日が沈むと山頂から一望できる、壮麗だが見飽きた街の夜景。  
それより新鮮な空気が吸いたくて、ジュリは根岸が嫌がるのも構わず車の窓を開けた。  
 
「ヒゲ…痛い…」  
 
根岸の不精髭がジュリの剥き出しの乳房をチクチクと刺す。鬱蒼とした山の頂上にぽつんと停まったスポーツカーの中が、最近では二人の人目を憚る取引の場所だった。  
 
「まだ…濡れてない。痛いのは、やだ。」  
 
せっかちにズボンを降ろす根岸を制し、ジュリは中途半端に下げられた下着を自ら脱ぐ。もう少し興奮しないと…  
 
無愛想な十一歳の少女の要求に、大手出版社の編集員である根岸は黙って前戯を再開する。  
神経質そうな白い指がジュリの締まった下腹部を撫で回し、薄い唇と舌はまた、彼女の甘い香りを放つ柔らかな乳房を這う。  
 
「…ん…」  
 
ジュリの唇から初めて切なげなため息が漏れる。しかし、彼女の意識はこの情事とは全く違う方向を向いていた。根岸進、この軽薄な独身男から早く聞き出したいこと…  
 
ジュニアモデルの寿命は蜻蛉のごとく儚い。  
女児が女になるほんの短い過渡期、太陽のような、月のような刹那の魅力が閃光のように輝く短い一瞬だけが彼女たちの季節だ。  
せっかちに成長を続ける体と共に、スポットライト浴び華麗に駆け続けられる者はごく僅かだけ。  
加賀見ジュリはそんな険しい道を、大人びた容姿に急激に膨らんだ胸、という時限爆弾を抱えて疾駆するジュニアモデルの一人だった。  
 
「あ…あ…」  
 
年齢相応の恥じらいも見せず、ジュリは倒れたシートの上で大きく脚を開く。  
待っていたように根岸の舌が這い降り、狭い車内にはジュリの小さな喘ぎが響き続ける。  
 
 
人気ローティーン誌『Tesra』の専属モデルであるジュリを見舞った大きな幸運は、彼女を僅かの期間に別人のように変えた。  
 
看板モデルだった白瀬紗英、そして彼女に次ぐ人気を集めつつあった緒方かな子の相次ぐ引退。  
ジュリにとっては不可解でくだらない理由によって舞台を去った二人のお陰で、繰り上げられるように彼女の姿は大きくページを飾り始めた。  
そして、猛追撃をかけてくる幾多のライバル達と戦う為に、ジュリが選んでしまった道…  
 
「…もう、いいだろ?」  
 
力の抜けた手足を投げ出し、根岸の愛撫に身を任せていたジュリは、頷いて男のものを自らに導く。  
充分な潤いと慎重な所作がなければ、まだ彼女の若い身体に挿入は苦痛なのだ。  
 
「ん…入った…」  
 
心地よく窮屈なジュリの内部に深く侵入し、満足げな吐息を漏らす根岸の肩に手を回しながら、ジュリはまた思い出す。  
ずっと前、スタジオの控え室でモデル仲間の白瀬紗英、緒方かな子と偶然三人になった日のことを。  
ジュリが湧き上がるライバル心を懸命に隠し、一心に鏡に向かっていたとき、用もなく現れたのが彼、『Tesra』編集員の根岸だった。  
彼に生真面目な挨拶を送ると、すぐ読んでいた小難しい本に視線を戻した紗英と、同じく寡黙にストレッチを続けるかな子を、ジュリはそのとき馬鹿ではないかと思ったものだ。  
編集員と親密になるチャンスを逃がすつもりはなかった。  
自分たちを見つめる彼の好色な視線を敏感に察知したジュリは、媚びを含んだ無邪気な仕草ですぐに根岸に取り入り、ほどなく彼女は西欧の血を引く恵まれた肢体と豊かな胸を彼への報酬として、何人かの後輩を蹴落とした。  
超えられない壁だと諦めていた紗英とかな子が突然引退したのは、それから間もなくだった…  
 
