健太と出会った東小6年1組での最初の日。  
私は、高過ぎる背を気にしながら、肩をすくめて黒板の前に立っていた。  
「白瀬紗英さんです。今日から1組の仲間ですから仲良くしてください。」  
お決まりの紹介に教室がざわめく。  
「白瀬紗英って…」「『Tesra』とかのモデル?…」  
「細いのに…」「乳でかっ!!」  
いくつもの複雑な視線が降り注ぎ、私はまた目を伏せる。  
六歳からつい先月まで雑誌のモデルの仕事をしていた。  
両親の離婚の原因になったこの仕事を辞めて、母の故郷であるこの街にくるまで殆ど通えなかった小学校。  
たまに登校しても話す友達もなく、誰かが声をかけてくれても気の利いた返事も出来ない。  
違う世界の、お高くとまった、面白くない子。  
きっとここでもそうなのだろうと思っていた。  
目を伏せたまま言われた席に着き、そのまま一番苦手な休み時間を迎えた。  
 
「おい転校生。ちょっと背中掻いてくんね?」  
びくりとして顔を上げると、前に座った男の子が、肩越しにこちらを見ていた。「わっ!」  
凄い顔だった。  
 
腫れて塞がった片目に擦りむいた鼻の頭、両手は指まで包帯でグルグル巻きで、やっぱり私はまた、馬鹿みたいな返事をしてしまった。  
「あ…。」  
「頼む!早く早く!!傷は治りかけが痒いんだ!お前だってそうだろ?」  
「う、うん、はい。」  
慌てて手を伸ばし、ポリポリと背中を掻く。  
「西小だよ。連敗中だ。」  
別の男の子が話しかけてきた。  
「シバケンがこれじゃ、今年は西小が尾ノ浜決定だな。」  
なんだか解らなかったが、このお化けみたいな子がシバケンなのは解った。  
「サンキュー転校生。お前モデルやってたって?俺も去年、祭りのポスターのモデルやったぜ。」  
シバケンが言うと、女の子がどっと笑った。  
「あのふんどしはウケたわ。この子はああいうネタみたいなんじゃなくて、『Tesra』とかそういうちゃんとした雑誌のモデル。よね?白瀬さん?」  
「あっ、うん…」  
「とにかくこの夏は悔しいが尾ノ浜は西小のもんだ。勝手に行って囲まれても知んねぇぞ。転校生も解ったな。」  
「あ、はい…」  
相変わらず全然解らなかったが、私はみんなと一緒に笑っている自分に気付いた。  
 
 
その日から私は、まるでシバケンの背中を掻く係のように、いつも彼の後ろにいた。  
そこは、何も言わなくてもみんなの輪に入れる安心な場所。居眠りしたままで、ぼそりとかけてくれる言葉は、いつでも私を独りぼっちにしないでくれた。  
そのうちシバケンの包帯は取れ、自分で背中も掻けるようになっていたが、やっぱり私はいつも彼の背中を見ていた。  
 
「紗英ちゃんて、やっぱり芸能人とか会ったことあるの?」ある休み時間、同じ班の子が尋ねてきた。  
テレビや芸能人の話は苦手だったが、そんな事信じてもらえないだろう。  
それにせっかく尋ねてくれた人を失望させるのはもっと苦手だった。  
四苦八苦してどうにか答え、彼女が立ち去ったあと、いつものように、自分の答えのまずさに落ち込みながら、読みかけだった本を目で追っていると、前で居眠りしていたシバケンが顔も上げず言った。  
「『よだかの星』くらいまでは読んだか?」  
なんの事かと少し考えて、私が今読んでいる本の内容と気付いて驚いた。  
「う…うん、ちょうどその前。」  
 
「俺は本なんか読まねえとみんな思ってる。  
喧嘩だけが楽しみの奴だってな。まあ、なんだ、見た目と中身の差は自分の責任って事だ。お前きれいだしモデルだろ?もちっと堂々としてたほうがみんな付き合いやすいぜ?」  
そして珍しく振り返って彼は言った。  
「日曜日みんなで海へ行く。ちっと遠い松原海岸だけどな。お前水着持ってるか?」  
まだ少し傷の残るやんちゃな顔。  
私は彼の言葉をよく考えて深呼吸すると、勇気を出して精一杯の声で教室にいる同級生に言った。  
「ねぇ!誰か、この辺でかわいい水着売ってる所知らない?」  
身も凍る静寂。  
しかしそれは一瞬で破られた。  
「俺行ってやる!!  
試着室まで付き合ってやる!!」「お、俺も!!」  
雪崩のように名乗りを上げる男子を蹴散らし、女の子が言う。  
「こいつらと行ったら、紐みたいなの買わされるよ。私達と一緒にいこ。」  
 
