「何を考えているんですか、木船さん」
千草からいきなり引き離された形になった薫は、珍しく言葉に苛立ちを乗せてしまう。
木船の言葉があまりにも唐突すぎたから。
今日の外出は先週の頭から決まっていたことなのだ。
なのに、急に今になってそれをキャンセル――しかも、千草に案内の役目を押しつけよ
うなんて、非常識にもほどがある。
それを言葉にしようとして、不意にぎゅっと右手を掴まれた。
その強さに、思わず口にしようとした言葉を飲み込んでしまう薫。
「薫さん、自分の気持ちを偽ったりしちゃだめだってば。薫さん、店長のこと好きなんだ
よね?」
あまりにもあっけらかんとした問い掛けに思わず頷いて、薫は慌てて首を左右に振って
見せた。
人に自分の思いを見透かされた恥ずかしさと、それを無防備に認めてしまった自分への
情けなさに、唇を噛んだ。
「だったらさ、行動有るのみ。薫さんは女のあたしが見ても惚れ惚れするほど綺麗なんだ
もの。ちょっと身体寄せて愛の言葉をささやくだけで一発だって」
木船の言葉に、不満が顔に浮かんだことを自覚する。
千草がそんな色仕掛けに反応する人間だなどと、薫は思っていないから。
「あのね。薫さんは、凄く綺麗なの。女の私でも羨ましいって思うくらいスタイルも抜群
なんだから、その気になればどんな相手だって好きになってもらえるんだって」
「……そんなことは、ありません」
自分の目は何も映さない。
どれだけ望んでも愛しい人の姿を見ることが出来ない。
そんな自分が、受け入れられるはずがない。
そう思ってしまうことが苦しくて、手挟んでいる白杖に手を伸ばして掴んだ。
「あのさ」
不意に、木船の声の質が変わった。
普段のどこかおどけた様子が抜け真剣なものへと。
「かおっちゃんがさ、店長……千草さんのこと諦めるのなら、取っちゃうよ?」
懐かしい呼ばれ方に、その想いが真実なのだと気付かされた。
言葉が見つからなくて、ただ唇を噛む。
「千草さんは、いい人だよ。いい人過ぎて危なっかしいくらいに。だから、私みたいなち
ゃらんぽらんな人間でも惹かれちゃうんだ。だけど、かおっちゃんが相手なら、私は諦め
られるよ」
「木船さん」
「名前で呼んで」
ぴしゃりと、叩き付けられるような勢いで投げかけられた言葉に、薫は口をつぐむ。
木船が、『木船』になってからは、一度も名前で呼んだことはない。
木船自身がそう望んだから。
「……志織さん、私は」
「私が、千草さんとバージンロードを歩いてもいいんだ? かおっちゃんはその脇役にな
るだけでいいんだ? それじゃあ、私が」
「ダメです」
気がつけば、志織の言葉を止めてしまっていた。
蚊の鳴くような小さな声だったけれど、それでも志織の言葉を止めたのは事実。
「だめです、そんなの」
千草が自分を選んでくれるはずはない。
そう心に言い聞かせてきたのに、その千草が他の誰か――志織を選ぶところを想像した
とき、胸の奥をかきむしられるほどの痛みが走った。
それは、きっと諦められない、諦めきれないから。
そこまで気付いて、薫は自分の欲深さに嫌気がさす。
「やっと、認めたね」
優しい声音に驚き、思わず白杖から手を離した。
その仕草でこちらの驚きに気付いたのだろう、くすくすと志織が笑いを漏らす。
「薫さんはさ。自分の目のことがあるからしょうがないけど、いつも引っ込んでるでし
ょ? でも女の子なんだから、たまには我が侭になっても良いと思うよ?」
「志織さん?」
「あはは、もしかして、あたしが本気でてんちょーのこと好きだって思った? こうでも
しないと薫さん、自分の気持ちに従おうとしないもんね。ちょこっと一芝居打ってみまし
たー」
けらけらと笑い出す志織。