「…感じるか?」  
 
「…うん…い…い。」  
 
いまではもう羞恥も、恐怖も感じない。年齢に似つかわしくない打算と肉体の快楽の為に、根岸進は格好の共犯者だった。  
 
強いていえば、もっと華やかな仕事をふんだんに与えてくれる人物が相手だったらな、とは思うが、ジュリはセックス自体は嫌いではなかった。  
しかし、こうして彼の意のままに弄ばれているとき、いつもあの場所に居合わせた三人のうち、一番愚かだったのは自分ではなかったか、と思ってしまう。  
 
仄暗い車内で青白く見えるジュリの胸の谷間に、ぬるりと引き抜かれた男根が運ばれ、彼女は黙ってそれをぎゅっと乳房で挟み、柔らかな肉で押し包むように刺激する。  
 
「…ジュリは今、何してるんだ?」  
 
「…パイズリ。」  
 
一年前のジュリなら卒倒しそうな言葉が自然に唇から出た。自分は何の為にこんなことを?  
答えは簡単だった。もっと有名になるため。ずっと人気者でいるため。今向き合っている試練を、この小心な男を利用して乗り越えるため。  
 
「ほら、口で…」  
 
「ん…あ…」  
 
二つの長い髪房を乱暴に掴まれ、慌ただしく唇にねじ込まれた脈打つ熱いものを、ジュリは懸命に吸う。  
早く彼の欲求を満たし本題に入りたい。鋭い視線で根岸を見上げながら、彼女は卑猥な音を気にも止めず奉仕の速度を速めた。  
 
「出…る」  
 
やがて泡立つような迸りが青臭くジュリの口腔を満たし、彼女はのろのろと開いた車の窓からそれを吐き出す。  
白い雫はいつまでもジュリの形よい唇から糸を引いて流れ、彼女は待ちわびた根岸からの報告を背中で聞く羽目になった。  
 
「…駄目だったよ…」  
 
ジュリは窓から顔を出したまま、振り返らず根岸の言葉を噛みしめる。失望を彼に見られるのはいやだった。しかしうっすらと滲んだ涙が、眼下の夜景を滲ませる。  
 
「そ…」  
 
そっけない応え。意地汚く最後の行為を悦しむために、勿体をつけた根岸が憎かった。  
 
年間を通じ最も読者の人気を得たモデルが『Tesra』の表紙で読者に別れを告げ、中学生向けの姉妹誌に華々しく登場する春の連動特別企画『卒業』  
その部数を賭けた企画の厳正な選考に、根岸のような若手がさしたる権限を持たないことは判っていた。  
しかし、『卒業』は危ういものとはいえ『Tesra』トップモデルのジュリにとっては何としても獲得しなければならない、未来へのチケットともいえる重要なキャリアだったのだ。  
 
「…結局上の連中は、『紗英ちゃん、かなタン』って後ろ向きの話ばっかでさ、今年は地味に流すそうだ…」  
 
茫然と肩を落として根岸の言い訳を聞き流し、ジュリは車のドアを開ける。あとは淡々と残る撮影をこなし、春にはひっそりと消えゆくのみだ。絶望感が夜風と共にジュリを包んだ。  
 
「…で、でも、君はハーフで大人っぽいし、グラマーだから…」  
 
「…クォーター。」  
 
取り繕った言葉を並べる根岸を見もせず、車を降りたジュリが暗く寂しい山道を歩き出すと、慌てて根岸が彼女の後を追った。  
 
「待てよ!! 街まで何十Kmもある。とりあえず乗れって!!」  
 
彼がジュリの心配などしていないのは判っていた、ただトラブルが怖いだけ。わざわざこんな山奥で彼女の早熟な身体を弄ぶのも、臆病な根岸の考えつきそうな事だった。  
 
結局、まるで自分の未来を思わせる真っ暗な山道も恐ろしく、ジュリは宥められるまま再び車に乗りこんだ。  
二人は終始無言のままで峠を下って市街へ抜け、やがて見覚えのある大通りでジュリは俯いたまま根岸に車を停めさせる。  
 