シバケンはもう、居眠りに戻っていたけど、私は彼の背中に向けて微笑んだ。  
 
 
そして晴れた日曜日、私はシバケンの自転車の後ろに乗って松原海岸を目指していた。  
 
ずっと日焼け厳禁の仕事で、久しぶりの海の青さと空の広さに目眩がした。  
 
羽織っていたパーカーを脱ぐと、選んでもらった黒のビキニはよく似合ったようで、みんなの反応はすごくよかった。  
髪をまとめようと頭に手をやると、うおぅという唸りが男子から上がり、なぜか中腰のひとりが言った。  
「なんかこう…モデルっぽいポーズを一発希望。」  
恥ずかしかったけど、適当に岩場にもたれて、言われる通りにやってみた。  
「すげぇ!! 目線くれ目線!!」「誰か、マジカメラねーのかよ!」「あ!あたしも映りたい!!」  
季節外れの寒さも、、ギラギラのレフ板もない。  
これがほんとの海だった。  
これまでのどんな撮影よりいい笑顔の私がそこにいた。  
 
「…紗英ちゃんのおっぱい、すごい…  
腰なんかこんなに細いのに。」  
「そんな事ないよ、最近太ってきたし。あれ、シバケンは?」  
「三段岩で飛び込みでしょ。ほら、あっちに見えてる。」  
 
熱い砂を踏んでたどり着いた三段岩のてっぺんは、目が眩みそうなほど高かった。  
「跳んでみるか?」シバケンがいつものように、水平線を見ながら、横顔で尋ねる。  
「…うん!」  
今なら何でもできそうな気がした。  
「おいケン!ちっと危なくねーか!?」  
腕っぷしではシバケンに次ぐというゴトーが叫んだ。  
「大丈夫。水泳やってたから。」本当はジムのプールで時々泳いでいただけ。  
 
「白瀬紗英が跳ぶぞぉー!!」  
下を見ると、すでにゴムボートに乗って撮影隊が待機している。  
よく見てろよ、と言ってシバケンが跳んだ。  
そのフォームを目に焼き付け、入道雲に向けて思いっきり跳んだ。  
 
五感全てが初めての感覚に大混乱し、気がつくと昏い水の中で水面を見上げていた。  
無数の気泡と共にゆっくり浮かび上がる途方もなく長い時間。  
 
しかし水面に出て、胸いっぱいに空気を吸い込んだ私を大変な事態が待っていた。  
「うおおおおっ!?」  
こちらに向けて泳いでくるみんなに驚愕の表情が浮かんでいる。  
その中にシバケンを見つけ、手を振って泳ぎだそうとすると、髪と手首に何かが引っかかって邪魔をした。  
…見覚えのあるその黒っぽい布きれは…わたしのビキニだった。  
モデルには不向きなまでに大きくなってきた乳房が二つ、たぷたぷと波に揺られていた。  
 
「いやあああっ!!」両手で胸を覆うと、たちまちざぶんと沈んでしまう。  
バタバタもがいてまた浮かび上がると、おっぱいが必要以上にブルルン!!と揺れる。  
「と、撮れ、撮れえええっ!!」ゴムボートの撮影隊が突進して来る。  
こんな間抜けな姿を撮られるのは絶対イヤだ。  
苦い塩水が喉に入ってパニックを起こしそうになったとき、体が水面からすっ、と上がった。  
いつの間にかシバケンが、私の腰に手を回し、持ち上げてくれている。  
「落ち着け! 早く水着着けろ!」  
しかし胸の谷間には彼の顔があり、焦れば焦るほど装着できない。大きな波がまた乳房を揺らす。  
私を抱き上げての長い立ち泳ぎに、シバケンの息遣いがハァハァと荒い。  
上半身を自由にするため、はしたないが両脚を力いっぱい彼の腰に絡め、のけぞってなんとか水着を直そうとすると、シバケンも私のお尻を両手でギュッとつかんでくれた。  
「う!!」シバケンの様子は尋常じゃなかったが、なんとか水着はあるべき位置に収まった。  
「つ、着けた!!シバケン!大丈夫!?」  
「…お、おぅ。」  
彼は魂の抜けたような顔で答えた。  
 
互いに支え合って二人で岸へ上がったが、まだシバケンの様子は普通じゃなかった。  
「大丈夫!?本当に大丈夫!?」  
紅潮した顔で座り込み、肩で息をしているシバケンと、涙ぐむ私に、ゴトーがニヤニヤしながら言った。  
「…そりゃ立てねえよなぁ。」  
 
