春。目覚めの季節。  
動物は動きだし、草木は花を咲かせる、華やかな季節。  
まあ、要は何かしらテンションがハイになる時期なんだろう。  
「ふぁ……」  
それなのに、私はまだ眠かった。  
春眠、暁を覚えず。  
昔の人はよく言ったと思う。さっきから欠伸しか出ない。  
にしても、  
「あー、だるぃ……」  
何が悲しくて春休みに学校に行かなきゃならないんだろう。  
まあ、これ以上部活サボったら、また部員から嫌味を言われるからね。  
しかたないのはしかたない、か……。  
「……部室で寝よ」  
やる気はこれっぽっちもないけど。  
 
校庭には運動部の姿があったけれど、校舎には人気がなかった。  
時計を見る。  
午前七時半。  
「早過ぎたかな……」  
誰もいないと思うけど、美術部を目指す。  
数えるのも面倒になった欠伸をしながら、少しだけ考える。  
なんでまた、来ちゃったのかな……。  
「……やめやめ」  
考えたって、しかたない。惰性なんだから。  
それより、本格的に寝入っちゃうかもしれない。  
目覚ましかけとかなきゃ。  
そんな事を考えていると、「……ん?」  
美術室の中に、人影が一つ。  
 
こんな早い時間に学校に来る人は、私を除くと後一人。  
相変わらず早いなぁ、なんて思いながら教室に入る。  
「おはよ、さくら」  
「あ、おはよう、美咲さん」  
私に気づくと、彼女はふりかえり挨拶を返す。  
その顔はちゃんと私の方を向いていて、私は彼女の目が見えないという事を一瞬だけ忘れてしまう。  
「相変わらず、早いね」  
私は彼女の近くに座った。  
「そう?」  
「そうだよ。だって、いつも一番じゃん」  
「……なんか、癖でね」  
そう言われてから、私は失言に気づいた。  
 
「ご、ごめん……」  
「ううん、気にしないで」  
彼女は、全然気にしてないって風で微笑んで、  
「雰囲気が好きなんだ。それと、鉛筆の音とか、絵の具の匂いとか、そういうのが」  
その笑みを少しだけ苦笑いに変えて、言った。  
 
「そう、だね……」  
同意してみたものの、説得力のかけらもなかった。  
当たり前だ。  
そんなもの、なにもできていない私にある訳がない。  
そう思うと、どこかがすごく痛かった。  
「あ、私、少し寝るね」  
「わかった」  
その痛みが大きくならないうちに、私は現実から逃げた。  
 
さくらの目が見えなくなったのは、半年前だった。  
突然の事故。  
ただの偶然。  
それだけで、彼女は光を失った。  
それだけじゃない。  
画家になる夢さえも奪われた。  
最初にその知らせを聞いた時、私には怒りしかなかった。  
その怒りを、加害者へと向けようとした。  
けれども、それが届く事はなかった。  
……事故を起こした人は、死んでいた。  
それ以外にも理由はある。  
 
さくらから、止められたのだ。  
 
「他人に割を食わせる訳にはいかない」  
病室で、彼女は静かにそう言った。  
 
なんで?  
怒ってないの?  
どうして、そんなに冷静なの?  
 
そんな言葉ばかりが絡まって、なにも言えない私に、彼女はこう続けた。  
「たまたま私だった、それだけだよ。夢ならまた作ればいいんだから」  
その口調は、なぜか明るくて。  
「さくらは、いい人過ぎるよ……」  
それ以上、私は言葉を続けることができなかった。  
 
……事故ったの、なんで私じゃなかったんだろう。  
 
代わりになれれば。  
せめて、支えてあげられれば。  
そのどちらもできずに、私は立ち止まっている……。  
 
とんとんっと、肩を叩く感覚がした。  
「……ん」  
薄い膜がかかったような視界を開ける。  
「やっと起きた」  
「さくら……あれ? 今、何時……」  
時計を見ると、午後五時。  
「目覚ましかけ忘れてた……」  
最悪だ。  
ただでさえ先生の印象悪いのに。  
「くすっ」  
「なによぉ、笑わなくたっていいじゃない」  
「だって、おかしいんだもん」  
「もぉ……」  
そんなやりとりをしながら、ふと窓の方に目を向ける。  
そこには、校舎に植えられた桜並木と、街の景色が広がっていた。  
 
……綺麗だった。  
夕日に照らされた桜。影を濃くしだした町並み。そして、夕焼け空。  
まるで、一枚の絵のような景色。  
どうして今まで、こんな景色に気づかなかったんだろう。  
「うわぁ……」  
そう、自然と声が漏れていた。  
「綺麗でしょ?」  
なぜか誇らしげに、さくらは言う。  
「うん、すごい……」  
そして、言葉は途切れた。  
きっと、私達は見つめているのだ。  
私は今。  
さくらは過去。  
それぞれがそれぞれの目で、その景色を見つめているんだろう。  
 
「……私ね」  
不意に、さくらが言葉を発した。  
「一つだけ、後悔があるんだ」  
「え……?」  
後悔。  
その単語に、私の体は異常に反応した。  
「それって……」  
「……この景色、まだ、描いてなかったなって」  
返事は、少しの沈黙を挟んで返ってきた。  
「……」  
「卒業する時に、思い出とか、夢とか、そんなのをたくさん詰めて描くつもりだったんだ……だけど、もう無理だね」  
 
彼女は続ける。  
「記憶がね……少しづつ薄くなってるんだ。忘れてってるの、やっぱり」  
自嘲を含んだ笑みを、必死で浮かべながら。  
「なんで描かなかったんだろうなぁ……」  
それでも、感情は隠しきれていなかった。  
「こんなに、中途半端に記憶が残ってるくらいなら、死んだ方がよかったのかなぁ……」  
私は静かに、泣いている彼女を抱き寄せた。  
 

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