「サエ!! この辺に『カナたん』が住んでるってほんとか!? しかもおまえ、知り合いだって…」  
 
仕事で遅刻してしまい、騒がしい昼休みの廊下を駆け抜けて六年一組の教室に入ると、待ち受けていたゴトーが血相を変えて掴みかかってきた。  
息を荒げ、グリグリと目を剥いたゴトーに詰め寄られ、私はしどろもどろに答える。  
 
「え!?『カナたん』って緒方かなのこと?」  
 
「…緒方かなって誰だ?」  
 
「…カナたん、でしょ?」  
 
どうも話が噛み合わない。小首を傾げて睨み合っていると、珍しく居眠りをしていない健太が苦笑いしながら割って入った。  
 
「ゴトーが言ってんのは、ほれ、『虹のすきっぷ!!』のカナたんだろ。朝の教育番組の…終わっちまったけどな。」  
 
「…私が言ってんのもそう。着ぐるみのムクムクと一緒に虹の国から来た妖精の女の子。」  
 
要するに数年まえの人気教育番組『虹のすきっぷ!!』で進行役を務めていたのが、私の元モデル仲間の緒方かな演じる『カナたん』ということだ。ああ、ややこしい。  
 
「ああっ!! そういやあいつ、確かに『カナたん』だ…」  
 
緒方かなを知っている健太までが驚いて叫ぶ。しかし決して彼が鈍い訳ではない。  
今の精悍な野球少女と、あのころの絵本から抜け出たような愛らしい虹の妖精が同じ少女だと気付く人はまずいないだろう。  
 
「可愛かったよなぁ、カナたん。バック転が上手でさ…」  
 
「それにあの衣装な、成長期だからだんだんキツくなって、やたら開いた胸元がもう、犯罪寸前だった…」  
 
いつの間にかお馴染みの猥談に発展する男子たちを冷ややかな眼で眺めていると、慌ててゴトーが話題を修正する。よほどカナたんに執着があるようだ。  
 
「で、その緒方のカナたんが近くにいるってのは…」  
 
「うん。五年生に土生って子がいるでしょ。あの子の入ってる『光陵リトル』って野球チームにいるの。」  
 
ユニフォームに身を包んだ孤高の鷹。儚い必殺の刺客。かつて妖精だった彼女は変わった。いや、自ら変えたのだ。  
変化を恐れず、常に退路のない挑戦を続ける彼女は、かつての孤独な私にとって、唯一厳しさと、今だから理解できる優しさを持って接してくれた数少ない友人だった。  
 
 
「…ある朝突然、カナたんは違う女の子に替わってた。バック転も出来ない二代目にさ。ムクムクまで知らんふりだった…」  
 
ゴトーが悔しげにいう。どうやら彼の初恋は、テレビの中の緒方かなだったらしい。  
 
「…それからすぐ、番組終わったんだよな。なんであの子、急に辞めちまっんだ?」  
 
周りを代表して、健太が尋ねる。ここからは少し私にも関係がある話だった。  
 
「ん… テレビや雑誌には、専属契約って制度があってね…」  
 
当時の私はローティーン向けファッション雑誌『Tesra」の専属モデル。一方同じ道を目指していた緒方かなは、アクタースクールで高い身体能力を見いだされ教育番組『虹のすきっぷ!!』のキャストに抜擢されていた。  
抜群のキュートさと絶えない笑顔。『カナたん』はたちまち幼児や父兄の人気者になったが、彼女の眼はいつもその恵まれた肢体を活かせる場、競合誌トップの『Tesra』に向いていた。  
やがて念願叶って『Tesra』出版社から契約の打診があったとき、彼女は『虹のすきっぷ!!』契約延長を断って、すっぱりと人気絶頂の『カナたん』を捨てたのだ。  
 
「…じゃ、胸が大きくなりすぎて、衣装が入らなくなった、ってのはデマか?」  
 
「…当たり前でしょ。テレビ局は、彼女のために撮影セット大改造したくらいなんだから。」  
 
彼女の見事なバック転は番組の人気のひとつだった。しかし、安全の問題から、続行が困難になったことがある。  
しかし『カナたん』は頑なに継続を主張し、この人気シーンのためにセットは八割がた安全重視に新造されたのだ。  
 