「俺のカメラ…」  
撮影隊のボートは女の子達が見事に撃沈してくれていた。  
 
それから毎日のように海へ行った。  
早起きして二人分お弁当を作り、シバケンを待つ。涼しいうちに出発しても、海岸までは沢山のお茶も必要。  
みんなと合流しながらやっと浜に着く頃には太陽は高く登りつめている。  
そして夜、くたくたになる程泳ぎ疲れていても、明日を待ちわびて眠りについた。  
「ねぇシバケン。髪長すぎて邪魔だからショートにしたら変かな?」  
「…そのまんまがいいと、思う。」  
昼間の、そんな会話を思い出しながら。  
 
私はシバケンに恋をしていた。  
 
 
夏休みも半ばを迎えたある朝、いつものようにマンションを出て、シバケンの自転車の後ろに乗ると彼が言った。  
「今日は尾ノ浜行くか?」  
驚いて聞き返す。  
「でも、西小の子がいるんでしょ。」  
「関係ねーよ。二人で行くんだし。」  
「え?」心臓がドキドキした。  
「イヤか?」  
「ううん。行きたい。」素直に答えた。  
「もうそろそろ泳げなくなるからな。いいもん見せてやる。」  
シバケンはすぐそこだと言ったが、溶けてしまいそうな暑さと耳をつんざく蝉の声のなか、初めて通る山道はどんどん急な登りになっていった。  
私はなんども下りて歩く、と言ったがシバケンは無視して、自転車を漕ぎ続ける。  
「もう着くからな。」  
ゴホゴホ咳き込みながらシバケンが言ったその時、目の前にまるで沸騰したように陽炎がゆらゆら上がる、壁のような激しい登り坂が現れた。  
「シバケン!こんなの二人乗りじゃ無理!!咳してるし!!」  
しかしシバケンは猛然と坂を登り始めた。  
「うおおおおおっ!!」  
激しい横揺れに思わ彼の背中にしがみつく。  
自転車も私も、悲鳴を上げる寸前だ。  
 
ふっ、とシバケンの背中から力が抜けた。  
目の前に視界いっぱいの空と海、そしてそこに続くはるかに長いまっすぐな下り道が広がっていた。  
「行くぞおおおっ!!」  
シバケンが叫ぶ。  
自転車は潮風に逆らい、海に向かって矢のように加速してゆく。  
「どーだ!!涼しいだろぉ!!」  
「うん!!すごいぃ!!」  
飛ぶようなスピードに髪が舞い上がる。流れゆく景色のなか、唯一確かな頼れるものはシバケンの背中だけ。  
たかぶる心のまま、その背中を思いっきり抱きしめた。 「ば、馬鹿!!胸あたってる!!」  
「いいもん!!」  
びゅうびゅう唸る潮風にまぎれて、彼の耳もとで叫んだ。  
「健太。大好き。」目をつぶって、応えを待つ。  
キッ!と自転車が止まった。気がつくともうそこは砂浜が見える堤防の前だった。  
「…俺もだ。」  
彼らしい無愛想な返事。  
どちらからともなく、手をつないで、体を寄せあった。  
この夏のために生まれてきた、と思った。  
 
砂浜に降りると、また健太が咳き込み始めた。  
「大丈夫?無理するから。」  
「なんでもねぇ。」  
 
彼はさりげなく背中を向け、隠すようにポケットから何か取り出したが、私は驚きに立ちすくんだ。  
それはぜんそく止めの小さなスプレー、病弱だった叔母が使っていたのと同じもので、副作用の強い薬だった。  
「駄目だよ!! 海どころじゃない!! 帰って休まなきゃ!!」  
叔母の話をすると健太はため息をついて、ゆっくり波打ち際へ歩きだした。  
「なんでそんなに無理するの!! そんなので喧嘩ばっかりしてたら死んじゃうよ!!」  
私が追いつくのを待って、健太は波をかわしながら話し始めた。  
「俺の兄貴も、その上の兄貴も『東小のシバケン』だった。健一、健佑だからな。どっちもすげー強くて有名だった。 だのに俺だけ、ちっちゃな頃から体弱くて、しょっちゅう入院してて、ベッドで本ばかり読んでた。  
やがて弱っちい弟の入学式の日にな、いかつい兄貴二人が俺の同級生、っても豆みたいな一年生に膝をついて、弟を頼むぜ、仲良くしてやってくれ、って頭を下げて回ったんだ。  
兄貴にも同級生にも、死ぬほど恥ずかしかった。その姿見てから、かな。早くシバケンにならなきゃ、って。」  
 
そこまで話すと、彼は少し照れたように笑った。  
刈り込んだ髪。上がった濃い眉に鋭い目。  
私は病院の大きなベッドで本を読んでいる、小さな白い健太を想像しようとしたが、照りつける太陽の下では、それはうまくいかなかった。  
「…帰ろ。帰って休んで、もっと話そ?」  
「…そーだな。」  
 
