっくりと腰を降ろした。  
やりきれなさと、ゴトーの優しさに涙が溢れた。  
 
 
しかし、長く待つ必要は無く、すぐに私達一組の教室に片岡大基の使者が訪れ、健太と大基の一対一の勝負を申し入れると、巻き添えを恐れるようにそそくさと去っていった。  
 
「…紗英、ゴトー、付き合ってくれ…」  
 
 
人気の無い旧体育館の裏が二人の戦場だった。いつもの取り巻きもいない大基は、張り詰めた表情で、健太を待っていた。  
「…よぉ大基。能書きは無しだ。とっととケリ着けようぜ?」  
 
片岡大基は私の姿に少し青ざめたが、健太の言葉に低くおぅ、と応え、拳を固めて健太に挑んだ。無造作に大基の攻撃をかわし続ける健太は全く表情を変えずに、じりじりと大基を追い詰めて、  
難なく優勢にたった健太の容赦ない猛攻は、私には目を覆いたくなるものだった。  
満身創痍の大基はそれでも立ち上がり、再び倒れるまで全身で健太の殴打を受け止めた。  
 
「…しっかり、見といてやれ。」  
 
ゴトーの厳しい口調に、なんとか瞳を上げる。  
すでに勝負とは言えない凄惨で一方的な健太の攻撃に、片岡大基は紙のように舞い、息も絶え絶えに力なく崩れ落ちた。  
 
「…十年早ぇよ。大基。」  
 
そう言うと健太は、もう動けない大基に背を向けて歩き出す。  
 
「行くぞ!! 紗英。」  
 
大基に駆け寄るゴトーの気配を背後に感じながら、私は健太の後ろ姿を追う。  
振り返ってはいけない。絶対に、振り返ってはいけない。  
それだけを心で呟きながら、私はただ、健太の背中だけを見つめて涙をこらえ、背筋を伸ばして歩き続けた。  
校門を出たとき、健太がそっと、まだ血の付いている手を差し出す。  
たまらずすがりついたその腕は、いつものように優しく、暖かかった。  
 
 
「…兄貴の、暇つぶし。私の名前は出さないで。」  
 
「え!?」  
 
次の日の朝、言葉の意味がさっぱり判らず目を丸くする私に、作倉さんは封筒を手渡し、上履きに履きかえてそそくさと教室に入った。  
 
封筒の中身は二枚の写真、私の潔白を証明する、アイコラの素材になった二枚の写真だった。  
ようやく元の体に戻れた私は、和服でススキの原っぱに物憂げに立っていた。  
そしてもう一枚、裸で縛り上げられた見知らぬ少女の写真を見て、健太はみんなにこう言い放った。  
 
「…紗英の乳は毎日俺が絞ってるからな。こりゃあ別人の乳だ、って一目で解ったぜ。」  
 
性懲りもなくまた猥談を始める男子を睨みつけてから、私は大切な六年一組の仲間を眺める。  
相変わらず作倉さんはつまらなそうに、窓の外を見つめていた。  
でもその日の授業中、一度だけ偶然目が合った作倉さんは、確かに前髪の間からチラリとつぶらな瞳を覗かせ、一瞬だけニッと、私に微笑んだ。  
 
『私の造る服は薔薇。そしてサエは薔薇の棘』  
 
マルセル・ゾエは私をそう評した。  
 
「…誉めてんのか、貶してんのかわかんねえな…フランス人ってのは。」  
 
これは、およそ似合わないファッション誌を眺める健太の感想。  
『稽古場』でこうして、身を寄せ合い話す時間を持てるのは久しぶりだ。  
 
「…ゾエってね、エッセイも書いてるんだよ。」  
 
ナチス占領下のフランスの田舎町を私たちみたいに駆け回った少女時代の回想記は私の愛読書だ。憧れのゾエの「アジア」コレクションで働けたのは、未だ夢のようだ。  
この仕事の成功で、私はやはり服飾の道を歩むことに決めた。  
ちゃっかり老後にはエッセイを書くことも。  
 
「…そろそろ帰れよ。」  
 
彼の言葉に私は黙って畳を見つめる。  
 
「…うん。じゃ、抱っこ。」  
 
ようやく最近、健太は素直に抱きしめてくれるようになったが、相変わらずのぎくしゃくした抱擁に、つい悪戯心が芽生えてしまう。  
 
「…噂になってる、西小の巨乳さんと私、どっちがおっぱい大っきいんだろ?」  
 
「馬鹿。」  
 
懲らしめるように健太は、窒息する程強い力で私を締め付ける。  
 
再び時は冬に向けて、慌ただしく進み始めていた。  
 
 
END  
 

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