「いつも、すみませんね」  
「いえいえ、気になさらないで下さい。あ、お手をどうぞ」  
 差し出された手を握るだけで、鼓動が早まった事がとても恥ずかしく思える。  
 薫だって分かっていた。  
 千草が手を差し出してくれるのは、車を降りる為の手助けでしかないことくらい。  
 それでも、千草とふれあえることが嬉しかった。  
 千草がゆっくりと歩き出して、手を引かれて薫も後に続く。  
 玄関口まで来た所で千草が手を離して、後ろに下がる。  
「ご利用ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」  
 気配に合わせて千草の方に体を向けるのと、その言葉が来るのは同時だった。  
 だから、薫も内心を押し隠して、微笑みを浮かべて頭を下げた。  
「こちらこそ、いつもありがとうございます。それでは、失礼しますね」  
 千草も同じように頭を下げていることを、薫は読みとっていた。  
 だからこそ、嬉しくなる。  
 目が見えない相手になら、口では謝りながら姿勢を変えない人間もいる。  
 千草がそうではないのが嬉しかった。  
 ぶろろろろ……と、車の音が去っていく。  
 それが、薫にはすこし哀しい。  
 千草が去る度に、もう少し家がアスカから遠ければいいのにと思ってしまう。  
 それなら、もっと長く千草と同じ時間を過ごすことが出来る。  
 初めて、恋情を覚えた人の側にいられるのだから。  
「ふぅ……」  
 そんな埒もない想いを振り払い、胸ポケットからカギを取り出しながら玄関に向き直る。  
 手探りするまでもなく、カギを開ける薫。  
 自分の家なのだ。それは出来て当たり前のことで、だけど人を招待する度にそのことで  
驚かれることを思い出して、寂しさが胸に湧いた。  
「ただいま」  
 誰もいない家に、自分の声がむなしく響く。  
 それでも靴入れの上に飾る紫蘭の香りが、ほんの一瞬浮かんだ寂しさを消してくれた。  
 もう盛りを過ぎて乏しくなった香りに、心の中でお礼を言いながら丁寧に靴を脱いで三  
和土から上がる。  
 その間、全く周囲に手を添えたりはしなかった。  
 確かに薫は目が見えないけれど、どこに何があるかは分かっている。  
 色は確かにわからないけれど、形は触れれば分かるのだ。  
 それに、例えば廊下の角やトイレのドアなどに、花を飾って香りで区別が出来るように  
もしてあった。  
 例え実際に目で見ることが出来なくても、周囲を視ることは出来る。  
 ……ただ、花の香りで区別をするというのが、誰にでも出来ないことくらい、薫だって  
理解していた。  
 正確に言えば、同じ花の個体差を香りで判断すると言うことがだ。  
 目が見えない人間は、他の感覚器官が発達するとよく言われているが、薫のソレはその  
ような俗説を凌駕するもの。  
 薫自身その能力は自覚していて、だから今の夢はパヒューマーになることだった。  
 
 
 
 
 飾り気のない質素な部屋の中に薫の姿はあった。  
 東側の壁には大きな衣装箪笥と、パソコンデスク。  
 二年前に叔父から与えられたパソコンは、旧式ではあるがきちんと文章を読み上げる機  
能があって、十分使い勝手が良かった。  
 そして、西の壁一面を埋め尽くす大きな本棚。  
 三分の一は調香や花などに関する本で、のこりはソレを点字翻訳したものだった。  
 そんな部屋の中で、小さな溜息を漏らしながら薫は着替えていた。  
 真っ白な袖無しのワンピースは、以前木船と一緒にショッピングに行ったときに勧めら  
れたもので、本当は少し抵抗があった。  
 二の腕を全て晒す服なんて言うのは、千草からはしたないと思われるのではないかと不  
安だったから。  
 だから、車に乗ってすぐに話しを切り出すことが出来なかった。  
 脱いだワンピースを薫は机の上に載せる。  
 