…もっと軽やかに、もっと笑顔で。ブラウン管の裏側で、カメラの死角で、いつも彼女は人知れず汗を流していた。  
軽やかに舞い降りる虹の妖精はいつも、ふらふらで立てなくなるまでバック転の練習を続けていた…  
 
「…で、そのあと『Tesra』二枚看板となったわけね。憧れたなぁ、あの頃…」  
 
エリがパラパラと『Tesra』最新号を捲りながら言う。相変わらず巻末には、『モデル好感度アンケート』が綴じ込まれていた。  
皮肉にもあの頃、心を錆びつかせて着せ替え人形のように生きていた私の姿は、退廃と背徳という当時の流行をそのまま具現していた。  
気だるく虚ろな視線の私は常に投票のトップに居座り、明るく健康的で凛とした新参モデル『緒方かな』にその座を譲ることはなかった。  
彼女は頑なに自らのスタイルを守り続け、決して白瀬紗英の亜流になることなくある日突然、再び軽やかに新たな道を歩きだしたのだ…  
 
「…俺としちゃ、モデルなんかより、ずっと『虹のすきっぷ!!』続けて欲しかった…」  
 
「…おまえ、たしか公開録画に応募したりしてたもんな…」  
 
強面で通る『東小のゴトー』の意外な一面に驚きつつも、興奮する彼にこの先の話を続けるのは少し辛かった。  
踏み出したばかりの新たな道で彼女を襲った悲劇。そして彼女の今…  
 
「な、サエ!! ひょっとして、カナたんに逢えるなんてことは…」  
 
クラス屈指の硬派で、あまり恋愛には興味がないと思っていたゴトーの期待に満ちた瞳に、私は少し困って健太を見る。  
 
「なんとかならねーのか、紗英?」  
 
健太の答えは明快だった。多分、親友ゴトーのカナたんへの情熱を一番良く知っているからだろう。  
 
「うん…」  
 
戸惑いつつ二人を会わせる段取りを考え始めると、顔を真っ赤にしたゴトーが再び襲いかかってきた。  
 
「ダメだダメだ!!やっぱりそんな…カナたんと話なんかしたら俺は多分死ぬ。ちょっと見るだけ、遠くから見るだけでいいんだ!!」  
 
別に死にはしないと思うが、それならいい方法があった。彼のデリケートな男心にぴったりの方法だ。そして今、彼女の歩む道を、ありのままこの熱心なファンに伝える方法…  
 
「ね、ゴトー、それじゃ明日の午後空いてる? こっそり彼女の練習を見に行きましょ…」  
 
…久しぶりに訪れた人気のない海岸は肌寒く曇っていた。夏の忘れものを捜すように、静かな海を見渡す。  
はじめての夏ははるか遠く、わずかに波の音だけが穏やかに、あの眩しい日々の記憶を私に運んでくれた。  
 
思わず脚を止めて海を見つめる私と、そわそわと落ち着かないゴトー。  
私たち二人は浜から少し離れた松林に隠れ、砂浜を一望できる場所を探して移動中だった。  
 
「…おいサエ、リトルの練習って、誰もいねえぞ!?」  
 
しかしすぐ、ゴトーの疑問に答えるように、寒々とした砂浜を小さな人影が歩いてくる。  
 
「…かなタンだよ。一人でトレーニング中。」  
 
「一人で!? なんで…」  
 
告げなくてはならない事は沢山あった。手回し良く取り出した双眼鏡を慌ただしく彼女に向けたゴトーは、彼女の現在をどう受け止めるだろうか。  
 
「…脚に怪我してるの。彼女…」  
 
「何だと!? 大変じゃねえか…」  
 
驚いて答えながらも双眼鏡のなかに彼女を収めたらしいゴトーはしばらく絶句してレンズを凝視し続けた。  
 
「『かなタン』だ…」  
 
ようやく絞り出した声が彼の静かな興奮を告げている。  
 
「…綺麗になったけど、だいぶ痩せたみたいだ…それに…」  
 
波打ち際をゆっくりと歩く彼女を追って双眼鏡が移動する。  
 
「…笑ってない顔、初めてみた…」  
 
ゴトーの眼に映る彼女の姿がありありと想像できた。  
しっかりとした眉の下、大きく澄んだ瞳は目の前に続く灰色の砂を見つめ、唇は堅く結ばれているだろう。  
そして、握った拳は規則正しく挙がり、力強い歩みに揃って高く振られている筈だった。  
 
