夏休みが終わり、涼しい朝が続いている。  
 
『紗英へ 今夜も遅くなります。』  
 
登校の支度をしていると、ダイニングテーブルの上に母のメモと、片付けた筈の花火大会の写真があった。母が出したのだろう。  
 
ゴトーにユマにエリ、そして、手を繋いで写っている私と健太。  
 
藍色の浴衣の私は、不思議な表情で微笑んでいる。  
そして健太。再開した柔道の練習で怪我した鼻に、ベッタリ大きな絆創膏を貼った彼は、頑固そうなへの字口で、こちらを睨んでいた。  
 
ふと気付くと、私は写真と同じ笑顔を浮かべていた。  
 
鼻の怪我などお構いなしに、健太は今頃、朝の練習に汗を流しているだろう。  
 
そして授業のほとんどを居眠りして過ごし、そのうえ放課後は、歴代シバケンが一人稽古に汗を流したトタン葺きの『稽古場』へ飛んで帰り、また練習に明け暮れるのだ。  
 
『獲りたいタイトルがあるからな。』  
 
それが彼の私への、ぶっきらぼうな説明の全てだった。  
 
私のせいで周囲からとやかく言われる最近、淋しいとは決して口に出さないよう気をつけている。  
 
でも、稽古場の明かりを見る為に、夕暮れの薄暗い路地を自転車で走り抜けるのは、母の知らない私の大事な日課だった。  
 
毎日の練習で打ち身と捻挫だらけの体で登校し、たまの休みには西小の生徒と喧嘩して、俺は欲張りだから、まだ時間が足りねえとぼやく、それが私の大好きなシバケンだ。  
 
 
朝礼で、担任が健太の欠席を告げた。  
 
本当は決して頑丈ではない彼の体を心配していると、ゴトーが深刻な顔で近寄ってきた。  
 
「おい紗英、学校終わったらすぐ、ケン捕まえてくれ。」  
 
携帯も自宅もつながらないという。  
 
「…何か、あったの?」  
 
「ああ、大戦争になるかも、だ。二組の片岡大基って知ってるか?」  
 
片岡大基。シバケンと反目する派閥の一人だった。  
 
『女で腑抜けた』シバケンに、最近露骨に敵意を剥き出し始めた片岡は、校内、校外を問わず、次々とトラブルを起こしていると聞いている。  
 
「あのバカ、共建グラウンドで暴れて、西小の生徒に怪我させやがった。所長さんカンカンで、無期限使用禁止だ。当然、西小の奴らもブチ切れて、東を皆殺しにするって騒いでる。」  
 
共建グラウンドは、ある企業が所有する立派なサッカー場で、西小のサッカー少年達が苦労して使用許可を得た施設だ。  
寛大にも西小の生徒は東小の生徒にも門戸を開き、そこは両校の対立は棚上げの場所として、喧嘩は絶対のタブーとなっていた。  
 