 そのまま、ぺたぺたと全身をなで回し、時折指でつまんでみる。  
「ん、大丈夫みたい」  
 目が見えないけど、いやだからこそ、薫は自分の体型が崩れないよう常に節制していた。  
 それは、今は亡き両親が言っていた、体型の崩れは不健康への第一歩という言葉に従っ  
ているだけだったが、それでも感謝していた。  
 それは、千草に綺麗な自分を見てもらえるから。  
 同時に、薫はふと昔のことを思い出す。  
 とても厳しかった両親。  
 目が見えなくても自分で出来ることは自分でしろと、家事全般を自分で出来るように仕  
込まれていたから、両親が亡くなってもこうして、一人暮らしを続けていける。  
「……でも」  
 こんな気持ちに関しては両親は一言も教えてくれなかった。  
 薫自身、誰かを好きになるなんて、想像すらしていなかった。  
 確かに薫も女で、愛や恋といったものには興味があったけれど、それは自分から縁遠い  
場所で自分とは関係ない人たちに起きるものだと思っていたから。  
 だから、とくんっと胸が脈打つ感触に戸惑うことしかできない。  
 ……抗うことが出来ない。  
 音もなく移動して、ベッドに腰をかける。  
 柔らかなスプリングは音も立てずに、薫の体重を支えてくれた。  
「んっ」  
 薫は、右手でそっと自分の乳房を掴んだ。  
 レースの入った清楚なブラに包まれた乳房は85のBと、160センチ近い身長からす  
れば平均よりやや大きめで、すらりとしたスレンダーな体型のためか、一回り大きく見え  
るものだった。  
 やわやわと揉み込んでいくたびに、乳房から熱が湧いてじんわりと全身へ伝わっていく。  
「ふぅ、ふぅ……んくっ!」  
 ぎゅっと少し強めに揉んだ瞬間、全身が熱くなった。  
 ぽつぽつと、全身に汗が噴き出て来る。  
 今自分の胸を揉んでいるのが千草の手で、自分の上にいる千草が優しく触れてきている。  
 そんな想像が脳裏を占めていく。  
「こんなの、ダメ」  
 呟きながら、さっき千草と絡めた左手を、顔に持ってくる。  
 くんっ、とソコに残る千草の残り香を鼻腔に吸い込む。  
「んっっ」  
 同時に、じゅくりと股間が濡れた。  
 微かに漏れてくるチーズのそれに似た匂いに、ちくりと胸の奥に痛みが走る。  
 こんなはしたないことに、千草の残り香を使っている自分が凄く浅ましく思えたから。  
「くんっ……ふぁっ! んくっ! はっ……ん」  
 それでも、くんくんと何度も千草の残り香を求めていた。  
 男性の体臭と様々な草花、それに土や水の匂いが入り交じった、千草の香り。  
 その香りが、胸に乗せた自分の手を、千草のものだと錯覚させてくれるから。  
 薫はあくまで香りを求める事をやめはしない。  
 ブラの上からでも、乳首が堅くしこっている事が伝わってくる。  
 それを、きゅっと摘んだ。  
「ひゃんっ!」  
 びりっと電気の様な刺激が走って、大きく仰け反った薫はそのままベッドに倒れ込んだ。  
 くりくりと摘んだ乳首を弄るたびに、刺激が走る。  
「ひぅっっ! ひぁっ! あんっ! あぁっっ!」  
 口元から勝手に声が漏れだし、じゅんと股間が潤った。  
 左手を伸ばして、下腹部から下着の中に差し込んだ。  
 後ろの付け根から上に向かって、スリットを撫でる。  
「んくっ! ふぁっ、あんっ! ひゃふっ! ダメ、こんなの、ダメ!」  
 口ではそう言いながら、薫の手は動きを止めない。  
 ブラをずらして、露わになった胸を掌で揉みながら、人差し指と中指の谷間に乳首を挟  
み込んで刺激する。  
「あんっっ、ふぁぁあっ! 千草さん、千草さん! もっと、もっとして下さいっ!」  
 体の上に千草がいる。  
 優しく声をかけながら体を触ってくる。  
 ちゅくちゅくとイヤラシい音を立てながら股間を弄っている。  
 きっと、優しく微笑みながら。  
 
 そう思った瞬間、全身が痺れるほどの快楽が一気にはい上がってきた。  
「んっ! 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」  
 思わず唇を噛み締めながら、頂に達する薫。  
 びくびくと全身が震えて、全身に気怠さが広がっていった。  
 
 
「……私、何をしてるのかしら」  
 絶頂の余韻が去った後、薫の目からぽろりと涙が零れた。  
 きっと千草は自分に恋慕を抱いてはくれない。なのに、欲情の相手として望むのが千草  
だと言うことに、薫はいい知れない嫌悪感を抱いていた。  
 優しい人だと知っている。  
 優しく接してくれているのも事実。  
 けれど、それはきっと薫が盲目だから優しくしてくれているだけ。  
 目が見えない自分が好きだと言っても、千草には迷惑をかけるだけだろう。  
 受け入れられないに決まっているし、むしろ、受け入れられる方が怖かった。  
 ……恋情じゃなく、単なる憐憫で受け入れられるなんて、想像もしたくない。  
 だから千草の隣にいるのを望めない。望んでは行かない。  
「私は、どうして」  
 けれど、千草の側にいたい。その隣にいたいと思ってしまう事を抑えられなかった。  
 
 
 