再び手をつないだとき、堤防のほうで沢山のブレーキ音が響いた。  
3、40人はいるだろうか、ブレーキの音は鳴り止まなかった。  
「西小だな。」  
健太は呑気に波打ち際へ座り込んで、砂遊びを始めた。  
「…あぁあ。帰りそびれたな…。」  
 
早くも浜辺に降りてきた何人かがチラチラ私達を見ている。  
段々と距離を詰めてきた彼らは明らかに何か気付いた様子だった。  
「…似てるよな…。」「つぅかこないだテレビで…」  
私は心の中で舌うちした。  
興味の的は健太ではなく、私のようだった。  
しかし幸い全く健太には気付いていない様子だったので、こっそり帰るには好都合かもしれない、と思ったとき、西小の一人がこちらに聞こえるように言った。  
 
「こっち向いてよボインちゃ〜ん」  
あっ、と思う間もなく一握りの泥が彼の顔に飛んだ。  
健太が座ったまま低い声で言う。  
「おい、バカ共、なんか言ったか?」  
泥だらけの顔を先頭に三人が血相を変えて突進してきたが、彼らの表情は、あわただしく驚きに変わった。  
「あっ!!シ、シバケン!!」  
次の瞬間に三人はもう、砂の上に転がり呻き声を上げていた。  
「健太!!」  
止めようにも既に騒ぎを聞いて、大勢の西小の子が四方から殺到して来る。  
「ごめんな、紗英。」  
健太は落ち着いていたが、呼吸は苦しげだった。  
「…『魚雷』はいねえが、岸に武田、5年の『怪獣』までいやがるな。」  
もう、どうにでもなれ、と開き直った時、迫り来る西小男子をかきわけて、スクール水着の大柄な女の子が私達の前に飛び出した。  
「あなたたち!!他校の生徒ね!!」  
「6−3 国東」とゼッケンをつけたその子は、私と同じ位背が高く、均整のとれたたくましい体をしていた。  
端正な顔立ちに銀縁眼鏡。仇名を付けるなら、「委員長」で決まりだろう。  
 
「何故うちの生徒に乱暴したの!? キチンと説明なさい!」しかし彼女の声は、背後の西小生徒のざわめきにかき消された。  
「…東小のシバケンじゃね!?」「女連れかよ…」「あの子どっかで…」  
「委員長」が叫んだ。  
「黙りなさい!! 誰であろうと…」  
しかし再び彼女の声は、一人の長身の男子にさえぎられた。  
「何やってんだシバケン?、ここは退いとけよ。お互い恥じゃねえ。」  
「岸君!!そんなー」一斉に声が上がる。「帰れ帰れ!!」「東小は帰れ!!」  
確かにおとなしく帰るのがいいのだろう、大勢の嘲笑と罵声を浴びながら。  
 
だけど私は絶対に健太を、東小のシバケンをそんな目にあわせる訳にはいかなかった。  
私は再びステージを歩く事に決め、瞳を上げた。  
上着を脱ぎながらゆっくりと健太の前に立つ。優雅に、傲慢に。  
そして、「委員長」の目を真っすぐに見つめ、彼女の前に進み出た。  
「何か失礼があったかしら?」  
周囲が沈黙する。  
私のほうが少しだけ彼女より背が高かった。  
「先に悪ふざけを始めたのは、貴女のお友達のようだったけど?」  
 
「そ、それは、きちんと話しあって…」「この暑い中、長話はごめんよ。もう失礼するところだったの。よろしいかしら?。」  
そのとき、興奮した声で三年生位の男の子が叫んだ。  
「あの子、オロチヒメだ!」  
映画に出たときの役名だった。悪役だ。  
その子にペロリと舌をだして微笑むと、周囲が一斉にどよめいた。  
「やっぱり!!」「白瀬紗英だ!!」「すげ!!」「シバケンの…」「彼女?」  
全身に注がれる視線をたどって、目があった一人一人にオロチヒメの魔性の視線を返す。全員が頬を赤らめ俯いた。なんとか形勢逆転だ。  
 
クルリと向きを変え、背中がきれいに見える歩き方で健太のところまで戻る。「行きましょ。早くシャワー浴びたいわ。」  
「おう。」  
調子を合わせて健太も「東小の魔王」の貫禄を見せる。  
腕を組んで歩き出すと西小の人の波が真っぷたつに割れた。  
その中を堂々と退場する。健太のしかめっ面がおかしかった。  
「紗英ちゃーん!!」後ろのほうから女の子の声が飛ぶ。小さく手を振って、ステージは無事終了した。  
 
 
帰り道、健太がぽつりと言った。  
「ありがとな。おまえかっこよかった。」  
少し照れた。  
 
初めての夏は終わろうとしていた。  
でも、少しずつ涼しい風を感じるたびに、健太と過ごせる新しい秋への期待で私の心は弾む。  
 
おしまい  
 

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