告別式が終わっても6年3組のほとんどは帰宅せず、「先生の木」の周りに集まっていた。  
学校のすぐそばに流れる川の高い土手。そこに立った大きな銀杏が「先生の木」だった。  
 
「…きれいな顔だったね。先生の死骸…。」  
泣きはらした目でマリが言う。  
「…遺体ね。マリ…。」  
千晶が、涙を拭いて応える。  
黙って佇む男子たち。  
それぞれが昨年の担任であった矢崎真教諭との別れを抱えきれずにこの木の下に集まっていた。  
 
 
 
あの春の終わり、八坂明は、この木の下で矢崎に見送られ、自らの潔白を証明する為に走り出した。  
 
「知らねーよ!!」  
5年生になってすぐに明は、万引きの容疑をかけられ、訳の解らぬまま、「青少年健全育成センター」の殺風景な一室に座らされていた。  
「…被害を受けた店は、たしかに君が出て行った直後に…  
「だ、か、ら、知らねーって言ってんだろ!!」  
押し問答は2時間近く続いていた。  
 
二人の補導員と明の苛立ちが頂点に達した時、5年3組担任である初老の美術教師、矢崎真が厚いノートを片手に入室してきた。  
「遅くなって申し訳ありません。調査結果と担任としての所見を簡単に述べさせて頂きます。」  
異例の事らしく、補導員が顔を見合わせる。  
しかし彼らはすぐ、矢崎真の「簡単」の凄さに舌を巻く事になった。  
「まず盗難品のゲームソフトですが、これはロールプレイングゲームというジャンルのもので、八坂明がこのジャンルにあまり興味がなかったという証言が…。」  
バラバラとノートを開く。  
「同級生約80人中17人。あった、という証言が0です。」  
明がノートを覗くとびっしりと友人の名前と「経験値とかめんどくせー。」「格ゲー以外はゲームじゃねーよ。」等、自分が発したらしい言葉が書かれてあった。  
…ついこないだ「テレビゲーム」で将棋が出来ることに驚いていた先生がここまでどうやって調べたんだろう…  
 
明の驚きは終わらなかった。  
「…そして八坂明の親しい友人でこのソフトを持っている者が4名。  
うち2名に八坂明は現在ソフトを貸しています。つまり…」  
矢崎は明の忘れている事実まですらすらと語った。  
これだけの調査を一晩でしたのだろうか?  
「…中古販売には保護者同意書に印鑑が必要です。しかし…「…つまり彼の所持金は、預金残高プラス…」  
「…現在の中古買取の相場は…」  
途中から補導員はメモすら止め、茫然と矢崎の説明に聞き入った。  
「…最後に担任としての所見を申し述べます。」  
矢崎はノートから顔を上げ、毅然として言った。  
「彼は窃盗行為は行っておりません。」  
 
明は矢崎に伴われ、晴れやかな顔でセンターを出た。  
「先生、あれ全部たった一晩で調べてくれたのか!? 」  
「岸や谷川も、みんな手伝ってくれた。ちゃんと礼言うんだぞ。」  
「わかってるって!!」  
「…だが昨日から話を聞いた全員がな、『八坂明はそんなことはしない。』とはっきり言った。これは、大したもんだな。」  
「ま、人望って奴かな?」  
 
そして2人は、あの銀杏の木の下で別れた。  
「それじゃ先生は学校に戻るが、ひとつだけ聞きなさい。  
君は、身に覚えの無い災難に遭った。  
そして君は考えれば判る質問にも、『知らねぇ』と答え続けた。それじゃ駄目だ。」  
矢崎は厳しい顔で続けた。  
「知れ。知ろうとしろ。世の中には知りたくない事や、知りたくても…知れない事もある。」  
矢崎は川の流れを見つめ、遠い目になった。  
「…でも、知ろうとしろ。これを怠ると…後悔する事になる。」  
明には矢崎の話の全ては理解できなかったが、怒りと混乱で心を閉ざしていた自分を恥じた。  
「行きなさい。明日はご両親と一緒だ。一生懸命考え、思い出して、本当の事を話しなさい。」  
明は決然と矢崎に頷き、自分に戦いを告げて走り出した。  
 