その声を聞きながら、薫は胸の奥の痛みを堪えていた。
志織のさっきの言葉は、本気だった。
確かに耳は人並み程度だけれど、それでも冗談なのか本気なのかくらいは、声音で聞き
分けられる。
「志織、さん」
「あ、名前で呼ぶのやめてよね」
茶目っ気たっぷりなその言葉に、薫は小さくため息を吐く。
「あたしはさ、別に良いんだよ。てんちょー以上にいい人いるかも知んないしさ。なにし
ろ、薫さんの初恋だもん、ちゃんとかなえさせてあげたいじゃない」
「木船さん」
胸の奥が痛む。
志織の――木船の気持ちがあまりにもわかりすぎるから。
「だからさ、頑張って自分の気持ちに素直になってみようよ。ね?」
木船の言葉に、薫は胸の奥の痛みを噛み締める。
その優しさの裏にどれだけの痛みがあるのか、想像できてしまったから。
だから、言葉を使うことなく、ただ頷いた。
「ってことで」
朗らかな声を上げた木船の言葉に背中を押された気がして、薫は息を吸い込んだ。
「あの!」
その声が、自分が思ったよりも大きくて、恥ずかしさのあまり顔に血が集まっていく。
けれど、一度口にした言葉は取り消せるはずがなくて、小さく息を吸って言の葉を舌に
載せた。
「その、ご迷惑で無ければ、一緒に見て回って頂いても、構いませんでしょうか」
ただただ恥ずかしくて、顔が熱くなっていることを自覚する。
それでも、止められなかった。
「迷惑だなんて、そんな。それより、僕なんかでよろしいんですか?」
「飛鳥井さんになら……」
心臓が高鳴る。
もしかしたら、千草も自分と一緒にいることを望んでくれているのかも知れない。
薫には、そう思えたから。
「んじゃ、あたしは先に帰るっすね。お二人ともごゆっくり〜」
不意に、傍らから聞こえてきた、木船の揶揄するような声音に、恥ずかしさがこみ上げ
てくる。
「木船君、そう言う言い方はどうかと思うよ」
「木船さん、そのあまりそう言うことは」
だから放った言葉が、千草と重なってそれ以上何も口に出来なくなってしまった。
そして、木船が去ったあと、ただ呆然とその場に立ちすくんでしまった。
ごほんっと、どこか不満そうな咳払いと、やけに濃いオーデコロンの香りとが背後から
伝わってくる。
その濃すぎるオーデコロンの香りの下から、更にバラの香りと非常によく知っているよ
うな匂いを感じた気がした。
けれど、その身近な匂いがどこから来ているのか考えるよりも早く。
「姫野木さん、それじゃいきましょうか」
千草の声が聞こえて、同時にきゅっと右手を掴まれた。
とくんっと心臓が跳ねて、小さく肩が震えてしまう。
千草に触れられていると思うだけで嬉しくて、それでも、もう少し近くにいて欲しくて、
薫はそんな自分の欲の深さに内心でため息を吐いた。
「あ、あの飛鳥井さん」
「はい、なんです?」
優しげな言葉と訝るような声音。
それに応えるために、一度きゅっと力を込めて、そっと千草の手から己のそれをそっと
ほどいた。
「あの、出来れば、腕を……」
自分の眼が見えないことさえも利用しようとする、女の性にすこし哀しくなる。
けれど、もう止められない。……否、止めたくない。
「あ、その、人通りが多くて普段あまり来ないところだと、手を引かれるだけでは不安な
んです」
それでもそんな言葉を口にしてしまうのは、やっぱり恥ずかしいから。
そっと右手を掴まれて、千草の腕に導かれる。
「その、ごめんなさい」
「いえ、気にしないで下さい」
呟きながら、木船にするときのように掴むのではなく、腕を絡めて寄り添う薫。
草花や土に水、そして体臭が混じった千草の薫りが、すぐ間近にあって包み込まれてい
るような感覚に、とくんっと心臓が音を立てた。
伝わっていないだろうかと、少し不安になる。
