かっ……かっ……かっ……かっ……  
「今日も元気ですね」  
 この半年で聞き馴染んだ音に、飛鳥井千草(あすかい ちぐさ)は顔を上げた。  
 平均的な体格を黒いズボンと白いシャツで包み込み、その上に黒いエプロンを掛けた千草は、二枚目半の顔立ちに笑みを浮かべる。  
 人通りの多い道に面した花屋、アスカの軒先からその音が聞こえた方に視線を向けた。  
 白杖で敷石を叩きながら、一人の少女が歩いてくる。  
 どことも知れない場所に瞳の焦点を向け、周囲の人が避けるのを気にもとめない少女。  
 艶やかな腰まである長い黒髪に真っ白な袖無しのワンピースを纏っている少女が、アスカの前でぴたりと止まった。  
「飛鳥井さん、こんにちは。今日は笹百合が入ったんですか?」  
「いらっしゃい、姫野木(ひめのぎ)さん。ええ、笹百合に、紫陽花、野花菖蒲や雪笹なんかも入ってますよ」  
 少女、姫野木薫(かおる)の問いかけに応えながら、笹百合を一本手渡す。  
 ほんの少し鼻を近づけて薫りを確認する姿に、いつもと同じ胸の高鳴りを感じていた。  
「本当に良い薫りです。それでは、今日はこれを十本ほど頂けますか?」  
「はい、いつも通りでよろしいですね」  
「お願いします」  
 彼女の言葉に、千草は微笑みを浮かべる。  
「それでは、しばらく待っていて下さいね、直ぐに車を出してきます」  
「いつも、ごめんなさい」  
「いえいえ、気になさらないで下さい」  
 済まなさそうに頭を下げる薫に、慌てて言葉で遮る千草。  
 これは千草にとっても嬉しい時間なのだから。  
 笹百合を十本ほど取り出して、手早く包装する。  
「木船君、僕はお客さんを送ってくるから、しばらく店番をお願いするよ」  
「はい、解りました。いってらっしゃ〜い」  
 店員の少女、木船のどこか揶揄するような響きに、苦笑を浮かべる千草。  
「それじゃ、今車出してきますから。少し待っていて下さいね」  
「はい」  
 申し訳なさそうな薫の声に、笑みを零しながら千草はガレージに向かった。  
 
 
 
 
 両親が事故で他界し、サラリーマンだった千草がアスカを継いだのは、僅か半年前のことだった。  
 入社した当時はお荷物扱いされていた部署に配属されて、僅か一年で社内でも一〜二を争う好成績を収めるほどに成長させた実績があった。  
 だが、直接の上司が冷眼を向けてきて、千草よりも下のあまり仕事の出来ない部下を厚遇し続けたことに、いい加減嫌気がさしていた所だったから。  
 渡りに船と言ったところで、以前からいた店員の手助けもあって開店した日に、千草は薫と出会ったのだ。  
 
 
 かっかっ……と、アスファルトを何かで叩くような音が聞こえてくる。  
 それが自分の後ろで停まったことに気づいて、小首をかしげる千草  
「花を頂けますか?」  
 穏やかな優しい声音に惹かれるように振り返った千草は、一瞬言葉を失った。  
 白いコートを羽織った少女が、静かに立っていた。  
 特筆するほどの美少女と言った訳ではないが、穏やかな顔立ちに優しい微笑みを浮かべている。  
 だけどこちらに向いている瞳は焦点が合ってなくて、白杖を脇に手挟んでいる姿を見れば、その少女の目が見えないのだと言うことは直ぐに理解できた。  
 そんな少女が、わざわざ花屋に来るのは少し奇妙に思えて、それ以上に一つの思いが胸の奥に湧いた。  
「え、あ、花ですね? どんな花がよろしいですか?」  
 一目惚れというのは本当にあるんだなと、どこか惚けた頭でそんなことを考えながら、千草は少女に向かって話しかける。  
「そちらの水仙をお願いできますか?」  
 呟きながら、少女が指先を水仙へとぴたりと向ける。  
 
「あ、店長。続きは私がやりますから、車、用意してくれます? 薫さん、いらっしゃい。いつも通りに包みますね」  
「ありがとうございます、木船さん」  
「あ、と、車ってどういうことだい?」  
 基本的にフレンドリーな性格の木船だが、それでも声に含まれる楽しげな響きで、少女が常連――しかもかなり仲の良い相手だと言うことは理解できた。  
「薫さんは、見ての通りなので、いつもお家まで前の店長がお送りしてたんです。代替わりしたからって、止めるのはどうかと想いますよ?」  
「代替わり、ですか? ……ぁ、御免なさい。それでしばらくお店が休まれていたんですね」  
 代替わりという言葉だけで全てを読みとったのだろう。  
 どこか申し訳なさげに話しかけてくる少女に、千草は優しい笑顔を向けた。  
「いえ、気になさらないで下さい。すぐ車を用意しますから」  
「あ、店長。ちゃんとバンを出して下さいね」  
 木船のどこか苦笑混じりの声に、軽く手を振って応えながらガレージに向かう千草。  
 ほんの僅かな時間でも、少女と過ごせると思うだけで気分が浮き立つのを抑えきれなかった。  
 