「…ハゲ校長が代わりに死ねば良かった…」  
マリらしい悲しみの表現に級友達は寂しく笑う。  
 
あの日、マリは復讐に燃えてこの木の下で、落ちた実を一心に拾い集めていた。  
放課後、6年生の女子二人組に呼び出されたマリは、体育倉庫で散々痛めつけられた。千晶戦での敗北以来、こんなことが続いている。  
なんとか逃亡し、仕返しの方法を考えつつ通りかかったこの土手で、異臭を放つこの木の実を発見した。  
朝一番に登校し、この臭い木の実をあのブサイク共の机にギュウギュウに詰めてやる。  
くさいくさいと泣く二人の姿を想像しながら、マリは熱心に実を拾い続けた。  
 
パンパンに詰まった紙袋を両手に提げ、立ち上がったマリは河原にしゃがみ込んでいる担任の矢崎に気付いた。  
 
「銀杏か…。若いのにマリは美味いものよく知ってるな。」駆け寄って来たマリに矢崎は言った。  
「ギンナン?…食べれんの? これ。」  
矢崎は怪訝な顔で答えた。  
「知らないで集めてたのか? …まあいい。ちょっと待ちなさい…。」  
 
パチン!!  
矢崎の起こした小さな焚き火の中で、銀杏の爆ぜる音がした。  
「熱いから気を付けてな。あまり食べると腹をこわす。」  
「うわ! へんな味。…でも嫌いじゃないかも。」  
受け取った銀杏をむちむち食べながらマリが言った。  
「先生は何してたの?」  
「…ああ、娘の…命日でな。十二歳だった。ここで、見つかったんだ。」  
矢崎の視線の先に一束の花があった。  
「ああ。戦争。」  
さすがに矢崎は苦笑した。  
「おいおい、先生そんな年じゃないぞ。でも、もう二十年経つ。生きていればマリのお母さん位の年かな。」  
「なんで死んだの?自殺? 他殺?」  
不躾けにマリが尋ねる。  
「『本人の不注意による事故死』だ。  
実際、何も、何も解らなかった。私達はその結論を受け入れた。」  
「ふうん。ま、わかんなきゃ、どうしようもないよね。」  
 
矢崎は低く同意した。  
「そう、どうしようもない…」  
 
そして花の前で手を合わせるマリに矢崎は言った。  
 
「ありがとう。ところでマリ、宮田桜を知っているか。」  
「うん。登校拒否でしょ!?」  
 
宮田桜。しくしくと泣き続ける彼女に、岸武志が声をかける。  
「もう泣くな。桜。先生悲しむだろ。」  
岸が佇んでいるのは、ちょうどあの朝、矢崎がマリを連れて彼女の前に立った場所だった。  
 
「ね!! 先生。この子、毎朝ここまできて、また家に帰るんだよ。」  
マリが得意げに言う。  
慌てて逃げようとした彼女を、豹のごとく敏捷にマリが捕らえる。  
 
矢崎は優しく尋ねた。  
「桜。誰か君をいじめるのか? 何か学校に来たくない理由があるのか?」  
桜は首を横に振った。  
いじめが原因で転校して来た彼女は、度重なる矢崎の訪問にもかかわらず、ほとんど登校していない。  
些細な失敗から、ここでもまた、いじめの標的になるのではないか、 自分は常に同級生を失望させ、蔑まれる存在ではないか?  
桜の心は、そんな恐怖に満ちていた。  
 
矢沢は続けた。  
「マリは知ってるね。彼女が君を守ってくれる。少し乱暴だが…とにかく、先生に約束してくれた。」  
 
桜がおずおずとマリを見上げると、マリは冷たい目で桜を見ながら言った。  
 
「でも先生、この子が学校に来ないと、話になんないよ。 見たところ、来る気ゼロだし。」  
 
…やっぱり無理だ。学校なんか…  
情けなさに桜が目を伏せ、縮こまっていると、銀杏の木から、するすると一匹の蜘蛛が降りてきて、桜の肩にとまった。  
何気なく桜はそっと蜘蛛をつまみ、下草の中に離した。  
「あんた!! 蜘蛛さわれんの!? 」  
だしぬけにマリが大声を出す。  
「…うん。」  
「毛虫怖くない!? ナメクジは!?」  
質問の意図が解らぬまま桜は答えた。  
「…大丈夫と、思う。」  
マリの目がらんらんと輝く。  
「よおし!! ナイスだ登校拒否!! ついて来い!!」  
 