「それじゃ、行きましょうか。ここを出てから行く予定だったところはありますか?」
「いえ、特には。……ただ、木船さんお奨めの甘味処に行ってみたいと思いましたけど」
「甘味処……、このモールにある太平庵かな?」
「はい、確かそんな名前でした」
千草の言葉に応えて、その歩みに合わせて薫も歩き出す。
誰かの腕に手を預けて歩いたことはあるけれど、千草に身を預けるようなこの体勢は、
今まで一度も感じた事のない安心感と、高揚感を覚えた。
千草に案内された甘味処は、漆や木の匂いとお甘い餡や苦い茶の香りが入り交じった薫
りが漂っていた。
客同士の会話のかしましさと、その薫りがこの店のレベルがかなり高いことを教えてく
れている。
少しだけ安堵しながら、薫はウエイトレスの案内と千草に助けられて、椅子に腰を下ろ
す。
注文を済ませて、対面に座っている千草の方に、顔を向けた。
きっと、少しずれた方向を向いてるのが、少し心苦しい。
「姫野木さんは、甘味処には良く来るんですか?」
「いえ。外食は苦手ですから」
微笑みながら答えを返す。
一人だけで利用するのは、他の客の迷惑になることが多いから、苦手だった。
どうしても、他人より食事がゆっくりしたものになることや、匂いが余りに混じりすぎ
て気持ちが悪くなることも理由の一つ。
「そうなんですか。そう言えば、姫野木さんは結構料理されていると聞いたんですが、得
意料理は?」
そんなこちらの気持ちを酌んでくれたのか、別の話題を振ってくる千草に、内心で感謝
しながらそっと頷く。
「そうですね……、和食だったら、大体の料理は出来ます」
呟きながら、少しだけ焦りが生じた。
若い男性なら、和食なんかよりも洋食や西洋料理の方が好きなのだと、ラジオや木船と
の会話で聞き知っていたから。
だから、少しだけ慌てて訂正をしようとするよりも早く、
「和食ですか、それはいいですね」
羨ましそうな千草の言葉が聞こえた。
思わず、小首を傾げてしまう薫に、千草の困ったような笑い声が届く。
「いえ、最近食事がレトルトやコンビニ弁当に外食なので、そう言う手料理の類に縁がな
いものですから」
「……飛鳥井さんなら、手料理を作って下さるような方がいるのでは無いんですか?」
少し、ぶしつけな質問をしてしまった自分に対する嫌気と、もし千草にそんな相手がい
たらと思うだけで痛む心に、薫は名心で歯がみする。
こんな気持ちに翻弄されるのが、あまりにも辛かった。
「いやまあ、僕は女性には全くモテないですからね」
自嘲の響きに、胸の奥が苦しくなる。
千草に特定の人がいない嬉しさと、そんなことはないと否定しそうになる自分の、浅ま
しさに。
けれど、木船の言葉を思い出して、そんな気持ちを追い払う。
『たまには、我が侭になっても良い』と、そう告げてきた木船の思いを、裏切りたくな
いから、自分から一歩踏み込んだ。
「でしたら、こんどご馳走して差し上げましょうか?」
「え?」
千草の驚きの声に、薫はゆっくりと語を繋ぐ。
とくんとくんっと、胸の奥の疼きが強くなっていくのを感じながら。
「飛鳥井さんのお父様とお母様にも、ご馳走した事もありますし、食べて頂けるなら私も
嬉しいです」
自分からこんな風に誘うのは恥ずかしいけれど、それすらも心地よく感じる事に、薫は
内心で苦笑する。
好きな人と話が出来ることが嬉しくて、自分から動いていることに、新鮮な驚きを覚え
たから。
「えと、いや、でも、ご迷惑じゃないですか?」
戸惑ったような千草の声。
そこにイヤがるような感情は全くないことが、薫の背中を押してくれる。
唐突な誘いに嫌気を見せない千草も、もしかしたら自分に好意を持ってくれているのか
も知れない。
薫には、そう思えたから。