「…無理な練習は出来ないから、歩きにくい砂浜を、ただ歩くの。」  
 
筋力を維持し、バランスを養うために彼女が見つけたトレーニング法だ。  
ひたすら海岸線を往復して、岩場を裸足で渡り、決して無理せず、惨い傷の残る左膝を動かし続ける。  
 
「…リハビリだな。膝が治るまで戦線離脱、ってことだろ?」  
 
一心に歩く彼女から双眼鏡の焦点を外さずゴトーが言う。彼に全てを話す決心をして、私は太い流木に腰を下ろした。遠雷が低く響いていた。  
 
「…聞いて、ゴトー。彼女の脚は、治らないの。」  
 
「何!?」  
 
はじめてゴトーは視線を私に戻した。霧雨に霞み始めた沖から、昏く雲が迫る。  
 
「…彼女はもう野球を続けられない。一撃必殺のピンチヒッターとして、残りの選手生命を代打に賭けるだけ…」  
 
「…高校野球も、プロ入りも有り得ねぇ、ってことか!?」  
 
「そう…光稜での一勝、そして次の一勝、遠からずバットが振れなくなるまで、それだけが彼女の見てるもの…」  
 
遠い水平線の雨を見ながら、ゴトーは私の声に黙って耳を傾け続けた。  
…かつて強豪チームで活躍していた彼女を襲った悲劇。常に自らの退路を絶って全力で走り続けた女の子の話。  
全てを知ったとき暴発した私の憤りは、ゴトーの胸にも湧き上がっている筈だった。  
…妖精はもう跳べない。颯爽とミニスカートを翻すこともない。『虹の魔法』なんて、子供騙しの夢物語…  
 
しかし、後藤祐平は男の子だった。昏い海を背景に小さく見える緒方かなを振り返り、彼は無理に微笑んだ。  
 
「…俺、馬鹿だよなあ… いまもずっと『かなタン』はムクムクと一緒に笑ってると思ってた…」  
 
彼はそれきり黙って、再び彼女に見つめ続ける。歩みを止めて、憂鬱な色の海に向かってじっと佇む小さな緒方かなの姿を、私も立ち上がって一緒に眺めた。  
 
「…あれ、何してるんだ?」  
 
天を掴むように片手を挙げた彼女の頭上に、くるくると何羽もの海鳥が舞っている。騒がしい鳴き声がこちらまで聞こえてきた。  
 
「…ああ、パン屑を投げて、寄ってくる海鳥を数えてるの。動体視力を鍛えるためだって…」  
 
彼女の表情は私には見えない。しかし果てしなく暗い海原と空を背景に、白い海鳥と踊る彼女は綺麗だった。  
いつか再び、誇り高い鷹のように高く舞う日まで、緒方かなは決して焦らず寡黙に翼を鍛え続ける。雨にも負けず、風にもまけず。  
 
「…俺、行ってくるよ。」  
 
ゴトーは双眼鏡を私に預けると、一歩、また一歩、砂浜に向かって歩き始めた。後を追う私に、ゴトーは振り返らず独り言のように言った。  
 
「…サエは待っててくれ。通りがかりの名無しでいいんだ。一言だけ、『がんばれ』って言いたいだけだから…」  
 
時々私は考える。人間の一生で、映画みたいに派手な奇跡に出逢うことは稀だろう。でも、慌ただしさのなかで見落としてしまう小さな優しい奇跡は、日々のあらゆる瞬間に溢れているのではないかと。  
小さくなってゆくゴトーの後ろ姿を、不意に一条の光がまばゆく照らし、私は思わず空を仰いだ。  
遥か水平線まで空を覆っていた鈍色の雲は切れ、穏やかな日光が幾筋も浜辺に降り注いでくる。  
 
…荘厳で、身震いするような光景だった。暖かな黄金色の光は乱れ舞う海鳥と緒方かなを包み、そして…  
 
うっすらと彼方から架かった大きな虹。私は持ち上げかけた双眼鏡をゆっくりと降ろす。  
この瞬間、海原にかかる大きなの虹の下、距離を縮めてゆく不器用だけど大切な二人の友達の姿を、しっかりと自分の目に焼きつけておきたかった。  
 
END  
 
 

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