「俺たちゃ、逃げてる片岡捜すから、お前はなんとか、ケン捕まえてくれ。なんとかみんなでまとまらなきゃ…」  
 
坊主頭の普段は陽気なゴトーが眉間に皺を寄せて言う。  
 
「嫌な喧嘩になるぞ…」  
 
 
もし健太の欠席の理由が体調不良なら、と思い、私の心は重く沈んだ。しかし、誰かが健太を引っ張り出さなければならない状況で、私はしぶしぶその役目を受け入れた。  
 
「…わかった。ゴトーも気をつけてね。」  
 
今日はTシャツに膝丈のデニムを着ていた。  
戦闘服としてはまあまあだ。  
 
髪は休み時間にでもマナに編み込んで貰おう、そう考えて、トラブル慣れした自分にふと驚いた。  
『逃げるとき掴まれないようにして下さい。』  
 
ヘアメイクの酒井さんにそう頼んだら、どんな顔をしただろうか。  
無表情な私を、一生懸命笑わせようとしてくれた酒井さん…  
 
下校時間、すでに教室は騒然としていた。 桜井が駆け込んで来る。  
 
「…片岡のヤロー、当分欠席だとよ!! 剛、大介!! 奴の家張ってこい!! ゴトー!! ちょっと来てくれ!!」  
 
すでに下校路で、小競り合いが始まっているという。  
 
私も覚悟を決めて、与えられた任務の為、学校を後にした。  
 
途中、何度か見知らぬ小学生と出くわし、ドキリとしたが、なんとか稽古場までたどり着き、元気な健太の姿を見つけたとき、安堵のあまり力が抜けた。  
 
「健太!! 何してんの!! 」  
 
稽古場のどこからかホースで水を引き、パンツ一枚でザブザブと頭から水をかぶっている健太に叫んだ。  
 
「おぅ紗英か!! 大学から上の兄貴帰ってんだ。 みっちり鍛えてもらうから、明日も学校休むぜ。」  
 
「…もう、知らない!! 学校大変なんだよ!!」  
 
 
体を拭き、服を着ながら私の話を聞いた健太はしばらく考えて口を開いた。  
 
「あのな紗英、ゴトー達に、『しばらく適当に待ってろ』って伝えといてくれ。ちょっと行ってくる。」  
 
「行くって、どこへ!!」  
 
止める間もなく、健太は自転車に跨り、片手を挙げると走り去った。  
 
「待っ…」  
 
とっぷりと日が暮れても、誰とも連絡はつかないまま、私は眠れない一夜を過ごした。  
 
 
「『適当に』ってなんだよ!! そんなだから片岡みたいなヤローがのさばってくんだよ!! マジ腑抜けたのか!? アイツはよぉ!!」  
 
歯切れの悪い私の報告に、ゴトーはグリグリと目を剥いた。  
 
「ちょっと、紗英のせいじゃないでしょ!?」  
 
みんな庇ってくれたが、返す言葉も無く、うなだれていると、ひょっこり健太が教室に現れ、当たり前のように自分の席に着いた。  
 
その普段と変わらぬ様子を不安げなクラス全体が注視する中、沈黙を破りゴトーの怒号が響く。  
 
「シバケン!! 話は聞いてるよな? みんなオメーが仕切るの待ってんだよ!!  
」  
健太は眠そうに相棒を見た。  
 
「…もう片付いた。昨日の晩、西小の八坂と一緒に共和建設の所長んとこ行って、今回だけ大目に見てもらえる事になった。それで西小も納得した。」  
 
ワッ、と教室に歓声が上がる。私もホッと力が抜けた。  
 
しかしゴトーは表情を変えず低く尋ねた。  
 
「…トンズラこいた片岡はどーする?」  
 
「大基か。ほっとけ。」  
 
シバケンの答えにゴトーが再び吠えた。  
 
「オメーやっぱ腑抜けたな!! 飛んでって西小にワビ入れて、張本人の片岡にゃお咎めなしかよ!! へっ、東のシバケンが聞いて呆れるぜ!!」  
 
黙って聞いていた桜井が口を挟んだ。  
 
「ゴトー、ちょっと言い過ぎだろ。ケン以外、誰が西にこんな話通せる!? 見事な幕引きじゃねーか。 …それに、ケンに仕切り振ったの、俺達だぜ!?」  
 
普段は無口な桜井のこの言葉を皮切りにクラスは騒然となった。  
健太は全く意に介さず、いつものように、ぐうぐうと居眠りを始めたが、桜井とゴトーの口論は、あわや殴り合い寸前まで発展した。  
 
ただみんなが怪我をしないことを願う私は、間違っているのだろうか。  
ついこの間の花火大会を思い出して、涙がこみ上げる。  
 
周囲の喧騒をよそに私はひとり、あの暑く賑やかな夜に帰っていた。  
 
 
 
みんな気まずいまま迎えた放課後、いそいそと稽古場に向かう健太に続いて、みんなぽつり、ぽつりと帰ってゆき、なぜかゴトーと私の二人が、西日の射す教室に残った。  
 
「…悪かったな、紗英。お前関係ねーのにな。」  
 
「ううん。でも健太、最近変わったかもしれない。柔道一直線、って感じで。ゴトーは悪くないよ。」  
 
「ケンと俺は、ずっと一緒にやってきたんだ。アイツが柔道で、怪我とか問題起こすのとかヤバいんなら、一言、『任せるぜ。』って言ってくれりゃあ俺は西小でも片岡でもブッ潰すんだ。それに…」  
彼は微笑んで続けた。  
 