 
 
 
 そんな風に以前の事を思いながら、店の前の車道に車を一旦止める。  
「そうなの、でもあまり遅くに出歩くのは止めた方が良いよ? 最近治安もあまり良くないし」  
「そうですね。でもこちらのお店も結構遅くまで空けてらっしゃるでしょう。木船さんは大丈夫なのでしょうか」  
「あ、あたしは大丈夫。伊達に剣道二段の腕前じゃないって」  
 優しい笑顔を浮かべる薫ところころと笑う木船。  
 相変わらず、仲が良さげな二人の様子に微笑みながら、千草は車から降りる。  
「はい、来ましたよ。それじゃ行きましょうか」  
 そう言いながら左腕を差し出す千草。  
 相変わらず照れ臭げにしながら、薫がその腕に自身のソレを絡めてきて、寄り添ってくる。  
 肌と肌が触れ合う感覚に、鼓動が少し早まって。  
 気づかれていないことを祈りながら千草はゆっくりとバンに向かって歩き出した。  
 歩道を横切ってバンの隣で立ち止まる。それだけで薫の腕が離れて、少し名残惜しげに感じながらも千草は助手席のドアを開けた。  
「はい、どうぞ」  
 今度は薫の左側にまがって、その手をすくうようにして握り、助手席の直ぐ側にまで導く。  
「もうすこし、足を上げて下さい。はい、そこです」  
「ありがとうございます」  
 流石に半年……両親がいた頃からすればもう三年近くの常連で、その間殆ど使っていただけに、迷い無く助手席に乗り込む薫。  
 本当は抱え上げるようにして乗せた方が早いけれど、恋人同士でもない相手にそんなことが出来るわけがない。  
「シートベルトをきちんと締めて下さいね」  
「あ、店長! 肝心のコレ忘れてますよ!」  
 店から声をかけられて振り返る千草。  
 木船がにやにやとチェシャ猫の様な笑顔をうかべて、笹百合の花束を持っていた。  
 慌ててソレを受け取る。  
「ごゆっくり〜」  
「馬鹿なことは言わなくて良いから」  
 木船の声に少しだけ不機嫌さを込めて言葉を響かせる。  
 そのまま、笹百合を受け取った千草は、バンに向かった。  
 
 
 いつも通りの安全運転をしながら、ちらちらと薫に視線を向ける。  
 じっと正面に顔を向けたまま、どことも知れない場所に焦点を合わせる薫。  
 見た目は特筆するほどの美少女でもないのに、なぜこんなに心惹かれるのかが自分でも解らなくて。  
「あの、飛鳥井さん」  
「ん、何ですか?」  
「いえ、今掛かっている曲の名前を聞かせて頂きますか?」  
「リムスキー=コルサコフの『シェエラザード』ですね」  
「クラシックなんですね。飛鳥井さんのイメージに似合っています」  
 優しく微笑みながら呟く薫に、胸の奥が暖かくなってくる。  
 その笑顔を見るだけで優しい気持ちになるのが、すこし不思議だった。  
「音楽を聴くのは良い趣味だと想います。けど、名前が名前だからかもしれませんが、私は花や香水の様に、薫りにこだわりを持ってしまいます」  
「それはそれで良い趣味だと僕は思いますよ。貴方の選ばれる花は色々な人に人気が出ますしね」  
 呟きながら信号の前で停まる。  
 その間、薫の方に視線を向けた。  
 ただ隣に薫が座っている。ただその微笑みを見ることが出来る。  
 それだけで幸せだった。  
「信号ですか?」  
「え、ええ」  
「……車の運転って楽しそうですね」  
 笑顔で呟く薫に、苦笑を浮かべて首を振る。  
「そうでもないですよ。結構気を遣いますからね」  
 一拍遅れて、思いを言葉にする。  
 薫の目が見えないことをつい忘れてしまって、ゼスチャーで答えてしまう自分に、少し苛立ちを覚えた。  
「でも、もし目が見えなくても運転できるような車が出来たら、私は運転してみたいと想います。  
大抵の事は目が見えなくても出来ますけど、流石に車だけは無理ですから」  
 そういって、哀しげな表情を浮かべる薫。  
 そんな表情は出来れば見たくなかった。  
「そうですね。僕も姫野木さんの運転する車に乗せて貰いたいですね」  
「ふふっ、それは楽しそうですね」  
 直ぐに優しい笑みを浮かべた薫にほっとしながら、アクセルを踏み込む千草。  
「あ、信号変わったんですか?」  
「ええ。そう言えばこのあたりの信号には、音楽が流れませんけど大丈夫ですか?」  
「そうですね。大抵は大丈夫です。車の音などで信号のタイミングは解りますから。  
でも、以前隣の自転車が走り出したので動き出したら、それが信号無視でしたので、少し困ってしまいました」  
「出来るだけ気を付けて下さいね」  
 心配ですから、と零しそうになった一言は慌てて飲み込む。  
 それは本心からの思いだけれど、同情だと想われたくなかったから。  
 そんな事を言ってる間に、薫が住む純和風の少し古びた一軒家の前に到着した  
 これで、もう二人の時間が終わりだと想うと、切なさが胸に迫ってくる。  
「少し待って下さいね」  
 シートベルトを外して車から降りた千草はそのまま左側に向かう。  
 まずは包装した花をとりだしてから助手席のドアを開けた。  
「いつも、すみませんね」  
 そう言いながらシートベルトを外す薫。  
 その細い指先に一瞬惹き付けられるものを感じて、少しだけ千草は視線を逸らす。  
「いえいえ、気になさらないで下さい。あ、お手をどうぞ」  
 すっと指しだした手に、薫の伸ばした手が触れて。  
 優しく握りながら、薫が車から降りるのを手助けした。  
「ご利用ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」  
 玄関口まで送った薫に笑いかけながら言葉をかけて、百合の花を手渡す。  
「こちらこそ、いつもありがとうございます。それでは、失礼しますね」  
 優しい微笑みのまま頭を下げてくる薫に、同じように頭を下げて背中を向ける千草。  
 もう少し薫と話しをしていたいけれど、まだまだ仕事が残っている。  
 車に乗り込んでまだこちらに顔を向けている薫に笑顔を向けてから、車を発進させた。  
 