問題児のマリだがただひとつ、全生徒の模範と言えるほど熱心に取り組んでいるものがあった。  
それは高学年の生徒が課外活動として行う学校菜園だった。  
しかし、マリの熱意にも関わらず、五年三組の活動意欲は低かった。  
やれ虫が怖いだの、服が汚れるだのと言って逃げる女子、五分とまじめに作業をせずに遊び呆ける男子。  
 
マリの大切な畑は、この役立たずなクラスメイト達のせいでこの夏も、他のクラスに比べて、全く貧弱な収穫しか上げる事が出来なかった。  
しかし、これから苗付けをする冬野菜は違う。  
宮田桜という貴重な労働力をフルに使って、里芋を、白菜を、他のクラスの倍、いや三倍収穫するのだ。  
鼻息も荒く、マリは桜のランドセルを掴んで学校に連行していった。  
 
「おい登校拒否!私が守ったげるから、しっかり働くのよ!!」  
見慣れないクラスメイトの登校に、当然教室じゅうの好奇の視線が集まったが、桜が再び登校拒否を始めては大変と、マリは番犬のように桜を守った。  
あるとき桜の消しゴムを勝手に使った高橋はマリに便所モップで追い回された。桜のブルマ姿をじろじろ見たという理由で、岡田は眼鏡を池に捨てられた。  
 
休み時間にはひそひそと熱心に肥料の時期を相談し、放課後遅くまで畑仕事に汗を流す桜に、いつしか「農奴」というあだ名がついたが、そのうちに桜のいる教室に違和感を抱く生徒は、クラスに一人もいなくなっていた。  
 
そして今では桜を笑うものもいない。  
 
「ねぇ桜、今日はマリもいないし、一緒に図書館いこうよぉ。」  
そんな声を聞くたび、宮田桜は矢崎とマリ、そして立派に育った野菜たちに感謝するのだった。  
 
五年三組の畑が、他のクラスの三倍の収穫を上げた日。  
矢崎はマリと桜が机の上へ誇らしげに積み上げていった泥だらけの作物に目を細めていた。  
 
しかし彼女達の努力の結晶である収穫物の下には、彼の体調不良に関わる深刻な検査結果通知が置かれていた。  
 
 
宮田桜を慰める岸の穏やかな声を聞きながら、千晶はじっと水面を見つめていた。  
あの日のように魚が跳ねる。  
 
矢崎と千晶の秘密。親友の明にも話していない秘密はこの木の下で始まった。  
 
矢崎が体調不良で休職したのは、千晶達五年三組の生徒が無事進級して、六年生徒になった春の事だ。  
下校途中、千晶は、銀杏の木の下でカンバスに向かう矢崎を見つけて駆け寄った。  
「先生!!」  
「千晶か。みんな元気にやってるか?」  
そう尋ねる矢崎の顔は、終業式の時より明らかにやつれている。  
千晶は悲しみを見せないよう明るく答えた。  
「うん!! みんな元気だよ!! 先生も調子良さそうだね。 何の絵?」  
ニコニコと覗きこんだ千晶の笑顔が凍りつく。  
悲しい絵だった。  
対岸の桜並木も、山も川も、全てが生命に溢れる春のなかで、カンバスの中だけが、絶望的な悲しみをたたえていた。  
「…寂しい川だね…」  
かろうじて千晶がそういうと、矢崎はずいぶん小さくなった声で答える。  
 
「そうか…。先生にだけ、こう見えるのかな…。」  
「…マリに聞いたの。先生の娘さん、ここで亡くなったって…」  
魚の跳ねる音がした。  
「晶子…といった。あの子を忘れないように、私は暇さえあればここに来ている。」  
「自分の子供のことは絶対忘れないよ!!」  
千晶は母のことを考えながら、祖父といってよい年齢の元担任を諭すように言う  
「だけどね、千晶。人間の記憶は、いつか終わる。遠からず…私が死んだら、あの子のことを知っている者は世界中で、妻だけになる。そして…。」  
「先生は死なないよっ!!」  
千晶が大声でさえぎった。  
「死ぬもんか!! ボクには解る!!」  
 