「いえ、迷惑なんて事は……」
「失礼します。団子羽二重と冷やしぜんざいをお持ちしました」
「あ、はい。僕の方が冷やしぜんざいを」
千草の声と同時に、漆塗りの盆が目の前に置かれたことを匂いで確認して、その上から、
生醤油と餡の団子の香りが届く。
共に添えられている急須からは煎茶の芳香が放たれていて、それが質の良さを感じさせ
た。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
ウエイトレスの言葉に小さく頷いて、まずは左側にそっと手を伸ばした。
急須と団子の位置は大体香りで解るけれど、お茶碗がどこにあるのかが解らなかったか
ら。
手を伸ばして茶碗の位置と形を確認する。
それだけ出来れば、十分だった。
だから、急須へと手を伸ばす。
予想より小さくて持ち手を探すのに少し苦労したけれど、それでも自分で手にとって茶
碗に注いだ。
茶碗のほぼ半分ほどで一度注ぐのをやめて、急須を元の場所に下ろす。
その時点でやっと気付いた。
わざわざ、こちらが用意出来るまで、千草が木製の匙に手を伸ばしていなかった事に。
「飛鳥井さん。私の事など気になさらず、先に召し上がってくださっても良かったのに」
「ああ、いや。姫野木さんこそ、気にしないでください。僕自身が好きでやっているだけ
なので」
その言葉に、言いたいことも言うべきことも飲み込んで、ただ笑顔を向けた。
ここで謝っても、あるいは礼を言っても千草の気持ちを無にするだけだと気付いたから。
「それで、あの、今度ご馳走させて頂けるでしょうか」
「そうですね、また機会があれば」
今はまだ、その言葉でガマンして、生醤油団子の串をそっと持ち上げて、その先端の団
子をあむっと口に含む。
その美味しさに、思わず表情が変わった。
「ふぅ、美味しいですね」
同時に千草の声が聞こえた。
それが本当に美味しそうに聞こえて、今度、来るときは冷やしぜんざいを頼んでみても
いいかも知れないと、そんなことを考えながら。
……その時も、千草と共に、これたらいいなと薫はそんなことを思っていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎていくことを、薫は実感していた。
新しいフレグランスを手に入れられたことも、自分のすこし人と違う体質を受け入れて
もらえたことも、薫には嬉しいこと。
その後少し恥ずかしいことはあったけれど、過ぎてしまえばそれも大切な時間。
「ご迷惑をおかけします」
「いえ、気にしないでください」
ガチャッ、といつものバンとは違う、車のドアが開く音が響く。
それがいつもよりも低い位置だと言うことと、車の中から千草の香りが流れ出してきた。
「それじゃあ、少し身をかがめて、右足を斜め前に」
「はい、っ!?」
千草の言葉通りに動こうとして、足を滑らせてしまう薫。
間髪入れず、背中にたくましい感触を覚えた。
「あ、だ、大丈夫ですか!」
慌てているのが如実に解る声音に、薫はただこくこくと頷く。
なかば抱き締められているような体勢に、鼓動が早まっていくのを感じながらそれでも
ゆっくりと足を伸ばして、車の中に足を入れた。
「あ、そう、そのまま」
声で誘導してくれる千草に感謝しながら、やっと車のシートに腰を落ち着ける。
同時に、背中から千草の腕が抜けて、それが少し寂しさを感じさせた。
こちらの思いには、気付いていない様子で、千草がバタンとドアを閉めて。
途端に、先程感じたよりも強い匂いが、薫を圧倒した。
普段世話になっているバンだと、様々な草花の香りが立ちこめていて、千草自身の匂い
はあまり感じられない。
けれど――多分軽自動車だろうと思う――車の中には、その香りがほとんど無くて、千