 
「てんちょー、どうっした?」  
 店に戻った途端かけられた言葉に、千草はこめかみを軽く押さえた。  
「木船君、いつもいってるんだけど、僕と姫野木さんはそんな関係なんかじゃないんだよ」  
「そんなカンケイってどんなカンケイっすか?」  
 にやにやと口元を弛ませる木船に、小さく溜息を吐く。  
 これ以上は何を言っても墓穴を掘りそうだったから。  
 そのまま店の中に入っていく。  
「もう、軽い冗談なんだから、そんな怒っちゃヤですよ、店長」  
「あのね、木船君。君がどう思おうがそれは君の勝手だが、彼女に迷惑だろう? あんまりそんなことを言うのはどうかと思うよ」  
 はぁっ、とわざとらしい溜息を吐きながら、木船がこちらをじろりと睨み付けてくる。  
「……そんなこと思ってるの店長だけなんですよねぇ」  
 その言葉の意味が理解できなくて、千草はそのまま花の手入れに移る。  
 もう一度大きな溜息が聞こえて、だけどそれ以上の言葉がかけられることはなくて。  
「あ、そうそう。薫さんの手料理って食べたことあります?」  
 あまりにもかけ離れた話題に、理解がついて行かない。  
 手入れをしながら振り返る。  
「いきなり何を言い出すんだ、君は」  
「あ、もしかして、まだなんですか? 薫さんにしちゃ珍しいなぁ」  
 ニヤリと口の端だけを上げて笑う木船にイヤな予感を覚えた。  
 だから、こちらもわざとらしいほどに大きな溜息を吐いて、視線を前に戻す。  
「薫さん、あれでかなり料理得意なんですよねぇ。先代も時々夫婦揃ってご相伴にあずかってたんですよ?」  
「いくら常連さんだからって、それはないだろう。……いくら何でも常識が無さ過ぎだ」  
 思わず天井を見上げる千草。  
 異様なまでに豪快だった父親とソレに輪をかけてやかましかった母親の笑顔が目に浮かぶ。  
「あははは、まぁ先代ですからねぇ。でもまぁ、それでご相伴にあずかったときに、言ってたんですよ。あの子の料理は優しい味だって」  
 まるで我が事の様に嬉しげな表情で呟く木船に少し小首をかしげる。  
 プライベートでも薫とのつきあいがあるのだろうか。  
 そんなことを思いつつ、次の花の手入れに移る。  
「それに、ホントにあの子の料理って凄いんですよ? きっと、話しを向けたら喜んでご馳走してくれると思いますから」  
「あのね。手料理をご馳走になるなんて、姫野木さんとはそんな親しい間柄じゃないんだ。きちんとけじめは付けないといけない」  
「……頭固いっすねぇ」  
 木船の呆れ声に答えることなく、千草は手入れに没頭する。  
 薫とはあくまで客と店主の関係でしかないのだ。  
 それに、アスカの経営は苦しいと言うことはないが、それでもかつかつの商売でしかない。  
 そんな状況で、薫に想いを告げることなど出来るはずがなかった。  
 

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