「…年中包帯だらけの彼氏じゃ、おまえかわいそうだしな。」  
私も微笑むと、ゴトーはもう一度呟いた。  
「…俺たちゃ、ずっと一緒にやってきた。」  
 
 
けたたましいベルの音が下校時間を告げる。  
 
 
蝉の声もすっかり聞こえなくなったひとりの帰り道、今夜は帰れないと母からメールが入った。  
 
父と別れ、こちらに引っ越してからも忙しく飛び回り、やっと今月、服飾デザインの会社を立ち上げた、私の目標でもある母。  
 
『…モデルなんて母さんみたいにすぐ落ち目になる。紗英はもっと大きな仕事をするんだ。』  
 
しかし私の目は、ずっと母の背を追っていた。  
 
父の取ってくる『今しか出来ない』仕事に押し潰され、学校にもいけず、眠れず、怯えて、とうとう『使いものにならない』ほど身も心も壊れていた私。  
 
悪夢でしかなかった『仕事』は、今の母との暮らしの中で、少しずつ、颯爽とステージを歩く母に憧れていた、幼い頃の夢の形を取り戻していた。  
 
こちらへ移ってからも、母の手伝いを兼ねて、裁断や縫製といった服飾の勉強はずっと続けている。  
そして今、始めたばかりの母の事業に、私のモデル復帰がどれほど必要か、母の机に山と積まれた書類や、何十件も溜まった留守電から、私はよく解っていた。  
 
決してそれを言い出せない母。  
そして私は遠からず、復帰を申しでる決意を固めていた。  
 
帰宅して宿題を片付け、ひとりでもやもやしていると、たまらなく健太に会いたくなった。少しだけ、稽古場に行ってみよう。  
 
ゴトーと仲直りもして欲しかった。  
 
早く、あの夏の日々のように、みんなで思いきり騒げるように。  
 
 
夕闇のせまる路地を自転車は音もなく走り、今や通い慣れた稽古場が見えてきた。  
薄暗く静まり返った稽古場のガラス戸は少し開いており、我慢できず覗きこんだ私の目に、狭い土間の上でくの字に倒れ、低く唸っている健太が飛び込んだ。  
 
「健太!! 健太!!」  
 
あわてて抱き起こし、動転した声を掛けると、健太は腫れぼったい目をうっすらと開き、朦朧として呟いた。  
 
「あぁ…眠れねぇんだ… 暑いのに、寒い。 おかしいなぁ…」  
彼はびっしょり汗を浮かべて震えていた。全身の打撲や筋肉の腫れで、体温が調整出来ないのだ。  
 
 
『…ごめんなさい…ごめんなさい…』  
膝を抱え、惨めに繰り返すかつての私の姿が蘇り、動悸が早くなる。  
 
『あなた!! この子はダンスやアクションの経験が全くないんです!! もう…』  
朝も夜もわからない眩しい照明。ただ時計の中だけにある終わらない時間。もう、笑えない…  
 
そして、今の健太そっくりに震える私を抱えて、スタジオを飛び出した母。  
 
 
あの夜、私を安心して眠らせてくれたのは…  
 
「健太、動ける?」  
擦り切れた畳まで重い彼を運んで柔道着を脱がせ、意を決して、私も全て脱ぎ捨てた。  
 
また少し大きくなった胸を触ってみる。  
それはひんやりと冷たかったが、健太の首筋に触れるとすぐに熱を帯びた。  
 
それから母がそうしてくれたとおり、包むように彼の裸身をしっかりと抱いた。  
 
こわばった健太のからだがぶるっ、と痙攣する。  
彼をここまで駆り立てる柔道とは、一体彼の何なのだろう?  
 