 
 シャワーを浴びて部屋着に着替えた薫は右手に一本の笹百合を、左手に紫蘭の束を持っ  
て廊下を歩いていた。  
 玄関先まできた薫は、笹百合と紫蘭を一度床に置いて、靴置きの上に視線を向ける。  
「今日までありがとう」  
 呟きながら、そっと伸ばした手で花瓶に挿していた紫蘭を抜き取る薫。  
 紫蘭の束にソレを足して、最後の笹百合を手に持つ。  
 ソレを鼻先に持ってきて軽く香りを確認して、薫は微笑みを浮かべた。  
「今日からよろしくね」  
 そのまま笹百合を花瓶に差し込んで紫蘭を持ち上げた薫は、玄関に備え付けてあるゴミ  
箱のようなものに手を伸ばした。  
 ゴミ箱の様なもの――いわゆる生ゴミ処理機の中に紫蘭を入れていく。  
 一週間、薫の役に立ってくれた花を生ゴミとして出すことなどしたくないから。こうし  
て肥料として役立てている。  
 不意に、ベルの音が鳴り響いた。  
 慌てて胸元を探りロングストラップを引っ張って、携帯を取り出す薫。  
 携帯を開き、軽く指でなぞって通話ボタンの位置を確認してから、電話に出た。  
『やあ、久しぶりだね薫君』  
「……伯父様、久しぶりです」  
 電話の相手は母方の伯父、大林健三だった。  
 三年前に両親が亡くなってから、薫の保護者兼後見人となってくれている人だった。  
『その声を聞く限りは、元気そうで何より何より。わははは』  
 その笑い声が、薫の疳に障った。  
 両親が亡くなったとき、以前はつきあいの無かった親族達が、遺産をかすめ取ろうとし  
たとき、ただ一人、大林だけが薫を助けて、全ての遺産が赤の他人と言っても過言ではな  
い相手達に渡らないようにしてくれた。  
 それだけではなく、薫が苦手な生活上の細々した事――年金や保険金、税金と言った諸  
問題を、一手に引き受けてくれていた。  
「それで、何の御用でしょうか」  
 それでも、薫は心を緩きにはなれなかった。  
 大林が両親の遺産を狙っているとか、薫自身に色目を使っているという訳では決してな  
いけれど、なにか、薫の心にちくちくと棘のように不信感が刺さっているのだ。  
『ああ、今月の支払いを済ませたので、その連絡だよ。それといくつかあってね』  
 くくっと喉の奥で笑う声が、薫に不快感を覚えさせる。  
 それでも、薫は感情を表に出したりはしない。  
 一応は感謝しているのだから。  
『いや、君に良い見合い話があ』「お断りします」  
 それでも、大林の言葉が終わるよりも早く、薫は答えを返した。  
 
「私はまだ未成年です。そんな話題はせめて成人してからにして下さい」  
『いやいや、そうは言うがね。君一人では大変だろう? それに、君もあと二ヶ月で二十  
歳になるじゃないか。会うだけでも良いんだがね』  
 大林の押しの強さに、薫は辟易する。  
 今年で成人するのは確かだけれど、薫には見合いなんて最初からする気はなかった。  
 両親の一周忌が終わった直後から、幾度と無く見合い話を持ってくるようになった大林。  
 それもまた不信感の一因だった。  
「結構です。私のような者が相手になるなんて、相手に迷惑でしょう」  
『いやいや、相手も結構乗り気なんだよ。会ってみるだけでも良いんじゃないかね? 何、  
若い者同士で話しをしてみるのも一興だよ』  
「……伯父様、私は誰かと添い遂げるつもりは毛頭ありません。まだわかって頂けないの  
ですか?」  
 しつこく見合い話を勧めてくる大林に、苛立ちが抑えきれなくなってくる。  
 普段なら出すこともない、険を含んだ声音に気付いたのだろう。  
『わはははは。そうか、どうしてもイヤか。ならしょうがない。今回は諦めるとしよう』  
 いつもの通り朗らかに笑いながら、大林が白旗を振る。  
 そのままずっと諦めていて下さい。そんな言葉が口をついて出そうになって、薫は気付  
かれないように深呼吸した。  
「それで、用事はそれだけですか? ソレでしたら、切らせて頂きます」  
『ああ、いや待ちたまえ。もう一つ言っておくことがあってね』  
 どこか、真剣味を帯びた大林の声音に、薫は小首をかしげる。  
 普段から何事も遊びの一環のように振る舞う大林らしくない声だったから。  
 だから、ただ静かに大林の言葉の続きを待つ。  
『君が望んでいる件だが、難しいと思った方が良い』  
 言われて思わず唇を噛んでしまう。  
 以前から、フランスに留学したい旨を、大林には伝えていた。  
 パヒューマーの専門学校は日本にも存在するが、叶うならフランスに行って本場で授業  
を学びたいと思っているから。  
『障害者の留学となると、ややこしい問題がいくつか絡んでいるのだよ。第一の問題は、  
介護者をどうするかだ』  
「……向こうなら、きちんとした保険制度もあると思いますが」  
『確かにあるとも。だが、障害を抱えた外国人が暮らすとなれば、また別問題なのだよ』  
 大林の真剣な口調が、自分を傷つけまいとする為だと理解した。  
 理解してしまった。  
「そうですか。わかりました」  
 それ以上は何も言わず、通話を切った。  
 目が見えない事が夢を阻む現実がやるせなくて、薫は深い溜息を吐く。  
 目が見えさえすれば、夢を追いかけることも出来るだろう。  
 千草の隣に立つことも出来るだろう。  
 けれど、薫の目は治療不能だと医者に匙を投げられているのだ。  
「っ」  
 漏れそうになった恨み言を、何とか飲み込む薫。  
 暗い言葉は暗い現実を呼び寄せる。辛いときこそ笑顔で乗り切らないといけない。  
 そんな両親の言葉が胸に刻まれていたから。  
「…………しかたない、事なんでしょうね」  
 それでも、声に辛さが乗るのは仕方なかった。  
 

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