「降ろして。ここから歩く。」  
 
まだ名残惜しそうな根岸と賑やかな駅前で別れ、ジュリは夜の喧騒のなかで立ちすくんだ。もう彼と話すこともないだろう。  
 
ここまで来れば、自宅まで歩けない距離ではなかった。母親を迎えに呼び出そうかと思ったが、車内であれこれ聞かれるのがイヤでやはり徒歩で帰ることにした。  
父親とは…母に対するぞんざいな口調を注意されて以来、しばらく口をきいていない。  
 
退勤したサラリーマン、高校生、塾帰りの小学生。帰途を急ぐ雑踏に混じり、久し振りに地元のアーケード街を歩く。誰も彼女に目を止めるものはなかった。  
書店の前を通り、夥しい平積みのファッション誌を見ると明日の撮影を思い出す。次々と現れる新人モデルたち。  
彼女たちは虎視眈々とジュリの後釜を睨んでいるだろう、かつてジュリが紗英とかな子の失墜を心から願ったように。  
しかし今の彼女は『身勝手に』去っていった二人を恨めしくさえ思う。  
そして、それが筋違いな逆恨みであることをジュリは良く知っていた。  
所詮、自分はトップの器ではなかっただけ…  
 
(…お腹、空いたな…)  
 
歩道橋を降りるとファミリーレストランの灯りが眩しくジュリを照らす。  
彼女は新人オーディションの合格通知を受け取った日、お祝いに家族でこのファミリーレストランで食事をしたことを思い出した。シーフードドリアと、海藻サラダ。それから…  
あの夜の献立から次々と、昔好きだった食べ物に連想が広がる。チーズケーキ、クレープ…  
太りやすい体質のジュリは、最近食事への楽しみを全く無くしていた事にふと気付いた。  
 
(…あの日もお父さんの奢りだった。お小遣い、全部私の服やオーディションの費用に消えてたのに…)  
 
家族への後ろめたさに背中を丸めながらレストランを通り過ぎると、シャッターを降ろし始めた懐かしい雑貨店が見えてきた。  
 
(あの赤いトレーナー、ここで買ったっけ…)  
 
根岸に買って貰った『スノウホワイト』のカットソーは薄く、寒かった。  
 
昔お気に入りだった野暮ったい、名もないブランドの赤いトレーナー。でも、丈夫で暖かった。まだ家のどこかにあるのだろうか?  
 
繁華街を抜けると、次第に灯りが疎らになってゆく。慣れないミュールで足が痛くなってきたが、自宅までははまだ遠かった。行き交う人も少なくなり、心細さと惨めさに涙が零れそうになる。  
 
『…辛いときはね、なにもかも全部『役』なんだ、って思うの。いつか終わる白瀬紗英っていう役。そうすれば、少しだけ楽になれる…』  
 
あの言葉は、果たしてジュリに向けられたものだったのだろうか。去りゆく間際の紗英の虚ろな呟きを思い出し、立ち止まったジュリはたまらず暗い空を仰ぎ低く泣いた。  
…自分のことしか考えず、仲間の凋落を祈り、身体さえ差し出して大人を利用する。そして…振り向かれることなく消えてゆく、愚かで滑稽な『加賀見ジュリ』という汚れ役。  
それが、心まで失って必死に掴んだ空虚な当たり役。すなわちジュリの全て…  
 
(いやだ…そんなの、嫌だ…)  
 
もはや堰を切ったように溢れ出ようとする涙の意味さえ判らず、ジュリは自分の震える肩をぎゅっと握って嗚咽を懸命に堪えた。  
 
(…もう、疲れた。いっそ死んじゃいたい…)  
 