沈黙の後、口を開いた矢崎の声は教師としての響きを失くしていた。  
「早く… まだ、間に合ううちに、晶子のことを、私が知っていたあの子の全てを、せめて絵の中にでも残したいんだよ…。」  
千晶は潤んだ瞳でもう一度、矢崎が描いた絶望の景色を見た。  
「…一人じゃ淋しいよ。出来上がるまで、ボクも一緒にいる。」  
 
再び穏やかな水面に魚が跳ねた。  
 
 
それから病状の悪化に伴い、河原に姿を見せる事もなくなった矢崎を、千晶は度々見舞いに訪ねた。  
訪れる度に、絵の具の匂いの立ち込める薄暗い矢崎の書斎には、完成した油彩画が所狭しと並んでゆく。  
 
「千晶ちゃん、来てくれたの!!」  
今日も訪れた千晶を矢崎夫人はいつものように迎え入れた。  
「ちょうど起きたところよ。さあ。」  
 
三輪車にまたがった幼い少女、赤いランドセルの後ろ姿、まるで大きなアルバムのような矢沢の書斎の中央に、未完成のカンバスに向かう、憔悴した矢沢の姿があった。  
 
「あなた。千晶ちゃんよ。」  
「…ああ…」  
もはや千晶にも彼の死期がそう遠くない事ははっきりわかる。  
おそらく遺作となるであろうカンバスを、千晶は矢崎に寄りそって見つめた。  
 
まるでこの書斎のようなほの暗い背景。精緻に描かれた画面の中央に、ぽっかりとぼやけた、空白のような裸体があった。  
幽霊のようなその空白を見つめ、矢沢はぜいぜいと苦しい息遣いで、独り言のように千晶に語りかけた。  
 
「…思い出せない…あの子の、最後の…姿が。」  
絵筆を握りしめた震える指。  
「…難しい年頃だ、という言葉に逃げていた。最後に一緒に風呂に入ったのはいつだったか?  
どんな男の子が好きで、どんな未来を夢見ていたのか?  
私は、何も知ろうとしなかった…あの子が、逝ってしまった後も…」  
 
すすり泣く矢崎に掛ける言葉は思いつかない。  
しかし千晶は、今、晶子と同じ思春期の心と体を持つ少女として、自分ならこの作品の、いや矢沢の心の悲痛な欠損を埋められるのでは、と考えていた。  
千晶がその思いを矢沢に伝えようとした時、千晶の後ろに佇んだ矢崎夫人が、まるで千晶の心を読んだように、彼女に懇願した。  
「…千晶ちゃん、お願いします。この絵の為に、あなたの体を見せてあげて。あなたは晶子に…」  
矢崎が苦しげに遮った。  
「馬鹿を言いなさい。昨今の教育現場は児童との…」  
「そのときは。」  
矢崎夫人の声は微塵の迷いもなく部屋に響いた。  
「そのときは、私が命に代えて、あなたと千晶ちゃんを守ります。」  
 
全てを脱ぎ去った千晶は躊躇なく矢崎の前に立った。  
 
大人の入り口に佇む不安と、それを圧倒する希望に満ちる凛とした面立ち。  
幼さのなかに力強さの芽生え始めた肩から背中のしっかりした線。  
そしてはちきれんばかりに成長を遂げつつある、至高の曲線を描く豊かな乳房。  
画家矢崎真の卓越した技量は、残り僅かな生命の残り火を糧に、驚くべき繊細さと大胆さを駆使してカンバスの上に、思春期の輝く美しさに溢れた愛娘の姿を蘇らせていった。  
 
「…少し、疲れたよ。」  
 
矢崎が安らかな表情で筆を置いたとき、千晶の肩にそっとローブが掛けられた。  
「ありがとう、千晶ちゃん。本当にありがとう。」  
 
千晶を抱きしめた、小刻みに震える矢崎夫人の腕の中で、千晶は束の間、矢沢晶子になって両親の為に涙を流した。  
 
 
五年三組学級委員長、国東真琴が沈痛な声で千晶に矢崎の訃報を伝えたのは、それから数日後の事だった。  
 
 
千晶は自分に問いかける。  
矢崎の言ったように人はいつか記憶の彼方へ何も残さず消えるのだろうか。  
 
矢崎の子供達は今、春の日差しの下で大きな銀杏の木を見上げていた。  
 
それが問いに対する答えだと気付いて、千晶は涙を拭いて微笑んだ。  
 
 
END  
 
 
 

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