草自身の体臭の方が濃く漂っていて、鼓動が更に早まった。
千草の残り香を、一人遊びに使ってしまっていることを思い出してしまったから。
その瞬間、がちゃりと音が鳴って、思わず薫は肩を震わせた。
「お待たせして、すみません。っと、姫野木さん?」
すこし遅れて、千草が車内に入ってくる。
バクバクと五月蠅い鼓動を必死で鎮めて、薫は微笑みを作った。
「なんでもありません、はい」
少し自分でも慌てているな、と思いながらそれでも答えを返して、薫はシートベルトに
手を伸ばした。
けれど、予想した位置に無くて、思わず焦ってしまう。
「……ん」
「あ、もう少し上の後ろ側です」
千草の声に応えるように手を伸ばして、やっとシートベルトに手をやって、ゆっくりと
引き出す。
それだけの行為に、これだけ時間がかかってしまうことに、ほんの少し辛さを覚えた。
カチリと、シートベルトの締まる音がして、同時にエンジン音が響いた。
「それじゃ、行きましょうか」
「はい」
しばらく、無言の時が流れていた。
さっきからクラシックの曲が続けて流れていて、その音の波に薫は何となく身を任せて
いるけれど、その音楽よりも鼓動の方がうるさくて、少し辛かった。
それは、千草の匂いに全身を包まれているからで、……はしたない気持ちがわき上がり
そうになるから。
不意に、それまでと違う曲がかかって、驚きに少しだけ口を開けた。
正確に言えば、違う演奏家による同じピアノ曲。
先程の演奏家の弾き方が、機械仕掛けかと間違いかねないほどに正確で技術的に洗練し
完成されたものだということは、いくどかバンで送られるときに流れている別の演奏家達
による同曲を聴いていたから解っていた。
けれど、今かかっている曲は、別格に感じた。
先程の演奏家の正確さとも、また別の演奏家の緩やかさとも違う、言葉では言い尽くせ
ない不思議な響きが、胸の中にすっと入ってきた。
今まで音楽に対して感じたことのない、その不思議な感覚に翻弄される。
ただその曲が終わるまでの時間を、薫はその奇妙な感動に包まれながら名残惜しさと共
に楽しんだ。
ただ、千草の車にたまたま乗った状態でかかっただけの曲。
それを聞き流しにしたくなくて。
「あの、飛鳥井さん」
「はい?」
「先程の曲を演奏をされているのは、なんという方なんですか?」
思わず問い掛けていた。
同時に、同じ演奏家が別の曲を弾き始めた事に気付く。
それが、カルーソーと言う名の曲で、歌がメインのものだと言うことを思い出すのと同
時に、以前聞いたそれよりも高い声の男声が響き始める。
その男声の響きとピアノの響きが重なり合って、不思議な感動を覚えた。。
「新進気鋭の天才女性ピアニスト、西院麗音(さいいん れね)と言う人ですね」
その答えに、どこか不思議そうな響きを感じて、薫は首を傾げる。
何となく、千草らしくない感情だと思えたから。
「いえ、実はこの女性は盲目のピアニストで、薫さんが初めて気にされた演奏家がたまた
まそうだった偶然が、不思議に感じたんですよ」
その仕草が伝わったのだろう、千草が説明を続けてくれる。
「因みに、今歌っているのは岡戸鷹人(おかと たかひと)と言って地でアルトが出る結
構珍しい歌手で、麗音と同じ音大出身ということで、結構コンビを組んでることが多いん
です」
そこまで詳しいことを言われても、薫には今一よくわからなかったけれど、このピアニ
ストと歌手が、互いに認め合っていることと、だからこそ高め合ってることは感じられた。
もしかしたら、男女の関係なのかも知れない。
そんなことまで考えてしまうのは、自分が女だからなのだろうか。
その思いに内心でため息を吐いて、薫はそれでも聞いたばかりの人名を口に上らせる。