 
そのとき、崩れおちそうな彼女の背後で、突然自転車の急ブレーキ音が甲高く鳴り響いた。  
 
「こらぁ!!やっぱりテメーか!!」  
 
すかさずジュリを襲う聞き覚えのある怒声。ジュリは一瞬絶望すら忘れて首をすくめ、恐る恐る振り返る。  
 
そこには自転車の主、無遠慮な手でしっかりジュリの手首を握った同じ小学校の同級生、武内孝兵のしかめっ顔があった。」  
 
「…孝ちゃん!!」  
 
「…『孝ちゃん!!』じゃねぇよ!! 仕事か知んねぇが、お前どんだけガッコ休むつもりだ!? 俺らの班、お前の分のノート、毎日毎日書いてんだぞ!! 」  
 
「あ…」  
 
「カッちんなんかひたすら一人でウサギとカメの世話だ!! テメーも一応、飼育係だろうがぁ!!」  
 
唖然としながら懐かしい罵声を全身に浴び、彼女はゆっくりと、自分が河小六年三組、加賀見樹里だったことを思い出す。  
強く掴まれた手首から伝わる孝兵の体温に訳もなく頬が赤らみ、まだ身体に残っていた少女らしい羞恥心に樹里は戸惑った。  
 
「…ごめん…なさい…」  
 
焦燥の日々のなか、存在すら忘れていた同級生たち。彼女の活躍を自分のことのように喜び、応援してくれた友達。  
身勝手な自分が彼らとの暮らしを過去へ押しやったように、彼らも自分のことなど忘れ去っている、とジュリは意識のどこかで思い込んでいた。  
 
「…つか、おまえも雑誌作り屋もドンくさいんじゃね? 『おしゃれ服』の写真くらい俺ならソッコーでバンバン着替えて百年分くらい一日で撮っちまうぞ!?」  
 
まくし立てる彼の声を聞いていると、長かった悪夢から少しずつ目が覚めてゆくような気がした。そういえばこの道を少し行けば学校へ続く並木道だ。  
 
「ごめんなさい…私、ドンくさいよね…」  
 
「…ドンくさい上に、ガッコにも来ない。将来は大惨事だぞ。遅れてる所は教えてやるから、たまにゃ出てこい。」」  
 
ほんの少し前まで彼女の全世界だった小学校。宿題に給食、掃除当番…  
樹里が樹里として、何者も演じなくても生きられる場所は、まだ待ってくれている…  
 
「…ごめんなさい、ごめんな…さい…」  
 
全身を包み込む安堵にうち震え、座り込んでただ泣き続ける樹里に、孝兵はまた戸惑った大声を上げる。  
 
「ば、馬鹿!! わかりゃあいいんだよ!! 泣くな、泣くなって…」  
 
あたふたと彼女の周囲を廻る孝兵はあちこち泥まみれだ。倒しっ放しの自転車のカゴには、樹里にも見覚えのある大きな汚いナップサックとロックハンマー…  
 
「…孝ちゃん、また化石?」  
 
泣き腫らした瞳に、初めてちいさな微笑みを浮かべ尋ねた樹里に、孝兵は胸を張って答える。  
 
「おう。今日はかなり遠征した。…またアンモナイトとシダばっかだけどな…」  
 
樹里の胸に甦る去年までの夏休み。恐竜発掘の夢に燃える孝兵たちとの大冒険の日々。  
車ならほんの一瞬で登りつめてしまう山々を目指し、何時間もかけて道なき道を汗だくで登った。  
きらびやかな頂上ではなく、険しい山腹の地層に眠る遥かな歴史の置き土産。ずっしりと重いそれは、武骨だが厳かな宝物だった。  
濃い朝霧、溶けるような暑い日差し。そして、全く頼りない孝兵の計画…  
 
「…また、行きたいな…」  
 
「次の連休空いてんなら来いよ。…おまえ、家へ帰るんなら乗せてってやろうか?」  
 
「…うん!!」  
 
立ち上がった樹里の瞳はもう人任せでまがい物の『卒業』など夢見ていない。  
二本の脚で登りつめてゆく苦難に満ちた険しい登り坂の彼方、遥かな頂きと自らの足元を、いまや彼女はしっかりと見つめていた。  
 
 
END  
 
 
 

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