「大丈夫。大丈夫だよ。」  
 
二人の体温が同じになるように、彼の鼓動に耳を澄ませながら、私を導いてくれた背中を強く、強く抱いた。  
 
深い安堵のなかで、どれくらいそうしていただろう。  
 
「健太?」  
震えは止まっていた。  
そっと覗きこむと、健太は規則正しい寝息を立て、幼児のようにすやすやと眠っている。  
 
 
『…もしもし、白瀬といいます。忘れ物を届けに来たら、健太君が…』  
 
迎えがくる前に稽古場を出た。少し寒かった。  
 
 
「…結局、どーやって八坂を引っ張り出したんだよ。」  
 
数日後、教室で健太とゴトーは、もう屈託なく話していた。男の子は結局、こういうもののようだ。  
 
「俺だって、八坂の弱みのひとつやふたつ、握ってるって事よ。」  
いひひひひ、と健太は笑った。きっといやらしい事に違いない、と私は思った。  
 
「そういや、こないだ、稽古場で居眠りしちまった時、激エロな夢みてさぁ…」  
猥談に花を咲かせる健太たちの傍ら、私達女子は、もう少し高尚な会話をしていた。  
 
「じゃ、ステージ復帰決定!? すごい!!」  
 
「うん…お母さんの事務所零細だからね。手伝わなきゃ、お小遣いも貰えなくて。」  
 
娘として、白瀬環の初仕事の力になる事に決めたのは、つい昨日の事だった。  
 
「でも、まだ怖いんだ… 脚が震えてコケるかも。」  
 
「何言ってんの!!  
それに、あんた明日も舞台だよ。」  
 
『読書感想文コンクール』の授賞式の事だった。  
 
 
授賞式は西小で行われる。先日の事件もあり、ブーイング覚悟で行けと、みんなに意地悪を言われていた。  
 
 
「最悪、袋叩きも考えられるが、気を付けて行って来い。」  
次の日、まだバカなことを言っているクラスメートに送られて、私達を乗せたマイクロバスは、敵地西小に到着した。  
 
露骨な敵意の視線を向けてくる西小の生徒。紺ブレザーの附属小。茶色はどこの制服だろうか。  
 
賑やかな授賞者の控え室で、私は意外な人物に再会した。  
 
「国東さん…だったよね。」  
 
「あなた…尾ノ浜の…」  
 
「白瀬です。あのときは、ごめんなさい失礼なこと言っちゃって。」  
 
「ううん、あの時は、なんて怖い人だって思ったけど、白瀬さんの作文読んで、ほんとに同じ人かって不思議だった。金賞おめでとう。」  
 
それから彼女とたくさん話した。 すぐに仲良くなった。  
 
「…でね、白瀬さんの出てるファッション誌友達に借りたの。 白瀬さん、毎回のコラム真面目に書いてるよね。面白いし。」  
 
「毎回、あれ楽しみでじっくり書いたなぁ…」  
 
 
やがて、授賞式が始まり、またね、と言って国東さんと別れた。  
授賞式で、刺すような西小の視線を浴びると、私は反射的に、居丈高で傲慢な白瀬紗英に変身していた。『シバケンの彼女』はオドオドできないのだ。  
 
 
「国東さんって覚えてる? 尾ノ浜で会った西小の…」  
 
駄々をこねて連れ出した公園で、私は健太に尋ねた。  
 
「ん…ああ。」  
 
「昨日表彰式で会ったんだよ。彼女銀賞だったんだ。私、東小じゃ四年振りの金賞だよ。すごいでしょ。」  
 
「そっか…」  
健太は雲のない空を見上げて答えた。  
 
「…おまえ国東に勝ったのか。俺、この前、兄貴の道場について行ってさ。その国東に投げられた。油断してた。負けた。」  
それきり口を開かない健太に、ちょっと腹を立てた。少しくらい誉めて欲しかった。  
 
「柔道と読書感想文は関係ないよ。」  
 
自分の声の冷たい響きにあわてた。違うよ。私の言いたいのは…  
 
「そーだな。関係ないよな…試合近くてさ。ちょっとピリピリしてた。すまねぇ。」  
 
「…私も、ごめんなさい。」  
 
「おまえも、もうすぐ仕事復帰だろ? しっかりやれよ。…応援にゃ、行けねぇけどな。」  
 
「ちょっと母さんの仕事、手伝うだけだよ。…でもときどき、すごく怖くなる。」  
 
「馬鹿いうな。紗英はすげー奴だ。三段岩からも飛べるしな。」  
 
「で、おっぱい丸出し。」  
 
二人で声を出して笑った。涙がでるくらい笑った。  
 
「さぁて、練習いくかな。」  
 
まだヒーヒー言いながら、健太が歩き出す。  
 
「待って。」  
 
誰もいないのを確認して、健太の背中に、またぎゅっと抱きついた。  
 
「…土間で寝ちゃ駄目だよ。」  
 
私の囁きに、健太はピタリと固まった。  
「…夢、だった、よなぁ…」  
 
目を閉じて私は答える。  
 
「さあ、どうなんでしょう?」  
 
「お、俺、ちょっと走ってくらぁ!!」  
 
健太は私を振りほどいて、バタバタと駆け出した。  
クスクス笑いながら、何故か少し切ない気持ちで、小さくなる健太の後ろ姿を見送った。  
 
突然の強い風が、木立をざわざわ鳴らし、見上げた空はどこまでも高く見えた。  
 
 
END  
 
 
 

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