「西院麗音さんと、岡戸鷹人さんですか。覚えておきます」
「あ、よければ、僕のCDを貸しますよ」
こんど、木船と出かけたときに買ってみるのも良いかもしれない。
そう思っていたから、千草の言葉は渡りに船で、けど、それとはまた別の意味で嬉しさ
を感じていた。
千草から貸してもらえると言うだけで、ただの行きつけの店の店員と常連、以上の関係
になれた気がしたから。
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
少し他人行儀なやりとりのあと、互いに笑い声を漏らす。
そう出来ることが嬉しかった。
そして、車が停止したことに、名残惜しさを覚えた。
時間的に、自分の家に着いたのだと、薫には理解できたから。
「すこし、待ってくださいね」
シートベルトを外す音が聞こえて、車のドアが開く音を耳にする。
慌てて、薫も自分のシートベルトを外して、同時にガチャッと薫の側のドアが開いた。
「えと、お願いします」
「はい、どうぞ」
おずおずと差し出した手を、千草が握ってくれる。
それだけのことが嬉しくて、ゆっくりと車から出る薫。
やっぱり、馴れない車から降りるのは少し辛くて、千草にすがりつくように立ち上がる。
一瞬、自分の胸を千草の腕に押しつけるような形になって、心地よいしびれを覚えた。
「ありがとうございます」
その気持ちを慌てて隠しながら、薫は千草に頭を下げる。
……その先を、求めそうになった自分に、恥ずかしさを覚えながら。
「いや、気にしないでいいですよ。本と香水を運びますね」
「あ、ここで、大丈夫です」
普段から綺麗にはしているけれど、やっぱり千草を迎えるときはきちんと片付けてから
にしたい。
千草が離れて、トランクを開く音が聞こえてくる。
「荷物をお渡ししますね。重いから気をつけて」
すぐ戻ってきてくれた千草の言葉に頷きながら手を伸ばす。
重さはさほどでもないけれど、千草がそう言ってくれることが嬉しくて。
薫は微笑みを浮かべた。
「それじゃ、そろそろ失礼しますね」
けれど、千草のその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が痛くなった。
それは、このまま普通の、ただの店員と常連客の関係に戻りたくないから。
「あ、あの!」
だから自分から声を掛けた。
「はい、なんですか?」
不思議そうな千草の声に、小さく深呼吸する。
トクトクと、胸の奥の鼓動が少し早くなっていることを自覚する薫。
だけど、止まりたくなかった。木船の気持ちを無にしたくないと言う気持ちもあったか
ら。
「その、またこうして一緒に出かけてもらえますか?」
「……僕なんかで、よろしいんですか?」
否定されても文句は言えなかったのに。
千草の声音に、嬉しさと喜びが混じっていることを感じ取って、薫は小さく息を呑んだ。
それは、千草も自分と共にいる時間を楽しんでくれているから。
「私は、飛鳥井さんと一緒に出かけられると、嬉しいです」
だから、おずおずと、それでもはっきりと薫は自分の思いを告げた。
「では、また今度お誘いします」
「ありがとう、ございます」
一瞬湧いた喜びの涙を隠すように、薫は軽く頭を下げて携帯を取り出した。
「あの、これが、私の携帯です。出来れば登録して頂けませんか」
自分で登録するのは少し辛いことと、
「あ、機種同じなんですね。じゃあ、すぐ登録しますから」
木船に教えてもらった千草と同じ機種を、使っているから。
千草が登録してくれているのを、感じ取りながら、薫は喜びを覚えていた。
……この先、もしかしたら千草と共にある未来を選べるかも知れない。
そんな期待感に浸っていたから。